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「教行信証講義/正信念仏偈」の版間の差分

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 二。無明 梵語アヰドヤ(Avidya)の訳で、事理に闇いことをいう。この事理に闇いという無明が、一切煩悩の根本になるものである。又、特に仏智の不思議を疑い、弥陀の救済を信ぜない自力の疑心を指して無明という。<br />
 
 二。無明 梵語アヰドヤ(Avidya)の訳で、事理に闇いことをいう。この事理に闇いという無明が、一切煩悩の根本になるものである。又、特に仏智の不思議を疑い、弥陀の救済を信ぜない自力の疑心を指して無明という。<br />
 
 【文科】信順の功徳のうち常に光明の照護を受くることを宜べ給うのである。<br />
 
 【文科】信順の功徳のうち常に光明の照護を受くることを宜べ給うのである。<br />
 【講義】如来〈みほとけ〉の摂め取りて捨て給わず、常に我等凡夫の心を慈育し給う心光は、いつも変りなく、我等を照し護り給うのである。それであるから、獲信の一念の時巳に、仏智を疑う根本無明の悪心は平げて下されたのであるけれども、悲しや、凡夫の常として、貪吝〈むさぼり〉、愛著、瞋恚、憎悪の思いはさながら雲霧のように、真実の信心の天を覆い隠くしている。<br />
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 【講義】如来〈みほとけ〉の摂め取りて捨て給わず、常に我等凡夫の心を慈育し給う心光は、いつも変りなく、我等を照し護り給うのである。それであるから、獲信の一念の時已に、仏智を疑う根本無明の悪心は平げて下されたのであるけれども、悲しや、凡夫の常として、貪吝〈むさぼり〉、愛著、瞋恚、憎悪の思いはさながら雲霧のように、真実の信心の天を覆い隠くしている。<br />
 
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 されど譬えば日光は雲霧に覆われても、なおその日輪の徳として雲霧の下は明いように、吾等も常に煩悩に覆われながらも。如来の救済を疑う疑の闇は長〈とこしな〉えに消えているのである。<br />
 
 されど譬えば日光は雲霧に覆われても、なおその日輪の徳として雲霧の下は明いように、吾等も常に煩悩に覆われながらも。如来の救済を疑う疑の闇は長〈とこしな〉えに消えているのである。<br />
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 三。有無見 有の見というは、諸法の変化を知らずいつでも常住のように思うて居る偏見、無の見とは<br />
 
 三。有無見 有の見というは、諸法の変化を知らずいつでも常住のように思うて居る偏見、無の見とは<br />
 
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諸法の存在を否定してすべて空毛に帰するものと主張する偏見をいうのである。<br />
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諸法の存在を否定してすべて空無に帰するものと主張する偏見をいうのである。<br />
 
 四。歓喜地 上三四七頁をみよ。<br />
 
 四。歓喜地 上三四七頁をみよ。<br />
 
 【文科】これから籠樹菩薩の論文に就て、その教義を挙げ大行大信を讃嘆し給うのであるが、先ず初めに菩薩の一身上のことを述べて、その上に顕わるる指導を仰ぎ給うのである。<br />
 
 【文科】これから籠樹菩薩の論文に就て、その教義を挙げ大行大信を讃嘆し給うのであるが、先ず初めに菩薩の一身上のことを述べて、その上に顕わるる指導を仰ぎ給うのである。<br />

2018年7月4日 (水) 08:58時点における版

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教行信証講義

序講
総序
教巻
行巻
 正信念仏偈
序講 信別序
信巻 本
信巻 三心一心
信巻 重釈
証巻
真仏土巻
化身土巻 本
化身土巻 末

(1-754)

第五章 結前生後の偈文

第一節 来意

 【大意】これまでのところで「行巻」は終ったのである。経論釈の要文を集めて大行を讃嘆もした。更にその「行巻」中の要義を摭〈ひろ〉い出して重釈もした。二十八個の譬喩を出して悲願海を讃嘆もした。これで「行巻」は全部終ったのであるが、これから下は、従来説き明して来た「行巻」と、此れから応に筆を下さんとする「信巻」の連鎖となるべき偈文を置き給うのである。題して正信念仏偈という。「行巻」の前を結んで、「信巻」の後を起す偈文である。然らば何故斯ういう結前生後の偈文を置き給うかというと、「行巻」と「信巻」とがそれだけ密接の関係を有しで居るからである。信行の関係のことは、前に幾度もいうた。「信巻」に入っても猶〈なお〉屡々〈しばしば〉繰り返して曰わねはならぬ。それだけ不離密接の関係を有するものであるから、その大行を説き明す「行巻」と、大信を説き明す「信巻」との間に、この結前生後の偈文を置き給うのである。
 この章が二節に分れて、第一節は、来意を説き、第二節は、正しく「正信念仏偈」である。
 第一節がまた二項に分れて、第一項は、綱要を説き、第二項は、正しく念仏偈の生起を説明し給うのである。

第一項 綱要

(1-755)

凡就誓願 有真実行信 亦有方便行信。
其真実行願者 諸仏称名願 其真実信願者 至心信楽願 斯乃選択本願之行信也。
其機者 則一切善悪大小凡愚也。
往生者 則難思議往生也。
仏土者則 報仏報土也。
斯乃誓願不可思議一実真如海 大無量寿経之宗致 他力真宗之正意也。

 【読方】おおよそ誓願について、真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実行の願は、諸仏名称の願なり。その真実信の駿は至心信楽の願なり。これすなわち選択本願の行信なり。その機はすなわち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなわち難思議往生なり。仏土はすなわち報仏報土なり。これすなわち誓願不可思議、一実真如海なり。大無量寿経の宗致、他力真宗の正意なり。
 【字解】一。難思議往生 三往生の一。言説思慮の及ぶ所でない往生という義で、第十八弘願、他力の行者の往生のことである。他力回向の信心に依って真実報土に往生するに誠に思議し難いことであるからである。
 二。報仏 三身の一。因位の願行に報いあらわれた万徳円満の仏身のこと。
 三。報土 因位の願行に報いあらわれた報身仏の居給う浄土のことである。
 【文科】念仏正信偈を説くについて、今はその綱要を示し給うのである。
(1-756)
 【講義】凡そ弥陀如来の誓願の内容を申せば行信の二つである。この行信は亦真実の行信、方便の行信の二つに別れる。その中〈うち〉方便の行信のことは下の「化巻」に於いて委しく説示〈ときしめ〉すことであるから此処には略する。さてその真実行を御誓いになった本願は第十七の諸仏称名の願である。この願によりて我々が成仏すべき大行が成就〈できあが〉った。即ちこの大行の中にはあらゆる功徳、善根に摂められ、そのまま諸仏は讃嘆〈ほめたた〉えられて大悲の御思召を我々に伝えて下さる。その真実信を御誓いになった本願は第十八の至心信楽の願である。この願によりて我々は穢れた疑いの心を捨てて清浄の信心を頂くのである。この十七、十八の二願が如来の選びに撰ばれた本願の行信である。この他力回向の行信によりて、吾等は成仏の果を結ばせて頂くのである。
 そして其〈その〉本願名号の謂〈いわ〉れを信ずる機類はどういう人達であるかと云えば、あらゆる善人、悪人の凡夫を指す。即ち『観経』の九品の凡夫をいう。その中に上六品の人々は「善」、下三品の人々は、「悪」。又上三品は「大」、中三品は「小」、下三品は「愚悪」とでも申そうか。是等のあらゆる愚痴の凡夫が、本願の御目的、即ち本願を信ずる機類である。
 又往生は方便真実の三種の往生の中に於いて、真実の難思議往生である。これは下の
(1-757)
「証巻」に委しく明す所である。
 又その往生する仏土は方便化土ではなくして真実の報身仏のいませる真報土である。これは下の「真仏土巻」に委しく明す所である。
 これ乃ち弥陀如来の誓願力の顕現〈あらわれ〉である。誓願力そのものである。誠に人類の有限なる思想感情を超絶した不可思議の力である。そして又唯一真実の真如〈さとり〉の海である。即ち是れ釈尊出世の本意たる『大無量寿経』の宗致〈かなめ〉、他力真宗の正意である。
 【余義】一。上の結嘆の十句で、「行巻」は正しく終ったので、それで最後に「良可奉持特可頂戴也」と宣うたのである。この句は「証巻」の終にも、「真仏土巻」の終にもあって、巻終の語である。これから下は正信念仏偈を述べんとして、先ずその綱要を挙ぐるのである。
 二。それで正信念仏偈は、「行巻」とは全く離れたものである。古来、「行巻」の分科をしてこれまでが散説、これからが偈頒というように分科してあるのは誤りである。この偈頌は、その名の示すが如く、念仏即ち南無阿弥陀仏の大行を正しく信ずる偈頒ということで、上来「行巻」一巻に明して来た、念仏の大行を自らも信じ、又人にも信ぜさせようとい
(1-758)
う御思召であって、「行巻」と「信巻」の連鎖となったものである。この一巻に説き明して来た御名の御旨を信ずるのが、次の「信巻」に明す大信であるということを示して、「信巻」を起し給うのである。それであるから、行信二巻の精神は正しくこの正信念仏偈の一偈にこもって居るので、同時に御本書『教行信証』一部の縮書ともいうことが出来るのである。それで、『略本』では、四法をすべて説き明した後に、この「念仏偈」を出してある。こういう偈頒を今この「行巻」の終りに出し給うのは、前にもいう通り、結前生後の意を含んで居るので、上来明して来た大行を信ずるが「信巻」に明すべき大信で、大行独〈ひと〉り大行にあらずして、大信を待って大行となる。大信独り大信ならず、所信の法が大行であるから大信となる旨を示して、次の「信巻」を開き給うのである。
 三。『略本』に於て、四法を明し終ってから、この偈頌を出してあるのは、『略本』は行中摂信の明し方になって居るので、行信不離の関係は已に明〈あきらか〉になって居るし、別に、結前生後すべきものもないので、四法の後に特に出して信心をすすめ給うたのである。その意底を探れば、この「行巻」の終に出してあるのと同じいのである。
 四。この偈頒は今もいう通り、念仏を正信することをすすめたものである。それで、一
(1-759)
偈六十行は正しく行信の二法を説き明したものである。それ故に、今この綱要に「誓願について真実の行信あり」と二法を標してあるのである。機は一切善悪大小凡愚、往生は則ち難思議往生、仏土は報仏報土と示してあるのは、真実の行信を得る機と、その往生と仏土とを顕わしたものである。然しかく二法を明した偈ではあるが、元来多含の偈頒であるから、教行信証の四法が、その偈の文面に顕われて居ることも勿論である。兎に角偈前の綱要からみて行くと、行信ニ法を説き明すのが主眼になって居るのである。

第二項 生起
是以 為知恩報徳 披宗師釈言。

夫菩薩帰仏。如孝子之帰父母 忠臣之帰君后 動静非己。 出没必由。知恩報徳。理宜先啓。 又所願不軽 若如来不加威神 将何以達。乞加神力 所以仰告。{已上}

爾者 帰大聖真言 閲大祖解釈 信知仏恩深遠 作正信念仏偈 曰。

 【読方】ここをもて知恩報徳のために、宗師の釈をひらきたるにのたまわく、それ菩薩の仏に帰す、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならずゆえあるがごとし、恩をしり徳を報ず、
(1-760)
理よろしくまず啓すべし。また所願かろからず、もし如来威神を如したまわずは将に何をもてか達せんとする。乞うらくは神力を加え給え。このゆえに仰いて告ぐ。已上
 しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈を閲して、仏恩の深遠なるをしりて、正信念仏偈をつくりていわく。
 【字解】一。宗師 曇鸞大師をさす。『論註』の文である。
 二。動静 立ちうごくと静かに居ると。立居振舞のこと。
 三。出没 外に出づると内にひそむと。
 四。啓 啓白の義にて申し上げること。
 五。威神 威徳不可思議なる力のこと。
 六。大聖の真言 釈迦如来の教説。
 七。大祖の解釈 七高祖の論釈。
 【文科】「正信念仏偈」を作り給う所以を説明し給うのである。
 【講義】かように深遠なる弥陀釈迦二尊のやるせない御思召を頂いて見れば、慈恩の広大なる、誠に申す言葉もない次第である。この恩に感じ、徳に報いるの思〈おもい〉より彼の曇鸞大師の『論註』を繙けば、かような有難い御言葉がある。「それ道に進む菩薩が如来に帰依し奉る有様〈ありさま〉はどのようであるかと云えば、恰〈ちょう〉ど孝行の子が父母の心に順〈したが〉い、忠義の臣が君
(1-761)
后〈きみ〉の心に順うように、立居振舞等の日常の動作までも、自分の為めということでなしに、きっと父母君王の御思召通りに叶うと同じである。これというも外のことはない。恩を知り、徳に報いる念があるからである。かように知恩報徳の根底に立つ上は、何事も我計〈わがはから〉いに任〈まか〉せずして、先ず事々に啓〈もう〉し上げて、その命〈おおせ〉に従わねばならぬ。更に又他の方面から考えて見れば、天親菩薩が『浄土論』を御作りになるという御願いが軽々しいものでない為めに、もしも弥陀如来が威神力を加え給わなかったならば、どうしてかこの願いを果し遂げることが出来ようぞ、それであるから仰いで「世尊我一心」等と御自分の自得を申し上げられたことである」已上。この御言葉はそのまま私の手に戴いて、大悲の御親〈みおや〉に捧げ奉つる。
 されば私は大聖釈尊の真言〈みこと〉に帰〈もとづ〉き、三国の七高僧の解釈書〈ときあかしのしょ〉を繙いて、弥陀大悲の恩徳の深遠なることを信じ知らせて頂いた、慶喜〈よろこび〉の余り「正信念仏偈」を作りて曰く、
 【余義】一。「正信念仏偈」というは、正しく、左の六十行百二十句の偈頌の名である。
『尊号真像銘文』及び『六要鈔』三(三十七丁)には略して「正信偈」というてある。『本尊色紙文』には、「真実偈」或は「真実心行偈」というてある。この偈は、先にもいう如く「行巻」と「信巻」連鎖となるもので、二巻の要義悉くこの一偈の中に摂存して居るのである。
(1-762)
 而して「行巻」と「信巻」とは『教行信証』六軸中の中心であり最要部であるから、この「正信偈」一偈はまた『御本書』六軸の中心となり、その精髄をなして居るものである。従って、六十行の偈は、直〈ただち〉に聖人の信仰の告白であり、同時に仏徳讃仰の道場である。
 二。題号は一部の総標と称し、その書一巻に顕わすべきことは、縮めてすべて題号に収められてあるものである。今もその如く、「正信念仏偈」という名は一偈全体の所説をすべくくって顕わして居るのである。従って、私共はこの五字の偈名の上に、聖人の信仰の縮写を拝することが出来るのである。以下少しくこの偈の名を解釈してみよう。
 先ず正信というは能信を顕わし、念仏というは所信の大行を顕わすのである。それで、この偈名を平たく解釈すれば、正しく念仏の御法を信ずるいわれを讃〈ほ〉めたたうる偈頒ということである。
 正信の正については、『六要鈔』三にも、『正信偈大意』にも、傍正対、邪正対、雑正対の三重の相対を以て解釈してある。これは正の義を外から攻めて、これでもない、あれでもない、正しくこれだと他に簡〈えら〉んで顕わし給うのである。
 然らば傍正とは何が傍で何が正であるか、乃至、雑正とは何が雑で何が正であるか。この
(1-763)
解釈になると諸先輩の中に異説がある。今その中二説を挙げてみよう。
(一)一説に依れば傍正対というは、正助二業の中、前三後一の助業を捨てて、正定業の念仏を信ずるから正信というのである。
 邪正対というは、外道の邪偽の法を信ぜず、内道の正法を信ずるから正信というのである。
 雑正対というは、正雑二行の中、雑行を捨てて、正行を信ずるから正信というのである。
 この説は、つまり信ぜられる行体の相違から説明したものである。
(二)第二説に従えば、傍正対というは、自分は他の説を本として信じながら、傍に念仏を信ずるというような傍信に対して、念仏一法を信ずるを正信というのである。
 邪正対といふは、浄土門中の第十九願の機の信仰のような邪信に対して、第十八願の機の信仰を正信というのである。
 雑正対というは、浄土門中の第二十願の機の信仰のような定散雑心の信に対して、第十八願の機の信仰を正信というのである。
(1-764)
 この第二説は、上の説の所信の行体について相対を立てる説をきろうて、信ずる機の心持〈こころもち〉について三重の相対を解釈するのである。今は正信という信につく正の字であるから、第二説に従って置くがよい。
 この三重の相対は、前にもいう如く、それでもない、あれでもないと他を簡〈えら〉んで、その正味を示すのであるが、正の字の当体から解釈すれば、正は直也という訓のある字で、疑〈うたがい〉なく正直に信ずるという意である。それで「信巻」には「正直心にして邪偽雑〈まじ〉ゆることなし」というてある。猶〈なお〉、理綱院師は、この直也の字の本訓の外に、定也当也の訓を出して説明して居られる。この二訓は所謂転訓というものである。定は向〈むこ〉うの目当〈めあて〉を定〈き〉めること、当は向うの真正面〈まっしょうめん〉に当ることである。余仏余菩薩に心を振らず、弥陀一仏に向い、弥陀一仏を真正面に当てて信ずるが、正信であるというのである。正の一字にも、字義の上からみて、これだけの意味はあると頂くとうれしい気持がする。
 信の字については『六要鈔』三(三十七丁)、及び『正信偈大意』には、「信というは疑に対し、また、行に対す」と、信疑対、行信対の二重の相対を以て解釈してある。信疑対はいうまでもなく、不了仏智の疑惑に対して、明信仏智の信心を信となづけるのである。行信対とい
(1-765)
うは、所信の行体に対して能信の信心を信というので、第十七願成就の大行に対して、第十八願成就の大信を信というのである。而して、この二重の相対も亦簡濫の解釈である。もし信の字の当体からいえば、『論語』朱氏註に「信者言之有実也(信は言の実あるなり)」とあるが本訓、又「信不疑也(信は疑わざるなり)」とあるが転訓である。即ち信というは誠実にして、その言の約束に違〈たが〉わぬことである。また相手に対して疑わぬが信である。今、如来の方についていえば清浄真実にして、虚偽なき如来心が信である。如来がこの心をもって衆生に向うて下されたから、衆生の方ではその真実をいただいて、如来を疑わず信ずるのである。
 それで、「信巻」の信楽の釈に、「信即是真也実也誠也(信は即ちこれ真なり、実なり、誠なり)」とあるが、信の字の本訓から解釈なされたのである。『最要鈔』に、
 信心をば、まことのこころとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさずけたまうとき信心といわるるなりとあるは、この聖人の釈を相承されたものである。『御文』にもこの解釈は多く出でて居る。
 今一つの「信不疑也(信は疑わざるなり)」の解釈も「信巻」に出でて居る。「信巻」に「疑蓋無有間雑故
(1-766)
名信楽」(疑蓋、間雑することあることなきが故に信楽と名づく)とあるがこれである。『唯信鈔文意』に「信はうたがうこころなきなり」とあるもこの御解釈である。
 それで、信という一字を字義の当面から解釈すると、如来御回向の真実心を信とする義と、名号の御謂れを疑わずまうけにするを信とする義と二義あるが、つづまるところ、如来の真実の親心にうち融〈と〉かされて疑うことの出来ないのが信である。
 以上稍〈やや〉説明がくどくなったが要するに正信とは、正直に、如来の御名の御謂れを信じて疑わないことである。
 次に念仏というは、一口にいえば、如来の本願に誓わせられ、且つ御成就下された六字の大行のことである。この念というは、念に、心念、語念の二義あるが、そのうち語念の義で、口に仏名を称うることである。圭峰大師の『行願品疏鈔』に、称名念仏、観像念仏、観想念仏、実相念仏という四種の念仏を挙げてある中でいえば第一の称名念仏である。然し称名念仏ではあるが、信の上の能行の念仏、即ち称名のことではない。称うるものを助けて下される御謂れのある所信所行の大行のことである。
 三。それで、「正信念仏偈」という時には、正しく念仏の大行を信ずる理〈いわれ〉を讃めたたえる
(1-767)
偈頒ということであるが、茲に然らば、『略本』には、「念仏正信偈」と転置してある理由はいかん、その時には、偈名の意味が違って来るかどうかという問題がある。
 然し、この問題はさして面倒な問題でもなく、又「念仏正信偈」と倒置し給うた理由も別にあるのではない。「正信念仏偈」という時には、正信と念仏とを讃〈ほ〉めたたえた偈、即ち正信の能信と、念仏の能行を讃嘆する偈と見ないものでもないから、その誤を起さないようにせんがために、「念仏正信偈」と倒置し給うたものである。念仏正信という時には、決して能行と能信と見る訳には行かないからである。
 何故〈なぜ〉ならば、真宗の教義の鋼格として、所行能信、能行という順序になり、所信の大行(所行)を信じた(能信)上に口に顕われる報謝の念仏(能行)となるからである。それで、念仏正信という時には、飽くまで、念仏は所信所行の大行ということが善く顕われるから、この一偈が、所行の大字を信ずるいわれを讃めたたえる偈頒であることが知れるのである。それで『略本』に於ては「念仏正信偈」と念仏を先きに出し給うたのである。
 四。我が親鸞聖人は、その御一生の大仕事として、この六字の大行を信じ給うた。聖人二十九歳以後六十余年の語黙作々は、悉く、この大信の活動である。而してその御一生は、
(1-768)
実に如来の大御心を写し奉った映画である。今この広ぐれば六十行百二十句の偈頌、約〈つづ〉むれば、五字の偈名、また、聖人の大信の上に咲き出でた一片の花であり、如来の大御心のうつらせられた映画であれば、六十行の偈頒、五字の偈名、また、聖人六十余年の御一生の縮写図と曰わねばならぬ。


第二節 偈頌

 【大意】これから下、正しく「正信念仏偈」である。偈数六十行、百二十句を以て大行大信を讃嘆し給うのである。この偈頌は四項に分れ、
 第一項は帰敬、宗祖自らの信念を打ち出して加来に帰敬し給うのである。
 第二項は依経讃嘆で、『大経』に依って、行信を讃嘆し給うのである。この項が、
  第一科 弥陀因位の本願
  第二科 弥陀果上の摂化
  第三科 釈尊出世の本懐
  第四科 信順の功徳
  第五科 信順の至難
(1-768)
 第三項は依釈讃嘆で、七祖の論釈に依って、大行を讃嘆し給うのである。この項が、
  第一科 総標
  第二科 龍樹菩薩
  第三科 天親菩薩
  第四科 曇鸞大師
  第五科 道綽禅師
  第六科 善導大師
  第七科 源信和尚
  第八科 法然聖人
とわかれる。
 第四項は結勧にて上の依釈讃嘆を結び、且つ一偈全体をすべくくって、信仰をすすめ給うのである。

第一項 帰敬

 帰命無量寿如来  南無不可思議光

 【読方】無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
(1-770)
 【字解】一。無量寿如来 申すまでもなく阿弥陀如来のことであるが 無量寿というは阿弥庾斯(Amitayus)という梵語の訳であって、阿弥陀の名義の中、無量の寿命を以て縦に三世を摂化し給う御旨から名づけ奉った仏名である。善導大師の『観経疏』に出でて居る。
 二。不可思議光 同じく阿弥陀如来のことであるが、阿弥陀の名義の中、無量の光明という御旨から名け事った仏名である。曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』に出でて居る。
 三。南無 梵音ナマフ(Namah ナム(Mam)礼するという語原にアス(Aa)という接尾語を加えて出来た語である。帰投するとか、帰命するとか訳する語である。
 【文科】聖人、自らの信仰を打ち明けて、弥陀如来に帰敬し給うのである。
 【講義】寿命量〈かぎ〉りなき如来に帰命し、不可思議の大用〈はたらき〉ある大御光の御仏に帰依し奉る。
 【余義】一。この二句は、親鸞聖人、六十行百二十句の偈頌を作らんとして、先ず自己の信念を打ち出して帰敬し給うのである。このことは文科にも出して置いたことであるから、読者の充分了解せられたことと思う。然し、考えてみると、我が聖人には、一面には帰敬し給ふ御思召があると共に、他面には一偈所讃の体を標し給う御思召があったことと思われる。いうこころは、「正信偈」一部何を讃嘆し奉るのかといえば、阿弥陀如来を讃嘆し奉るのである。それで今一偈の先〈まず〉最初に、この偈は阿弥陀如来の御徳を讃嘆し奉るの
(1-771)
であるぞと示し給うたのじやという意味である。
 帰命無量寿如来というは、阿弥陀如来の寿命の御徳を顕わした御名前である。南無不可思議光というは、南無不可思議光仏ということで、如来の光明の御徳を顕わした御名前である。而してこの二つの御名の御謂れは、すでに南無阿弥陀仏という六字の御名の中にこもらせられてあるのである。南無阿弥陀仏は、ナモミターユース、ブドハーヤ(Namomitayus buddhaya 帰命無量寿仏)、ナモーミターブハーヤ、ブドハーヤ(Namomitabhaya buddhaya 帰命無量光仏)の二名の意味で、六字の中に帰命無量寿如来と、南無不可思議光仏との意味合が含まれてあるのである。これは何故かといえば、阿弥陀如来、法蔵菩薩の因位に於て、第十二の願に於ては光明極まりなからんことを誓い、第十三の願に於ては、寿命極まりなからんことを誓い、その願成就して、阿弥陀という正覚を御取り遊ばされ、光明無量、寿命無量の覚体を御成就なされ、その覚体の御功徳を悉く一名号に封じ込めて御仕舞なされたからである。それで南無阿弥陀仏という御名には、光明無量、寿命無量の御謂れがあるのである。『阿弥陀経』には、この御謂れを示して、光明無量、寿命無量なるが故に阿弥陀と名づくと仰せられたのである。かく、阿弥陀如来が、光明無量、
(1-772)
寿命無量を御誓いなされ、その光寿二無量の覚体を御成就なされたのも、御自分のためになされたのではなく、全く、縦に三世の衆生を救わんために寿命無量を誓い、横に十方の群萌を済度せんがために光明無量を御誓いなされたのである。それであるから、南無阿弥陀仏の御名の中には、限りなき御慈悲の御誠がこもらせられ、今茲に帰命無量寿如来、南無不可思議光仏を標し給うた上にも、この上ない大悲の御思召が有難く頂けるのである。
 二。いうまでもなく、帰命の二字、南無の二字は同じい意味であるが、この二字は仏名の一部分である。帰命無量寿如来、南無不可思議光仏と申すが、我が御親の仏の御名である。我が弥陀如来は、余の仏と違うて、衆生のなすべき南無までも法の御手許に御成就遊ばされて、其の御名の上に顕わし給うたのである。それで一寸奇妙に聞えるようであるが、帰命無量寿如来、南無不可思議光仏というが、我が如来の御名である。それで、この二句共に、弥陀の御名を出して、一偈所讃の体を標し給うたのである。然らば、何故に、我が聖人は、無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無し奉ると、自ら訓点を施し給うたのであろうか。二句共にすべて仏名ならばかくの如く訓点を施すべきものでないではないかという難がある。然し茲が聖人の御思召のある所である。聖人はかくの如く訓点を施して、
(1-773)
自ら造偈の初めに帰敬することを顕わし給うたのである。この帰敬は、聖人の信仰の発表であって、子が親を慕うが如く、如来の大慈悲に胸が一杯になって、抑え切れずに迸〈ほとばし〉り出でたのが、帰命し奉る、南無し奉るという帰敬と顕われたのである。
 三。茲に今一つ、本願の上からみると、光明無量、寿命無量の順になって居る。『阿弥陀経』もその光寿の順になって居る。ところが、今は寿命、光明の次第になって居る。茲に御思召があろうかという問題がある。このことに就いて、先輩は、御経の上では、化他門について、衆生を化益する側から宣うから光寿の次第である。ただ今横に十方を照し救うが光明無量の徳、三世に亘りて、縦に衆生を護り救うが、寿命の徳ゆえ、光寿と次第し、「正信偈」に於ては報身の果体を挙げて、一部所讃の仏徳を説き明すのであるから、体用門について、寿命の体徳から、光明の用徳を出す順序に従って、寿命、光明の次第に挙げ給うたものであると説明して居られる。私共も最もの説であると頂いて居る。

第二項 依経讃嘆
第一科 弥陀因位の本願

(1-774)

 法蔵菩薩因位時  在世自在王仏所
 覩見諸仏浄土因  国土人天之善悪
 建立無上殊勝願  超発希有大弘誓
 五劫思惟之摂受  重誓名声聞十方

  建立:ハジメナス

 【読方】法蔵菩薩の因位のとき世自在王仏のみもとにありて、諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫にこれを思惟して摂受したまう。かさねて誓うらくは名声十方にきこえんと。
 【字解】一。法蔵菩薩 阿弥陀如来が因位に在〈ましま〉せし時の御名である。『大無量寿経』に出づ。法蔵は一切諸々の善法の摂〈おさ〉まって居る蔵という義である。
 二。因位 果上に対する語にて、仏果に至らんとして、因行を修めて向上しつつある菩薩の位のことである。
 三。世自在王仏 梵音楼夷亘羅(Lokesvarajo)、世間自在王と訳する。また世饒王、世王、饒王ともいう。一切法に白在を得、世間を利益すろことに自由を得給える仏で在ますから世自在王仏と名けるのである。法蔵比丘は、この仏の所〈みもと〉に於て、四十八願を建立し給うたのである。
 四。浄土の因 十方諸仏の浄土の出来上って居る基本〈もと〉、即ち諸仏がその浄土を建立し給うについて、行
(1-775)
じ給うた因行のことである。一説に衆生が浄土へ往生するために修する行のことと解するものもあるけれども、この説は悪い。
 五。善悪 勝劣精麁のこと。
 六。摂受 わるきをすてて、よきをえらびとること。
 七。名声 名号、南無阿弥陀仏のこと。
 【文科】弥陀如来が因位に本願を建て給うた御慈悲を説き明し給うのである。
 【講義】弥陀如来、因位法蔵菩薩にていらせられし時、世自在王仏の御所にましまして、その仏の御力に依って十方諸仏の浄土の起因〈おこり〉と、並びにその浄土の荘厳や人天等の眷族〈やから〉の勝劣精麁を覩見〈みそなわ〉し給い、ここに無上殊勝願〈このうえもないすぐれたるねがい〉を建立〈おたて〉になり、世に超えすぐれた稀有〈まれ〉なる大願をお発〈おこ〉し遊ばされた。
 まことに諸仏の浄土の中より善美を選び摂受〈と〉り給いて、長いく劫波を五度も重ねさせられた。
 かくしてその大願も成就〈できあが〉り、更に重ねて南無阿弥陀仏のおん名を十方に聞えしめるであろうと御誓いになった。
(1-776)

第二科 弥陀果上の摂化

 普放無量無辺光  無碍無対光炎王
 清浄歓喜智慧光  不断難思無称光
 超曰月光照塵刹  一切群生蒙光照

 【読方】あまねく無量、無辺光、無碍、無対光、炎王、清浄、歓喜、智慧光、不断、難思、無称光、超日月光をはなちて塵刹をてらす。一切の群生光照をこうむる。
 【字解】一。塵刹 塵のように数多き国。刹は梵音。刹多羅(Ksatra)土、国と訳する字である。
 【文科】阿弥陀如来が果上に於て衆生を摂化し給うことを述ぶるについて、先ず、光明を以て衆生を慈育し給うことを宣うのである。
 【講義】この大願は永劫の御修行によって、満足され、法蔵菩薩はここに弥陀如来とならせられ、普く、
(1-777)

 無量光、  無辺光、 無碍光、
 無対光、  炎王光、 清浄光、
 歓喜光、  智慧光、 不断光、
 難思光、  無稲光、 日月の光に超え勝れた光、を放〈はな〉ちて限りなき刹士を照し給うのである。一切の群生はみなこの御光のお照しを蒙むる。

 本願名号正定業  至心信楽願為因
 成等覚証大涅槃  必至減度願成就

 【読方】本願の名号は正定の業なり、至心信楽の願を因とす。等覚をなり、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就したまえばなり
 【字解】一。本願の名号 如来の本願に依って選びに撰び 本願に依って出来あがらせられた名号ということ。
 二。正定業 私共を正しく浄土に生るる身と定めたまうはたらきということ。
 三。至心信楽の願 第十八願のこと。至心信楽欲生の三信を以て衆生を浄土に生れしめんという本願であろからかく名けたものである。
 四。等覚 等正覚という。覚というは仏陀の正覚のこと。その仏陀の正覚に等しい最高位の菩薩をいうのである、修行の階級の五十二位でいうと第五十一位である。因位の最上位にて最早一品の無明を断ずれば仏陀の正覚を開く位である。
(1-778)
 五。大涅槃 涅槃は次の滅度を見よ。
 六。必至滅度願 第十一願のこと、滅度は涅槃の訳にて、大患永く滅して、四流(煩悩の流〈ながれ〉のこと、欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流の称)を超度する義である。第十一願は、衆生を必ずこの滅度にいたらせるという本願であるからかく名けたものである。
 【文科】弥陀如来の果上の摂化について、名号と本願の御謂れを示し、衆生救済の因、一に如来にあることを宣べ給うのである。
 【講義】第十七の本願に誓わせられたあなたの名号〈おんな〉は、吾等の証りを開くべき正しき行業である。
 その名号の御謂れを吾等に信ぜしめんとの第十八の至心信楽の本願、その本願の中に誓わせられた至心信楽欲生の三信こそは、救済の正因〈たね〉、往生の正因〈たね〉である。
 この世に於いて、聞心の一心に等覚補処の位に入り、命終り次第に大涅槃を開くことの出来るは、あなたの因位に於いて誓わせられた第十一の必至滅度の願が成就されたからである。
 【余義】一。この四句は弥陀如来の果上の霊能〈おはたらき〉を示し、我等衆生の成道の因果、悉く如来の回向なることを顕わし給うのである。四句の偈は至極簡単であるが、この簡単なる偈
(1-779)
頌の中に、浄土真宗の要義、行信証を説き顕わし、これなるがために、我等の現在及び未来は、暗に覆われずして、光に包まれて居ることを詠嘆し且つ感謝し給うのである。
 第一句は行である。第二句は信である。第三句第四句は証である。この行信証は悉く本願に誓わせられ、一名号の中に封じ込めて、我等衆生に回向して下されるのである。我等はこの名号を戴き、その本願の御力に依って救済せられるのである。四句の偈、さながら金無垢の獅子王の如く、頭尾手足、悉く充実して美しい光を放って居るのである。
 二。本願名号正定業の謂れは、上「行巻」に於いて我が聖人が畢生の努力を以て讃説し給うた所であり、私共も及ばずながら、講義に余義に説明し来ったことであるから、今は省いて置く。只茲に、この名号正定業の語拠は、善導大師の『散善義』の「一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節久近、念々不捨者是名正定之業順彼仏願故」であることを断って置く。
 至心信楽願為因というは、第十八至心信楽の願に誓わせられた至心信楽欲生の三信、約〈ちぢ〉めていえば、他力回向の信心が衆生往生の正因であるということで、このことは次の「信巻」に意を尽して説明され、第三第四句の第十一願成就のことは「証巻」に説き尽され
(1-780)
てあるから、それらの要義は便宜上、本講義の第二巻に譲り、茲では、句面の字義について、少しく説明しやうと思う。
 三。正定業という字義については、古来三種の説明があるのである。
 第一は、正定の定は選定の義にて、法蔵菩薩の因位に、称名一行を衆生往生の業と選定し給うたのであるから、名号を正定業というとする説である。
 第二は、正定の定は、決定の義にて、正定業というは決定業ということ、必ず決定して未来の果を感得するという意味だと説明する。つまり不定業に対して、決定業というのである。
 第三は、字解に示した義で、正しく浄土に生るる身と定め給う業因という説である。
 いうまでもなく、正義は第三説である。それで、『執持鈔』には「往生の業まさしく定るゆえなり」と宣べ、『尊号真像銘文』には、正定の業因はすなわちこれ仏名を称するなり、正定の因というはかならず無上涅槃のさとりをひらくたねともうすなり」と宣い、また、『一多証文』には、「報土の業因とさだまるを正定の業となづくという」と宣うてあるのである。
 四。本願の名号が、既に正定業であるから、信心の上に顕われて下される称名も亦
(1-781)
正定業であることは申すまでもない。何故なれば、本願の名号も信心も称名も、全く同じい一つものであるからである。然しすべて衆生がこちらで正定業だと力むのではない。あなたの御力で正定業に供えて下されるのである。
 五。茲に本願名号正定業、至心信楽願為因と説いて、名号は往生の正定業、第十八願の信心は往生の正因と定めてあるが、実は業と因とはそれ程違うたものではないのである。業と因とは常に業因と熟しどちらもたねという字で差別のないものである。それで、『摩訶止観』五にも「果を招くを因と為し、亦名づけて業と為す」と同じいものというのである。又、我が聖人のこの二字の御使い方も、普通は、名号に業の字を用い、信心に因の字を用いてあるが、これに反して『尊号真像銘文』には
  安養浄刹の正因は念仏を本とすともうすみことなり
と念仏に因の字を用い、『一多証文』には、
  弘願を信ずるを正定の業となづく
と信心に業の字を用い、また、『銘文』には
  正定の業因はすなわちこれ仏名を称するなり、
(1-782)
と説き、『一多証文』には
  弘誓を信ずるを報土の業因とさだまる
と説き、念仏にも信心にも業因の二字を附し給うてある。
 以上の数文に依って、業と因とは、名号にも信心にも、どちらにも通ずる文字であることがわかるが、そんなら何故、普通には、名号に業の字を用い、信心には因の字を用い給うかという問題が起るのである。
 これについて理綱院講師は、左の様にいうて居られる。義として尽して居る説のように私には思われる。
 「一体、業と因の二字を使う拠処〈よりどころ〉は、善導大師の『散善義』である。『散善義』には、「弥陀名号行住坐臥不問時節久近 乃至 正定之業」と名号に業の字を用い、「弁定三心以為正因」と信心に因の字を附してある。我が聖人もこの善導大師の語例に依り給うのである。
 また、字義からいうと、業は造作の義で、弥陀如来が、因位に於いて、清浄真実の行を修して、衆生往生の行体たる名号を御成就なされたのであるから、名号に行業造作の義をもたせて、業の字を用い、因は本の義で、正しく果に対する字である。如来の御成就
(1-783)
遊ばされた名号を行者が戴いて、その信心に依って、往生の果を感生するのであるから、信心に因本の義をもたせて因の字を用い給うたのである。」

第三科 釈尊出世の本懐

 如来所以興出世  唯説弥陀本願海
 五濁悪時群生海  応信如来如実言

 【読方】如来世に興出したまうゆえんは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり。五濁悪時の群生海、如来如実のみことを信ずべし。
 【文科】釈迦如来のこの世に出現〈あら〉われ給う本懐、一に如来の本願を説くにある旨を示し給うのである。
 【講義】大聖釈迦如来のこの世に出興〈おでまし〉になられた所以〈わけがら〉は、唯〈ただ〉阿弥陀如来の海のように広大な大悲の本願を説き給う御思召の外はない。
 邪見〈よこしまのかんがえ〉が盛んになり、道念も衰え、欲楽に耽り、人は追々に縮りゆく寿命をもつというような衰えはてた時代、濁りきった時代の人々は、この釈迦如来の懇篤〈おてあつ〉い真言〈みこと〉を信じて、永劫の生命〈いのち〉に活き返らねばならぬ。
 【余義】上二四五頁 出世本懐論をみて頂きたい。
(1-784)

第四科 信順の功徳

  能発一念喜愛心  不断煩悩得涅槃
  凡聖逆謗斉回入  如衆水入海一味

 【読方】よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃をう、凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水の海にいたりて一味なるがごとし。
 【字解】一。喜愛心  歓喜愛楽のこころ。信心のこと。
  二。煩悩 心身を悩乱せしむる心中の種々の思念のこと。理義に闇くして起る間違った思念を見惑といい、事相に迷うて起る間違った思念を修惑という。百八の煩悩とか、八万四千の煩悩とか、種々にこの心身を悩乱する思念を分類する。その外分類の仕方に依って、根本煩悩、枝末煩悩ということあり、また見思、塵沙、無明の三惑となすことあり、兎に角吾々の心中に満ち満ちて居る浅間布〈あさまし〉い思念のことである。
 【文科】如来の本願に信順する功徳を宣べ給うのである。
 【講義】この御教〈みおしえ〉をきいて一念御慈悲の気が付き、歓喜愛楽の心を発すならば、煩悩を断たず、心の汚れを清めず、罪過をかかえたなりで、この世に於いて、涅槃の分〈わけまえ〉を獲るのである。
(1-785)
 凡夫も聖者も、五逆罪の罪人も、謗法罪の大罪人でも、皆ともに、自力の計〈はからい〉を回らして他力の本願に帰入すれば、ちょうど、かの万川の海に入りて一味の海水に融け込むように、皆同一の御慈悲を腹一杯に味わせて頂くのである。
 【余義】一。「不断煩悩得涅槃」の一偈は、『論註』下(十一丁)の「凡夫人の煩悩成就するあり、亦彼の浄土に生ずることを得れば、三界の繋業畢竟して牽かず、乃ち是れ、煩悩を断ぜずして涅槃分を得るなりという、文に拠〈よ〉り給うたものである。即ち『論註』の文には、「不断煩悩得涅槃分」とあるのである。
 我が親鸞聖人は、この『論註』の文に依って分の字を略して不断煩悩得涅槃となし、『尊号真像銘文』に自ら、この句を解釈して当来の益となし給うてある。即ち『銘文』には、明かに
  不断煩悩得涅槃というは、煩悩具足せるわれら、無上大涅槃にいたるなりとしるべし
と宣うてある。
 ところが、蓮如上人は、『正信偈大意』に、
  不断煩悩得涅槃というは、不思議の願力なるがゆえに、わが身には煩悩を断ぜざれど
(1-786)
も、仏のかたよりはついに涅槃にいたるべき分にさだめましますものなり
と解釈して、現在の得益となし給うてある。又蓮如上人は、これと同じく、『御文』五帖目信心獲得の御文に、
  されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもて消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退のくらいに住すとなり、これによりて、煩悩を断ぜずして、涅槃をうといえるは、このこころなり
と正定聚不退の証拠に、この得涅槃の偈を出し給うてある。親鸞聖人は涅槃分を涅槃の分斉の義に見給うて直〈ただち〉に涅槃のことにし給うたのであるが、蓮如上人は、分を困分の義にみて、涅槃の因分、即ち正定聚のことにし給うたのであろう。それで親鸞聖人からいえば、分の字の有無に関せないのであるから、分の字を省き給い、蓮如上人は因分の義にみ給うから、特に分の字を加えて説明し給うたのである。
 この一句に、両祖の見給うた両義あることは勿論であるが、今は蓮如上人の御指南に従って、現益にして解釈して置いたのである。
(1-787)

 摂取心光常照護  已能雖破無明闇
 貪愛瞋憎之雲霧  常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧  雲霧之下明無闇

 【読方】摂取の心光つねに照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛瞋憎の雲霧は、つねに真実信心の天をおおへり。たとえば日光の雲霧におおわるれども、雲霧の下明かにして闇なきがごとし。
 【字解】一。心光 色光に対して、慈悲摂取のはたらきを心光という。如来の大悲の御心のことである。大悲の御心は常に私共の心を照し温め養い給うから心のお光りというたものである。
 二。無明 梵語アヰドヤ(Avidya)の訳で、事理に闇いことをいう。この事理に闇いという無明が、一切煩悩の根本になるものである。又、特に仏智の不思議を疑い、弥陀の救済を信ぜない自力の疑心を指して無明という。
 【文科】信順の功徳のうち常に光明の照護を受くることを宜べ給うのである。
 【講義】如来〈みほとけ〉の摂め取りて捨て給わず、常に我等凡夫の心を慈育し給う心光は、いつも変りなく、我等を照し護り給うのである。それであるから、獲信の一念の時已に、仏智を疑う根本無明の悪心は平げて下されたのであるけれども、悲しや、凡夫の常として、貪吝〈むさぼり〉、愛著、瞋恚、憎悪の思いはさながら雲霧のように、真実の信心の天を覆い隠くしている。
(1-788)
 されど譬えば日光は雲霧に覆われても、なおその日輪の徳として雲霧の下は明いように、吾等も常に煩悩に覆われながらも。如来の救済を疑う疑の闇は長〈とこしな〉えに消えているのである。
 【余義】一。普通、光明に、色光と心光の区別を立てて居る。その説に依れば、先ず色光といえば、仏の色身相好より出づる光明にて、平等に一切衆生を照すものであるが、心光は如来が慈悲摂取の心から照し給う光明にて、ただ信心念仏の人だけを照すものである。蓮如上人『御文』三帖目に、「しかるに弥陀如来には、すでに摂取と光明という二つのことわりをもて、衆生をば済度したまうなり」と宣うはこの区別を示し給うので、光明というは、一切衆生を漸次に養育し給う遍照の光明、摂取というは、所謂、摂取の心光であって、念仏の衆生を摂め取り給う大慈悲の心光である。今「正信偈」の上でも、上に、「普放無量無辺光、 乃至 一切群生蒙光照」と仰せられるは色光、「摂取心光常照護」と宣うは心光であるというのである。
 この色光と心光とを区別するものは、『智度論』にあるので、『同論』四十七には、正しく、
  光明に二種あり、一者色光、二者智慧光、智慧光は心力より起る。色光は身色及び
(1-789)
日月の光なり
とあるのである。それで善導大師も色光心光を分って『観念法門』(十一丁)に、
  身相等の光は一々遍く十方世界を照し(色光)、……但、専ら阿弥陀仏を念ずる衆生あり、彼の仏の心光常に是の人を照して摂護して捨てたまわず(心光)
と宣べ給うた。善導大師は、『観無量寿経』の「身相光明」(色光)と、「仏心者大慈悲是、以無縁慈摂取衆生(仏心とは大慈悲これなり、無縁の慈を以て衆生を摂取す)」(心光) の文に依って別ち給うたものである。
 こう述べて来ると、色光と心光とははっきりと別れて居って、決して異論の起ろう筈がないようであるが、ところが、蓮如上人へ来ると、この色光と心光とを混同して御いでになるようなところがある。『御文』に
  如来は八万四千の光明をはなちて、その身を摂取したまうなり
と仰せられ、八万四千の光明というは勿論、如来の色身より放ち給う光明であるのに、この色光を以て念仏の衆生を摂取し給うとしてある。明かに、色光と心光との区別を認め給わぬような遣方〈やりかた〉である。『御文』にはこういう箇所はいくらもある、法然聖人の『観経私記』の御指南に依っても、色心二光の区別は立て給わぬ。存覚上人も、『六要鈔』五(十九丁 十二丁)
(1-790)
  心光と言うは、光に身相心想を分ち、その体各別なるに非ず。只、義門に就く。宜しくその意を得べし。
と色心二光に明かに区別なきを教え給うてある。諸祖の指南がかくの如くであるから、末学の間にもいろいろ議論があって、色心二光無差別をいう人もあり、色心二光有差別をいう人もある。
 二。私共思うに、この問題の如きは、実に議論すべき問題ではなくて、心に味わふべき問題であると思う。而して決着は、色心二光を、別に身相の光、心想の光と別ちて別体あるものとせず、こちらの心に感得した辺に就いて、暫く区別を立てたものと思ふ。
 私共の実感部からすれば、私共は、仏法に反対しせ居った時にも、如来の光明の御照しを受けて来た。如来を無〈な〉みし奉って居った時にも、如来の哀々〈あいあい〉の御心を受けて来た。私共の今日あるは、全く、その光明の照護養育の御蔭である。また如来の御慈悲を細々ながらも味わして項くようになった今日も、如来の光明裡につつまれて居る。かく、光明の照護を受けて居ることは昔も今も変らぬけれども、こちらの受け心には無限の相違がある。「山も山、路もむかしにかわらねど、かわりはてたるわがこころかな」である。扨〈さ〉てかくの如く
(1-791)
昔に大に相違して居る今日では、心が直に如来の心に通うのである。この心持を明かに申して見れば、摂取心光常照護というより外はない。この味〈あじわい〉は信前にはなかった。信後の貰いものである。それで区別してみれば、信前には色光の照護を受け、信後には更に心光の照護を受けると有難く頂けるのである。けれども、摂取の光明というたとて、八万四千の光明の外なければ、蓮如上人は、八万四千の光明に摂めとられると御喜びになったのである。茲に至れば、議論もなく、教理もなく、法門もなく、頂く感じがある計〈ばか〉りである。色光心光別というもその味あり、別なしというもその味がある。要〈かなめ〉は実際の感得である。
 三。それで、かの『観経』の「一々光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の文の読み方に二種ある。善導大師の『観念法門』(十二丁)の御指南によれば、「一々の光明遍く十方世界を照して、念仏の衆生を摂取して捨て給わず」と読まねばならず、法然聖人の『観経私記』(十二丁)の御指南、及び、我祖聖人が『御和讃』に、
  十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし
  摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる
と記し給うた御指南からみれば、「一々の光明遍く十方世界の念仏の衆生を照して摂取し
(1-792)
て捨て給わず」と読まねばならぬ。第一の読方に従えば、前半は色光、後半は心光である。第二の読方は色光がその儘心光の味〈あじわい〉である。前にもいうように、光明に変りはないので、信仰後の実感であるから、どう読んでもよろしいのである。

 獲信見敬大慶喜  即横超截五悪趣

 【読方】信をえて見て敬い、おおきに慶喜すれば、すなわち横〈よこさま〉に五悪趣を超截す。
 【字解】一。五悪趣 天上、人間、地獄、餓鬼、畜生の称。これを五道ともいう。この五道の中には地獄、餓鬼、畜生の三悪趣と、人間、天上の善趣はあるけれども、声聞、菩薩、仏の境界に比ぶれば、悪業の盛んな境界ゆえ五悪趣というのである。六道という時にはこれに修羅道が加わるが、五道の時には修羅道を畜生と天上に配属していうのである。趣は衆生の業に依って趣き住む意味である。
 【文科】信順の徳益として横超の益を得ることを述べ給うのである。
 【講義】他力の信心を戴き、泌〈し〉み泌〈じ〉みと、敬虔の念を起し、如来の大悲を慶喜〈よろこ〉ぶ心になれば、すぐに、横〈よこさま〉に、五悪趣を截〈た〉ち超え、迷妄の境界を出でて、浄土に生れさしていただく身の上になるのである。
(1-793)

 一切善悪凡夫人  聞信如来弘誓願
 仏言広大勝解者  是人名分陀利華

 【読方】一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏は広大勝解の者とのたまえり。この人を分陀利華と名く。
 【字解】一。広大勝解者 広大なる勝れた智慧あるものということ。解は了解と熟し智慧のことである。『大経』に於いて釈迦如来が、他力の信者を讃嘆し給う語である。
 二。分陀利華 梵音プンダリーカ(Pundarika)白蓮華のこと。『散善義』には、人中好華、希有華、人中上々華、人中妙好華とも名け、この間、相伝えて蔡華というと記してある。『観経』に於いて釈迦如来他力の信者を讃嘆するに用い給う語である。
 【文科】信順の功徳として、仏菩薩の称讃を受くることを述べ給うのである。
 【講義】善人でも悪人でも、それにはよらぬ。一切我等凡夫、もし一度、この阿弥陀如来の本願を聞信〈ききひら〉けば、釈尊は、この我等を讃めたたえて、『大経』に於いては、広大勝解者、即ち偉〈おお〉いなる智慧者と宣い、又『観経』に於いては、芬陀利華、即ち泥より出でて泥に染まぬ白蓮花と仰せらるる。
(1-794)

第五科 信順の至難

 弥陀仏本願念仏  邪見驕慢悪衆生
 信楽受持甚以難  難中之難無過斯

 【読方】弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだ、もてかたし。難きがなかに難し、これにすぎたるはなし。
 【文科】邪見驕慢にては、信順すること甚だ難きを述べて、信心をすすめ給うのである。
 【講義】されど阿弥陀仏の本願に誓わせられた念仏の謂れは、邪見〈よこしまのかんがえ〉を懐き、驕慢〈おごりたかぶ〉っている悪い人々に取っては信じ受持〈う〉け奉ることは容易でない。世に多くの六ケ敷いことはあるが、これほどの六ケ敷いことはまたと無い。

第三項 依釈讃嘆
第一科 総標

(1-795)

 印度西天之論家  中夏日域之高僧
 顕大聖興世正意  明如来本誓応機

 【読方】印度西天の論家、中夏、日域の高僧、大聖興世の正意をあらわし、如来の本誓、機に応ずることをあかす。
 【字解】一。論家、論部を作り給うた方々のこと。茲では龍樹菩薩、天親菩薩を指す。
 二。中夏 夏は大の義である。支那人自ら自国のことを華夏中夏と誇称したのである。
 三。日域 日本のこと、日輪の出づる国ということで支那人からいうた名称である。
 四。大聖 釈尊を指す。
 五。興世 世に出現し給うこと。
 六。如来 阿弥陀如来を指す。
 【文科】これから下、七祖の論釈に依って大行大信を讃嘆し給うのである。これで依釈讃嘆という。依釈讃嘆の下が、八科に分れる。今は第一科の総標である。総じて七祖適々相承して他力念仏をすすめ給うを宣ぺ給うのである。
 【講義】西の方、印度の国の聖者達、即ち龍樹天親の二菩薩、さては、支那日本の高僧の方々、即ち、曇鸞、道綽、善導、源信、源空の五高僧は、相継いで、一器の水を一器に移すように、釈尊のこの世に出興し給うた御本意の弥陀如来の本願を説くにあることを顕
(1-796)
はし給い、その弥陀如来の本願が、吾等凡夫の根機に相応して居ることを明にして下された。

第二科 龍樹菩薩

 釈迦如来楞伽山  為衆告命南天竺
 龍樹大士出於世  悉能摧破有無見
 宣説大乗無上法  証歓喜地生安楽

 【読方】釈迦如来、楞伽山にして衆のために告命したまわく、南天竺に龍樹大士世にいでて、ことごとくよく有無の見を摧破せん。大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜんと。
 【字解】一。楞伽山 楞伽は梵音ランカー(Lanka)にて難入、険絶などと訳す。錫蘭島〈セイロンとう〉の西南部の山にて今のアダムスヒークであるという。然し釈尊の錫蘭島〈セイロンとう〉に入り給うたことは事実上ないので、『楞伽経』には大海の浜摩羅耶山の頂上楞伽城中とあり、『西域記』に依れば南天竺秣羅矩咤国の南海浜に秣羅耶山があるというてあるから、その山のことであろう。
 二。龍樹大士 上四〇三頁をみよ。
 三。有無見 有の見というは、諸法の変化を知らずいつでも常住のように思うて居る偏見、無の見とは
(1-797)
諸法の存在を否定してすべて空無に帰するものと主張する偏見をいうのである。
 四。歓喜地 上三四七頁をみよ。
 【文科】これから籠樹菩薩の論文に就て、その教義を挙げ大行大信を讃嘆し給うのであるが、先ず初めに菩薩の一身上のことを述べて、その上に顕わるる指導を仰ぎ給うのである。
 【講義】釈迦如来、嘗て楞伽山の会座に於いて、大衆に告命せらるるよう。
 爾の後、五百年にして南部印度に、龍樹という菩薩が世に出でて、その当時世にはびこって居る六十二見九十五種の異見者、つづめて見れば、有の見、無の見の邪見を、物の見事に、摧〈くじ〉き破って、大乗無上の真実教を宣伝〈のべつた〉え、法灯を再び全印度の地に輝かすであろう。而して、自らは初地不退の位即ち歓喜地に証り入り、安楽の国に生れるであろうと。果せるかな、龍樹菩薩はこの予言の如く、世に現われて、自ら他力の信仰を喜び、大〈おおい〉に他力の本願を宣伝し給う。
 【余義】一。これから下、七高祖の下で、各祖の略伝をかかげ、その人格上の光を仰ぎ、御一代に御苦労して下された教義上の卓見についても、多少説明を要するのであるが、このことについては、多田鼎師の『正信偈講話』に已に充分心行くまで説明されてあるから、『正信偈講話』に譲りて、省いて置きたい。それで已に頁数も以外に増加したことであるか
(1-798)
ら、以下は講義だけにして置くことにする。

 顕示難行陸路苦  信楽易行水道楽
 憶念弥陀仏本願  自然即時入必定
 唯能常称如来号  応報大悲弘誓恩

 【読方】難行の陸路のくるしきことを顕示して、易行の水道のたのしきことを信楽せしむ。弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定にいる。ただよくつねに如来のみなを称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。
 【字解】一。必定 正定聚のことである。『智度論』に『阿毘跋致』は即ちこれ必定なり、必定とは必ず当に仏になるべきなり」とあって、必ず仏になる身に定〈きま〉って再び退かない位のことである。
 【文科】龍樹菩薩の『十住毘婆娑論』、及び『智度論』に依って、教義上の指示を宣べ給うのである。
 【講義】龍樹菩薩は、一代仏教を難行道と易行道とに別〈わか〉ち、自力の難行道は、ちょうど陸路〈くがじ〉ゆく人のように労して功なきことを顕わし、他力の易行道は、舟路ゆく人のように楽しくして而も願望〈ねがい〉の容易に果されることを信ぜしめ給うた。また阿弥陀仏の本願の御旨〈おいわれ〉を心に憶念〈おも〉い奉れば、即時〈そのとき〉自然〈おのず〉の他力の御はたらきに依って必定不退の位に入ることを説き
(1-799)
かように尊い御慈悲であるから、常に恩寵〈おめぐみ〉を思いいだして、唯〈ただ〉南無阿弥陀の御名を称え、大悲の本願の広大なる御恩を報ぜよと仰せられた。

第三科 天親菩薩

 天親菩薩造論説  帰命無碍光如来
 依修多羅顕真実  光闡横超大誓願

 【読方】天親菩薩、論をつくりてとかく、無碍光如来に帰命したてまつる。修多羅によりて真実をあらわして、横超の大誓願を光闡す。
 【字解】一。論 『浄土論』一巻のこと。上三九五頁をみよ。
 二。無碍光如来 具には尽十方無碍光如来。天親菩薩が、十二光仏名の第三無碍光に依って唱え給うた阿弥陀仏の別名である。無碍光というは衆生の煩悩悪業にさえられず、胸壁を打ち破って照して下さることである。
 三。修多羅は、前にも幾度も出たが、経典のことである。今は特に『大経』を指していうのである。
 四。光闡 光は広く、闡は暢ぶること。広く説き述べること。
 五。構超 横ざまに、五趣八難を飛び超えること、如来の本願には、他力の行者をしてかくの如く飛び超
(1-800)
えしむる大用あるをいうのである。
 【文科】天親菩薩が御一生に他力本願の宣伝に御尽し下されたことを述べるのである。
 【講義】天親菩薩は『浄土論』を作りて説きたまうよう。私は自ら無碍光如来に帰命し奉ると。かくて菩薩は浄土の経典殊に『大無量寿経』を繙いて、真実の仏意を顕わし、横〈よこざま〉に悪趣を超えて証果〈さとり〉に至らしめ給う大力用ある大誓願をさながら闇夜の灯台のように鮮に光闡〈あらわ〉し給うたのである。 Inyou|  広由本願力回向  為度群生彰一心
 帰入功徳大宝海  必獲入大会衆数
 得至蓮華蔵世界  即証真如法牲身
 遊煩悩林現神通  入生死薗示応化 }}  【読方】ひろく本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す。功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数にいることをう。蓮華蔵世界にいたることをうればすなわち真如法性の身を証せん。煩悩の林にあそんで神通を現じ生死の園にいりて応化をしめすといえり。
 【字解】一。功徳大宝海 無上の功徳を具え給う名号のこと。
(1-801)
 二。大会衆 浄土に集まれる聖者の方々のこと。
 三。蓮華蔵世界 『華厳経』に出でて居る語である。華厳の十仏摂化の境界のことであるが、今は極楽浄土のことである。極楽浄土は蓮華の泥に染まぬ如く、衆生の煩悩に汚〈けがさ〉れない清浄円満の世界であるから蓮華蔵世界と名くるのである。
 四。真如法性身 法性は法の本性ということで真如のことである。真如法性身の体を真如法性身という。涅槃のことをいうたものである。
 五。応化 衆生を引接せんがために、その根機に応じて種々に身を示現し給う仏身のことである。
 【文科】天親菩薩の『浄土論』に依って、その教義上の指示を述べ給うのである。
 【講義】天親菩薩は、その著『浄土論』に於いて、広く如来の本願力の回向の御謂れより説き起して、群生が、会得の出来るように、仏の仰せに一心に帰命することを教え給うた。即ち功徳の大宝海たる本願の名号に帰入すればこの世にありて、既に、必ず多くの聖者の群れ集う大会〈つどい〉の数に入るであろう、また蓮華〈はな〉の浄土に至りつけば、直ちに真如法性の理を証りあらわし、この世の親兄弟知人朋友を救わんがために、再び浄土よりこの世に還り来り、煩悩の林に遊化して神通を現わし生死の園に入りて、機に応じて化益を施すであろうと仰せられた。
(1-802)

第四科 曇鸞大師

 本師曇鸞梁天子  常向鸞処菩薩礼
 三蔵流支授浄教  焚焼仙経帰楽邦
 天親菩薩論註解  報土因果顕誓願

 【読方】本師曇鸞は、梁の天子つねに鸞のところにむこうて、菩薩と礼したてまつる。三蔵流支、浄教をさづけしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。天親菩薩の論を註解して、報土の因果を誓願にあらわす。
 【字解】一。梁の天子 梁の武帝のことである。
 二。三蔵流支 菩提流支三蔵のこと。三蔵は経律論の三蔵に精通して居る人のことである。菩提流支は梵音ボドヒルチ(Bodhirchi)覚希、道希と訳する。北印度の人で、三蔵に精通し、魂の永平の初め、支那に来り、宣武帝の勅命に依り、洛陽の永寧寺に居り、七百の梵僧と共に訳経に従事せられた。訳出する経論三十九部百ニ十七巻。『浄土論』を永平二年に訳出された。曇鸞大師の心機の方向転換をなさしめたのが三蔵であることは人の知る所である。何処で終られたかは明〈あきらか〉でない。
 三。仙経 江南の陶弘景から授かった『衆醮義』十巻のことである。
(1-803)
 四。楽邦 安楽国。西方浄土のこと。
 五。報土 上七五五頁をみよ。
 【文科】曇鸞大師の御一生の大事件を挙げて、大師の人格を示し給うのである。
 【講義】本師曇鸞大師を、梁の天子蕭王は、大師のいます処に向い、常に鸞菩薩と敬礼し奉って居られた。
 大師は先に菩提流支三蔵に逢うて『観無量寿経』を授った為めに、今まで修めようと思うておった長寿を教える仙経『衆醮義』を焼き捨てて極楽往生の教に帰投〈もとづ〉かれた。
 かくて天親菩薩の『浄土論』の註釈書即ち『往生論註』を著わし、弥陀の浄土に往生する因も果も、みな是れ如来の誓願力の然らしめ給う所であると顕わし給うた。

 往還回向由他力  正定之因唯信心
 惑染凡夫信心発  証知生死即涅槃
 必至無量光明土  諸有衆生皆普化

 【読方】往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。惑染の凡夫信心を発せば、生死すなわち
(1-804)
涅槃なりと証知せしむ。かならず無量光明土にいたれば、諸右の衆生みな普く化すといえり、
 【字解】一。無量光明土 上三二九良をみよ
 二。諸有 これに二義ある。一義はあらゆるということである。二義は有は存在する義で因果の厳然として行われて居る処をいい、諸有とは、四洲(東弗婆提、南閻浮提、西瞿耶及、北倶盧洲)、四悪趣(地獄、餓鬼、畜生、修羅)、六欲天、梵天、無想天、浄居天、四禅天、四空処天の二十五有をいう。どちらで解してもよい。
 【文科】曇鸞大師の『往生論註』の要義を述べ、大師の教義上の指導を明し給うのである。
 【講義】大師の教え給う所に依れば、浄土へまいる往相も、浄土よりこの世に還〈かえ〉りて利他大悲の活動をする還相も、皆な是れ他力の回向である。而して、その他力の本願を信ずる信心のみが、浄土へ往生する正因である。
 惑〈まど〉いに沈み、罪に穢れた吾々凡夫が、一度この信心を発せば、生死にありながら、そこに涅槃の理を証知〈さと〉り、後の世には必ず無量光明溢るる国に生れてあらゆる衆生を化益するであろう。
(1-805)

第五禅 道綽禅師

 道綽決聖道難証  唯明浄土可通入

 【読方】道綽 聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土に通入すべきことをあかす。
 【文科】道綽禅師の御一生の大功労を挙げて、禅師の人格を示し給うのである。
 【講義】道綽禅師は判然と一代仏教を聖道浄土の二門に分ちて、聖道自力の教えでは証〈さと〉ることが出来ないと決著し、唯々浄土門他力の一道のみありて、証りの門内〈うち〉に通ずることが出来ると明示された。これ実に、禅師御一代の御苦労である。

 万善自力貶勒修  円満徳号勧専称
 三不三信誨慇懃  像末法滅同悲引
 一生造悪値弘誓  至安養界証妙果

 【読方】万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称をすすむ。三不三信のおしえ慇懃にして、像末法滅おなじく悲引し、一生悪をつくれども、弘誓にもうあいぬれば、安養界にいたりて妙果を証せしむと云えり。
(1-806)
 【字解】一。三不三信 三不信と三信のこと。三不信は信心不淳、信心不一、信心不相続のことにて、曇鸞大師これを『往生論註』にしめされ、三信は三不信の反対にて、淳心、一心、相続心をいい、道綽禅師、曇鸞大師の三不信を相承して、『安楽集』にしめされたのである。
 二。像末法滅、像法時と、末法時と、法滅時の称。上四五六頁をみよ。
 【文科】道綽禅師の『安楽集』に依って、禅師の発揮なされた教義上の指導を仰ぎ給うのである。
 【講義】万〈よろず〉の善を修める自力の勤修を貶〈おと〉しめ、他力に依って、円〈まど〉かに備えられたる名号一つを称えよと勧められた。
 淳心、一心、相続心の三信、これと反対〈あべこべ〉なる不淳心、不一心、不相続心の三不信の教を慇懃〈ねんごろ〉に誨〈おし〉え、更に時代の上から云うても、この教えは時勢の変遷によりて左右せらるることはない、像法の時も、末法の時も、但しは教法の滅する時代に於いても、如来の本願は少しも変ることなく、大悲を以て吾々を教え引接〈みちび〉いて下さる。
 一生の間罪悪を造る吾等なれども、一度この本願に遇い奉れば必ず安養の世界に生れて、妙果を証るであろうと教えて下された。
(1-807)

第六科 善導大師

 善導独明仏正意  矜哀定散与逆悪

 【読方】善導ひとり仏の正意にあきらかにして、定散と逆悪とを矜哀し給う。
 【字解】一。定散 定善の機と、散善の機ということである。定善というは「息慮凝心〈おもんぱかりをやめ、こころをこらす〉」というて、静かに妄念を計って禅定に入ることである。散善というは「廃悪修善〈あくをやめ、ぜんをしゅす〉」というて、心は静かでないけれども、勤めて倫理道徳の善を修めることである。すべて、自力修養のものを定散の機というのである。
 二。逆悪 五逆と十悪。五逆は上一六二頁をみよ。十悪は殺生偸盗、邪婬(以上身三)、妄語、綺語、悪口、両舌(以上口四)、貪欲 瞋恚、愚痴(以上意三)の称。
 【文科】善導大師の天真独朗なる人格をたたえ、その光を仰き給うのである。
 【講義】徒〈いたずら〉に論議をのみこととせる当時の浄土門内外の諸師の間に立ちて、善導大師は独り如来の正意を明かに会得し給い、定善、散善を修める修道の人々、並に五逆十悪の凡夫を矜哀〈あわれ〉みて、如来の御本意を宣伝し給うた。 (1-808)
{{Inyou|  光明名号顕因縁  開入本願大智海
 行者正受金剛心  慶喜一念相応後
 与韋提等獲三忍  即証法性之常楽 {{Inyou|  【読方】光明名号因縁をあらわす。本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心をうけしむ。慶喜の一念相応してのち、韋提とひとしく三忍をえ、すなわち法性の常楽を証せしむと云えり。
 【字解】一。金剛心 他力の信心のことである。善導大師は『観経疏』に、「この心深信すること、なおし金剛のごとし、一切の異見異学別解別行の人等のために動乱破壊せられず」と宣うた。
 二。相応 本願の御旨に相応することである。
 三。三忍 忍は認可決定の義で、ものをしかとしたためてきめこむことである。一念の信心の上に喜忍、悟忍、信忍の三種のはたらきのあるを三悪という。蓮如上人は、『正信偈大意』に、喜忍というは、信心歓喜の得益をあらわすなり。悟忍というは、仏智をさとる心なり。信忍というは、すなわちこれ信心成就のすがたなり」と仰せられた。本願を信順する思〈おもい〉が信忍、喜び心が喜忍、仏智をしるが悟忍である。
 【文科】善導大師の『四帖の疏』、『往生礼讃』に依って、教義上の卓見を伝え、その指導を喜び給うのである。
 【講義】大師は、他力の信心について、光明が育みの母となり、名号が与え手の父となり、この父母の因縁に依って、生ずるものであることを教え給うた。また、流るる川の海
(1-809)
に入るように、この名号の御謂れを信じて、本願の大智慧海に融け込めば、如来はその念仏の行者をして正しく回向の金剛堅固の信心を受けしめ給う。もし慶喜びの一念が本願のお謂れに相応〈かな〉う時、あの『観経』の教えを受けた韋提希夫人と等しく、歓喜と悟りと信楽の三忍を獲、やがて、浄土に生れては、直ちに無為法牲の尽きざる楽みを証得するであろうと仰せられた。

第七科 源信和尚

 源信広開一代教  遍帰安養勧一切

 【読方】源信ひろく一代の教をひらきて、ひとえに安養に帰して一切をすすむ。
 【文科】源信和尚の御一生をすべくくってここに宣べ給うのである。
 【講義】源信和尚は、広く一代仏教の門戸を開き、その中、御自身では、偏に、浄土往生の他力の御教に帰〈もとづ〉き、遍く、世の人々にも、その教を御勧めになった。 (1-810)

 専雑執心判浅深  報化二土正弁立
 極重悪人唯称仏  我亦在彼摂取中
 煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我

 【読方】専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。極重悪人はただ仏を称すべし。我また彼〈か〉の摂取のなかにあり。煩悩、まなこを障て見たてまつらずといえども、大悲倦〈ものう〉きことなくして、常に我を照したまうと云えり。
 【字解】一。専雑の執心 専の執心と、雑の執心のこと。執心とは心にとりたもちて失わぬこと、念仏の一行を心に執持するを専の執心といい、雑多の行を雑え修して執持するを雑の執心という。
 二。報化二土 報土と化土。報土は因願に酬報〈むく〉いあらわれた浄土のことであるが、弥陀の浄土に於ては、この報土の中に、更に、一時衆生の機縁に応じて化現せる国土を化土といい、この化土に非ざる真実の報土を報土というのである。
 【文科】源信和尚の『往生要集』について、その重要なる教義を示し、その指導を仰ぎ給うのである。
 【講義】源信和尚は専ら他力に帰するは深い執心、様々の自力の行を雑えるは浅い執心であると判定〈さだ〉め純他力の人は報土に生れ、半自力、半他力の人は化土に生るることを正しく決着せられた。
 極みなき悪人も、唯御名を称えよ。称うる一つで、我は御親の摂取の懐〈ふところ〉に在るであろう。
(1-811)
煩悩の雲は吾等の心眼〈まなこ〉を障〈さ〉えて、見奉ることが出来ないけれども、大悲の御親は捲〈ものう〉きことなくして、常に我身を照し給うと御示し下された。

第八科 源空聖人

 本師源空明仏教  憐愍善悪凡夫人
 真宗教証興片州  選択本願弘悪世

 【読方】本師源空は仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。真宗の教証を片州に興し、選択本願を悪世にひろむ。
 【文科】師匠法然聖人の不共の大功労を挙げ、そぞろその偉大なる人格を忍び給うのである。
 【講義】本師源空聖人は、一代仏教を究め尽し、善悪の凡夫を憐愍〈あわれ〉みて、尊い真宗教をこの国に振い興〈おこ〉し、選びに択〈えら〉ばれた大悲の誓願を五濁の悪世に御弘め下された。

 還来生死輪転家  決以疑情為所止
 速入寂静無為楽  必以信心為能入

(1-812)
 【読方】生死輪転の家に還りきたることは、決するに疑情をもて所止とす。すみやかに寂静無為の楽にいることは、かならず信心をもて能入とすといえり。
 【文科】源空聖人の教義上の指導を示し給うのである。
 【講義】聖人はかの車の回るように果しない生死の巷に還り来ることは、疑いの心の仕業〈しわざ〉である、速〈すみやか〉に寂静なる無為楽〈さとり〉に入ることは、ただ信心一つによるぞと極めて簡明に教えられた。


第四項 結勧

 弘経大士宗師等  拯済無辺極濁悪
 道俗時衆共同心  唯可信斯高僧説
 六十行已畢一百二十句

 【読方】弘経の大士、宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう。道俗時衆、ともに同心にただこの高僧の説を信ずぺし。
 六十行すでにおわんぬ。一百二十句。
 【文科】近くは依釈讃嘆を結び、遠くは一偈全体を結んで、信心を御すすめなされるのである。
(1-813)
 【講義】かように経典の御思召を弘めらるる聖者、宗師の方々は.世紀から世紀に続く限りなき極悪の人の子を悲憫〈あわれ〉み給いて、拯済〈すくい〉の道を御示し下されてある。
 世の人々よ、在家、出家を択〈えら〉ばず、共に心を同じゅうして、唯この七高僧の御教を信じようではありませぬか。
 以上六十行、已〈すで〉に畢〈おわ〉る。凡〈すべ〉て一百二十句である。

 顕浄土真実行文類二

 【講義】浄土真宗の真実の大行を顕す文類、即ち『教行信証』の第二巻は茲に終ったのである。

 教行信証講義 第一巻 教の巻・行の巻 終