「教行信証講義/信巻 重釈」の版間の差分
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また言く、会〈かなら〉ずまさに世尊となりて、まさに一切の生老死を度せんとすべし。已上<br /> | また言く、会〈かなら〉ずまさに世尊となりて、まさに一切の生老死を度せんとすべし。已上<br /> | ||
涅槃経にいわく、また涅槃はなづけて洲渚とす。何をもっての故に、四大の暴河漂わすこと能わざるがゆえに。なんらを四とする、一には欲暴、二には有暴、三には見暴、四には無明暴なり。このゆえに涅槃をなづけて洲渚とす。已上<br /> | 涅槃経にいわく、また涅槃はなづけて洲渚とす。何をもっての故に、四大の暴河漂わすこと能わざるがゆえに。なんらを四とする、一には欲暴、二には有暴、三には見暴、四には無明暴なり。このゆえに涅槃をなづけて洲渚とす。已上<br /> | ||
− | + | 【字解】一。欲暴流 四暴流の一。欲界の煩悩の中、見惑十六(四諦の下に、各貪瞋慢疑の四惑あり、故に十六となる)、修惑三(貪、慢、疑)、枝末惑十、無漸、無愧、眠、掉挙、惛沈、慳、嫉、忿、覆、悔)の二十九惑の総称。<br /> | |
(2-471)<br /> | (2-471)<br /> | ||
二。有暴流 四暴流の一。色界、無色界の煩悩の中、各界の見惑十二(四諦の下に各貧、慢、疑の三ある故に)。各界の修感二(貪、慢)、合わせて二十八惑の総称。<br /> | 二。有暴流 四暴流の一。色界、無色界の煩悩の中、各界の見惑十二(四諦の下に各貧、慢、疑の三ある故に)。各界の修感二(貪、慢)、合わせて二十八惑の総称。<br /> | ||
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【読方】またいわく、心歓喜得忍というは、これ阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼〈まなこ〉のまえに現ぜ<br /> | 【読方】またいわく、心歓喜得忍というは、これ阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼〈まなこ〉のまえに現ぜ<br /> | ||
(2-504)<br /> | (2-504)<br /> | ||
− | + | ん。なんぞ踊躍にたえん。この喜びによるがゆえに、すなわち無生の忍をうることを明かす。また喜忍となづく。また悟忍となづく。また信忍となづく。これすなわち玄〈はるか〉に談ずるに、いまだ得処を標〈あら〉わさず。夫人をしてひとしく心に、この益を冀〈ねが〉わしめんと欲う。勇猛専精にして、心にみんと想うとき、まさに忍をさとるべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり。解行已上の忍にはあらざるなり。<br /> | |
【字解】一。無生之忍 無生は、浄土の無生無滅の証〈さと〉りのこと。忍は認可決定。必ず浄土へ往生して、証りを開くに決定せること。今は信決定とともに獲る正定聚の位を指す。<br /> | 【字解】一。無生之忍 無生は、浄土の無生無滅の証〈さと〉りのこと。忍は認可決定。必ず浄土へ往生して、証りを開くに決定せること。今は信決定とともに獲る正定聚の位を指す。<br /> | ||
二。喜忍、悟忍、信忍 上の無生忍の内容を明かす。喜忍は、浄土往生の信を獲て心に喜ぶこと。悟忍は、名号の謂われを聞いて、心に疑いの霽〈は〉れたこと。信忍は、信心決定の心をいう。<br /> | 二。喜忍、悟忍、信忍 上の無生忍の内容を明かす。喜忍は、浄土往生の信を獲て心に喜ぶこと。悟忍は、名号の謂われを聞いて、心に疑いの霽〈は〉れたこと。信忍は、信心決定の心をいう。<br /> | ||
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さすれば、韋提の得忍の場合は、一経中三ケ所であると云わねばならぬ。尤も此の中〈うち〉得益分の文に就いては、諸説一様に、唯上の得益の場合を重ねて述べたまでに過ぎないことに一致しているが、問題となっているのは、序分得忍、第七華座得忍の二ケ所である。<br /> | さすれば、韋提の得忍の場合は、一経中三ケ所であると云わねばならぬ。尤も此の中〈うち〉得益分の文に就いては、諸説一様に、唯上の得益の場合を重ねて述べたまでに過ぎないことに一致しているが、問題となっているのは、序分得忍、第七華座得忍の二ケ所である。<br /> | ||
二。然るに善導大師に就いては、上述の『散善義』の文の外に『玄義分』二十一丁にも<br /> | 二。然るに善導大師に就いては、上述の『散善義』の文の外に『玄義分』二十一丁にも<br /> | ||
− | + | 「韋提の得忍は、出でて第七観の初めにあり」と云われてあるから、第七観得忍は明らかである。そして此の下の文も「これ乃ち玄〈はるか〉に談ずるに未だ得処を標〈あら〉わさず、夫人をして、心に此の益を等しく冀〈こいねが〉わしめんと欲す」と読むべきであるから其の意味も、序分ではまだ得忍の場合を明示してないが、第七華座観に於いて極楽の正報を見、心に歓喜する時に、無生法忍を得るであろうと、唯夫人をしてこの得忍の利益を予め願わしめたに過ぎないというのである。更に『定善義』十八丁に「声に応じて即ち証得往生を現わす」と云いて、釈尊の苦悩の法を説くであろうと仰せられた声に応じて一仏二菩薩が現われ給うたのは、そのまま韋提希夫人の得忍の相であるというのである。良〈まこと〉に大師のこの見解は善美を尽くしているのである。<br /> | |
(2-507)<br /> | (2-507)<br /> | ||
あの夫頻婆娑羅王は我子阿闇世に幽閉せられて死にいたり、我身も牢獄に幽閉せられて、命懸けに救済を求めた夫人は、この仏身を見ることによりて救われたのである。仏身を観るとは仏の大慈悲心を観ることであるとは、第九真身観に説き給う所である。即ち夫人はここに初めて如来の大慈悲を感得したのである。大師が得忍の場合を第七華座観とせられたのは、動かすべからざる権威である。<br /> | あの夫頻婆娑羅王は我子阿闇世に幽閉せられて死にいたり、我身も牢獄に幽閉せられて、命懸けに救済を求めた夫人は、この仏身を見ることによりて救われたのである。仏身を観るとは仏の大慈悲心を観ることであるとは、第九真身観に説き給う所である。即ち夫人はここに初めて如来の大慈悲を感得したのである。大師が得忍の場合を第七華座観とせられたのは、動かすべからざる権威である。<br /> | ||
516行目: | 516行目: | ||
四。此の下の文は、唯入正定聚の証文である。即ち信心の内容を表現した文字である。文字は善導の文字であるが、文意は全く聖人の特殊の見解を表わしているのである。この<br /> | 四。此の下の文は、唯入正定聚の証文である。即ち信心の内容を表現した文字である。文字は善導の文字であるが、文意は全く聖人の特殊の見解を表わしているのである。この<br /> | ||
(2-511)<br /> | (2-511)<br /> | ||
− | + | まま文の出拠なぞを調べずに、すらすらと解釈すれば却って聖人の真意が取られるのである。即ちそれが善導の真精神を裏から打ち出したものである。之を憖〈なまじ〉い善導の文として見る故に、要らぬ問題まで惹き起こし、のみならず二聖の真意に遠ざかるのである。唯信の一念に、心眼に光曜を感じ、身心の歓喜を感ずる。それが無生法忍である。無生の生の証りを開くべき忍可決定せる所、正定聚に住した所である。之を成就文に配すれば、信心が信忍、歓喜が喜忍、即得往生が悟忍である。故に『文類正信偈』の善導の下には「必ず信喜悟忍を獲〈う〉」と仰せらる。「玄〈はる〉かに談ずるに未だ得処を標〈あら〉わさず」は、この三忍を得ることは、信決定の時であるから、予〈あらかじ〉め前もって何時と定めることは出来ないの意。「欲令夫人等悕心此益」は「夫人と等しく心に此の益を悕〈ねが〉わしめんと欲す」と読み、『正信偈』の「韋提と等しく三忍を獲」の意味で吾等が一念の信心の時、韋提希夫人と等しく喜悟信の三忍を獲〈う〉というのである。「勇猛専精にして心に見んと想う時」等は、命懸けに如来に縋〈すが〉るとき、後生助け給えと頼むとき、地獄は一定住処ぞかしと、自力の心を投げだす時に、この三忍を獲というのである。<br /> | |
終りに「此れ多くは是十信中の忍なり」等とは「此れ多くは是れ」は「願うに是れ」とか<br /> | 終りに「此れ多くは是十信中の忍なり」等とは「此れ多くは是れ」は「願うに是れ」とか<br /> | ||
(2-512)<br /> | (2-512)<br /> | ||
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【字解】一。元照 上三〇九頁を見よ。<br /> | 【字解】一。元照 上三〇九頁を見よ。<br /> | ||
二。教観 教相と観法。教相とは、釈尊が一代の間に説きたまえる教法に様々の説相あること。観法とは、法を心に観ずることで、事理を心に浮かべて 明らかに悟ること。<br /> | 二。教観 教相と観法。教相とは、釈尊が一代の間に説きたまえる教法に様々の説相あること。観法とは、法を心に観ずることで、事理を心に浮かべて 明らかに悟ること。<br /> | ||
− | + | 三。智者 智者大師。俗性は陳氏、本名は智顗、天台宗の開祖。梁の大同四年、荊州華容県に生まる。十八歳にして父母を失い、出家して慧光律師に学び、慧思禅師に師侍し、三十二歳にして、陳都金陵の瓦官寺に於いて『法華玄義』を講ず。当代の碩学みな其の講坐に列なる。大建七年三十八歳にして、天台山に入り苦練すること九年、隋の揚帝に帰依せらる。開皇二年荊州玉泉山に玉泉寺を建て、十三年『法華玄義』を、十四年『摩訶止観』を講ず。同十七年(西暦五九七)十一月二十四日、天台山に寂、寿六十。天台大師と称す。著わす所、前記の外に、『坐禅法要』、『四教儀』、『維摩経』の広略二疏等あり。<br /> | |
四。杜順 一名法順、華厳宗七祖の第三。支那雍州万年の人、『五教止観』『法界観』を著わし、一代仏教を五門に判じ、又十玄門の端緒を開きて、華厳宗の基礎をなす。隋の文帝に帰依せられ、帝心尊者の号を賜わる。貞観十四年(西暦六五四)十一月寂。寿八十四。<br /> | 四。杜順 一名法順、華厳宗七祖の第三。支那雍州万年の人、『五教止観』『法界観』を著わし、一代仏教を五門に判じ、又十玄門の端緒を開きて、華厳宗の基礎をなす。隋の文帝に帰依せられ、帝心尊者の号を賜わる。貞観十四年(西暦六五四)十一月寂。寿八十四。<br /> | ||
(2-527)<br /> | (2-527)<br /> | ||
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進んで云えば、この長い引文は、聖人が単に経文を解釈せらるる為に引かれたのではなくして、この阿闍世王の逆罪の上に、自己の真相をみ、自己の逆罪を感じ、広く悲惨なる人生そのものを実験せられたのである。裏から云えば、聖人が御自身の逆罪と人生の真相に当面〈つきあた〉りて感ぜられた実験を、遺憾なくこの引文の上に見られたのである。主観的に云えば聖人が御自身の人生経験と信仰経験を、この経文をもって表象せられたと云うべきである。この流血淋漓たる実人生の上に活躍する宗教でなければ、いかに高遠な道理や、善美を尽くした説示があっても、それは一篇の詩的空想となり終わるのみである。されば古より此の経文を解釈する人は多かったが、唯涅槃の理を説いた一譬喩としか思わなかった。是が為に血の滴〈したた〉るような如来の大慈悲心の活現も、空しく看過されて来たのである。然るに親鸞聖人により初めて沈黙千有余年の声は破れて、その真意が衆人に公開せらるるようになったのである。<br /> | 進んで云えば、この長い引文は、聖人が単に経文を解釈せらるる為に引かれたのではなくして、この阿闍世王の逆罪の上に、自己の真相をみ、自己の逆罪を感じ、広く悲惨なる人生そのものを実験せられたのである。裏から云えば、聖人が御自身の逆罪と人生の真相に当面〈つきあた〉りて感ぜられた実験を、遺憾なくこの引文の上に見られたのである。主観的に云えば聖人が御自身の人生経験と信仰経験を、この経文をもって表象せられたと云うべきである。この流血淋漓たる実人生の上に活躍する宗教でなければ、いかに高遠な道理や、善美を尽くした説示があっても、それは一篇の詩的空想となり終わるのみである。されば古より此の経文を解釈する人は多かったが、唯涅槃の理を説いた一譬喩としか思わなかった。是が為に血の滴〈したた〉るような如来の大慈悲心の活現も、空しく看過されて来たのである。然るに親鸞聖人により初めて沈黙千有余年の声は破れて、その真意が衆人に公開せらるるようになったのである。<br /> | ||
(2-543)<br /> | (2-543)<br /> | ||
− | + | 二。顧〈おも〉うに釈尊御一代の間に於いて、最も心痛せられた大事変はこの王舎城の悲劇であった。殆んど四十年近く教団の上首として諸弟子を教養した提婆達多は、怪しい驕慢邪見の念に駆られて、堂々と釈尊に反抗し、遂に釈尊外護の大立物たる頻婆娑羅王の太子阿闍世を誘惑して、父王を殺さしめ、その母を監禁せしめ、自らは阿闍世王の手厚い供養を受けて釈尊の教団に大打撃を与えたり即ちこの惨劇の本はと云えば提婆の反逆である。何人〈なんびと〉の心にも潜んでいる烈しい自由〈きまま〉独宰〈わがまま〉の念〈おもい〉である。客観の権威を否定して、どこまでも自我を押し立てんとする悪毒の念である。提婆のこの悪念が八方に拡〈ひろが〉りて、薪を焼く猛火のように、触るるものを傷つけたのである。然るに釈尊の大慈悲は、この悪毒に向ってそそがれた。即ちこれによりて釈尊出世の本懐は初めてここに実現せられた。即ち重病が起こって初めて醍醐の妙薬が効能をあらわすように、大衆を対手〈あいて〉として大講堂に説かれた『大経』の薬は、正しく血烟りを上げた一王宮の奥殿に於いて、而も韋提という一人の女性の上に於いて、初めてその効能〈ききめ〉をあらわしたのである。観経一部はこの始終を示している。<br /> | |
されど韋提希夫人にありては、受動的に圧迫されて、動きの取れない最後に立ちいたって、初めて救済〈すく〉われたのであるが、今や提婆の反逆の血を受け継いて、父を殺し、母を幽<br /> | されど韋提希夫人にありては、受動的に圧迫されて、動きの取れない最後に立ちいたって、初めて救済〈すく〉われたのであるが、今や提婆の反逆の血を受け継いて、父を殺し、母を幽<br /> | ||
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(2-556)<br /> | (2-556)<br /> | ||
乃至 刪闍耶毘羅肱子。<br /> | 乃至 刪闍耶毘羅肱子。<br /> | ||
− | + | またひとりの臣あり。悉知義となづく、すなわち王の所に至りて、是のごときの言をなさく。乃至 王すなわちこたえていわく、われいま身心あに痛みなきことをえんや。乃至 先王つみなきに、よこさまに逆害を興ず。われ亦むかし智者の説きて言いしをききき。もしひと父を害することあればまさに無量阿僧祗劫において、大苦悩をうくべしと。我いま久しからずして、かならず地獄に堕せん。また良医のわが罪を救療することなけん。大臣すなわちいわく、ややねがわくば大王、愁苦を放捨せよ。王きかずや、むかし王ありき。なづけて羅摩といいき。その父を害しおわりて、王位をつぐことをえたりき。跋提大王、毘楼真王、那睺沙王、迦帝迦王、毘舎佉王、月光明王、日光明王、愛王、持多人王、かくのごときらの王、みなその父を害して王位を紹〈つ〉ぐことをえたりき。然るにひとりとして王の地獄にいるものなし。いま現在に毘瑠璃土、優陀耶王、悪性王、鼠王、蓮華王、かくの如き等の王、みなその父を害せりき。悉くひとりとして王の愁悩を生ぜるものなし。地獄、餓鬼、天中というといえども、たれか見るものあるや。大王ただしふたつの有あり。一には人道、二には畜生なり。この二ありといえども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずば、なにものか善悪あらん。惟〈やや〉ねがわくば大王、愁怖をいだくことなかれ。何を以てのゆえに、もし常に愁苦すれば、愁えついに増長す、人ねむりをこのめば、眠りすなわち滋く多きがごとし。婬を貪し酒をたしなむも、またまた是の如しと。乃至 阿耆多舎欽婆羅 乃至<br /> | |
(2-557)<br /> | (2-557)<br /> | ||
また大臣あり。なづけて吉徳という。乃至 地獄というは、なんの義ありとかせん。臣まさに之をとくべし。地は地になづく、獄は破になづく。地獄を破せんに罪報あることなけん。これを地獄となづく。また地は人になづく、獄は天になづく、その父を害するをもてのゆえに、人天にいたらん。この義をもってのゆえに婆蘇仙人となえていわく、羊を殺して人天の楽をう、これを地獄となづく。また地は命になづく、獄は長になづく、かの寿命の長を殺すをもってのゆえに地獄となづく。大王この故にまさに知るべし、実に地獄なけん。大王、麦をうえて麦をえ、稲をうえて稲をうるがごとし。地獄を殺してはかえりて地獄をえん。人を殺害してはかえりて人をうべし。大王いままさに臣の所説をきくに、実に殺害なかるべし。もし有我ならは実にまた害なし、もし無我ならばまた害するところなけん。何を以ての故に、もし有我ならばつねに変易なし、常住をもってのゆえに殺害すべからず、不破、不壊、不繋、不縛、不瞋、不善はなおし虚空のごとし。いかんぞまさに殺害の罪あるべき。もし無我ならば諸法無常なり。無常をもってのゆえに念々壊滅す。念々に滅するがゆえに殺者死者みな念々に滅す、もし念々に滅せば、たれかまさに罪あるべき。大王、火水をやくに、火すなわち罪なきがごとし。斧樹をきるに、斧また罪なきがごとし。鎌くさをかる、鎌実に罪なきごとし。刀、人をころすに、かたな実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人いかんぞ罪あらんや。毒人をころすに、毒実に人にあらず、毒薬つみにあらざるがごとし。人いかんぞ罪あらんや。一切万物、みなまた是のごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらん。惟〈やや〉ねがわくば大王愁苦を生ずることなかれ。何をもってのゆえに、もしつねに愁苦せば、愁ついに増長せん。人ねむりを喜〈この〉めば、<br /> | また大臣あり。なづけて吉徳という。乃至 地獄というは、なんの義ありとかせん。臣まさに之をとくべし。地は地になづく、獄は破になづく。地獄を破せんに罪報あることなけん。これを地獄となづく。また地は人になづく、獄は天になづく、その父を害するをもてのゆえに、人天にいたらん。この義をもってのゆえに婆蘇仙人となえていわく、羊を殺して人天の楽をう、これを地獄となづく。また地は命になづく、獄は長になづく、かの寿命の長を殺すをもってのゆえに地獄となづく。大王この故にまさに知るべし、実に地獄なけん。大王、麦をうえて麦をえ、稲をうえて稲をうるがごとし。地獄を殺してはかえりて地獄をえん。人を殺害してはかえりて人をうべし。大王いままさに臣の所説をきくに、実に殺害なかるべし。もし有我ならは実にまた害なし、もし無我ならばまた害するところなけん。何を以ての故に、もし有我ならばつねに変易なし、常住をもってのゆえに殺害すべからず、不破、不壊、不繋、不縛、不瞋、不善はなおし虚空のごとし。いかんぞまさに殺害の罪あるべき。もし無我ならば諸法無常なり。無常をもってのゆえに念々壊滅す。念々に滅するがゆえに殺者死者みな念々に滅す、もし念々に滅せば、たれかまさに罪あるべき。大王、火水をやくに、火すなわち罪なきがごとし。斧樹をきるに、斧また罪なきがごとし。鎌くさをかる、鎌実に罪なきごとし。刀、人をころすに、かたな実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人いかんぞ罪あらんや。毒人をころすに、毒実に人にあらず、毒薬つみにあらざるがごとし。人いかんぞ罪あらんや。一切万物、みなまた是のごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらん。惟〈やや〉ねがわくば大王愁苦を生ずることなかれ。何をもってのゆえに、もしつねに愁苦せば、愁ついに増長せん。人ねむりを喜〈この〉めば、<br /> | ||
(2-558)<br /> | (2-558)<br /> | ||
ねむりすなわち滋く多きがごとし。婬を貪し酒をたしなむも、またまたかくのごとし。いま大師あり、迦羅鳩駄迦旃延となづく。 乃至<br /> | ねむりすなわち滋く多きがごとし。婬を貪し酒をたしなむも、またまたかくのごとし。いま大師あり、迦羅鳩駄迦旃延となづく。 乃至<br /> | ||
− | + | またひとりの臣あり。無弁畏となづく。乃至 いま大師あり尼乾陀若尼乾陀若子となづく。乃至<br /> | |
そのときに大医あり、なづけて耆婆という。王のところに往至して白してもうさく。大王、安眠することをえんや、いなやと。王、偈をして答えていはく、乃至 耆婆。われいま病おもし。正法の王において悪逆害をおこす。一切の良医、妙薬、呪術、善巧、瞻病の治することあたわざるところなり。何をもっての故に、わが父法王、法のごとく国をおさむ。実に辜咎なし、よこさまに逆害を加う。魚の陸に処するがごとし。乃至 われむかし智者のときていいしをききき。身口意業もし清浄ならずば、常に知るべし、この人かならず地獄に堕せんと。われまたまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることをうべきや。いま我また無上の大医の、法要を演説して、わが病苦をのぞくことなしと。耆婆こたえていわく、よきかなよきかな、王つみをなすといえども、心に重悔を生じてしかも慚愧をいだけり。大王、諸仏世尊つねにこの言をときたまわく、ふたつの白法ありよく衆生をたすく。一には慚、二には愧なり。慚はみずからつみをつくらず、愧は他をおしえてなさしめず。慚はうちにみずから羞恥す。愧は発露してひとにむかう。慚は人にはず、愧は天にはず、これを慚愧となづく、無慚愧はなづけて人とせず。なづけて畜生とす。慚愧あるがゆえ、すなわちよく父母、師長を恭敬す。慚愧あるがゆえに、父母、兄弟、姉妹あることをとく。よきかな大王つぶさに慚愧あり。乃至 王の言うところのごとし。よく治す<br /> | そのときに大医あり、なづけて耆婆という。王のところに往至して白してもうさく。大王、安眠することをえんや、いなやと。王、偈をして答えていはく、乃至 耆婆。われいま病おもし。正法の王において悪逆害をおこす。一切の良医、妙薬、呪術、善巧、瞻病の治することあたわざるところなり。何をもっての故に、わが父法王、法のごとく国をおさむ。実に辜咎なし、よこさまに逆害を加う。魚の陸に処するがごとし。乃至 われむかし智者のときていいしをききき。身口意業もし清浄ならずば、常に知るべし、この人かならず地獄に堕せんと。われまたまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることをうべきや。いま我また無上の大医の、法要を演説して、わが病苦をのぞくことなしと。耆婆こたえていわく、よきかなよきかな、王つみをなすといえども、心に重悔を生じてしかも慚愧をいだけり。大王、諸仏世尊つねにこの言をときたまわく、ふたつの白法ありよく衆生をたすく。一には慚、二には愧なり。慚はみずからつみをつくらず、愧は他をおしえてなさしめず。慚はうちにみずから羞恥す。愧は発露してひとにむかう。慚は人にはず、愧は天にはず、これを慚愧となづく、無慚愧はなづけて人とせず。なづけて畜生とす。慚愧あるがゆえ、すなわちよく父母、師長を恭敬す。慚愧あるがゆえに、父母、兄弟、姉妹あることをとく。よきかな大王つぶさに慚愧あり。乃至 王の言うところのごとし。よく治す<br /> | ||
(2-559)<br /> | (2-559)<br /> | ||
1,000行目: | 1,000行目: | ||
大王、一逆をつくれば、則ちつぶさに是のごときの一罪をうく。もし二逆罪をつくらば、すなわち二倍ならん。五逆つぶさならば、罪もまた五倍ならん。大王、いま定めてしんぬ、王の悪業かならず免るることをえじ。惟ねがはくは大王、すみやかに仏のみもとにもうずべし。仏世尊をのぞきて余はよく救うことなけん。われいま汝を愍れむがゆえに、あい勧めてみちぴくなりと。そのときに大王この語をききおわりて、心に怖懼をいだけり。身をあげて戦慄す。五体掉動して芭蕉樹のごとし。仰いでこたえていわく、天これ誰とかせん。色像を現ぜすしてただ声のみありていわく、大王、われはこれ汝が父頻婆娑羅なり。なんじいままさに耆婆の所説にしたがうべし。邪見六臣の言にしたがうことなかれと。ときに聞きおわりて悶絶地にたうる。身のかさ増劇して、臭穢なること、さきよりもまされり。冷薬を以てぬり、瘡を治療すといえども、瘡〈かさ〉蒸〈あつか〉わし。毒熱ただ増して損ずることなし。 已上抄出<br /> | 大王、一逆をつくれば、則ちつぶさに是のごときの一罪をうく。もし二逆罪をつくらば、すなわち二倍ならん。五逆つぶさならば、罪もまた五倍ならん。大王、いま定めてしんぬ、王の悪業かならず免るることをえじ。惟ねがはくは大王、すみやかに仏のみもとにもうずべし。仏世尊をのぞきて余はよく救うことなけん。われいま汝を愍れむがゆえに、あい勧めてみちぴくなりと。そのときに大王この語をききおわりて、心に怖懼をいだけり。身をあげて戦慄す。五体掉動して芭蕉樹のごとし。仰いでこたえていわく、天これ誰とかせん。色像を現ぜすしてただ声のみありていわく、大王、われはこれ汝が父頻婆娑羅なり。なんじいままさに耆婆の所説にしたがうべし。邪見六臣の言にしたがうことなかれと。ときに聞きおわりて悶絶地にたうる。身のかさ増劇して、臭穢なること、さきよりもまされり。冷薬を以てぬり、瘡を治療すといえども、瘡〈かさ〉蒸〈あつか〉わし。毒熱ただ増して損ずることなし。 已上抄出<br /> | ||
(2-560)<br /> | (2-560)<br /> | ||
− | (一)大臣、日月称となづく。(一)富闌那となづく。(二)蔵徳 (二)末伽梨拘舎離子となづく。(三)一の臣あり、なづけて実徳という。(三)刪闍耶毘羅肱子となづく。(四)一の臣あり、悉知義となづく。(四)阿奢多翅金欽娑羅となづく。(五)大臣なづけて吉徳という。(五)婆蘇仙。(六)加羅鳩駄迦旃延。(六) | + | (一)大臣、日月称となづく。(一)富闌那となづく。(二)蔵徳 (二)末伽梨拘舎離子となづく。(三)一の臣あり、なづけて実徳という。(三)刪闍耶毘羅肱子となづく。(四)一の臣あり、悉知義となづく。(四)阿奢多翅金欽娑羅となづく。(五)大臣なづけて吉徳という。(五)婆蘇仙。(六)加羅鳩駄迦旃延。(六)尼乾陀若尼乾陀若子となづく。<br /> |
【字解】一。王舎大城 梵名ラーヂャグリハ(Rajagriha)中印度摩竭陀国の都城、紀元前六世紀、頻婆娑羅王の築くところ、その子阿闇世王もここに都し、釈尊の最とも多く伝道せられた地である。今のラージャギル(Rajgeir)の地に当る。<br /> | 【字解】一。王舎大城 梵名ラーヂャグリハ(Rajagriha)中印度摩竭陀国の都城、紀元前六世紀、頻婆娑羅王の築くところ、その子阿闇世王もここに都し、釈尊の最とも多く伝道せられた地である。今のラージャギル(Rajgeir)の地に当る。<br /> | ||
二。阿闇世 梵語アヂャータシャトル(Ajata'satru)ア(阿)は未、ヂャータ(闍)は生、シャトル(世)は怨、即ち未生怨と訳す。初め父頻婆娑羅王が、年老いて子なきを憂え、相者をして占わせると、某山に自分の子となって生まるべき仙人がいることを知り、未だ命数の尽きない中に、人をして其の仙人を殺した。仙人の臨終の怨みが、太子と生れて、父王の怨敵となったと云われている。そしてその名も未生怨とつけられたと云うのである。王は十七歳の時、提婆に唆かされて、父王を殺して王位に上〈のぼ〉ったが、間もなく自分の子を愛する念から、父母の慈愛に目が醒め、旧悪を懺悔して、仏教に帰依し、仏教外護の大施主となった。釈尊滅後、第一結集の際は大檀越として、此の聖業を完成せしめた。其の後も大迦葉、阿難に奉持し、大いに仏法興隆に力を尽した。<br /> | 二。阿闇世 梵語アヂャータシャトル(Ajata'satru)ア(阿)は未、ヂャータ(闍)は生、シャトル(世)は怨、即ち未生怨と訳す。初め父頻婆娑羅王が、年老いて子なきを憂え、相者をして占わせると、某山に自分の子となって生まるべき仙人がいることを知り、未だ命数の尽きない中に、人をして其の仙人を殺した。仙人の臨終の怨みが、太子と生れて、父王の怨敵となったと云われている。そしてその名も未生怨とつけられたと云うのである。王は十七歳の時、提婆に唆かされて、父王を殺して王位に上〈のぼ〉ったが、間もなく自分の子を愛する念から、父母の慈愛に目が醒め、旧悪を懺悔して、仏教に帰依し、仏教外護の大施主となった。釈尊滅後、第一結集の際は大檀越として、此の聖業を完成せしめた。其の後も大迦葉、阿難に奉持し、大いに仏法興隆に力を尽した。<br /> | ||
1,007行目: | 1,007行目: | ||
(2-561)<br /> | (2-561)<br /> | ||
けること。<br /> | けること。<br /> | ||
− | + | 五。地獄 梵語耶落迦(Naraka)、無幸処と訳す。地獄は義訳である。地下にある獄の義。閻浮提の地下二万由旬にして無間(阿鼻)地獄あり。その上に重層して、大焦熱、焦熱、大叫喚、叫喚、衆合、黒縄、等活の七地獄あり。之を八熱地獄という。この地獄の各に四門あり、四門の外に各四小地獄あり、即ち一地獄に十六小地獄ある故に、総べて一百三十六地獄となる。又八熱地獄の周囲に八寒地獄(額部陀、尼刺部陀、額哳吒、臛臛婆、虎々婆、嗢鉢羅、鉢特摩、摩訶鉢特摩)がある。総称して八寒八熱の大地獄という。<br /> | |
六。韋提希 上五二三頁をみよ。<br /> | 六。韋提希 上五二三頁をみよ。<br /> | ||
七。四大 ここでは肉体という意。上二一八頁をみよ。<br /> | 七。四大 ここでは肉体という意。上二一八頁をみよ。<br /> | ||
1,050行目: | 1,050行目: | ||
大臣は更に申し上げるよう。大王、そんなに御心配あそばすな。一概に法と申しますけれども、法にも二通りありて出家の法と王法とは違います。王法に依れば、父を殺害するものは国王となるだけのことであります。これは勿論逆さ事ではありますが、決して罪には<br /> | 大臣は更に申し上げるよう。大王、そんなに御心配あそばすな。一概に法と申しますけれども、法にも二通りありて出家の法と王法とは違います。王法に依れば、父を殺害するものは国王となるだけのことであります。これは勿論逆さ事ではありますが、決して罪には<br /> | ||
(2-567)<br /> | (2-567)<br /> | ||
− | + | なりませぬ。迦羅羅という虫は母の腹を破って生まれますが、自然の与えた生まれる法がそういうのでありますから、母虫の身を破っても罪はありません。騾驢は子を生むと死にますが、これも自然の法だから罪になりません。王家を治める王法も亦この通り、目上の父や兄を殺した処で罪になりません。それは出家の法は厳しいもので蚊や蟻を殺しても罪になりますが、王法とは根底から相違があるのであります。大王は王の御病気を治す医者はないと仰せになりますが、今末伽梨拘賒梨子という一切知見の大先生があって、衆生を赤子〈せきし〉のように憐れみ、自ら凡ての煩悩を離れて御座るから、衆生の貪瞋痴の三毒の毒箭を抜いて下さります。この大先生は今王舎城に居りますから、どうぞ大王自らこの人の所へ御行き下さい。大王がこの人に御遇い下されば、すべての罪は皆消えて仕舞います。<br /> | |
王はこれに答えていうよう。そんなに能く私の罪を除き去って呉れる人ならば、帰依するであろう。<br /> | 王はこれに答えていうよう。そんなに能く私の罪を除き去って呉れる人ならば、帰依するであろう。<br /> | ||
又実徳という大臣があったが、この人も王の座所へ行って、偈を説いていうよう。大王何故あなたは瓔珞を抜ぎ去り、蓬のように髪を乱して御座るのか。心の苦痛でありますか、又は身体の苦痛に堪えないのでありますか。<br /> | 又実徳という大臣があったが、この人も王の座所へ行って、偈を説いていうよう。大王何故あなたは瓔珞を抜ぎ去り、蓬のように髪を乱して御座るのか。心の苦痛でありますか、又は身体の苦痛に堪えないのでありますか。<br /> | ||
1,059行目: | 1,059行目: | ||
又、悉知義といふ大臣があって、王の座所へ往き、かく申し上げた。<br /> | 又、悉知義といふ大臣があって、王の座所へ往き、かく申し上げた。<br /> | ||
王はこれに答えて申された。私は今どうして、身心の苦痛を受けずにいられようぞ。父の王には罪在まさぬのに逆害を加えたのは私である。私は昔智者が、父を殺せば数限りもない長の間大苦悩を受けぬばならぬというたことをきいたが.私は間もなく地獄に堕ねばならぬ。この身心の病気を治して呉れる医者はどこにもない。<br /> | 王はこれに答えて申された。私は今どうして、身心の苦痛を受けずにいられようぞ。父の王には罪在まさぬのに逆害を加えたのは私である。私は昔智者が、父を殺せば数限りもない長の間大苦悩を受けぬばならぬというたことをきいたが.私は間もなく地獄に堕ねばならぬ。この身心の病気を治して呉れる医者はどこにもない。<br /> | ||
− | + | その時大臣は又申すよう、大王どうぞその御心配を捨てて下さい。大王も御聞き及びのことでありましょうが、昔、羅摩という王があって、父を殺して王位に昇った。跋提大王、毘楼真王、那睺沙王、迦帝迦王、毘舎佉王、月光明王、日光明王、愛王、持多人王、これらの王はみな父の王を殺して、王位を紹〈つ〉いだ人達である。然も一人の王も地獄へ堕ちたものはない。それのみならず、今現に毘璃瑠王、優陀耶王、悪性王、鼠王、蓮華王など、父を殺して王位を奪った王は幾人もありますが、一人もそのように苦しんでいる人はない。地獄、餓鬼、天などいうて居りますけれども、誰もそんなものを見たものはないので、あるものは人間と畜生だけなのであります。それも実は因と縁とで出来たものでもなければ、又因と縁とで滅びて行くものでもありません。もし因縁で生死するものでなければ、<br /> | |
(2-570)<br /> | (2-570)<br /> | ||
善悪などいうことも何処にもないのであります。どうぞ大王、その御心配を去って下さい。「心配すれば心配は増すもの、眠れば、益々泯むたいもの、色も酒も同じこと」という諺もあります。大王、今阿耆多翅舎欽娑羅という大先生がありますから、この人の処へ行いて法を聴いて下さい。<br /> | 善悪などいうことも何処にもないのであります。どうぞ大王、その御心配を去って下さい。「心配すれば心配は増すもの、眠れば、益々泯むたいもの、色も酒も同じこと」という諺もあります。大王、今阿耆多翅舎欽娑羅という大先生がありますから、この人の処へ行いて法を聴いて下さい。<br /> | ||
1,067行目: | 1,067行目: | ||
又、無所畏という大臣があったが、この大臣も亦前の人達と同じように大王をなぐさ<br /> | 又、無所畏という大臣があったが、この大臣も亦前の人達と同じように大王をなぐさ<br /> | ||
(2-572)<br /> | (2-572)<br /> | ||
− | + | めて、尼乾陀若提子の所へ行くようにすすめた。<br /> | |
その時、耆婆という有名な医者があった。この人も亦、王の座所へ見舞して、申し上げるには、大王、御安眠が出来ますか。<br /> | その時、耆婆という有名な医者があった。この人も亦、王の座所へ見舞して、申し上げるには、大王、御安眠が出来ますか。<br /> | ||
王はこれに偈を以て答えられた。耆婆よ、私は今重病にかかっている。王法を護持し給うた父王に無道な逆害を加えた、それから起こって来た重病である。この病気は、どんな名医でも呪法〈まじない〉でも、手のとどいた巧な看病でも療治することの出来ない病気である。何故かといえば、私の父は正法を護持せられた王で、法の如くに善く国を治められ、少しも罪の在まさぬのに、私は無道の逆害を加え奉った。丁度水中の魚を陸へ引き上げたような仕業である。私は昔智者が身口意の三業の清浄でないものは必ず地獄に堕つると説いたのをきいたことがある。私は今それである。どうして安眠することが出来ようぞ。今私の病苦はいかなる大医もこの上ない名医も、法の薬を説いて治して下さることは出来ないのである。<br /> | 王はこれに偈を以て答えられた。耆婆よ、私は今重病にかかっている。王法を護持し給うた父王に無道な逆害を加えた、それから起こって来た重病である。この病気は、どんな名医でも呪法〈まじない〉でも、手のとどいた巧な看病でも療治することの出来ない病気である。何故かといえば、私の父は正法を護持せられた王で、法の如くに善く国を治められ、少しも罪の在まさぬのに、私は無道の逆害を加え奉った。丁度水中の魚を陸へ引き上げたような仕業である。私は昔智者が身口意の三業の清浄でないものは必ず地獄に堕つると説いたのをきいたことがある。私は今それである。どうして安眠することが出来ようぞ。今私の病苦はいかなる大医もこの上ない名医も、法の薬を説いて治して下さることは出来ないのである。<br /> | ||
1,081行目: | 1,081行目: | ||
語に迷わされてはならぬとの答があった。<br /> | 語に迷わされてはならぬとの答があった。<br /> | ||
この語をきいて、阿闍世王は中心の悶えの余り気絶して大地に蹄〈たお〉れた。すると身体中の瘡が一時に増して、その臭いこと、以前に倍するようになった。冷薬を塗って治績せ・しょうとしても、瘡は益々華を開いたように割れては毒熟を吐いて、増しても減ずるようなことはなかった。<br /> | この語をきいて、阿闍世王は中心の悶えの余り気絶して大地に蹄〈たお〉れた。すると身体中の瘡が一時に増して、その臭いこと、以前に倍するようになった。冷薬を塗って治績せ・しょうとしても、瘡は益々華を開いたように割れては毒熟を吐いて、増しても減ずるようなことはなかった。<br /> | ||
− | + | 日月称という大臣は富蘭那外道をすすめ、蔵徳という大臣は末伽梨拘賒梨子外道をすすめ、実徳という大臣は刪闍耶毘羅肱子外道をすすめ、悉知義大臣は阿嗜多翅舎欽婆羅外道をすすめ、吉徳大臣は婆蘇仙の言を引いて、加羅鳩駄迦旃延外道をすすめ、無所畏大臣は尼乾陀若提子外道をすすめたのである。<br /> | |
【余義】一。此の下正しく阿闍世王の痛烈〈はげ〉しい苦悶〈くるしみ〉を明かす。伝うる所によれば、阿闍世王は父王を幽閉して食を断たしめ、更に父王が窓を通して遥かに耆闍崛山の翠緑を仰いで釈尊を念ずる様を知りて、その窓を塞ぎ、足裏を削らしめた。かような残忍を檀〈ほしいまま〉にした間もなく阿闍世王はその子優陀耶が腫物を病んで傷々しく泣いているのを見て、可愛さ余りてその膿血を吸うてやった、母韋提希夫人はこの時傍にありて、泣いて父頻婆娑羅王が阿闍<br /> | 【余義】一。此の下正しく阿闍世王の痛烈〈はげ〉しい苦悶〈くるしみ〉を明かす。伝うる所によれば、阿闍世王は父王を幽閉して食を断たしめ、更に父王が窓を通して遥かに耆闍崛山の翠緑を仰いで釈尊を念ずる様を知りて、その窓を塞ぎ、足裏を削らしめた。かような残忍を檀〈ほしいまま〉にした間もなく阿闍世王はその子優陀耶が腫物を病んで傷々しく泣いているのを見て、可愛さ余りてその膿血を吸うてやった、母韋提希夫人はこの時傍にありて、泣いて父頻婆娑羅王が阿闍<br /> | ||
(2-576)<br /> | (2-576)<br /> | ||
世の幼少の折、矢帳りかように膿を吸われたことを告げた。王は之を聞いて、子に対する愛情から電気に撲たれたように父王の愛情を感じた。そして狂気の如く臣下を父王の牢獄に遣わして、父王の安否を見せしめたが、父王はもう此の時は息絶えてあった。阿闍世王の取り返しのつかぬ罪悪感はこの時より起って、日夜に心を噛んだのである。本文に「我父辜なきに横に逆害を加う」と自らの罪悪を摘発〈あばきだ〉して、堕獄の感に戦〈おのの〉いていることによりて明らかである。<br /> | 世の幼少の折、矢帳りかように膿を吸われたことを告げた。王は之を聞いて、子に対する愛情から電気に撲たれたように父王の愛情を感じた。そして狂気の如く臣下を父王の牢獄に遣わして、父王の安否を見せしめたが、父王はもう此の時は息絶えてあった。阿闍世王の取り返しのつかぬ罪悪感はこの時より起って、日夜に心を噛んだのである。本文に「我父辜なきに横に逆害を加う」と自らの罪悪を摘発〈あばきだ〉して、堕獄の感に戦〈おのの〉いていることによりて明らかである。<br /> | ||
二。六師外道中、第一富蘭那迦葉(Purana kasyapa)外道は、空見を主帳する、即ち因果を否定して自己の責任を免れんとするのである。<br /> | 二。六師外道中、第一富蘭那迦葉(Purana kasyapa)外道は、空見を主帳する、即ち因果を否定して自己の責任を免れんとするのである。<br /> | ||
− | + | 第二末伽梨拘賒梨子(Maskaragosali-putra)外道は常見を主帳する、人は必ず又人に生まる。そして其の人の苦楽は、生後自然に受ける、従って殺生に就いても責任を受けないというのである。<br /> | |
第三刪闍耶毘羅胝子(Samjayavairatti putra)は、舎利弗、目連の最初の師として有名である。人は皆前世の宿業によりて果報を獲る。これは人間の意志でどうすることも出来ないのである、故に吾等が現世に罪悪を犯しても、決して責任を受けるに及ばぬ。この理<br /> | 第三刪闍耶毘羅胝子(Samjayavairatti putra)は、舎利弗、目連の最初の師として有名である。人は皆前世の宿業によりて果報を獲る。これは人間の意志でどうすることも出来ないのである、故に吾等が現世に罪悪を犯しても、決して責任を受けるに及ばぬ。この理<br /> | ||
(2-577)<br /> | (2-577)<br /> | ||
1,413行目: | 1,413行目: | ||
(2-624)<br /> | (2-624)<br /> | ||
慚愧を生ずるに、また善見太子に見ゆること能わず。またこの念をなさく、われ今まさに如来のみもとに往至して、大衆を求索すべし、仏もし聴さば、われまさに意に随いて、教えてすなわち舎利弗等に教詔勅使すべしと。<br /> | 慚愧を生ずるに、また善見太子に見ゆること能わず。またこの念をなさく、われ今まさに如来のみもとに往至して、大衆を求索すべし、仏もし聴さば、われまさに意に随いて、教えてすなわち舎利弗等に教詔勅使すべしと。<br /> | ||
− | + | そのときに提婆達多、すなわち我ところに来りてかくのごときの言をなさく。唯ねがわくば如来、この大衆をもってわれに付属せよ。我まさに種々に法をときて教化してそれをして調伏せしむべしと。われ痴人にいわく、舎利弗等は聴聞の大智なり。世に信伏せらる。われなお大衆をもって付属せず。いわんや汝痴人、唾を食うものをやと。ときに堤婆達多、また我所においてますます悪心を生じて、是のごときの言をなさく、瞿曇、なんじいままた大衆を調伏すといえども、勢いまた久しからじ。まさに磨滅せらるべしと。この語をなしおわるに、大地即時に六反震動す。提婆達多すなわちの時に地にたふれて、その身の辺より大暴風をいだして,もろもろの塵士をふきて、而もこれを汚坌す。提婆達多、悪相をみおわりてまたこの言をなさく、もし我この身現世にかならず阿鼻地獄にいらば、我必ずまさにかくのごときの大悪を報うべし。ときに提婆達多すなわちたちて善見太子のところに往至す。善見みおわりてすなわち聖人に問わく、なんがゆえぞ顔容憔悴して憂えの色あるやと。提婆達多いわく、われ常にかくのごとし、汝しらずやと。善見にこたえていわく、願わくばそのこころを説くべし。なんの因縁あってしかると。提婆達多のいわく、我いま汝がために、きはめて親愛をなす。外人、汝を罵てもて非理とす。我この事をきくにあに憂えざることをえんや。善見太子またこの言をなさく、国の人いかんぞ我を罵辱すると。提婆達のいわく、国の人、汝を罵りて来生怨とすと。善見またいわく、なんがゆえぞ我をなづけ<br /> | |
(2-625)<br /> | (2-625)<br /> | ||
て来生怨とする。誰がかの名をなすと、提婆達のいわく、汝いまだ生まれざりしとき、一切相師みなこの言をなさく、この児うまれ已わりてまさにその父を殺すべし。このゆえに外人、みなことごとく汝を号して来生怨とす。一切内のひと汝が心を護るがゆえに、いいて善見とす。毘提夫人この語を聞きおわりて、すでに汝が身を生まんとして高楼のうえよりこれを地にすてて、汝が一の指をやぶれり。この因縁をもて人また汝を号して娑羅留枝とす。我これを聞きおわりて心に愁憤を生じて、しかもまた汝に向いて之を説くことあたわず。提婆達多、かくの如きらの種々の悪事をもって、おしえて父を殺さしむ。もし汝が父死せば、われ亦よく瞿曇沙門を殺さんと。<br /> | て来生怨とする。誰がかの名をなすと、提婆達のいわく、汝いまだ生まれざりしとき、一切相師みなこの言をなさく、この児うまれ已わりてまさにその父を殺すべし。このゆえに外人、みなことごとく汝を号して来生怨とす。一切内のひと汝が心を護るがゆえに、いいて善見とす。毘提夫人この語を聞きおわりて、すでに汝が身を生まんとして高楼のうえよりこれを地にすてて、汝が一の指をやぶれり。この因縁をもて人また汝を号して娑羅留枝とす。我これを聞きおわりて心に愁憤を生じて、しかもまた汝に向いて之を説くことあたわず。提婆達多、かくの如きらの種々の悪事をもって、おしえて父を殺さしむ。もし汝が父死せば、われ亦よく瞿曇沙門を殺さんと。<br /> | ||
1,426行目: | 1,426行目: | ||
二。善見太子 阿闍世太子のこと。上五六〇頁を看よ。<br /> | 二。善見太子 阿闍世太子のこと。上五六〇頁を看よ。<br /> | ||
三。曼陀羅華 梵語マンダラ(Mandara ormadara)天妙華、白華と訳す。高潔にして色香よく、見る者、意に適〈かな〉う故に、適意華ともいう。<br /> | 三。曼陀羅華 梵語マンダラ(Mandara ormadara)天妙華、白華と訳す。高潔にして色香よく、見る者、意に適〈かな〉う故に、適意華ともいう。<br /> | ||
− | + | 四。三十三天 梵語トラーヤストリンシャ―フ(Trayastrmsah)忉利天ともいう。六欲天の第二、閻浮提より八万由旬の上、即ち須弥山の項にあり、城廊八万由旬にして、三十三天に別れ、帝釈天これを結〈す〉ぷ。人間の百年を以て一日一夜として、千年を寿命とす。換算すれば、人寿三億六千万歳である。<br /> | |
五。我 自我のこと。俗に「おれが」というもの。主観の中心にして、常、一、主、宰を内容としている。即ち「いつも、自分一人が、王者のように、我儘自由の出来るもの」が「我」の自性である。<br /> | 五。我 自我のこと。俗に「おれが」というもの。主観の中心にして、常、一、主、宰を内容としている。即ち「いつも、自分一人が、王者のように、我儘自由の出来るもの」が「我」の自性である。<br /> | ||
六。我所 自我の所有物。自己の身体を始めとし、眷族、財宝、名誉等、凡て「おれがもの」の中へはいれるものの全称。<br /> | 六。我所 自我の所有物。自己の身体を始めとし、眷族、財宝、名誉等、凡て「おれがもの」の中へはいれるものの全称。<br /> | ||
1,629行目: | 1,629行目: | ||
第一に心に在るというは、いかなることかというに、罪を造るのは顛例の妄想からであるし、十念の念仏は、善知識のいろいろに慰めて下されて、実相微妙の六字名号をきかして下され、きいて信ずる、まこと心から出て来るのである。罪は虚〈うそ〉から出で、念仏は実から出る。これだけの区別があって見れば、どうしてかれとこれと比較することが出来ようぞ。譬えてみれば、千年も黒闇の続いた室に、光を持って来れば、一時に明るくなるようなものである。闇が千年もこの室を占領して居ったのだからと意地帳ってみても、光にはかなわないのである。これが心に在るというた意味である。<br /> | 第一に心に在るというは、いかなることかというに、罪を造るのは顛例の妄想からであるし、十念の念仏は、善知識のいろいろに慰めて下されて、実相微妙の六字名号をきかして下され、きいて信ずる、まこと心から出て来るのである。罪は虚〈うそ〉から出で、念仏は実から出る。これだけの区別があって見れば、どうしてかれとこれと比較することが出来ようぞ。譬えてみれば、千年も黒闇の続いた室に、光を持って来れば、一時に明るくなるようなものである。闇が千年もこの室を占領して居ったのだからと意地帳ってみても、光にはかなわないのである。これが心に在るというた意味である。<br /> | ||
(2-653)<br /> | (2-653)<br /> | ||
− | + | 第二に縁に在るというはいかなる意味かというに、罪を造るは妄想に依り、煩悩をかかえたうそいつわりの業報の衆生に対して罪を造るのであり、十念の念仏はこの上ない他力の信心から起こるので、阿弥陀如来の三種の荘厳、及び真実にして清らかな無量の功徳を具えた名号に依って出て来るのである。一は煩悩の衆生を相手とし、一は阿弥陀如来を相手として居る。丸で比べものにならぬのである。それであるから譬えていうと、毒箭〈どくや〉を受けた人が、毒箭のために筋肉は截れ、骨髄まで壊れても、かの滅除薬の故(『首楞厳経』に出でて居る譬であって、譬えば滅除薬という薬を、闘戦の時に鼓に塗って、この鼓を打てば、この声をきくものは受けた箭が自然に抜け出でて毒がなくなるように、菩薩摩訶薩もその通りに、首楞厳三昧に住してその三味の名をきけば、貪瞋痴の三毒の煩悩の箭がひとりでに抜け出でると記してある)の音を聞けば、箭もひとりでに抜け出でて、毒もなくなるようなものであって、箭が深く入って居るから、毒が厲〈はげ〉しいからというて、いかに鼓の音をきいても、箭が抜けまい毒が消えまいとは云われないのである。これが縁に在るという意味である。<br /> | |
第三に決定にあるというのは、罪を造る時には、この後にも猶生きて居ると予想してつ<br /> | 第三に決定にあるというのは、罪を造る時には、この後にも猶生きて居ると予想してつ<br /> | ||
(2-654)<br /> | (2-654)<br /> |
2018年7月23日 (月) 22:49時点における版
教行信証講義 |
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序講 |
総序 |
教巻 |
行巻 |
正信念仏偈 |
序講 信別序 |
信巻 本 |
信巻 三心一心 |
信巻 重釈 |
証巻 |
真仏土巻 |
化身土巻 本 |
化身土巻 末 |
(2-459)
第七章 重釈要義
第一節 正定聚機
【大意】以上の処で『信巻』は正しく終わりを告げた。即ち広く経論釈の要文を引いて、大信を称説し讃美し、更に要所要所には、釘打つように私釈を下し、終わりに六正を以って一心を結釈し、『止観』の文を引いて心の意義を明らかにせられた。これで『信巻』一部の大綱は正しく終ったのである。これより下は、翻って『信巻』の要義を重ねて解釈せらるのである。それは横超断四流と真仏弟子と抑止文釈とである。この明かし方は、『行巻』に於いて、重ねて他力と一乗海を解釈せらるると同じである(『第一巻』六六〇頁参照)。
更に之を内容の方面から云えば、上に広く他力回向の大信を述べたから、これより以下は其の大信を正しく機に受得する模様を詳述せらるるのである。即ち横超断四流は、獲らるる信心の徳益を明かし、真仏弟子は、正しく大信を獲得する人を示す。そして抑止の文は、その真仏弟子を裏面より述べたものである。
即ち第一節正定聚機、これに三項あり、第一項横超釈、第二項断四流釈、第三項真仏弟子である。そして各項に広く経釈の文を引き給う。
第二節は抑止文である。これに三項あり、第一項には『涅槃経』を引いて逆悪の機を示し、第二項は私釈、第三項は抑止文釈である。これにて『信巻』は終わりを告げるのである。
(2-460)
第一項 横超釈
第一科 義釈
- 言横超断四流者 横超者 横者対竪超・竪出 超者対迂対廻之言。
- 竪超者大乗真実之教也。
- 竪出者大乗権方便之教 二乗三乗迂廻之教也。
- 横超者 即願成就一実円満之真教 真宗是也。
- 亦復有横出 即三輩・九品・定散之教 化土・懈慢・迂廻之善也。
- 大願清浄報土 不云品位階次。
- 一念須臾頃 速疾 超証 無上正真道。
- 故曰横超也。
【読方】横超断四流というは、横超は、横というは聖道竪出に対す。超というは迂に対し、回に対することばなり。竪超というは大乗真実の教なり。竪出といふは大乗権方便の教、二乗三乗、迂回の教なり。横超というは、すなわち願成就一実円満の真教真宗これなり。また横出あり、すなわち三輩、九品、定散の教、化土懈慢迂回の善なり、大願清浄の報土には、品位階次をいわず、一念須臾の頃〈あいだ〉に速やかにとく無上正真道を超証す、故に横超という。
【字解】一。三輩九品 三輩は自力の願生行者に上中下の三種あること。九品はその一々を三種に頌〈わ〉かち
(2-461)
しもの。三輩は大経下巻の初めのとき、九品は観経に説かる。上一六七頁参照。
二。化土 弥陀の真報土の中の化土。自力疑心の念仏行者はこの化土に生れ、三宝を見ることを得ず。
三。懈慢 懈慢界。『菩薩処貽経』の説に、この娑婆世界を西に去ること十二億那由他に懈慢界あり、その国楽しくして伎楽盛んである。阿弥陀仏の浄土に生まれんする人々の中に.此の国に貪著して進むことの出来ないものが甚だ多いというてある。今は、本願を疑う人の往生する浄土中の化土をいう。即ちこの経説の名義を転用して弥陀の化土に名づけたものである。この外に疑城胎宮の名もある。委しくは『化巻』を看よ。
四。品位階次 品位は観経に説かれたる九品九種の階級の機類のこと。階次は階級。
五。無上正真道 阿耨多羅三藐三菩提の訳。無上の妙果。仏の証りのこと。仏の証りはこの上ない正しい真実の大智慧であるからである。
【文科】二双四重の判をもちいて他力横超を釈したまう一段である。
【講義】上に横超断四流ということを述べたが、これからこの五字の意味を味わわねばならぬ。先ず横というは他力という意味で、自力の竪超竪出に対する語である。又、超というは、一足飛びに飛び超える意味で、迂遠なこと、まわりみちをすることに対する語である。竪超というは、聖道八万の教の中、華厳天台等の実大乗教のことである。竪出というは、法相三論等の権大乗教のことである。二乗三乗と区別を立てて、仏果を開くに、三
(2-462)
僧祗百大劫のまわりみちをせねばならぬと教える法門のことである。横超というは、本願の成就から開け来ったこれのみまこと、これより外はない、円融円満の真実〈まこと〉の宗教〈おしえ〉のことである。又、横出というがあるが、これは機に三輩九品の差別を立て、定善散善、三福九品の諸善を教え、方便化土の懈慢界に生まれしむる回り遠い十九願要門の教えである。如来の大願に酬報〈むく〉い顕われた清浄の報土には、三々九品などという階数はなくて、往生の刹那に、すべてみな無上の仏果菩提〈さとり〉を開くのである。それであるから、この教えを横起というのである。
【余義】一。横超断四流の下に、二双四重の判釈を挙げられた。之は上にも菩提心(三七九頁)の下に出されたものであった。但し『愚禿鈔』と上出の二双四重判は、平静なる態度をもって、相対的の判釈を下されたのであるが、ここは横超という標目の下〈もと〉に掲げられたる為に、自ずと絶対判の語勢を示している。
即ち二双四重の判を主眼として明かすのではなくして、横超の益を示す為に、其の所対として竪超竪出等を挙げられたのである。云はば白色を鮮明ならしむる為に黒色を持ち来るように、横超他力を顕著ならしむる為に、他の自力の教えを挙げられた。故に是等自力
(2-463)
教は自ずと所廃の意味を含まざるを得ないのである。
『愚禿鈔』及び上の菩提心の下には、平面的に諸教を羅列しているが、此処には「横は竪超竪出に対す、超は迂に対し回に対す」等と深く縦に切り込んである。即ちこの言葉の次に先ず竪超竪出の教名をあげ、改めて「横超とは願成就し給える一実円満の真教、真宗是なり」と云い、更に横出を出し、是に対して横超は、速疾超証の真道であると釈す。凡て横超他力を主として、他の諸教をあげ、其の比較の様式として二双四重判を須いられたに過ぎない。『銘文』本五丁に、
横はよこさまという。よこさまというは、如来の願力を信ずるゆえに、行者のはからいにあらず。五悪趣を自然にたちすて、四生をはなるるを横という。他力ともうすなり。これを横超というなり。横は竪に対することばなり。超は迂に対することばなり。竪と迂とは自力聖道のこころなり。横と超はすなわち他力真宗の本意なり。
この下と同意で、又よくこの下の文意を助顕していると思う。恰も猛虎の伏草を駆〈か〉るように、一実円満の横超他力教が、自余の聖道諸教、浄土定散諸教を慴怖せしむる趣きがある。
二。初め竪超竪出に対する所は、聖浄相対、横出に対する所は、要弘相対である。聖
(2-464)
浄対には、円満善美の至極たろ横超の真教をあげ、要弘対には、往生即成仏の利益に就いて横超を釈す、相共に横超の真意を発揮している、即ち円満至極の教えは、そのまま速疾成仏の大益ある教えである。『唯信文意』二十一丁に、
この一心は横超の信心なり。横はよこさまという。超はこえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかにとく生死の大海をこえて、無上覚にいたるゆえに超ともうすなり。
とあるは、上の二つの場合を一所にして解釈せられたのである。下の引文は、是等の意義を証明している。
三。終りに横出に対する下、「大願清浄の報土」等と、横超の利益を当益としてあるが、是は定散諸教の品位階数ある浄土に対して、一念超証の浄土の益を述べられたので、此の要門教に対し、横超を明かす時は、当果を示す方が最も簡明であるからである。従って横超が亦現益であることは申す迄もない。既に「正信偈」にも、
信を獲て、見て敬い、大いに慶喜すれば、即ち横に五悪趣を超截す。
とも云い、上の文には「即得往生住不退転」の文を釈する下に
金剛の真心を獲得する者は、必ず現生に十種の益を獲るなり
(2-465)
とて、現生十種の益をあげてある。即ち信楽開発の一念に、六趣四生の因亡じ果滅して、即得往生住不退転の現益を獲る。これが正定聚の益である。横超断四流の現在益である。下の「断というは、往相の一心を発起するが故に、生として受くべき生なし 乃至 頓に三有の生死を断絶す」等の釈は最も明らかに現益を示している。『和讃』
金剛堅固の信心の さだまる時をまちえてぞ
弥陀の心光照護して ながく生死をへだてける。
はこの意である。横超の現益は、殊に我聖人が力を尽して立証実験せられた所で、又真の宗教的旨趣は是にあるのである。
第二科 文証
大本言
超発無上殊勝之願。
又言
我建超世願。必至無上道。
名声超十方 究竟靡所聞。
誓不成正覚。
又言
必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉。
昇道無窮極。
易往而無人。
其国不逆違 自然之所牽。{已上}
(2-466)
【読方】大本にのたまわく、無上殊勝の願を超発す。またのたまわく、われ超世の願をたつ。かならず無上道にいたらん。名声十方にこえて究竟して聞こゆるところなくば、ちこうて正覚をならじ。また言わく、かならず超絶して去〈すつ〉ることをえて、安養国に往生せよ。横に五悪趣をきり、悪趣自然にとじん。道にのぼるに窮極なし。往き易くしてしかも人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。已上
【字解】一。大本『大無量寿経』のこと。
二。安養国 極楽。弥陀の浄土。
【文科】『大経』の三文を一連にして横超の義を証したまう。
【講義】『大無量寿経』には、この上のない殊勝〈すぐ〉れた本願を、諸仏に超え勝れて発こし給うたというてある。
又同じく『大経』にいうてある。我(法蔵比丘)、世に超え勝れた願を建てて、必ず無上の仏果を得遂げるであろう。我が名声〈な〉、十方に超え、際の際〈はて〉まで、隈〈くま〉なく聞え渡ることがないならば、誓うて正覚を取るまじ。
又同じく『大経』にいうてある。必ず生死の海を超え、迷いの絆〈きずな〉を絶って、苦の世界を去り、安養の世界に往生せよ。さすれば、如来他力の御はからいによって、五悪趣の因を截り、悪趣は自然に閉じて、窮極〈かぎり〉のない仏果の道に昇ることが出来る。誠に往き易くして人
(2-467)
のないは安養の浄土である。もし他力の信心さえあれば、安養の浄土は、どんなものでも逆らわず違〈たが〉わず、他力自然に牽かれて易く参らして頂けるのである。
大阿弥陀経{支謙三蔵訳}言
可得超絶去。
往生阿弥陀仏国 横截於五悪道 自然閉塞。
昇道之無極。
易往無有人。
其国土不逆違 自然之随牽。{已上}
【読方】大阿弥陀経(支謙三蔵の訳なり)にのたまわく、超絶してすつることをうべし。阿弥陀仏国に往生すれば、横〈よこさま〉に五悪道をきりて、自然に閉塞す。道に昇ることきわまりなし。往き易くして人あることなし。そのくに逆違せず、自然のひくところなり。已上
【字解】一。『大阿弥陀経』 『大無量寿経』の果訳。梵語アミターユス、スートラ(Amitayus-sutra)。内題には『仏説諸仏阿弥柁三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』とある。呉の時代に月支国の優婆塞、支謀の訳。二十四願成就の阿弥陀仏の因願と果上を説く。
【文科】異訳を引きて正依の経文を助顕せらる。
【講義】又支謙三蔵の訳出せられた『大阿弥陀経』には、生死の流れを超え、煩悩の絆を絶って、早くこの苦悩の世界を去り、阿弥陀仏の極楽世界に往生せよ。さすれば、他力の
(2-468)
はたらきで、五悪道へ趣く因を截って悪趣の門は自然に塞〈ふさ〉がり、極まりのない仏果に昇ることが出来る。御浄土は往き易い所であるが、疑いに碍えられて往くものがない。他力の信力さえ頂けば、安養の浄土は、どんなものでも逆らわず違〈たが〉わず、他力自然に牽かして参らして頂けるのである。
第二項 断四流釈
第一科 義釈
- 言断者 発起往相一心故 無生 而当受生。
- 無趣而更応到趣。
- 已六趣・四生因亡果滅。
- 故即頓断絶三有生死。
- 故曰断也。
- 四流者 則四暴流。
- 又生老病死也。
【読方】断というは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当にうくべき生なし、趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣四生の囚亡し果滅す。故えにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに断というなり。四流はすなわち四暴流なり。また生老病死なり。
【字解】一。往相の一心 往相回向の一心。他力回向の信心のこと。他力の信心は、浄土へ往生する正因であるから、往相の二字を添う。
(2-469)
二。生 下にあぐる四生(胎、卵、湿、化)のこと。一切の有情は、この四種の出生の形式に摂められる故に、生と云えば迷界の総称とも見られる。
三。趣 下にあぐる六趣。六道ともいう。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。その中、修羅を天に摂して、五趣とすることもある。
四。六趣四生 上の生、趣のこと。
五。三有 三界(欲界、色界、無色界)のこと。有は存在の義。因果の法則、厳に存在する世界の意。
【文科】信の一念に迷いの四流を超絶することを示し給う一段である。
【講義】断四流の断というは、往相回向の他力の信心を頂けば、その信の一念に、願力の不思議を以て、四生の中、受くべき生もなく、六趣の中、趣くべき趣〈ところ〉もないようにして下さる。六趣四生の悪果を招くべき業因を悉く滅ぼし、従ってその悪果も全然受けないようにして下さるのである。それであるから、一念に速やかに三界の生死を二度と受けないように断ち切って仕舞うのである。これを断というのである。
四流というは、欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流の四暴流のことである。又生老病死の四苦を流と喩えたとみてもよい。
(2-470)
第二科 経文証
大本言
会当成仏道 広度生死流。
又言
会当作世尊 将度一切生老死。{已上}
涅槃経言
又涅槃者 名為洲渚。
何以故 四大暴河 不能漂故。
何等為四。
一者欲暴 二者有暴 三者見暴 四無明暴。
是故涅槃名為洲渚。{已上}
【読方】大本にのたまわく、会〈かなら〉ずまさに仏道をなりて、ひろく生死のながれを度すべし。
また言く、会〈かなら〉ずまさに世尊となりて、まさに一切の生老死を度せんとすべし。已上
涅槃経にいわく、また涅槃はなづけて洲渚とす。何をもっての故に、四大の暴河漂わすこと能わざるがゆえに。なんらを四とする、一には欲暴、二には有暴、三には見暴、四には無明暴なり。このゆえに涅槃をなづけて洲渚とす。已上
【字解】一。欲暴流 四暴流の一。欲界の煩悩の中、見惑十六(四諦の下に、各貪瞋慢疑の四惑あり、故に十六となる)、修惑三(貪、慢、疑)、枝末惑十、無漸、無愧、眠、掉挙、惛沈、慳、嫉、忿、覆、悔)の二十九惑の総称。
(2-471)
二。有暴流 四暴流の一。色界、無色界の煩悩の中、各界の見惑十二(四諦の下に各貧、慢、疑の三ある故に)。各界の修感二(貪、慢)、合わせて二十八惑の総称。
三。見暴流 四暴流の一。三界の見惑のうち、四諦の下に起こる諸見を総称したもの。
挿図(yakk2-471.gif)
三界見惑三十六
苦諦 集諦 滅諦 道諦
身見 辺見 邪見 見取見 戒禁取見
四。無明暴流 四暴流の一。三界の四諦、修道の五部に起こる痴煩悩をいう。合わせて十五あり。
以上の諸煩悩に、暴流のよう善法を漂流せしむるによりこの名あり。
【文科】経文を引いて、生死の流れを断ちきるを証したまう。
【講義】『大無量寿経』には、会〈かなら〉ず会〈かなら〉ず仏となって、広く生死の流れをすくい渡すであろうというてある。
又『平等覚経』には、必ず必ず世尊となって、すべての生老死の流れをすくい渡すであろうというてある。
(2-472)
『涅槃経』には又、涅槃を洲渚とも名づける。何故ならば、流石〈さすが〉の暴悪な四大河も、この涅槃だけは漂わすことが出来ないからである。四大河とは何かというに、欲暴流、有暴流、見暴波、無明暴流のことである。こういう訳であるから、涅槃を洲渚と名づけるのである。
第三科 釈文証
光明寺和尚云
白諸行者 凡夫生死 不可貪而不厭。
弥陀浄土 不可軽而不忻。
厭則娑婆永隔 忻則浄土常居。
隔則六道因亡 淪廻之果自滅。
因果既亡 則形名 頓絶也。
又云
仰願一切往生人等 善自思量己能。
今身 願生彼国者 行住座臥 必須励心 剋己 昼夜莫廃。
畢命為期 上在一形似如少苦 前念命終 後念即生彼国 長時永劫 常受無為法楽。
乃至成仏 不逕生死。
豈非快哉 応知。{已上}
【読方】光明師のいわく、もろもろの行者にもうさく。凡夫の生死、貪りて厭わずばあるべからず。弥陀の浄土、かろしめて欣わずばあるべからす。厭えばすなわち娑婆永くへだつ。欣えばすなわち浄土につねに居
(2-473)
す。隔つればすなわち六道の因亡じ、輪廻の果おのずから滅す。因果すでに亡じて、すなわち形と名と頓にたえぬるをや。
またいわく、あおぎねがわくば一切往生人等、善くみずからおのれが能を思量せよ。今身にかのくにに生ぜんと願わんものは、行住坐臥に必ずすべからく心をはげまし、おのれを尅して、昼夜に廃することなかるべし。畢命を期として、かみ一形にあるは少き苦しみににたれども、前念に命終して、後念にすなわち彼の国に生じて、長時永劫につねに無為の法楽をうく。乃至成仏までに生死をへず。あに快〈たのし〉みにあらずや。しるべし。已上
【字解】一。光明師 善導大師のこと。光明寺に住せられしにより、光明師という。
二。畢命 命の終るまで。
三。一形 形のある間。即ち一生涯。
【文科】『般舟讃』と『礼讃』の文を引いて一念横超の義を証したまう。
【講義】光明寺の善導和尚の宣うよう。一切の浄土往生の行人達に白す。凡夫の生死の世界に執着して厭う心のないは人情ではあるが、いけないことである。又弥陀の浄土を軽軽しく思うて欣ぶ心のないのも人情ではあるが、いけないことである。もし厭う心さえあって、信心を得れば、信の一念に、生死の絆が切れて、長く生死の迷を離れうるのであ
(2-474)
る。又欣ぶ心さえあって、信心を得れば、娑婆にいながら、常に心を浄土の楽しみに遊ばすことか出来るのである。信の一念の立〈たちどころ〉に六道に趣く業因は亡び、輪回をする悪果はなくなるのである。迷いの因も果も絶え果てて、三界生死の形〈かたち〉も、又その名もなくなって仕舞うのである。
又宣うよう、浄土往生を願うすべての人々よ、どうぞよく、自分自分の分斉を知って、此の生に浄土へ参りたいと思うならば、行住坐臥を簡〈えら〉ばず、懈怠なく、相続の心を励まし、放逸〈なおざり〉に堕ちず、昼夜不断に称名せよ。生命〈いのち〉の終わる夕〈ゆうべ〉まで、一生の間、つとめ励むは、少しく苦しい様ではあるが、信の一念に、迷いの生命〈いのち〉の打止めをなし、直〈すぐ〉に後念には浄土往生の身に定まり、やがて、浄土に於いて長く長くこの上ない法楽を得る身にさして頂き、信の一念の時から、往生して仏果を開くまで、二度と生死の迷いを重ねない身にして頂いたと思えば、誠に快心〈こころよい〉ことではないか。
第三項 真仏弟子
第一科 正釈
(2-475)
- 言真仏弟子者 真言対偽 対仮也。
- 弟子者 釈迦諸仏之弟子 金剛心行人也。
- 由斯信行 必可超証大涅槃故 曰真仏弟子。
【読方】真の仏弟子というは、真の言は偽に対し、仮に対するなり。弟子というは、釈迦諸仏の弟子なり。金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆえに、真の仏弟子という。
【文科】正しく真の仏弟子の何たるかを説示したまうのである。
【講義】先に善導大師の御語〈おことば〉を引いた中に、真の仏弟子という語があったが、これからは少しくこの真の仏弟子の意味を味わうのである。先ず、真というは偽に対し、仮に対していう語である。弟子というは、釈迦如来や諸仏如来の弟子ということである。それで真の仏弟子というのは、金剛の信心を頂いた念仏行者のことである。この他力の信心と念仏の大行とに依って、一切の位次階段を飛び超えて、大般涅槃を開くのであるから、真の仏弟子というのである。
【余義】一。真仏弟子の拠〈よりどころ〉は『散善義』の第五深信の下である。彼処には、「仏教に随順し、仏意に随順し、仏願に随順する人を真の仏弟子と名づく」という、『和語灯録』一ノ三十丁に之を釈して
(2-476)
仏教に随順すと云うは釈迦の御教に随い、仏願に随順すと云うは、弥陀の願に随うなり。仏意に随順すと云うは二尊の御心に叶うなり。今の文の意は、先の文に、三部経を信ずべしと云えるに違〈たが〉わず。
とあり。この文に依れば、正しくは弥陀釈迦二尊、兼ねて三部経に説かれたる諸仏の意に随順するが真の仏弟子であるという意味である。故に此の下の『六要』には
真仏弟子等というは、散善義の意、二尊諸仏の意に随順する故に此の名あり。
と明らかに三仏に随順する人が真の仏弟子であると云われてある。
然るに此処に、弟子とは釈迦諸仏之弟子なりとあるは、どういう理由であるかと云えば、大体この仏弟子という言葉は、仏の教えを受ける人の意味であるから、弥陀の本願を讃説する釈迦諸仏の弟子というのが、言葉の正しい意味である。その釈迦諸仏の弟子とは、弥陀の本願を信じた人である。弥陀の弟子というは言を俟たない。否〈いな〉弟子という言葉は寧〈むし〉ろ間接的な言葉である。もっと適切な言葉を要するのである。故に聖人はその次に「金剛心の行人なり」と仰せられた。如来の金剛心を吾が心としている人、即ち如来と一体になっている人が釈迦諸仏の真弟子〈しんのでし〉であるというのである。
(2-477)
二。されど又一方から味わえば、弥陀と釈迦諸仏は決して離れたるものでない。釈尊の説教はそのま、弥陀の直説である。諸仏の称讃もそのまま弥陀の直説である。『御一代聞書』第七六に
一。聖人の御一流は、阿弥陀如来の御掟〈ごじょう〉なり。されば御文には、阿弥陀如来の仰せられけるようはと、遊ばされ候。
一。蓮如上人、法敬に対せられ仰せられ候。今この弥陀をたのめということを御教え候〈そうろう〉人をしりたるかと仰せられ侯。乃至、此の事を教うる人は、阿弥陀如来にて候。
即ち如来の本願を説く凡〈すべ〉ての人の言葉は、そのまま如来の直説である。皆第十七願によりて説かれるのであるから、「弥陀をたのめ」と教うる人は、弥陀如来にてましますのである。蓮如上人のこの御言葉は、信仰の奥旨を叩かれしものである。されば釈迦諸仏の弟子というは、そのまま弥陀の直弟子である。それを金剛心の行人と名づけるのである。
三。上来、聖人は『信巻』に於いて、他力信心の如何なるものであるかを広説せられたが、今や真仏弟子を釈せらるるに当りて、初めて天上の月が、地上の水に映った趣がある。否、大信が活〈い〉きた人間に表われたことによりて、初めて大信の大信たる実の意義と力を示
(2-478)
すに至ったのである。そして今迄は法の上にのみ一代仏教を判釈せられたのが、ここに来りて、実際の人の上より、即ち血と肉をもっている人間の上に、一代仏教を判釈せらるるに至った。ここに熾烈当るべからざる聖人の信仰的権威がある。即ち横超他力を信じた人は、真の仏弟子である。その他の人は、仮の仏弟子、偽の仏弟子である。聖道門と浄土定散の教に随順する人は仮の仏弟子、六十二見、九十五種の外道に心を寄せる人は偽の仏弟子である、是れ等は『化巻』に詳述せらるる所である。かように法の判釈が一転して人の判釈となった。『正像末和讃』は、全体を通じて、自力教に対して此の人の上の判釈を須〈もち〉いておられるように思われる。
実に弥勒菩薩は聖道門に於ける代表的人物である。即ち第二の釈尊として此の世に下生成仏すると説かれている。聖人は他力信仰の人を此の弥勒と同視し、或時には弥勒を貶〈へん〉しておられる。
五十六億七千万 弥勒菩薩は年をへん
まことの信心うる人は この度さとりを開くべし。
と云い、更に釈尊の正意を知らず、その方便の教えに滞〈とどこ〉っておる仮の仏弟子に対しては
(2-479)
釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう
正像の二時はおわりにき 如来の遺弟悲泣せよ。
像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたまう。
釈迦の教法ましませど 修すべき有情のなきゆえに
さとりうるもの末法に 一人もあらじとときたまう。
と宛然〈さながら〉迅雷のはためくように、獅子吼せられた。そして是れやがて聖人が長い間自力疑心に拘わりて、釈尊の正意を知らず、釈尊の皮相に拘泥〈なず〉んで徒〈いたずら〉に仮仏弟子となっておられた痛切なる懺悔である。
誠に釈尊の皮相を追うて、己〈おの〉が能を思量せず、自ら仮の仏弟子の自覚なき人が、一念釈尊の入滅に驚き、邪見熾盛の自己に悲泣する時に、他力本願がその胸中に生れるのである。それが真仏弟子である。金剛心の行人である。かくて善導、法然二師により唱道せられたる真仏弟子の意義は、我が聖人に来りて殊に鮮かなる光を添うるに至った。即ち其の内容より云えば、一代仏教の根底に根ざしたるものとして、円〈まどか〉に其の意義を表現し、外〈ほか〉に対しては、
(2-480)
厳烈なる破邪の剣〈つるぎ〉、降魔の刃〈やいば〉となった。
以下十八の引又は、畢竟これ等の意義を闡明〈あら〉わすの外〈ほか〉はない。そうして『涅槃経』の逆悪回心の引文は、この真仏子の裏書に外ならぬ。聖人の筆は、ここより一段の光彩と熱気と、辛辣と、凄い程の痛切味を帯びてきているように感ぜられる。
第二科 経文証
大本言
設我得仏 十方無量不可思議 諸仏世界衆生之類 蒙我光明 触其身者 身心柔軟 超過人・天。
若不爾者 不取正覚。
設我得仏 十方無量不可思議 諸仏世界衆生之類 聞我名字 不得菩薩無生法忍 諸深総持者 不取正覚。{已上}
【読方】大本にのたまわく、たといわれ仏をえたらんに、十方、無量、不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明をこうむりて、その身にふるるもの、身心柔軟にして人天に超過せん。もししからすば正覚をとらじ。
たとひわれ仏をえたらんに、十方、無量、不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字をきき、菩薩や無
(2-481)
生法忍、もろもろの深総持をえざらんには、正覚をとらじ。已上
【字解】一。無生法忍 無生法とは真如のこと。真如の理は、本来不生不滅であるから無生法という。
忍は忍可で、心に悟ること。故に無生法忍とは、真実の智慧を以て、真理を証〈さと〉ることをいう。今は他力回向の信心智慧によりて、浄土の法性無生の証りを開くことをいう。
二。総持 梵語陀羅尼(Dharani)の意義。種々の義を総べ摂めている呪文のこと。今は六字の名号を指す。この名号の中〈うち〉には、万善万行の功徳を摂在しているからである。
【文科】『大経』の二文によりて真の仏弟子を証したまう
【講義】『大無量寿経』に宣わく、もし我、仏となるであろう時、十方無量世界の数限りない衆生が、我が光明を蒙りて、その身に触れ、信心のよろこびを得たものは、身もやわらかに、心もやさしくて、人天の世界に超え勝れるであろう。それでなければ、正覚をとらない。
もし我、仏となるであろう時、十方無量世界の数多い衆生が、我が名号をきき信じて、往生治定の信心を得、六字名号の功徳を受けないようなことがあれば正覚をとらない。
【余義】一。この文より以下十八文は、正しく真仏弟子の自内証を闡明〈あらわ〉し、又それを証拠立てるために引用せらる。その中、此の二文は、光明摂取の相を示す。即ち他力行者の現益
(2-482)
を誓われたものである。初めの第三十三の願は、第十二願の光明無量の願の利益を誓われたもので、その成就文には「三苦消滅し、身意柔軟」とある。私共が如来の光明に触れる時は、心の奥底から喜びが湧きいでて、苛々〈いらいら〉した硬い心と身が悪心に打ち溶かされて、様々〈ようよう〉たる一味の喜びとなる、これ実に如来の歓喜光の力である。『和讃』に
慈光はるかにかむらしめ 光のいたるところには
法喜をうとぞのべたまう 大安慰を帰命せよ。
とあるはこれである。現生十益中、転悪成善と心多歓喜に当る。『論註』下十七丁に如来が身口意の三業を荘厳して、吾等虚誑の身口意を治し給うことを詳説せらる。味わうべき文字である。
衆生、身見を以ての故に、三途の身、卑賤の身、醜陋の身、八難の身、流転の身を受く。是の如き等の衆生、阿弥陀如来の相好光明の身を見たてまつれば、上の如きの種々の身業の繋縛、皆解脱することを得、如来の家に入りて、畢竟して平等の身業を得
衆生、驕慢を以ての故に正法を誹謗し、賢聖を毀呰〈そし〉り、尊長を捐斥〈しりぞ〉く。是の如きの人は抜舌の苦、[イン01][ア01]の苦、言教〈いうこと〉行われざるの苦、名聞〈ほまれ〉なきの苦を受くべし。是の如き等の種
(2-483)
種の諸の苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名宝、説法の音声を聞けば、上の如きの種々の口業の繋縛、皆解脱することを得、如来の家に入りて、畢竟して平等の口業を得。
衆生、邪見を以ての故に、心に分別を生ず。若しは有、若しは無、若しは非、若しは是、若しは好、若しは醜、若しは善、若しは悪、若しは彼、若しは此、是の如き等の祖々の分別を以ての故に、長く三有に淪〈しず〉みて、種々の分別の苦、取捨の苦を受け、長く大夜に寝ねて、出づる期あることなし。是の衆生、若し阿弥陀如来の平等の 光照に遇い、若し阿弥陀如来の平等の意業を聞けば、是等の衆生上の如き種々の悪業繋縛、皆解脱することを得、如来の家に入りて、畢竟して平等の意業を得。如来の光明によりて、吾等は身口意の煩悩の繋縛より脱〈のが〉れて、光風掃々の天地に蘇り三業ともに歓喜びに溢る、是れ実に大悲照護の利益である。
二。次に第三十四願は、第十七願の名号の利益を誓われた願である。名号の謂われを聞信する立ちどころに、無生法忍(無生の生たる往生の忍可決定せること、即ち不退の位、正定聚)を獲、名号に摂在せる一切の功徳を獲ることを示し給う。次の『如来会』の文は、上の触光柔軟の願を助成する為である。
(2-484)
無量寿如来会言
若我成仏 周徧十方無量無辺不可思議無等界 有情之輩 蒙仏威光所照触者 身心安楽 超過人・天。
若不爾者 不取菩提。{已上}
【読方】無量寿如来会にいわく、もしわれ成仏せんに、周遍、十方、無量、無辺、不可思議、無等界の有情のともがら、仏の威光をこうぶりて、照濁せらるしもの、身心安楽にして人天に超過せん。もししからすは菩提をとらじ。已上
【字解】一。周遍十方 十方に周遍する無量の世界のこと。
【文科】異訳を引いて、上にあげた正依の経文を助顕したまう。
【講義】無量寿如来会に言わく、もし我れ仏となるであろう時に、十方に周逼〈あまね〉き数限りもなき世界の衆生達が、我が威神光明を受け、其の身に触れて身も心も、安らかに楽しく、人天の世界に超え勝れた味わいを得ないようなことがあるならば、菩提はとらない。
又言聞法能不忘見敬得大慶則我善親友
又言
其有至心 願生安楽国者 可得智慧明達 功徳殊勝。
又言
広大勝解者。
又言
如是等類 大威徳者 能生広大異門。
又言
若念仏者 当知此人 是人中 分陀利華。{已上}
【読方】またいわく、法をききてよく忘れず、見て敬まい、得て大きによろこばば、すなわち我がよき親友なり。
またいわく、それ至心ありて安楽国に生ぜんと願ずるものは、智慧あきらかに達し、功徳殊勝なることをうべし。
また広大勝解者とのたまえり。
また是のごときらの類、大威徳のものは、よく広大の異門に生まれんとのたまえり。
又いわく、もし念仏するものは、当にしるべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。已上
【字解】一。広大勝解者 他力信心の人をいう。信心の人は、仏の広大なる教えを、少しも疑わず、その儘信ずる故に、実に広大なる、そして勝れたる了解者であると云うこと。
二。広大異門 浄土のこと。上一〇二頁を看よ。
三。分陀利華 梵語プンダリーカ(Pundarika)白蓮華と訳す。蓮華の一種。人中好華、人中上々華等ともいう。
【文科】『大経』二文『如来会』『観経』各一文によりて真仏弟子を顕わしたまう。
【講義】又『大無量寿経』には、法をきいて信じ、相続して忘れず、名号のいわれをき
(2-486)
き開き敬うて大いに慶ぶならば、則ち我が善き親友であると述べてある。
又言わく、信心を頂いて、安楽浄土へ往生したいと思うものは、明信仏智のはたらきに依って、智慧も自ずから明らかになり、万善万行の総体たる名号を頂いて居るから、功徳を得ることも並々に勝れて居るであろう。
又『如来会』には、偉大な勝れた智慧をもつものというてある。
又同じく、このような、偉大なる威神功徳を具えた信心の行者は、能く安楽浄土に往生することは出来るというてある。
又『観無量寿経』には、まことに信心を得て念仏する人は、人中の白蓮華であるというてある。
【余義】一。「則我善親友」の丈は、諸仏称讃の益に当る。『和讃』に
他力の信心うる人を うやまいおおきに喜べば
則ち我がよき親友ぞと 教主世尊はほめたまう。
諸仏の随一たる釈尊は、この真仏子を「我親友」とほめ給う。蓋し大聖釈尊とその生命を等しゅうしている為である。
(2-487)
次の「其有至心」の文は、真仏弟子の信心の智慧明らかにして、常に自己省察を忘れざること、そしてあらゆる殊勝なる功徳を獲るを示す。至徳具足の益である。次の三文は諸仏称讃の益を示さるることは明かである。
第三科 正依釈文証
安楽集云
拠諸部大乗 明説聴方軌者 大集経云 於説法者 作医王想 作抜苦想。
所説之法 作甘露想 作醍醐想。
其聴法者 作増長勝解想 作愈病想。
若能如是 説者・聴者 皆堪紹隆仏法。
常生仏前。{乃至}
依涅槃経 仏言 若人但能至心 常修念仏三昧者 十方諸仏 恒見此人 如現在前。
是故涅槃経云 仏告迦葉菩薩 若有善男子善女人 常能至心専念仏者 若在山林 若在聚落 若昼 若夜 若座 若臥 諸仏世尊 常見此人 如現目前。
恒与此人而作受施。{乃至}
依大智度論 有三番解釈。
第一 仏是無上法王 菩薩為法臣。
所尊所重 唯仏世尊。
是故応当常念仏也。
第二 有諸菩薩 自云 我従曠劫已来 得蒙 世尊 長養 我等法身・智身・大慈悲身。
禅定・智慧・無量行願 由仏得成。
為報恩故 常願近仏。
亦如大臣 蒙王恩寵 常念其王。
第三 有諸菩薩 復作是言 我於因地 遇悪知識 誹謗波若 堕於悪道。
逕無量劫 雖修余行 未能出。
後於一時 依善知識辺 教我行念仏三昧。
其時 即能併遣 諸障 方得解脱。
有斯大益故 願不離仏。{乃至}
大経云 凡欲往生浄土 要須発菩提心為源。
云何 菩提者 乃是無上仏道之名也。
若欲発心作仏者 此心広大周徧法界 此心長遠尽未来際。
此心普備 離二乗障。
若能一発心 傾無始生死有輪。{乃至}
大悲経云 云何名為大悲。
若専念仏相続不断者 随其命終 定生安楽。
若能展転 相勧行念仏者 此等悉名行大悲人。{已上抄出}
【読方】 安楽集にいわく、諸部の大乗によりて説聴の方軌をあかさば、大集経にいわく、説法の者においては医王の想いをなせ。抜苦の想いをなせ。所説の法をば、甘露のおもいをなせ。醍醐の想いをなせ。それ悪法のひとは、増長勝解の想いをなせ。愈病のおもいをなせ。もし能く斯のごとき説者、聴者、みな仏法を紹隆するにたえたり。つねに仏前に生ぜん。乃至 涅槃経によるに、仏ののたまわく、もし人ただよ
(2-489)
く至心をもて、つねに念仏三昧を修すれば、十方の諸仏つねにこの人をみそなわすこと、現に前にましますがごとし。このゆえに涅槃終にいわく、仏、迦葉菩薩に告げたまわく。もし善男子、善女人ありて、つねによく心をいたし、もっぱら念仏する者は、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼、もしは夜、もしは坐、もしは臥、諸仏世尊つねにこの人をみそなわすこと、目のまえに現ずるがごとし。つねにこの人のために、しかも受施をなさん。乃至 大智度論によるに、三番の解釈あり、第一には、仏はこれ無上法王なり。菩薩は法臣とす。尊くするところ、重んずるところ、ただ仏世尊なり。この故にまさにつねに念仏すべきなり。第二には、もろもろの菩薩ありてみずからいわく、われ曠劫よりこのかた、世尊のわれらが法身、智身、大慈悲身を長養したまうことを蒙むることを得たりき。禅定、智慧、無量の行願、仏によりて成ずることをえたり。報恩のためのゆえに、つねに仏にちかづかんことを願ず。また大臣の王の恩寵をこうむりて、つねにその王を念うがごとし。第三には、もろもろの菩薩ありて、またこの言をなさく、われ因地にして悪知識におうて、般若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫をへて余行を修すといえども、いまだ出づることあたわず。のちに一時において、善知識の辺〈ほとり〉に依りしに、われをおしえて念仏三昧を行ぜしむ。その時に即ちよく、併〈しかしなが〉らもろもろの障〈さわり〉をして、まさに解脱することをえしめたり。この大益あるがゆえに、願じて仏をはなれず。乃至 大経にのたまわく、おおよそ浄土に往生せんとおもわば、かならず発菩提心を須いるを源〈みなもと〉とす。いかんとなれば、菩提はすなわちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんとおもわばこの心、広大にして法界に周遍せん。
(2-490)
この心、長遠にして未来際をつくす。この心あまねくつぶさに二乗の障〈さわり〉をはなる。もしよく一たび発心すれば、無始生死の有輪をかたむく 乃至 大悲経にいわく、いかんぞなづけて大悲とする。若しもはら念仏相続してたえざれば、その命終に随いて、さだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあいすすめて念仏を行ぜしむるは、此れ等をことごとく大悲を行ずる人となづく。已上要を抄す。
【字解】一。『安楽集』二巻。唐の道綽禅師の著。『観無量寿経』の概論にて、十二門に頒〈わ〉かちて、信を勧め、極楽往生を求める事を勧む。
二『大集経』 具には、大方等大集経、(Mahavaipulya-mahasamupata-sutra)。六十巻。北涼の天竺三蔵曇無讖の訳。序品より第八品までは、神通、瓔珞荘厳、八光明、三十二善業、四無碍智等を説き、次に宝憧分(十三品)、虚空目品(十一品)、日密分(六品)、日蔵分(十三品).月蔵分(三十品)、須弥蔵分(五品)等を説く。
三。甘露 梵語アムリタ (Amrta)不死又は甘露と訳す。また天酒ともいう。もとは吠陀(ヴェーダ)経典にいで、初めはソーマの汁をいうたものらしい。諸神の飲料と称せらる。
四。醍醐 五味の一。牛乳を漸次に精製して五種となすうち、醍醐は其の尤も精製したるもの。熟酥の上に浮かべるクリームの如きもの。仏性又は真実教に譬う。
五。増長勝解想 増長は勝れたるの意。柔順〈すなお〉に疑いなく受けこむ心という事。この心は、勝れた了解であると云うのである。他力の信心をいう。
(2-491)
六。聚落 村落の事。
七。『大智度論』梵語マハープラヂュニャーパーラミターシャーストラ(Maha-prajnaparamita-Sastra)。百巻 籠樹菩薩著。姚秦の世、亀滋国の三蔵、鳩摩羅什訳。摩訶般若波羅密多経九十品を解釈せるもの。初品を解釈するに精緻を極め、三十四巻を費やす。余は其の文意を解する丈である。
八。法身 三身中の法性法身。色も形もなき常住の法身。
九。智身 三身中の報身。智慧を体とする故にこの名あり。
一〇。大慈悲身 三身中の応身。親しく慈悲を垂れて、衆生を済度する故に、この名あり。
一一。因地 今は仏果一に対する因位にあらず、菩薩の初めて発心し修行し給うた時の事をいう。
一二。波若〈はんにゃ〉 般若(Prajna)、智慧の事。
一三。無量劫 劫は梵語劫波(Kalpa)、非常に長い時間のこと。方高四十里の石を、天人が重さ三銖〈しゅ〉の天衣を以て、三年に一度払拭して、遂に其の石の尽くる間を一劫とすと称せらる。この劫を無量に集めたる間が無量劫である。
一四。二乗障 二乗は声聞、縁覚。小乗の自利一方の小果に退堕するを二乗の障りという。
一五。『大悲経』 五巻。梵語(Maha-karuna-Sutra)マハーカルナスートラ隋の天竺三蔵、那連提黎耶舎、法智と共に訳す。釈尊の涅槃、伝法付属、舎利供養の功徳等を明かす。
【文科】『安楽集』によりて、真仏弟子を各方両より説き示したまう。
(2-492)
【講義】道綽禅師は『安楽集』に於いて次の如く仰せられた。『大集経』等の諸部の大乗経典に依って、法を説いたり聴いたりする方法を示すならば、まず『大集経』には、かくの如く説いてある。法の説者〈ときて〉にありては、自分は、聴者〈ききて〉の煩悩の病を癒〈なお〉してやる大医王である、従って聴者の生死輪回の苦悩を抜き去ってやるのであると、思わねばならぬ。又説き聞かせられる法に対しては、甘露、醍醐の妙薬のように思わねばならぬ。そして又、説法を聴く方の側では、かくして私の信心を増長して下さるのだ、私の煩悩の病を癒して下さるのだと思わねばならぬ。もうこういう具合に、説者と聴者の呼吸が合えば、代々仏法を承け継いで益々盛んにすることが出来る。即ち常に如来の御前にあり、如来とともにある人である。
それであるから、『涅槃経』には、もし至心の信心を頂いて、常に念仏を称えて居る人をば、十方世界の諸仏如来は、恒にこの人を見そなわし目前に顕われて、御護り下されるという意味が述べてある。
それで『涅槃経』には左の如く説いてある。釈迦如来迦葉菩薩に告げ給うよう。善男子善女人あって、至心の信心を頂きひたすら念仏相続して居るならば、その人が、山林にあ
(2-493)
ろうが、村落にあろうが、又昼であろうが夜であろうが、乃至起きている時でも臥せって居る時でも、諸仏如来は、この人をみそなわし、眼の前に顕われて御護り下され、その人の手向ける香華の供養を心好く受けとって下されるのである。
又龍樹菩薩の『大智度論』に、三つの解釈があるが、第一の解釈に依れば、仏は無上法王である。菩薩方はこの法王に御事〈おつか〉え申す臣下である。それ故に尊び敬わねばならぬのは、ただ仏だけである。であるから、常に仏を供養尊重して念仏せねばならぬ。
第二の解釈に依れば、諸の菩薩方は自ら宣うよう。私共は、久遠劫の昔から、常に、仏の御そだてを蒙むり、そのおそだてに依って、法報応の三身の芽を生じ、禅定、智慧の功徳、数限りのない行と願とを、皆仏の御力に依って成就することが出来たのである。それであるから、今私共は.仏の大恩の万万の一を報じ奉らんがために、念仏し奉るのである。
第三の解釈に依れば、諸の菩薩方は自ら宣うよう、私共は昔、発心修行の始めに、悪い人達に惑わされて、仏法の智慧を誹謗〈そし〉ったために、五悪趣に堕ち込んで、無量永劫の間、万善万行を修めてみたけれども、出離することが出来なんだが、後に至って、ある時、不図〈ふと〉善知識に遇うて、念仏三昧を教えられ、教えの通り念仏して、今までの障碍〈さわり〉を悉く除き去
(2-494)
って、今かくの如く三界の迷いを解脱〈のがれ〉ることが出来たのである。念仏三味には、こういう大利益があるから、私共は常に念仏したいと願うのである。
又『大無量寿経』には、凡そ、安楽浄土へ往生したいと思うものは、みな必ず菩提心を起こして浄土へ生れる因とせねばならぬ。菩提というはいかなることかというに、この上ない仏果のことであるという意味の文がある。これでもし仏になりたいと思うものがあるならば、必ずこの菩提心に依らねばならぬ。この菩提心(信心のこと)は広大にして十方の世界に満ち亘り、永遠にして未来永劫の末までも続くのである。又この菩提心は、声聞縁覚の二乗に退堕する難を離れ、一度この菩提心を起こせば、無始以来迷うて来た三界生死の迷を断ち破って仕舞うのである。
『大悲経』に言わく。問う、いかなることを大悲と名づけるのであるか。答う、もし専念に念仏相続して断間〈たえま〉がなければ、その人は生命の終り次第に、必ず安楽浄土へ往生するのである。この人が縁ある人々にだんだんと勧めて、念仏せしむるようになれば、この人を大悲を行ずる人というのである。
【余義】一。『大集経』の説法者と聴法者の心得を説いた文は、終りの「皆仏法を紹降す
(2-495)
るに堪えたり」の文より見れば諸仏称讃の益とも云われるが、併し真仏弟子は、法を説く時には、自分を医王の如くに想い、所説の法を甘露の法と想い、又法を聞く時には、真剣に真面目に解了し、恰も病の癒〈いゆ〉る想いをもって聞くと云うことを示された文であるから、実に真の仏弟子の聞法、伝道の態度を示されたものと云わねばならぬ、現生十種の益に強いて当てれば説法の所は常行大悲、聞法の所は転悪成善とも云うべきであろう。とまれこの聞法伝道の不断の活動によりて、真の仏法が人の子の胸より胸へ浸潤してゆくのである。これ実に仏法繁昌の根元である。そして又この真摯なる聞法伝道の人にして、初めて常に如来のもとにいる人である。故に「常に仏前に生ぜむ」といわる。
二。次の『涅槃経』の文は、信念仏の人を、諸仏が時処を択ばず擁護し、そして親がその子の如何なる捧げものをも喜んで受けるように、常に供養を受け給うことを明かす。諸仏護念の益である。
二。次の『智度論』の文は『和讃』に
智度論にのたまわく 如来は無上法王なり
菩薩は法臣としたまいて 尊重すべきは世尊なり。
(2-496)
一切菩薩の宣給わく われ等因地にありしとき
無量劫をへめぐりて 万善修行を修せしかど
恩愛はなはだたち難く 生死甚だすて難し
念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし。
によりて能く会得せらる。第一は如来が唯一の心霊上の法王であること。即ち「如来の奴隷となれ」と仰せらるる所である。そして念仏せよと云わる。第二は曠劫以来の仏恩を謝し奉ること。常に如来の恩寵に感激する故に、仏に近づき奉らんと願ずる。第三は無始よりこのかたの生死流転を解脱せる喜びを示す。『和讃』にはその流転の原因を「恩愛はなはだたち難く」等と補われた。
良〈まこと〉にこの菩薩とは私共求道者の謂いである。即ち真仏弟子の喜びの言葉である。そして先輩は、聖人が此の文によりて称名念仏を報謝の大行とせられたのであると云うてある。成程『正信偈』にも龍樹菩薩の下に「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然即時に必定に入る、唯能く常に如来の号〈みな〉を称えて、応〈まさ〉に大悲弘誓恩を報ずぺし」と仰せられてあることによりても知られる。
(2-497)
されどここに留意すべきは、如来は口称念仏を本願の乃至十念に誓われたけれども、報仏恩の称名を誓われぬことである。ここに尊い味が潜んでいる。即ち人間同志にすら贈物の礼を云えとは云わない。如来が報謝の念仏を誓われないのは此の理〈ことわり〉である。併し仏恩を感じ歓喜〈よろこび〉の念〈おもい〉心〈こころ〉に溢れる時に、有難やと称名するのであるから、それを報謝の念仏と仰せられるのである。そしてそれが我力で称えるのではないから矢張り本願の念仏である。是は大谷派の円乗院師の説である。味わいの深い提撕〈おしえ〉であると思う。
四。次の『大経』三輩の文の取意『安楽集』上十三丁の文は『和讃』の「不思議の仏智を信ずるを、報土の因としたまえり」の意である。信心の無辺広大なる徳を明す。我胸に生まれたる信念はよく、大法界を孕み、未来際を罩〈こ〉め、永く三有生死の暗を霽〈は〉らすというのである。
そして此の大経の文が、次の『大悲経』の念仏の文と、上の『智度論』の念仏の文との中間に挿入せられてあるのは、上下二文の念仏は信心の上の報仏恩の称名たることを示さんが為であると此の下の『六要』に云うてあるのは、適切であると思う。真仏弟子は信を生命として念仏相続し、能く利他の行を行ず。即ち常行大悲の行をなすのである。そして是
(2-498)
れ又信心より起る必然的の活動である。
光明師云
唯恨衆生疑不疑。浄土対面不相忤。
莫論弥陀摂不摂。意在専心廻不廻。{乃至}
或道従今至仏果 長劫讃仏報慈恩。
不蒙弥陀弘誓力 何時何劫出娑婆。{乃至}
何期今日至宝国。実是娑婆本師力。
若非本師知識勧 弥陀浄土云何入。
【読方】光明師のいわく、唯うらむらくば衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面してあい忤〈さから〉わず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。こころ専心にして回すると廻せざるとにあり。 乃至 あるいはいわく、今より仏果にいたるまで、長劫に仏をほめて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力をこうむらずば、何れの時いずれの劫にか娑婆をいでん。 乃至 いかんが今日宝国にいたることを期せん。まことにこれ娑婆本師のちからなり。もし本師知識のすすめにあらずば、弥陀の浄土いかんしてか入らん。
【字解】宝国 弥陀の浄土のこと。
【文科】以下善導大師の八文を引用せらる。初めは『般舟讃』の三文である。
(2-499)
【講義】光明寺の善導大師の宣わく、衆生が疑うまじきことを疑うは、まことに慨〈なげ〉かわしいことである。信心さえあれば、浄土は目前にありて、悪人は行かれぬというようなことはなく、至って参り易いのである。阿弥陀如来が、助けて下さるか助けて下さらぬか、かれこれいうことはない。一念の信心あって、浄土へ参りたいという回願の心があるかどうかが第一の問題である。
或る浄土の行人はいう。今日ただ今からして、臨終の夕〈ゆうべ〉仏果を開かして貰うまで、その間、仏徳を讃嘆して、大慈大悲の御恩の万分の一を報じ奉ろうと思う。阿弥陀如来の本願を受けなんだならば、何万劫かかったところが、どうしてこの娑婆世界を出離することが出来ようぞ。
今日浄土へ生まれさしていただこうとはどうして、思おうぞ。かく往生することの出来るのは、皆これ裟婆世界の釈迦如来の御力である。もし、釈迦如来の御勧めがなかったならばどうしてこの弥陀如来の浄土へ往生することが出来たであろうぞ。
又云
仏世甚難値。人有信慧難。
遇聞希有法 斯復最為難。
自信教人信 難中転更難
大悲弘普化 真成報仏恩。
【読方】またいわく、仏世はなはだ値いがたし。ひと信慧あることかたし。たまたま希有の法をきくこと、これ復もっとも難〈かた〉しとす。自ら信じ、人を教えて信ぜしむること、難きがなかに転たまた難し。大悲ひろく普く化する、まことに仏恩を報ずるに成ると。
【文科】『礼讃』の文を引いて、値仏、聞法の難、並びに真の仏弟子の自行化他をのべたまうのである。
【講義】又宣うよう。仏の御出世の世に生まれ遇わすということは非常に難事である。又他力回向の信心を頂くということも、非常に難事である、別して世に希有〈まれ〉な弘願念仏の法〈みのり〉をきくということは、甚だむずかしいことである。自ら弘願念仏の法を信じて、これを人にも信ぜさせるということは、難事の中の難事である。阿弥陀如来の大悲を、広く人々に伝えて信ぜしむるは、真に報仏恩の大行である。
又云
弥陀身色如金山。相好光明照十方。
唯有念仏蒙光摂。当知本願最為強。
十方如来舒舌証。専称名号至西方。
到彼華台聞妙法。十地願行自然彰。
【読方】又云わく、弥陀の身色は金山のごとし、相好の光明は十方をてらす。ただ念仏のもののみ有りて光摂
(2-501)
をこうむる。まさに知るべし、本願もとっもこわしとす。十方の如来、舌をのべて証したまう。もっぱら名号を称して西方にいたる。かの華台にいたりて妙法をきく。十地の願行自然にあらわる。
【字鮮】一。相好 よきすがた。果報勝れた色身に具わる形相、三十二相八十随形好に分けらる。
二。十地願行 十地の菩薩の修める無量の願行のこと。
【文科】『礼讃』によりて真仏弟子の光摂をのべたまう。終りの浄土の聞法は差別相である。
【講義】又宣わく、阿弥陀如来の御身〈おからだ〉の色は、さながら閻浮檀金のようである。阿弥陀如来の八万四千の御相好からは、八万四千の光明が流れ出で、十方の世界を照して下さるのである。如来を信じ念仏する人々だけが、この摂取の光明にすくわれて御護りをうけるのである。何故ならば、弥陀如来の本願は雑行をすてて、念仏するものを摂取するというので、私共のすくわるるは、偏〈ひとえ〉にこの本願を強縁とするからである。十方世界の諸仏如来が、広長の舌相を出だして証誠し給うのは、一切の衆生に専ら弥陀如来の名号を称えて、西方の浄土へ往生せよと勧めて下さるのである、彼の蓮華蔵世界即ち御浄土へ参って、妙法〈みのり〉を聴聞すれば、十地の菩薩の願も行も、一時に往生人の上に顕われて来るのである。
又云
但有専念阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨。
総不論照摂 余雑業行者。
此亦是 現生護念増上縁。{已上}
【読方】またいわく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏の心光つねにこの人をてらして、摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照摂することをば論ぜず。これ亦これ現生護念増上縁なり。已上
【字解】一。雑業行者 自力の心から種々雑多な行を修める人。
二。現生護念増上縁 善導大師の『観念法門』に明かせる五種の増上縁の一。増上縁とは、力を与えて、他の障碍〈さわり〉を受けしめぬこと。阿弥陀如来が、現生に信心の人を護念し給うををいう。
【方科】『観念法門』によりて真仏弟子の心光照護をしめしたまう。
【講義】又宣うよう。傍目〈わきめ〉も振らず、ひたすら阿弥陀如来の名号を称うる衆生があれば阿弥陀如来はその心光を以て、この人を照らし護って、離し給わぬのである。念仏の外の雑行を修する行者を摂取し給うとはいうてない。その心光摂取ということが、五種の増上縁の中の現生護念増上縁である。
【余義】一。此の下「専念阿弥陀仏」の専念に両釈あり。一は上の一心の転釈の初めに「宗師(善導)の専念と云えるは、即ちこれ一行なり」と仰せられて、専念は称名念
(2-503)
仏であるとせらる。二は『一多証文』九丁に「但有専念阿弥陀仏というは、ひとすじに弥陀仏を信じたてまつるともうす御ことなり」と云われて、専念は信心であるとせらる。これは例の信の一念、行の一念は一つであるという御思召から、二様に解せられても.畢竟内容〈なかみ〉は一つであるのである。一つの文を信と行とに解せらるることによりて、行信不離を示し給うものである。
次に「心光」については『一多証文』九丁に「仏心光」とは、無碍光仏の御こころともうすなり」とあり。八釜敷く色光心光の区別を立つるに及ばぬ。如来の大悲照護の心のことである。この大慈悲心が、常に信念仏の行者を摂護し給うというのである。
又云
言 心歓喜得忍者 此 明、阿弥陀仏国 清浄光明 忽現眼前。
何勝踊躍。
因茲喜故 即得無生之忍。
亦名喜忍 亦名悟忍 亦名信忍。
此乃玄談 未標得処。
欲令夫人 等悕心此益。
勇猛専精 心想見時 方応悟忍。
此多是十信中忍。
非解行已上忍也。
【読方】またいわく、心歓喜得忍というは、これ阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼〈まなこ〉のまえに現ぜ
(2-504)
ん。なんぞ踊躍にたえん。この喜びによるがゆえに、すなわち無生の忍をうることを明かす。また喜忍となづく。また悟忍となづく。また信忍となづく。これすなわち玄〈はるか〉に談ずるに、いまだ得処を標〈あら〉わさず。夫人をしてひとしく心に、この益を冀〈ねが〉わしめんと欲う。勇猛専精にして、心にみんと想うとき、まさに忍をさとるべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり。解行已上の忍にはあらざるなり。
【字解】一。無生之忍 無生は、浄土の無生無滅の証〈さと〉りのこと。忍は認可決定。必ず浄土へ往生して、証りを開くに決定せること。今は信決定とともに獲る正定聚の位を指す。
二。喜忍、悟忍、信忍 上の無生忍の内容を明かす。喜忍は、浄土往生の信を獲て心に喜ぶこと。悟忍は、名号の謂われを聞いて、心に疑いの霽〈は〉れたこと。信忍は、信心決定の心をいう。
三。十信 五十二位の中の前十位。教を信じて疑わざる位である。凡夫の位と見ればよい。
四。解行 五十二位中十信の上位たる十住、十行の位のこと。十住の菩薩は、真如の理を観ずるから解といい、十行の菩薩は十波羅密の行を修むるから行というたもの。共に聖者の位である。
【文科】「序分義」によりて信の一念を説示せらるる一段である。
【講義】又宣うよう。『観経』の序分に「心歓喜故得無生法忍」とあるは、下のような意味があるのである。阿弥陀如来の清浄の御光明〈みひかり〉が、忽然として眼の前に現われて下さるので、身心の躍り上る程に喜びに堪えない。この喜びの湧き出でたに依って、無生法忍
(2-505)
(信心)を頂く。この無生法忍は、その内容に依って、喜忍とも悟忍とも信忍とも名づけられる。扨て今この無生法忍を獲るのは、予め吾等凡夫の手前に何時何処といっで決定〈きめ〉る訳にはゆかぬ。唯信心の一念に韋提希夫人と等しく、この信心の大利益を得るのである。即ち心を専一にして、真直〈まっすぐ〉に、阿弥陀如来を見奉りたいと願う時に、この信心を頂くのである。
今この『観経』の無生法忍は、凡夫の位の十信に於いて頂くもので、決して十住十行以上の聖者の頂くものではない。
【余義】一。古来此の下に「韋提得忍」という論題が起こりて、様々に論ぜられている。即ち『観経』に於いて.得忍の文が二ケ所ある。一は序分の文で「彼の国土の極妙の楽事を見て、心に歓喜するが故に、時に応じて、即ち無生法忍を得」。此の下に解釈せらる、文である。二は得益分に「仏身及び菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じ、未曾有なりと歎じて、廊然大悟して無生忍を得」の文である。なお経文には表われていないが、善導大師は『散善義』二十八丁に韋提希夫人は第七華座覿に於いて、無生法忍を得たと釈された。即ち此の観法には、釈尊が韋提希夫人に「まさに汝が為に、苦悩を除く法を分別し解説すべ
(2-506)
し」と云われた時、無量寿仏、観音、勢至の二菩薩とともに忽然として空中に顕現〈あらわ〉れ給うた。韋提希夫人は、此の見仏の時、得忍せられたと云うのである。
さすれば、韋提の得忍の場合は、一経中三ケ所であると云わねばならぬ。尤も此の中〈うち〉得益分の文に就いては、諸説一様に、唯上の得益の場合を重ねて述べたまでに過ぎないことに一致しているが、問題となっているのは、序分得忍、第七華座得忍の二ケ所である。
二。然るに善導大師に就いては、上述の『散善義』の文の外に『玄義分』二十一丁にも
「韋提の得忍は、出でて第七観の初めにあり」と云われてあるから、第七観得忍は明らかである。そして此の下の文も「これ乃ち玄〈はるか〉に談ずるに未だ得処を標〈あら〉わさず、夫人をして、心に此の益を等しく冀〈こいねが〉わしめんと欲す」と読むべきであるから其の意味も、序分ではまだ得忍の場合を明示してないが、第七華座観に於いて極楽の正報を見、心に歓喜する時に、無生法忍を得るであろうと、唯夫人をしてこの得忍の利益を予め願わしめたに過ぎないというのである。更に『定善義』十八丁に「声に応じて即ち証得往生を現わす」と云いて、釈尊の苦悩の法を説くであろうと仰せられた声に応じて一仏二菩薩が現われ給うたのは、そのまま韋提希夫人の得忍の相であるというのである。良〈まこと〉に大師のこの見解は善美を尽くしているのである。
(2-507)
あの夫頻婆娑羅王は我子阿闇世に幽閉せられて死にいたり、我身も牢獄に幽閉せられて、命懸けに救済を求めた夫人は、この仏身を見ることによりて救われたのである。仏身を観るとは仏の大慈悲心を観ることであるとは、第九真身観に説き給う所である。即ち夫人はここに初めて如来の大慈悲を感得したのである。大師が得忍の場合を第七華座観とせられたのは、動かすべからざる権威である。
更に進んで善導大師の韋提希観を略述せねばならぬ。之は『第一巻』の総序の下に詳述されてあるが、浄影、天台等の諸師は、一様に韋提希夫人を権者聖者としてあるが、大師は独り此の空漠なる理想観に反対して、飽迄も現実批評の上に立ち、序分の「汝は是凡夫なり。心想羸劣」云々によりて、韋提夫人を文字通りに凡夫とせられた。この凡夫の夫人が獄裏の悲痛に泣きながら救済を求めた始終が観経一部であると見られたのである。かようにして今迄一巻の教訓書として徒〈いたずら〉に飾って眺められた『観経』が、初めて大師の血肉を以て読まれ、そして人生の上に活躍し来ったのである。即ち他力宗教の復活である。大師は韋提希夫人とともに親しく『観経』の会坐にありし想いを以て本経を色読せられた。あの痛切なる三心釈の告白は、明らかに獄裡の韋提夫人と同様の心を懐いておられれことを
(2-508)
示している。大師は正しく第七華座観に於いて、仏心を感得せられたのであった。否、大師の眼を以て見れば、第七華座観は、自己の仏心感得の表現である。この見解に立ちて、韋提の得忍を第七華座観と決せられたのである。
三。善導大師にありては、かように明晰であるから一言も之に加える余地がないのであるが、吾聖人の本経に対する見解が、一見、大師と異なる所から、従って此の得忍の場合にも問題が起こって来たのである。
即ち聖人が本経によって弘願他力を釈せらるる際には、多く序分に就いて述べられ、却って第七観に依られることはない。総序には「釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」と云い『化巻』八ノ二十丁には「韋提別選の正意に因りて、弥陀大悲の本願を開闡したまえり」同、八の二十二丁には「教我思惟というは方便なり。教我正受というは、即ち金剛の真心なり」と宣給い、其の他『観経和讃』にも多く序分に就いて讃詠せられてある。是等の文によりて見れば、我聖人は韋提の得忍を序分と見られるのではないかという見解が起こったのである。
吾等はここに韋提の得忍論を且く措き、聖人の本経に対する見解に就いて一言せねばならぬ。さすれば、此の問題も自ずと氷解せられるのである。即ち聖人は本経の上に隠顕の両義
(2-509)
を認められた。本経の表面は定散二善の観法を説いたのであるが、其の裏面に流るる経意は、大経と等しく弘願の信心を説いたと云うのである。善導大師は、大体上顕説に就いて一経を解釈せられたが、其の正意は矢張り弘願の信心であると示された。されど解釈の体裁が顕説に依られることであるから、今の得忍の場合も勢い第七観とせざるを得ない。然るに我聖人は一経全体を裏面より観察して、そのまま弘願他力の教説と見られたのである。
大師の見解に就いては、聖人は素より同意し給う処である。然るにも係らず異を樹〈た〉てられる所以は、深く大師の幽意を探り、一経の深義を汲みて、益々深く大悲の誓願を色味し顕彰せんが為である。聖人の信仰より云えば、本経一部の始終は、全く御自身一人の為の如来の方便である。故に本経開説の動機たる王舎城の悲劇の人々は皆大権の聖者である。是は観経和讃に示し給う所である、従って韋提希夫人に就いて云えば、実業の凡夫として第七観に得忍するとともに、また権者として経の初めより終りまで、吾等の為に獲信の先達である。唯是丈である。是より外夫人に関して多く云うを要せられなかった。古来、この下の引文に就いて、特に我聖人が韋提得忍の場合を序分、華座観の何れとせられしかという問題を提起することが、其の当を得ておらぬと思う。問題を起す丈が間違ってい
(2-510)
ると思う。韋提の得忍論は、諸師の権者説に対して大師が夫人を凡夫と見られた、そこに起こる問題である。即ち大師が第七得忍と決せられた時に、此の問題は終りを告げたのである。是がこの問題に対する最後の鉄案である。我聖人が何んでこの断案に異議を狭まれようぞ。但聖人の見解は、此の現実観の基礎に立ちて、其の第七華座観に於いて得忽せられた現実の夫人は、そのまま一経の幽意から見れば、浄土教興起の大立物として、権者の役目を演ぜられたと色味せられたのである。かくて経文の所在如何を問わず、弘願他力の文を自由に摘出せられたのである。殊に自己の信仰を中心として考えれば、本願を実人生に表わせし本経の興起が尤も適切に感ぜられる。是れ序分を多く信文類として解釈せられる所以である。下の阿闍世王の帰仏の長い引文も、畢竟『観経』序文の内容に外ならぬ。然るに信心の文として序文に依らるる故を以て、韋提の得忍を序分にあり等と云うが如きは、全く問題の出し場を誤っているのである。吾等は先ずこの点を明らかにして改めて此の下の引文を見ねばならね。
四。此の下の文は、唯入正定聚の証文である。即ち信心の内容を表現した文字である。文字は善導の文字であるが、文意は全く聖人の特殊の見解を表わしているのである。この
(2-511)
まま文の出拠なぞを調べずに、すらすらと解釈すれば却って聖人の真意が取られるのである。即ちそれが善導の真精神を裏から打ち出したものである。之を憖〈なまじ〉い善導の文として見る故に、要らぬ問題まで惹き起こし、のみならず二聖の真意に遠ざかるのである。唯信の一念に、心眼に光曜を感じ、身心の歓喜を感ずる。それが無生法忍である。無生の生の証りを開くべき忍可決定せる所、正定聚に住した所である。之を成就文に配すれば、信心が信忍、歓喜が喜忍、即得往生が悟忍である。故に『文類正信偈』の善導の下には「必ず信喜悟忍を獲〈う〉」と仰せらる。「玄〈はる〉かに談ずるに未だ得処を標〈あら〉わさず」は、この三忍を得ることは、信決定の時であるから、予〈あらかじ〉め前もって何時と定めることは出来ないの意。「欲令夫人等悕心此益」は「夫人と等しく心に此の益を悕〈ねが〉わしめんと欲す」と読み、『正信偈』の「韋提と等しく三忍を獲」の意味で吾等が一念の信心の時、韋提希夫人と等しく喜悟信の三忍を獲〈う〉というのである。「勇猛専精にして心に見んと想う時」等は、命懸けに如来に縋〈すが〉るとき、後生助け給えと頼むとき、地獄は一定住処ぞかしと、自力の心を投げだす時に、この三忍を獲というのである。
終りに「此れ多くは是十信中の忍なり」等とは「此れ多くは是れ」は「願うに是れ」とか
(2-512)
「恐くは是れ」という位の意。「十信中の忍なり」とは韋提の得忍(即ち吾等の得忍)は、十信位にて獲られたものであるというのである。聖人は信心の位を、或時は補処位とし、歓喜地とせられ、今は善導に依りて十信位の無生法忍とせらる。是等は在来の名目の中、その意義の適当なるものを択んで信心位に擬せられるので、普通の修道の階級をもって判ずることが出来ないのである。即ち今善導が、諸師の韋提希夫人を初地以上とするに反して、下位の十信位とせらるるに依らる。蓋し是れ諸師に対する善導の所説を依用せられし迄でに過ぎないのであるが、其の名の十信が信心位を彰わすに適当であると思われたのであろう。ここでは唯〈ただ〉解(解は十解、即ち新訳の十住のこと)行(十行)以上の高位の修道者でない。その下位の十信位である、凡夫位であるということが主眼である。是以上種々の経文に当て、論ずるが如き寧ろ無用に近いと云わねばならぬ。
又云
従若念仏者 下至生諸仏家已来 正顕念仏三昧功能超絶 実非雑善 得為比類。即有其五。
一明 専念弥陀仏名。
二明 指讃能念之人。
三明 若能相続念仏者 此人甚為希有 更無 物可以方之。
故引芬陀利 為喩。
言分陀利者 名人中好華 亦名希有華 亦名人中上上華 亦名人中妙好華。
此華相伝 名蔡華是。
若念仏者 即是人中好人 人中妙好人 人中上上人 人中希有人 人中最勝人也。
四明 専念弥陀名者 即観音勢至 常随影護亦如親友知識也。
五明 今生既蒙此益 捨命即入諸仏之家 即浄土是也。
到彼長時聞法 歴事供養。
因円果満 道場之座豈賖。{已上}
【読方】またいわく、若念仏者より、しも、生諸仏家にいたるこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、まことに雑善をして比類とすることを得るにあらざることを顕わす。すなわちその五あり。一には、弥陀仏名を専念することをあかす。二には、能念の人を指讃することをあかす。三には、もしよく相続して念仏する者、この人はなはだ希有なりとす。さらに物として以てこれに方〈たくら〉ぶべきことなきことを明かす。かるがゆえに芬陀利をひきてたとえとす。芬陀利というは人中の好華となづく。また希有華となづく。また人中の上上華となづく。また人中の妙好華となづく。この華あいつたえて蔡華となづくるこれなり。もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり。人中の上々人なり。人中の希有人なり。人中の最勝人なり。四には弥陀の名を専念する者は、すなわち観音勢至、つねに随いて影護したまうこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五には今生にすでにこの益をこうぶれり。命を捨ててすなわち諸仏の家にいる
(2-514)
ことをあかす。すなわち浄土これなり。かしこにいたりて長時に法をきき歴事供養せん。因まどかに果満す。道場の座、あに賖ならんや。已上
【字解】一。蔡華 要は亀である。聖人の出世に、白亀が千葉の白蓮華に乗りて顕わるると伝う。故にこの蓮華を祭華という。
二。歴事供養 諸仏の浄土へ遊歴して、奉事し供養すること。
【文科】『散善義』によりて真仏弟子を讃美し、更にその大いなる得益をのべたまう。
【講義】又宣うよう。『観経』の流通分に「若念仏者当知此人是人中芬陀利華、観世音菩薩、大勢至菩薩為其勝友、当坐道場生請仏家(もし念仏するひとは、知るべし、この人これに人中の芬陀利華なり、観世音菩薩、大勢至菩薩、その勝友となり、道場に坐し諸仏の家に生まるべし)」とあるは、これは、念仏三味が、余の一切の定散の雑善に勝れて、全く比べものにならぬということを示すのである。この文が五つに分かれて、「若念仏者」というは、専ら弥陀の仏名を称えるものを示し、二、「当知此人」というは、その称える人を挙げてこの人はと読めるのである。三、「是人中芬陀利華」というは、かく念仏相続する人は、世間に人は多いけれども非常に稀〈まれ〉なものである。この人の勝れたことを比べるにも比べるものがないから、白蓮華を引いて讃〈ほめ〉たのである。芬陀利華に就いては、人中の好華、希有華、人中の上々華、人中の妙好華などと名づけられて居るが、この支那の国では蔡華のことである。それで念仏者は、人中の好人、人中の妙
(2-515)
好人、人中の上々人、人中の希有人、人中の最勝人だということにある。次に四、「観世音菩薩大勢至菩薩為其勝友」というは、専修念仏の行者をば観音勢至の二菩薩が常に影の形に添うが如く、護りづめに護って、勿体なくも友達知人となって下さるということである。最後に五、「当座道場生諸仏家」というは、この念仏の行者は、今生に於いて眈に斯くの如き大利益を得て居るが、命終れば、直〈すぐ〉に浄土に生まれさして頂き、──諸仏の家というは極楽浄土のことである──往生以後は、諸の仏国に往来して、いつまでもいつまでも妙法を聴聞し、諸仏如来に御事〈おつか〉え申し供養し奉るであろう。かく因も、果も一時に円満するのであるが、その御浄土も遠いことかと思えばやがて間もないことであるということを説き明かすのである。
第四科 傍依釈文証
王日休云
我聞無量寿経 衆生聞是仏名 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転。
不退転者 梵語謂之阿惟越致。
法華経 謂弥勒菩薩所得報地也。
一念往生 便同弥勒。
仏語不虚 此経 寔往生之径術 脱苦之神方。
応皆信受。{已上}
(2-516)
【読方】王日休がいわく、われ無量寿経をきくに、衆生この仏名をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生をえ、不退転に住すと。不退転は、梵語にはこれを阿惟越致という。法華経にはいわく、弥勒菩薩の所得の報地なり。一念往生すなわち弥勒におなじ。仏語むなしからず。この経はまことに往生の経術、脱苦の神方なり。みな信受すべし。已上
【字解】一。王日休 宋朝の人。龍舒に生まる。儒学に通ぜしが、後深く浄土教に帰依し、所謂龍舒の『浄土文』十二巻を編ず。今引く所の文は、『浄土文』に載せられたる跋文で、唯心居士、周葵の作った文であるが、態〈わざ〉と同書の編者の名にて出し給う。
二。阿惟越致 梵語アイニワルトヤ(Avinivartya)又はアワーイワルテカ〔Avaivartika)不退、不退転無退等と訳す。必ず仏になるに定りたる位。委しく云えば、決して退堕せざる菩薩の位。その位は必ず仏になるに定まっているのである。
三。『法華経』具には『妙法蓮華経』八巻。姚秦の世、天竺沙門鳩摩羅什の訳。二十八品より成る。前十四品は迹門と称し、伽耶近成の釈尊が、三乗を開会して、一乗法に帰せしめることを説き、後十四品の本門には、伽耶近成の釈迦如来を開会して、久遠実成の古仏を顕示している。
【文科】傍依の証文として『浄土文』によりて信の一念をときたまう。
【講義】王日休いわく。我承るに、『大無量寿経』に説かれてある所は、要するに左の語にきわまっている。すべての衆生が、阿弥陀仏の御名をきき、信心を起こし、身心共に
(2-517)
歓喜し、たとい一念でも阿弥陀仏をたのむ思いを起こし、極楽浄土へ生まれたいと願えば、時をへだてず日をへだてず、すぐさま往生する身に定まり、不退転の位に住することを得る。
不退転というは梵語で、阿惟越致と称する。『法華経』寿量品に依れば、この不退転とい
うは、弥勒菩薩が、因位の修行に酬いあらわれて得給うた地位である。して見れば他力の行者は、信の一念にいよいよ往生する身に定まり、弥勒菩薩と同じ位になるのである。仏の御説きなされた御語には決して虚偽はない。
してみれば、この『大無量寿経』は、まことに、浄土往生の近路〈ちかみち〉と妙術を教え、娑婆の苦悩を解脱する不思議の方法を示す経典である。みな信受いたさねばならぬ。
【余義】一。上の文中、終りの「此経寔往生之経術、脱苦之神方(この経はまことに往生の経術、脱苦の神方)」の十三字は、『浄土文』の本文にはない、聖人の加え給う所である、顧〈おも〉うに次上の「仏語不虚」の内容を彰わす御思召と見える。吾等が聞信の一念に往生の大益を獲、第二の釈尊たる弥勒菩薩と同じ位に入るということを教うる大経は、寔に往生の近道、離苦得脱の神方であると仰せられるのである。
(2-518)
大経言
仏告弥勒 於此世界 有六十七億不退菩薩 往生彼国。
一一菩薩 已曾 供養無数諸仏 次如弥勒。
又言
仏告弥勒 此仏土中 有七十二億菩薩 彼於無量億那由他百千仏所 種諸善根成 不退転。当生彼国。{抄出}
【読方】大経にのたまわく、仏、弥勒につげたまわく、この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かのくにに往生せん。一々の菩薩は、すべてむかし無数の諸仏を供養せりき。ついで弥勒のごとし。
またいわく、仏、弥勒につげたまわく、この仏土のなかに、七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏のみもとにして、もろもろの善根をうえて、不退転を成ぜるなり。まさに彼の国に生すべし。抄出
【文科】上にあげた王日休の文を証せんが為に『大経』と『如来会』の二文を引きたまう。
【講義】『大無量寿経』に言わく、仏、弥勒菩薩に告げ給うよう、この世界には六十七億の不退転位の菩薩があって、皆浄土へ往生するに定まっている。この不退の菩薩は、皆、むかし、三恒河沙の諸仏の御許にあって、諸仏如来を供養し奉った宿善のある人々である。而して、この不退というも初地二地の低い不退の位ではなく、弥勒菩薩に同じく等覚の不退の位である。
(2-519)
『無量寿如来会』に言わく、仏、弥勒菩薩に告げ給うよう。この仏土の中には、七十二億の菩薩あって、むかし、数にも量られぬ那由他百千の諸仏の御許にあり、この諸仏如来を供養して善根功徳を植え、今その宿善に依って法を聴いて、不退転の位に入ったのである。この不退転位の菩薩等は、皆やがて、彼の浄土へ往生するのであろう。
【余義】一。この文は『大経』の正宗分の終りに説かれた此土の菩薩の極楽往生を示す文である。即ち上の王日休の分を証拠立てる為に引用せらる。是等の不退の菩薩に就いては、多くの註釈家は、一様に三賢位以上の聖者とするが、聖人は凡聖善悪を択ばず、凡て此世界より往生する人とせられた。『一多証文』六丁に
この真実信楽は他力横超の金剛心なり。しかれば念仏の人をば、大経には次如弥勒とときたまえり。乃至次知弥勒ともうすは、次はちかしという。つぎにという。ちかしというは、弥勒は大涅槃にいたりたまうべきひとなり。このゆえに弥勒のごとしとのたまえり。念仏信心の人も、大涅槃にちかづくとなり。
つぎにというは、釈迦仏のつぎに、五十六億七千万歳をへて、妙覚のくらいにいたりたまうべしとなり。
(2-520)
如はごとしという。ごとしというは、他力信楽の人は、このよのうちに、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。
この懇切なる解釈によりて、「次知弥勒」の一連の文中にある是等の不退の菩薩が信心の行者を指すことは明らかである。即ち上の引文の終りに、「他力信楽の人は、このよのうちに不退のくらいにのぼる」というがそれである。この大経の菩薩を信心の行者とせらるるは、誠に卓見と云わねばならぬ。
なお他力信心の人は弥勒に等しいと云うことについては、『愚禿鈔』九丁、『末灯鈔』十丁、十八丁、三十五丁、四十丁等に聖人が屡々仰せられる所である。弥勒と等しとは、如来と等しと云うことである。『末灯鈔』三十五丁に
弥勒はいまだ仏になりたまわねども、このたびかならず仏になりたまうべきによりて、弥勒をばすでに弥勒仏と申し候なり。その定に真実信心をえたるひとをば、如来とひとしと仰せられて候なり。
これ実に不可思議の功徳を有する真仏弟子の面目である。蛆のような罪濁の渺〈びょう〉たる小凡夫が、一念の信念によりて、この無辺深大の証悟を開発することは、不可思議中の不可思議、
(2-521)
至幸中の至幸である、聖人が自らの信に驚嘆せられ、歓喜せられた心持ちは次の私釈の文に鮮かに見られることである。
律宗用欽師云
至、如華厳極唱 法華妙談。
且未見有普授。
衆生一生 皆得 阿耨多羅三藐三菩提記者 誠所謂 不可思議 功徳之利也。{已上}
【読方】律宗の用欽師のいわく、至れること華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることをみず。衆生、一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記をうることは、まことにいう所の不可思議功徳の利なり 已上
【字解】一。律宗の用欽師 宋の人、銭唐の七宝院に住す。元照律師に律を学び、弟子にいうよう「生きては律を弘め.死しては、弥陀の浄土へ往生するであろう」と。かくして心を専にして日課念仏すること三万遍に及ぷ。或日、心、浄土に遊びて親しく荘厳を拝し、侍者に云うよう「我、明日、西方浄土に往生するであろう」と、果して翌日に、合掌して両に面し、結跏趺坐して逝く。
二。華厳極唱 唱は説くこと。至極の説ということ。即ち『華厳経』は、仏成道第二七日に、普賢菩薩等に対して、幽遠広大なる一乗の極現を説かれたことであるから、華厳の梅唱という。
(2-522)
三。法華妙談『法華経』は釈尊の晩年に、円熟したる妙不思議の法門を説かれしにより、法華妙談という。
四。普授 授は授記、当来仏になる許可を与える事。故に普授とは、一切衆生に普く授記する事。
【文科】用欽師の釈によりて真仏弟子のうち他力不可思議の利益を示したまう。
【講義】律宗の用欽師はいわく。仏教に八万四千の教門はあるけれども、『華厳経』の至極の説法、『法華経』の妙不思議の説法に及ぶものはない。然しこの華厳法華の教えでも、いまだ、一度に一切衆生に悉く成仏の記別を授けることはしない。あらゆる衆生がこの一生をすぐれば、皆浄土に往生して阿耨多羅三藐三菩提を得るという記別を受けることは、
実にこの『阿弥陀経』の思い議〈はか〉ることの出来ない功徳の大利益である。
第五科 結釈
- 真知 弥勒大士窮等覚金剛心故 竜華三会之暁 当極無上覚位。
- 念仏衆生 窮横超金剛心故 臨終一念之夕 超証大般涅槃。
- 故曰便同也。
- 加之獲金剛心者 則与韋提等 即可獲得 喜・悟・信之忍。
- 是則 往相廻向之真心徹到故 籍不可思議之本誓故也。
【読方】まことにしんぬ、弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会のあかつき、まさに無上
(2-523)
覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念のゆうべ、大般涅槃を超証す。かるがゆえに便同というなり。しかのみならず、金剛心をうる者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜悟信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心、徹到するがゆえに、不可思議の本誓によるがゆえなり。
【字解】一。弥勒 梵音梅怛利耶(Maitreya)、慈氏と訳す。『上生経』に依れば、姓は阿逸多(Ajita)、と云い、南印度の婆羅門であったが、兜率天に生まれ、現に兜率の内院にありて、説法し、釈尊滅後五十六億歳の後、閻浮提〈このよ〉に下生し、龍華樹の下に正覚を開き、三会を開きて法輪を転じ、一会の説法に道を獲るもの九十六億人、第二会には九十四億人、第三会に.九十二億人と称せらる。之を龍華三会という。釈迦仏の後に此の世に出でて其の処を補い、説法教化せらるべき候補の仏なるにより補処の弥勒と云う。
二。等覚 五十二位中の第五十一位。等正覚、金剛心、一生補処とも名づく。第十地の菩薩の最後心に於いて、更に一品の無明を断じてこの位に入る果上の妙覚の位に比ぶれば、ただ一品の無明を残す丈であるから、羅網を隔てて月を見るようであるという。殆ど仏果に等しいから等覚という。
三。金剛心 等覚の位に入る菩薩の心。堅固にして衆魔等の動乱すべからざること、金剛のようであるというので金剛心という。他力の信心をも指す。
四。龍華三会 上の弥勒の下を見よ。
五。韋提 具には韋提希、本名はチェーラナー(Chellana)、中印度摩竭陀国の主、頻婆娑羅王の妃である。恒河を隔てた北方の隣国毘舎離(Vaisali)国王、チェータカ(Chetaka)王の娘である。其の本国の名に従って、韋
(2-524)
提希(Aaidehi)即ち毘舎離女と呼ばれたのである。思惟、勝身、勝妙身等と訳せらる。頻王が其の子阿闍世王の為に幽閉せられてから、夫人は深く人生の頼み難いことを感じ、釈尊に説法を請うたので、釈尊に彼女の為に『観無量寿経』を説かれた。
六。本誓 本弘誓願。阿弥陀如来の本願のこと。
【文科】真仏弟子は等覚の弥勒と等しい位に定められていることをのべて結釈したまうのである。
【講義】まことや弥勒菩薩は自力を以て、等覚金剛心の位まで昇りつめ給うた方であるから、五十六億七千万年の後、龍華三会の暁に、この上ない仏果を御開きになるのである。念仏の衆生は、他力横超の金剛心を頂いて居るから、この娑婆の生命の終り次第に、一足飛びに飛び超えて大般涅槃を証るのである。斯く弥勒菩薩も等覚不退の位に住し、念仏の衆生も正定聚不退の位に住するから、衆生は汚れた身心を持ち乍ら、勿体なくも全く弥勒菩薩と同じだといわれるのである。それのみならず、かくの如く他力の金剛心を頂いた衆生は又、韋提希夫人にも同じく、喜忍、悟忍、信忍の三忍を得るのである。かくの如く三忍を頂くは、とりもなおさず、如来から御与え下さるる往相回向の真心〈まことこころ〉が、衆生の胸にいたりとどいて下されるからである。これ皆、阿弥陀如来の誓願の御力に依るのである。
(2-525)
禅宗智覚讃念仏行者云
奇哉 仏力難思 古今未有。
【読方】禅宗の智覚、念仏の行者をほめていわく。まれなるかな、仏力難思なれば古今もいまだあらず。
【字解】一。智覚 名は延寿、字は仲玄、智覚はその賜号である。求道者、参問なれば、直指人心の禅悟を提唱し、日暮るれば別峰に行きて念仏を行ず。忠懿王師に帰依し、西方香厳殿を立てて居らしむ。開宝八年(西暦九七五年)二月二十六曰寂。弟子一千七百人。『宗鏡録』百巻を著わす。
【文科】上の結釈の証文として智覚禅師の語を引きたまうのである。
【講義】禅宗の智覚師は念仏の行者を讃嘆して、不思議なる哉、斯くの如き不可思議の大利益は、古今未だ曾てない所であると云われた。
律宗元昭師云
嗚呼明教観 孰如智者乎。
臨終挙観経 讃浄土而長逝矣。
達法界 孰如杜順乎。
勧四衆 念 仏陀 感勝相而西邁矣。
参禅見性 孰如高玉・智覚乎。
皆結社 念仏而倶登上品矣。
業儒 有才 孰如 劉・雷・柳子厚・白楽天乎。
然皆秉筆 書誠而願生彼土矣。{已上}
【読方】律宗の元照師のいわく。鳴呼。教観に明らかなること、たれか智者にしかんや。おわりにのぞん
(2-526)
で観経を挙し、浄土を讃じてながく逝〈ゆき〉ぬ。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆をすすめ、仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁〈ゆき〉ぬ。禅にまじわり性をみること、たれか高玉智覚にしかんや。みな社をむすび仏を念じて、ともに上品にのぽりき。業儒、才あるたれか劉、雷、柳子厚、白楽天にしかんや。しかるにみな筆をとりまことを書して、かの土に生ぜんと願じき。 已上
【字解】一。元照 上三〇九頁を見よ。
二。教観 教相と観法。教相とは、釈尊が一代の間に説きたまえる教法に様々の説相あること。観法とは、法を心に観ずることで、事理を心に浮かべて 明らかに悟ること。
三。智者 智者大師。俗性は陳氏、本名は智顗、天台宗の開祖。梁の大同四年、荊州華容県に生まる。十八歳にして父母を失い、出家して慧光律師に学び、慧思禅師に師侍し、三十二歳にして、陳都金陵の瓦官寺に於いて『法華玄義』を講ず。当代の碩学みな其の講坐に列なる。大建七年三十八歳にして、天台山に入り苦練すること九年、隋の揚帝に帰依せらる。開皇二年荊州玉泉山に玉泉寺を建て、十三年『法華玄義』を、十四年『摩訶止観』を講ず。同十七年(西暦五九七)十一月二十四日、天台山に寂、寿六十。天台大師と称す。著わす所、前記の外に、『坐禅法要』、『四教儀』、『維摩経』の広略二疏等あり。
四。杜順 一名法順、華厳宗七祖の第三。支那雍州万年の人、『五教止観』『法界観』を著わし、一代仏教を五門に判じ、又十玄門の端緒を開きて、華厳宗の基礎をなす。隋の文帝に帰依せられ、帝心尊者の号を賜わる。貞観十四年(西暦六五四)十一月寂。寿八十四。
(2-527)
五。四衆 四部衆、四部弟子、四輩ともいう。比丘。比丘尼。優婆塞(清信士)。優婆夷(清信女〕の称。
六。勝相 勝れたる瑞相。奇瑞。
七。高玉 名は懐玉、衣食住を省みず、懺悔の法を行い、日課念仏五万遍、又『弥陀経』を誦すること三十万巻に及んだという。天宝元年(西暦七四二年)六月九日、西方の聖衆来迎の奇瑞を見、同十三日丑時、再び奇瑞に接し、「永く娑婆を離れて浄土に帰す」等の偈を唱して逝く。
八。智覚 上五二五頁にいづ。
九。劉程之 仲思、彭城人、漠の楚元王の後裔と移せらる。老荘を善くし、諸子百家に通ず。少時母に事えて孝淳であった。後、雷次宗等と廬山の慧遠に投じ、念仏三味詩を作り、坐禅念仏を行ず。義熙六年(西暦四一〇年)寂。春秋五十九。
一〇。雷、雪次宗 字は仲倫、予章南昌の人。博学にして詩に通ず。盧山の蓮社に参じたが、元嘉十五年京都に至り請生を薫育す。後南昌に帰臥し、同二十五年(西暦四四八)又京都に上り鍾山に招隠館を建て、太子諸王の為に『礼経』を講ず。その年卒す。年六十三。
一一。柳子厚 柳は姓、子厚は字。宗元は其の名である。幼にして英才を以て鳴る。唐の徳宗の貞元十九年藍田尉より監察御史に拝せられ、順宗の位に即〈つ〉くや、礼部員外郎となる。事に坐して柳州刺史に貶せられ。元和十四年没す。年四十七。韓退之とともに文名一世を覆いしか、韓の廃仏家たるに反して、宗元は仏法に帰し、浄土院を修する記を作った。
(2-528)
一二。白楽天 名は居易、香山居士と号す。唐の人。太子太傅〈たいしたいふ〉となり、又杭州の刺史となりて道を鳥窠禅師に問うた。初め百四十八人とともに上生会を組織し、専ら弥勒菩薩の兜率浄土へ往生せんことを願うたが、晩年病を獲て、偏に西方往生を願い、西方変相一軸を描く。一夕念仏して榻に坐して逝く。
【文科】元照律師の文を引いて上の結釈を証したまうのである。
【講義】律宗の元照師はいわく。鳴呼、教相や観法に明らかな人といえば、天台の智者大師に及ぶものはない。而もこの智者大師は臨終にいたっては、経典も数ある中、『観無量寿経』の題号を称え、念仏して、西方の浄土を讃嘆して、往生せられた。法界のことに明らかな人といえば、華厳の杜順和尚に及ぶものはない。而も杜順和尚は、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の人々にすすめて、ともに念仏を称え、臨終にすぐれた瑞相を感得して、西方浄土に往生せられた。禅宗に於いて、実地に修養をつみ、見性した人々の中では、懐玉禅師や智覚禅師に及ぶものはない、而もこの両禅師は、仲間のものを誘うて社を結び、念仏を称えて、上品上生の往生を遂げられた。儒を業とする人の中で才識の勝れた人といえば、劉程之、雷次宗、柳子厚、白楽天に及ぶものはない。而、もこれらの才識すぐれた古人達が、みな筆を秉〈と〉り、誠意を尽して文章を書き、西方浄土に往生したいと願うて居る。こ
(2-529)
れを以て浄土の法門のいかなるものかが、よく知れる訳である。
第六科 仮偽の仏弟子
言仮者 即是聖道諸機 浄土定散機也。
故光明師云
仏教多門八万四 正為衆生機不同。
又云
方便仮門 等無殊。
又云
門門不同名漸教 万劫苦行証無生。{已上}
言偽者 則六十二見 九十五種之邪道是也。
涅槃経言
世尊常説 一切外 学九十五種 皆趣悪道。{已上}
光明師云
九十五種皆汚世 唯仏一道独清閑。{已上}
【読方】仮というは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。かるがゆえに光明師のいわく、仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機の不同なるがためなり。またいわく。方便の仮門、ひとしくして殊なることなし。またいわく、門々不同なるを漸教となづく。万劫苦行して無生を証す。已上。
偽というは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。涅槃経にいわく、世尊つねにときたまわく、一切の外学の九十五種は、みな悪道におもむく。已上
光明師ののたまわく、九十五種みな世をけがす。ただ仏の一道のみひとり清閑なり。已上
【字解】一。六十二見 印度外道の所説、五蘊の中、一蘊毎に四種の見解をたつ(一、色は大、我は小、
(2-530)
故に我、色の中にあり。二、我は大、色は小、故に色は我の中にあり。三、色に離れて我あり。四、色に即して我あり)。かくて二十見となる。これに各三世あるをもって六十見となる。そして此等の見解は、断常二見を根本とするから、此の二見を加えて六十二見となる。『涅槃経』第二十五巻にいづ。
二。外学九十五種 外学は、仏教以外の外の教え、即ち外道のこと。六師外道(下五七六頁を看よ)に各十五人の弟子ありて各一派を立てしにより、是に師の六派を加えて、九十六種となる。其の中に小乗仏教の一派に似たるものありしにより、夫を除いて九十五種とある。或いは其の派をも数えて九十六種の外道とも云う。
【文科】真仏弟子に対して仮偽の仏弟子の何たるかを示し給う。
【講義】上来、真の仏弟子ということを説いて来たのであるが、先に、真は仮に対し偽に対するというた。それで仮というはいかなるものがらを指すかというに、聖道八万の教を奉じて居る人々と、浄土要門の定散二善にかかわっている人々をいうのである。善導大師は、仏教には八万四千の多くの教門があるが、これには、衆生の機類か区々〈まちまち〉であるから、教門にもかく沢山のわかちがあるのだといわれておる。又、衆生を誘導するための方便の仮りの教門は沢山あるが如来の大悲は真実の一門に入らしめんがためで、決して変りはないのだといわれてある。又すべての教門がみなそれぞれ違っているが、これらの教門はみな漸教と名づけられる。何故ならば、これらの教は、すべて長い長い時間の間、一
(2-531)
方ならぬ苦行をして、初めて無生の証を開く教えであるからだと云うてある。
偽というはいかなるものがらを指すかというに、六十二見、九十五種の外道の人々を指すのである。『涅槃経』には、世尊常に説き給うよう、一切の外道、九十五種の外道は、みな悪趣に迷わしむる教であるというてある。
光明寺の善導大師は、九十五種の外道は、皆世の人々を惑わし汚している。独り如来の本願の一道のみ清浄にして閑寂の教であると宣う。
【余義】一。上の真仏弟子に対して、ここに仮偽の仏弟子を述べらる。聖人の見解によれば、一切の人々は皆仏弟子であるが、他力信心の行者は真の仏弟子、その他の聖道浄土の人々は仮の仏弟子、そして是等を除いた他の一切の人々は偽〈いつわ〉りの仏弟子である。而も皆仏弟子である。如来の本願の正機である。ここに深い宗教的旨趣が潜んでいる。
聖道門自力の行者、及び浄土定散の機類は、仮の仏弟子であることを引証せられたのが、善導の三文である。これは一連にして一文章として解すべきである。衆生の機類に応じて、仏教が八万四千という多きに分かれた。しかしこれは如来の方便である。仏心に八万四千あるのでない。大悲の一仏心に帰せしめんが為に機に応じて説かれたのである。そしてか
(2-532)
ように門々相分かれた教えによれば、長い間苦行を重ねなければ証りが得られぬ。これ方便の漸教である。この方便を執して、無有出離之縁の真実の自分というものを自覚せぬものが、仮の仏弟子である。『和讃』に
聖道権化の方便に 衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ。
念仏成仏是真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ
とはこの意である。良〈まこと〉に方便の手を垂れざれば、衆生に真実を知らせることは出来ず、方便を施せば、直ちに方便を固執する。月を知らんせんが為に指さす、然るに人は指を執して月を見ない。聖道浄土定散は指である。この指を見て弘願真実の月を忘れる。始末におえぬ凡夫である。
二。偽の仏弟子とは、表は仏法に帰する如くにして、内心外道に帰するものを始めとして、表裏ともに外道に心を寄せるものがそれである。六十二見、九十五種と云えば、遠い印度に起こった外道のようであるが、近く吾等の胸中に起こっている異端的な、迷信的な心がそれ
(2-533)
である。物を忌む心、占いの心、祈祷の心、肉楽に没頭する心、僅な思考や、研究を以て人生観を立てる心、文芸や哲学に容易にかぶれる心、是等は皆九十五種の外道の心である。凡〈すべ〉て自己の真相を解せず、自己の能力を知らずして、ほしいままに人生を肯定し、自己を肯定するは皆外道である。悪邪見である。是れ滔々たる天下の人心でないか。而も彼等は皆各自に真理に順じていると思うている。これ即ち偽仏弟子たる所以である。是等は皆相率いて世を汚す。ああ、何人かこの意味に於いて、世を汚さぬものがあろうぞ。如来の本願を信ずることがないならば、良〈まこと〉に出離の期はないのである。
第七科 慚愧表白
- 誠知。
- 悲哉愚禿鸞 沈没於愛欲広海 迷惑於名利太山 不喜入定聚之数。
- 不快近真証之証 可恥可傷矣。
【読方】誠に知りぬ。悲しきかな愚禿鸞、愛欲出広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず。真証の証に近づくことを快〈たの〉しまざることを、はずべし、いたむべし。
【字解】一。定聚之数 正定聚のこと。信心の人は、現生〈このよ〉に於いて、正しく浄土へまいることに定めら
(2-534)
れたる仲間に入る。故に定聚之数とは正定聚の位に入りし仲間ということ。
【文科】この一段正しく聖人の信仰告白である。
【講義】これまで上に、長々と真の仏弟子のいかなるものかを説明して来たが、扨て翻って、自分はどうかと顧みてみると、恥ずかしや悲しや、この愚禿親鸞は、いつもいつも可愛い欲しいの海に沈み、名聞利養のけわしい山をあえぎあえぎ上り、仏力他力で、正定聚の分人にして頂いたことも、それ程有難いとも思わず、一日一日御浄土参りに近よらして頂くことをもうれしいとも思わないでいるのである。よくよく考えてみれば、まことに恥ずかしいことであり、我ながら傷ましい有様である。
【余義】一。この一文正しく聖人の悲嘆述懐である。痛烈なる告白である。懺悔である。自己の赤裸々なる真相に当面せられた時の驚きである。暗黒なる自己、どこ迄も人生に執著して、仏法を忘れる心、聞けども学べども、真実の心は湧かず、清浄の心とはならず、唯ますます愛執の深きを覚えるばかりである。これ実に痛ましい嘆きである。聖人が説法も忘れ、他人も忘れ、唯一人の自己に帰りて、まともに胸の真底を見られた時の叫びである。「恥づべし、傷むべし」と真剣に悲嘆せらる。
(2-535)
誠に此の悲嘆は全心身をあげての悲嘆である。口先丈に並べ立てる御極り文句でない。自己全体を投げ出された懺悔である。是れ即ち信の喜びである。自分というものの真相に気付く所が信心の智慧である。この智慧が煩悩の自我の立場を失わしめ、そして今まで坐っていた自我の地位を代って占領している。故にこの全身の懺悔の心は、そのまま仏心である、歓喜心である。三忍を獲た心である。智慧は静かに自我の悪毒を照し、喜びはひたひたと乾いた胸を湿して一味の歓喜海中に溶けこむ味がある。これ実に仏凡一体の表現である。信心の具体的内容である。即ち真仏弟子の心懐である。深い深い自分というものの奥に撤し、人生の至奥〈ふかみ〉に徹し、法界の真相に触れ、そして是等を一心に体現し、色味おうた所である。これが信の一念の光景である。この一念は時間を超越し、限りない生命を孕んでいるのである。聖人はこれを『行巻』には
大悲の願船に乗じ、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かにして、衆禍の波転ず
とも云われ、又『帖外和讃』には
超世の悲願ききしより 我等は生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど 心は浄土にすみ遊ぶ。
(2-536)
とも仰せられた。是等の文は唯裏表の相違であって、その心は全く一つである。喜びというても。唯浮き浮きした喜びでなくして、現実の有限不完全の自己という動かすべからざる心と一つになっている喜びである。この現実の煩悩の自己を払拭〈はら〉い去らずに、それと不可思議に揮一化〈とけお〉うた歓喜〈よろこび〉である。悲嘆というても徒〈いたずら〉に自分の一部分の欠点を眺めて嘆いているようなものでなしに、自己全体を投げ出した悲嘆である。それは早や通常の悲嘆という文字では表わすことの出来ない不可思議の心である。
『悲嘆述懐和讃』
浄土真宗に帰すれども 真実のこころはありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし。
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向のみななれば 功徳は十方にみちたまう。
蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなうまじ
如来の願船いまさずば 無慚無愧にてはてぞせん。
初の一首はこの下と等しく痛切なる懺悔を述べ、後の二首に於いて、その懺悔がそのまま
(2-537)
如来回向の心であることを喜ばれた。『嘆異鈔』第二節の「地獄は一定すみかぞかし」の次に「弥陀本願まことにおわしまさば」等と述べられ、同九節には、人生を執する妄愛妄執の深いことを述べられ、この妄執の自己という痛わしい自覚が、そのまま如来の本願である救済であることを、懇切に示された。実〈げ〉にこの所の告白を、説法体に情を極め理を尽して述べられたのが『嘆異鈔』の九節である。
無辺広大の浄土を生み、成仏の果を結ぶ他力の大信とは雖も、実際にありては、水火二河の間に明滅する五寸の白道である。現世に五趣八難の道を超え、十種の現益を獲るとは云えど、愛欲名利に迷惑しつつあるのである。この握〈つか〉むことの出来ぬ、こうと極めることの出来ぬ、不可思議の他力の実感が信仰である。信とは生命の謂いである。生命は握〈つか〉むことは出来ぬ。謙虚〈へりくだり〉と勇猛〈いさみ〉と、歓喜〈よろこび〉と悲嘆〈なげき〉と、緊張〈ひきしまり〉と弛緩〈ゆるみ〉と、妄愛と懺悔とを籠めた不可思議の心境である。
吾等は更に下の『涅槃経』の上に表われたる聖人の信念に急がねばならぬ。
第二節 抑止文釈
(2-538)
【大意】これより下『大経』抑止文を釈したまう。即ち本願の正機を表わし、真仏弟子の裏書をしたまうのである。
第一項は『涅槃経』の四文を引きて、難治の機を細説し、第二項には私釈を施し、第三項には、正しく抑止文を釈せらる。
第一項 難治機
第一科 『涅槃経』「現病品」の文
夫仏説難治機 涅槃経言
迦葉 世有三人 其病難治。一謗大乗 二五逆罪 三一闡提。如是三病 世中極重。
悉非 声聞・縁覚・菩薩之所能治。
善男子 譬如有病 必死無治 若有瞻病随意医薬。
若無 瞻病随意医薬 如是之病 定不可治。
当知 是人 必死不疑。
善男子 是三種人 亦復如是。
従 仏・菩薩 得聞治已 即便能 発阿耨多羅三藐三菩提心。
若有 声聞・縁覚・菩薩 或有 説法 或不説法 不能令其 発阿耨多羅三藐三菩提心。{已上}
(2-539)
【読方】それ仏、難治の機をといて涅槃経にいわく、迦葉、世に三人あり。そのやまい治しがたし。一には謗大乗、二には五逆罪、三には一闡提なり。かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞、縁覚、菩薩のよく治するところにあらず。善男子たとえば病あればかならず死するに治なからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なくば、かくの如きの病さだめて治すべからず。まさにしるべし、この人かならず死せんこと疑わず。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏菩薩にしたがいて法を聞くことをえおわりて、すなわちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。もし声聞、縁覚、菩薩ありて、あるいは法をとき、あるいは法を説かざるあらん。それをして阿耨多羅三貌三菩提心を発せしむることあたわず。已上
【字解】一。難治機 煩悩悪業を病に譬え、その治し難い病ある機類ということ。済度し難い悪機ということ。
二。五逆罪 「信巻」終五逆釈義を看よ。
三。一闡提 梵語イッチユハーンテカ(Icchantikaa)断善根信不具足と訳す。
四。声聞 梵語シュラーワカ(Sravaka)の訳。仏の教えの声を聞いて証る人。仏の言教〈ことば〉を聞き、又は其の遺教によりて、四諦の理を観じて阿羅漢を証る聖者をいう。
五。縁覚 梵語プラトエーカ、ブッドハ(Pratyeka Buddha)の訳。十二因縁を観じて証る故にこの名あり。新訳には、独覚という。師によらず、飛花落葉を観じて、独りにて証る故にいう。
六。瞻病 瞻は看ること。看病のこと。
(2-540)
七。随意医薬 随自意の医薬ということで、医者がよいと信ずるに従い、病人の気に入るか入らないかを案ぜずに、自由に盛った薬というを、随自意の法に譬う。
【文科】初めに「現病品」の文を引いて難治の機を示したまう。
【講義】仏は化益し難い機類を説き給うてあるがそれについて『涅槃経』には左の如くいうてある。
迦葉よ、世間に療治の致し難い三人の病人がある。一人は大乗の教を誹謗するもの、一人は五逆罪を造るもの、一人は一闡提である。この三人の病気は、世間では、一番重い病気であって、声聞、縁覚、菩薩の三乗教の聖者ではとても療治することが出来ないのである。譬えてみると、重病にかかって、死ぬに極って居る病人があるとして、もし非常に上手な看病人があって、良医が自分のよいと信ずる薬を盛れば助かるが、そうでなく、上手な看病人もなく、医者も病人の気休めの薬を盛る様では、とても助かることのないようなものである。今この謗大乗、五逆罪、一闡提の三病人も、仏菩薩から、仏随自意の一乗の法をきいて、菩提心(信心)をうれば助かるが、声聞、縁覚、菩薩の三乗の随他意方便の法をきいても菩提心を起こすことも出来ず、従って又助かる見込みはないのである。
(2-541)
【余義】一。涅槃経の引意に就いては、先輩諸師の所見、大同小異である。『樹心録』には、弥陀の本願は逆謗を摂するや否やという妨難を釈すと云い、大谷派の香月院円乗院二師は本願抑止文たる唯除五逆誹謗正法を釈すといい、皆往院師は弘願の勝益を結ぶと云い、西派の浄信院道隠師は、信益を結ぶと科文せらる。
何れにしても、正しく本願の正機を示されたという点に就いては一致していると思う。但し文に就いて云えば、抑止文を釈すという説が一番適切であると思う。即ち信巻本巻は、因願を釈し、末巻は成就文を釈せらるるのであるが、此の成就文の体裁は釈尊の発遣であるから、今ここに釈尊の抑止の文を釈せらるることは極めて適当の場合である。即ちその抑止文を釈するということは、そのまま本願の正機を顕わし、同時に本願が正しく機の上に実現される模様を示すのである。『銘文』本三丁に
唯除五逆誹謗正法というは、唯除は、ただのぞくということばなり、五逆のつみぴとをきらい謗法のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしらしめて十方一切の衆生、みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
と仰せられて、子を勘当する親の叱責の言葉は、そのまま親心の尤も緊帳〈ひきしま〉り尤も高潮〈たかま〉って
(2-542)
いる表徴〈しるし〉であると見られたのである。逆謗を除くとは、逆謗が本願の正機であることを痛切に説かれたというのである。そして聖人の上の御言葉の具体的の内容が、この『涅槃経』に表われたる阿闍世王の造罪帰仏である。
進んで云えば、この長い引文は、聖人が単に経文を解釈せらるる為に引かれたのではなくして、この阿闍世王の逆罪の上に、自己の真相をみ、自己の逆罪を感じ、広く悲惨なる人生そのものを実験せられたのである。裏から云えば、聖人が御自身の逆罪と人生の真相に当面〈つきあた〉りて感ぜられた実験を、遺憾なくこの引文の上に見られたのである。主観的に云えば聖人が御自身の人生経験と信仰経験を、この経文をもって表象せられたと云うべきである。この流血淋漓たる実人生の上に活躍する宗教でなければ、いかに高遠な道理や、善美を尽くした説示があっても、それは一篇の詩的空想となり終わるのみである。されば古より此の経文を解釈する人は多かったが、唯涅槃の理を説いた一譬喩としか思わなかった。是が為に血の滴〈したた〉るような如来の大慈悲心の活現も、空しく看過されて来たのである。然るに親鸞聖人により初めて沈黙千有余年の声は破れて、その真意が衆人に公開せらるるようになったのである。
(2-543)
二。顧〈おも〉うに釈尊御一代の間に於いて、最も心痛せられた大事変はこの王舎城の悲劇であった。殆んど四十年近く教団の上首として諸弟子を教養した提婆達多は、怪しい驕慢邪見の念に駆られて、堂々と釈尊に反抗し、遂に釈尊外護の大立物たる頻婆娑羅王の太子阿闍世を誘惑して、父王を殺さしめ、その母を監禁せしめ、自らは阿闍世王の手厚い供養を受けて釈尊の教団に大打撃を与えたり即ちこの惨劇の本はと云えば提婆の反逆である。何人〈なんびと〉の心にも潜んでいる烈しい自由〈きまま〉独宰〈わがまま〉の念〈おもい〉である。客観の権威を否定して、どこまでも自我を押し立てんとする悪毒の念である。提婆のこの悪念が八方に拡〈ひろが〉りて、薪を焼く猛火のように、触るるものを傷つけたのである。然るに釈尊の大慈悲は、この悪毒に向ってそそがれた。即ちこれによりて釈尊出世の本懐は初めてここに実現せられた。即ち重病が起こって初めて醍醐の妙薬が効能をあらわすように、大衆を対手〈あいて〉として大講堂に説かれた『大経』の薬は、正しく血烟りを上げた一王宮の奥殿に於いて、而も韋提という一人の女性の上に於いて、初めてその効能〈ききめ〉をあらわしたのである。観経一部はこの始終を示している。
されど韋提希夫人にありては、受動的に圧迫されて、動きの取れない最後に立ちいたって、初めて救済〈すく〉われたのであるが、今や提婆の反逆の血を受け継いて、父を殺し、母を幽
(2-544)
し、擅〈ほしいまま〉に反逆の血を湧かした阿闍世はどうであったか。韋提希夫人の方は圧迫された最後に自分の立場を失い、阿闍世王の方は、圧迫しきった最後に自分の立場をなくしたのである。そして共に宗教に入らなければならなかった。聖人は一面韋提と等しい人生経験を感ずるとともに、又御自身の逆悪を感ぜらるる時は、阿闍世王と思いを等しくせられた。この母子の入信は、そのまま聖人の入信であった。母は冷酷の運命の下に、自分の弱小〈かよわさ〉に泣き、子はその驕傲と弊悪の自性によりて犯した罪の恐しさに泣く。ともに人生の悲惨である。人間の本性の暴露である。如来の大慈は、この各の上に、狂乱のうよに働かせられた。殊に後者の方は、能動的に烈しい罪悪を犯した場合であるから、悪毒なる罪悪そのものが焼きつくように感ぜられる。従ってその罪悪に対する痛切なる説法、痛切なる自覚、深い歓喜等、凡てこれ等の本願の正機即ち信仰経験が、極めて鮮やかに、極めて有効に説示されてある。是れ実に活ける如来の本願である。適切なる本願の正機の実例である。そして又聖人の信仰そのものの内容である。同時に吾等の信仰経験である。
誠に他力の信仰は、その様式は種々であるが、共に自分というものの立場がなくなる悲惨の最後に、胸中に生まるるものである。自分の罪悪の為に、自分のもっていた生命がな
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くなり、命がけに救済を求める時に、初めて如来の大誓願に触れるのである。この委しい模様は、阿闍世王の造罪の動機と、罪悪感と、苦悶と、帰仏の事情等に於いて、遺撼なく示されてある。
二。『涅槃経』の第一現病品の文は、大体の上から逆謗闡提の悪機は聖道自力の三乗(声聞、縁覚、菩薩)法にては救済されることはない。かかる極悪最下の重病者は唯極善最上の本願名号によりてのみ治せらるることを説かれたものである。
第二科「梵行品」の文
又言
爾時王舎大城 阿闍世王。其性弊悪 善 行殺戮。
具口四悪 貪・恚・愚痴 其心熾盛。{乃至}
而為眷属 貪著現世五欲楽故 父王無辜 横加逆害。
因害父 己心生悔熱。{乃至}*
心悔熱故 徧体生瘡。
其瘡臭穢 不可附近。尋自念言 我今此身已受華報 地獄果報将近 不遠。
爾時其母韋提希后 以種種薬而為塗之。
其瘡遂増 無有降損。
王即白母 如是瘡者 従心而生。非四大起。
若言 衆生有能治者 無有是処。
時有大臣 名日 月称。
往至王所 在一面 立白言 大王 何故愁悴顔容不悦。為身
痛邪 為心痛乎。
王答臣言 我今身心豈得不痛。我父無辜 横加逆害。
我従智者 曾聞是義。世有五人 不脱地獄。謂五逆罪。
我今已 有無量無辺阿僧祇罪。
云何 身心而得不痛。又無良医 治我身心。
臣言大王 莫大愁苦。即説偈言。
若常愁苦 愁遂増長。
如 人喜眠 眠則滋多。
貪婬 嗜酒 亦復如是。
如王所言 世有五人 不脱地獄 誰往見之 来語王邪。
言地獄者 直是世間多智者説 如王所言 世無良医治身心者。
今有大医 名富闌那。一切智見得自在 定畢竟 修習清浄梵行 常為無量無辺衆生 演説 無上涅槃之道。
為諸弟子 説如是法。
無有黒業 無黒業報。無有白業 無白業報。無黒白業 無黒白業報。無有 上業及以下業。
是師今在王舎城中。惟 願大王 崛駕往彼。可令是師療治身心。
時王答言 審能如是 滅除我罪 我当帰依。
復有一臣 名曰蔵徳。復往王所 而作是言 大王何故面貌憔悴 屑口乾燋 音声微細。{乃至}
何所苦為 身痛邪 為心痛乎。
王即答言 我今身心 云何不痛。
我之痴盲 無有慧目。近諸悪友 而為善随 提婆達多悪人之言 正法之王 横加逆害。
我昔曾聞 智人偈説。
若於父母 仏及弟子
生不善心 起於悪業。
如是果報 在阿鼻獄。
以是事故 令我心怖 生大苦悩。又無良医而見救療。
大臣復言 惟願大王 且莫愁怖。法有二種。一者出家 二者王法。
王法者 謂害其父 則王国土。雖云是逆 実無有罪。
如 迦羅羅虫 要壊母腹 然後乃生。
生法如是。雖破母身 実亦無罪。騾腹
懐妊等亦復如是。治国之法 法応如是。
雖殺父兄 実無有罪。出家法者 乃至蚊蟻殺亦有罪。{乃至}
如王所言 世無良医治身心者。
今有大師 名末伽梨拘賖梨子。
一切知見 憐愍衆生 猶如赤子。
已離煩悩 能抜衆生三毒利箭。{乃至}
是師今在王舎大城。惟願大王 往至其所 王若見者 衆罪消滅。
時王答言 審能如是滅除我罪 我当帰依。
復有一臣 名曰実徳。復到王所 即説偈言
大王何故 身脱瓔珞
首髪蓬乱 乃至如是。{乃至}
為是心痛邪 為身痛邪。
王即答言 我今身心 豈得不痛。我父先王 慈愛仁惻 特見矜念。
実無過咎 往問相師。相師答言 是児生已 定当害父。雖聞是語 猶見瞻養。
曾聞智者 作如是言。若人通母及汚比丘尼 偸僧祇物 殺 発無上菩提心人及殺其父 如是之人 必定当堕阿鼻地獄。
我今身心 豈得不痛。
大臣復言 惟願大王 且莫愁苦。{乃至}
一切衆生 皆有余業。
以業縁故 数数受生死若。使先生(王)有余業者 王今殺之竟有何罪。
惟願大王 寛意莫愁 何以故
若常愁苦 愁遂増長
如人喜眠 眠則滋多
貪婬嗜酒 亦復如是。{乃至}
刪闍耶毘羅肱子。
復有一臣 名悉知義 即至王所 作如是言。{乃至}
王即答言 我今身心豈得無痛。{乃至}
先王無辜 横興逆害。我亦曾聞智者説言。若有害父 当於無量阿僧祇劫 受大苦悩。
我今不久 必堕地獄。又無良医 救療我罪。
大臣即言 惟願大王 放捨愁苦。王不聞邪 昔者有王 名曰羅摩。
害其父已 得紹王位。跋提大王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝迦王・毘舎佉王・月光明王・日光明王・愛王・持多人王 如是等王 皆害其父得紹王位。
然 無一王入地獄者。於今現在 毘瑠璃王・優陀邪王・悪性王・鼠王・蓮華王 如是等王皆害其父。
悉無一王 生愁悩者。雖言 地獄・餓鬼・天中 誰有見者。
大王 唯有二有。一者人道 二者畜生。雖有是二 非因縁生 非因縁死。
若非因縁 何者有善悪。惟願大王 勿懐愁怖。
何以故 若常愁苦 愁遂増長。
如人喜眠 眠則滋多。
貪婬嗜酒 亦復如是。{乃至}
阿耆多翅金欽婆羅{乃至}
復有大臣 名曰吉徳{乃至} 言地獄者 為有何義。
臣当説之。地者名地 獄者名破。破於地獄 無有罪報。是名地獄。
又復地者名人 獄者名天。以害其父故 到人・天。
以是義故 婆蘇仙人唱言 殺羊得人天楽。
是名地獄。又復地者名命 獄者名長。
以殺寿命 彼故名地獄。(以殺生故得壽命長。故名地獄。)
大王是故当知 実無地獄。大王如種麦得麦 種稲得稲。
殺地獄者 還得地獄。殺害於人 応還得人。
大王 今当聴臣所説 実無殺害。
若有我者 実亦無害。若無我者 復無所害。
何以故。若有我者常無変易 以常住故不可殺害。
不破・不壊・不繋・不縛・不瞋・不喜猶如虚空。
云何当有殺害之罪。若無我者 諸法無常。
以無常故 念念壊滅。念念滅故 殺者死者 皆念念滅。
若念念滅 誰当有罪。大王 如火焼木 火則無罪。
如斧斫樹 斧亦無罪。如鎌刈草 鎌実無罪。
如刀殺人 刀実非人 刀既無罪。人云何罪。如毒殺人 毒実非人 毒薬非罪人。云何罪。
一切万物 皆亦如是。実無殺害。云何有罪。
惟願大王 莫生愁苦 何以故。
若常愁苦 愁遂増長
如人喜眠 眠則滋多
貪婬嗜酒 亦復如是
今有大師 名迦羅鳩駄迦旃延。
復有一臣。名無所畏。今有大師。名尼乾陀若犍子。{乃至}
爾時大医 名曰耆婆。往至王所 白言大王 得安眠不。王以偈答言。{乃至}
耆婆我今病重。於正法王興悪逆害。一切良医・妙薬・呪術・善巧瞻病所不能治。
何以故 我父法王 如法治国 実無辜咎。横加逆害 如魚処陸。{乃至}
我昔曾 聞智者説言。
身口意業 若不清浄 当知是人 必堕地獄。
我亦如是。云何当得安穏眠邪。今我又無無上大医 演説法薬 除我病苦。
耆婆答言 善哉善哉 王雖作罪 心生重悔 而懐慙愧。
大王 諸仏世尊 常説是言 有二白法 能救衆生。
一慙 二愧。慙者 自不作罪 愧者不教他作。慙者内自羞恥 愧者発露向人。
慙者羞人 愧者羞天。是名慙愧。無慙愧者 不名為人 名為畜生。
有慙愧故 則能恭敬父母・師長。有慙愧故 説有父母・兄弟・姉妹。善哉大王 具有慙愧。{乃至}
如王所言。無能治者。大王当知 迦毘羅城 浄飯王子 姓瞿曇 氏字悉達多。
無師覚悟自然 而得阿耨多羅三藐三菩提。{乃至}
是仏世尊。有金剛智 能/>
破衆生一切悪罪 若言不能 無有是処。{乃至}
大王 如来有弟提婆達 多破壊衆僧 出仏身血 害蓮華比丘尼。
作三逆罪。如来 為説種種法要 令其重罪 尋得微薄。
是故 如来為大良医。非六師也。{乃至}
大王作一逆者 則便具受如是一罪。若造二逆罪 則二倍。五逆具者 罪亦五倍。
大王今定知 王之悪業必不得勉。
惟願大王 速往仏所。除仏世尊余 無能救。
我今愍汝故 相勧導。
爾時大王 聞是語已 心懐怖懼。挙身戦慄。五体梓動 如苞蕉樹。
仰而答曰。天為是。誰不現色像 而但有声。
大王 吾是汝父頻婆沙羅。
汝今当 随耆婆所説。莫随邪見六臣之言。時聞已悶絶躄地。身瘡増劇 臭
穢倍前。雖以冷薬塗 治療瘡 瘡蒸。毒熱但増 無損。{已上略出}
- 大臣名日月称 名富闌那。
- 蔵徳 名末伽梨拘賖梨子。
- 有一臣名曰実徳 名刪闍耶毘羅胝子。
- 有一臣名悉知義 名阿嗜多翅金欽婆羅。
- 大臣名曰吉徳 婆蘇仙。(加羅鳩駄迦旃延)
- 無所畏 名尼乾陀若犍子。
【読方】またいわく、そのときに王舎大城に阿闍世王あり、その性、弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪、恚、愚痴を具してその心熾盛なり。乃至 しかるに眷属のために、現世の五欲の楽に貪著するがゆえに、父の王の辜〈つみ〉なきに、よこさまに逆害を加す。父を害するによりて、おのれが心に悔熱を生ず。乃至 心、悔熱するがゆえに、遍体に瘡〈かさ〉を生ず。そのかさ臭穢にして附近すべからず。すなわちみずから念言すらく、われいまこの身にすでに華報をうけたり。地獄の果報まさに近づきて遠からずとす。そのときに、その母韋提希后、種々
(2-553)
の薬をもてしかも為にこれを塗る。その瘡ついに増すれども、隆損あることなし。王すなわち母にもうさく、かくの如きのかさは、心よりして生ぜり。四大よりおこれるにあらず。もし衆生よく治することありといわば、この処〈ことわり〉あることなけんと。
ときに大臣あり、日月称となづく。王のところに往至して、一面にありて立ちてもうしてもうさく。大王なんがゆえぞ愁悴して、顔容よろこばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせんと。王、臣にこたえていわまく、われいま身心、あに痛まざることをえんや。わが父つみなきに、よこさまに逆害を加う。われ智者にしたがいて、かつてこの義をきしき。世に五人あり、地獄をまぬかれずと。いわく五逆罪なり。われいますでに無量、無辺、阿僧祗のつみあり。いかんぞ身心をして痛まざることをえん。また良医のわが身心を治せんものなけんと。臣、大王にもうさく、おおきに愁苦することなかれと。すなわち偈をときていわく、もし常に愁苦せばうれえついに増長せん。人ねむりを喜〈この〉めば、眠〈ねむり〉すなわち滋く多きがごとし。婬を貪し酒をたしなむも、またまたかくのごとし。王のたまう所のごとき、世に五人あり地獄をまぬかれずとは、誰かゆきてこれを見てきたりて王にかたるや。地獄というはただちにこれ世間におおし。智者とかく、王ののたまうところのごとし。世に良医の身心を治するものなけん。いま大医あり、富蘭那となづく。一切知見して自在をえて、さだめて畢竟して清浄梵行を修習して、つねに無量無辺の衆生のために、無上涅槃の道を演説す。もろもろの弟子のために、かくのごときの法をとけり。黒業あることなければ、果業の報なし。白業あることなければ、白業の報なし。黒
(2-554)
白業なければ、黒白業の報なし。上業及び以下業あることなし。この師いま王舎城のうちにいます。ややねがわくば大王、屈駕してかしこにゆけ。この師をして身心を療治せしむべしと。ときに王、こたえていわく、審〈あきらか〉に能くかくの如きわが罪を滅除せば、われまさに帰依すべし。
またひとりの臣あり。なづけて蔵徳という。また王のところにゆきて、しかもこの言をなさく。大王なんがゆえぞ面貌憔悴して、唇口乾燥し、音声微細なるや。乃至 なんの苦しむところありてか、身いたむとやせん、心いたむとやせん。王すなわちこたえていわく。われいま身心いかんぞいたまざらん。われ癡盲にして慧目あることなし。もろもろの悪友にちかづきて、ためによく提婆達多悪人のことばにしたがいて、正法の王によこさまに逆害を如う。われむかし智人の偈説せしをききき。もし父母、仏および弟子において不善の心を生じ、悪業をおこさん。かくの如きの果報、阿鼻獄にありと。この事をもっての故に、われをして心怖れて大苦悩を生ぜしむ。また良医のありて、しかも救療せらるることなけんと。大臣またいはく、惟〈ただ〉ねがわくば大王しばらく恐怖することなかれ。法に二種あり。一には出家、二には王法なり。王法というは、いわくその父を害すれば、すなわち国土に王たるなり。これ逆なりと云うといえども、実に罪あることなけん。迦羅羅虫のかならず母のはらをやぷりてしこうして後にいまし生ずるがごとし。生の法かくのごとし。母の身をやぶるといえども、実にまた罪なし。騾腹の懐妊等またまた是のごとし。治国の法、法として是のごとくなるべし。父兄を殺すといえども、実に罪あることなし。出家の法は乃至蚊蟻を殺すにまた罪あり。乃至 王の言うところのごとし。世に良医の身心を治す
(2-555)
るものなけん。いま大師あり。末伽梨拘舎梨子となづく。一切知見して、衆生を憐愍すること、なおし赤子のごとし。すでに煩悩をはなれてよく衆生の三毒の利箭をぬく。乃至 この師いま王舎大城にいます。惟〈やや〉ねかわくは大王そのところに往至し給え。王もし見ば、衆罪消除せんと。ときに王こたえていわく、審〈あきらか〉によくかくのごとき我が罪を滅除せば、われまさに帰依すべしと。
またひとりの臣あり。なづけて実徳という。また王のところに到りて、すなわち偈をときていわく、大王なんがゆえぞ身に瓔珞をぬぎ、首〈こうべ〉のかみ蓬乱せる。乃至かくの如くなるや。乃至 これ心いたむとやせん、身いたむとやせんと。王すなわち答えていわく、われいま身心あに痛まざることをえんや。わが父先王、慈愛仁惻してことに矜念せらる。実に辜〈つみ〉なし。ゆきて相師にとう。相師こたえてもうさく。この児うまれおわりて、定めてまさに父を害すべしと。この語をきくといえども、なお瞻養せらる。むかし智者の是のごときの言をなすことをききき。もしひと母に通じ、および比丘尼をけがし、僧祗物をぬすみ、無上菩提心をおこせるひとを殺し、およぴその父を殺せん。かくの如きのひと、必定して、まさに阿鼻地獄に堕すべしと。われいま身心あに痛まざることをえんや。大臣またいわく、惟〈やや〉ねがわくば大王また愁苦することなかれ。乃至 一切衆生みな余業あり。業縁をもてのゆえに、しばしば生死をうく。もし先生に余業あらしめば、王今これを殺さんについに何の罪かあらん。惟ねがわくば大王、意を寛〈ゆたか〉にして愁うることなかれ。なにをもっての故に、もしつねに愁苦すれば、愁えつねに増長す。ひと眠〈ねむり〉をこのめば、ねむりすなわち滋くおおきがごとし。婬を貪し、酒をたしなむも、またまたかくのごとし。
(2-556)
乃至 刪闍耶毘羅肱子。
またひとりの臣あり。悉知義となづく、すなわち王の所に至りて、是のごときの言をなさく。乃至 王すなわちこたえていわく、われいま身心あに痛みなきことをえんや。乃至 先王つみなきに、よこさまに逆害を興ず。われ亦むかし智者の説きて言いしをききき。もしひと父を害することあればまさに無量阿僧祗劫において、大苦悩をうくべしと。我いま久しからずして、かならず地獄に堕せん。また良医のわが罪を救療することなけん。大臣すなわちいわく、ややねがわくば大王、愁苦を放捨せよ。王きかずや、むかし王ありき。なづけて羅摩といいき。その父を害しおわりて、王位をつぐことをえたりき。跋提大王、毘楼真王、那睺沙王、迦帝迦王、毘舎佉王、月光明王、日光明王、愛王、持多人王、かくのごときらの王、みなその父を害して王位を紹〈つ〉ぐことをえたりき。然るにひとりとして王の地獄にいるものなし。いま現在に毘瑠璃土、優陀耶王、悪性王、鼠王、蓮華王、かくの如き等の王、みなその父を害せりき。悉くひとりとして王の愁悩を生ぜるものなし。地獄、餓鬼、天中というといえども、たれか見るものあるや。大王ただしふたつの有あり。一には人道、二には畜生なり。この二ありといえども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずば、なにものか善悪あらん。惟〈やや〉ねがわくば大王、愁怖をいだくことなかれ。何を以てのゆえに、もし常に愁苦すれば、愁えついに増長す、人ねむりをこのめば、眠りすなわち滋く多きがごとし。婬を貪し酒をたしなむも、またまた是の如しと。乃至 阿耆多舎欽婆羅 乃至
(2-557)
また大臣あり。なづけて吉徳という。乃至 地獄というは、なんの義ありとかせん。臣まさに之をとくべし。地は地になづく、獄は破になづく。地獄を破せんに罪報あることなけん。これを地獄となづく。また地は人になづく、獄は天になづく、その父を害するをもてのゆえに、人天にいたらん。この義をもってのゆえに婆蘇仙人となえていわく、羊を殺して人天の楽をう、これを地獄となづく。また地は命になづく、獄は長になづく、かの寿命の長を殺すをもってのゆえに地獄となづく。大王この故にまさに知るべし、実に地獄なけん。大王、麦をうえて麦をえ、稲をうえて稲をうるがごとし。地獄を殺してはかえりて地獄をえん。人を殺害してはかえりて人をうべし。大王いままさに臣の所説をきくに、実に殺害なかるべし。もし有我ならは実にまた害なし、もし無我ならばまた害するところなけん。何を以ての故に、もし有我ならばつねに変易なし、常住をもってのゆえに殺害すべからず、不破、不壊、不繋、不縛、不瞋、不善はなおし虚空のごとし。いかんぞまさに殺害の罪あるべき。もし無我ならば諸法無常なり。無常をもってのゆえに念々壊滅す。念々に滅するがゆえに殺者死者みな念々に滅す、もし念々に滅せば、たれかまさに罪あるべき。大王、火水をやくに、火すなわち罪なきがごとし。斧樹をきるに、斧また罪なきがごとし。鎌くさをかる、鎌実に罪なきごとし。刀、人をころすに、かたな実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人いかんぞ罪あらんや。毒人をころすに、毒実に人にあらず、毒薬つみにあらざるがごとし。人いかんぞ罪あらんや。一切万物、みなまた是のごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらん。惟〈やや〉ねがわくば大王愁苦を生ずることなかれ。何をもってのゆえに、もしつねに愁苦せば、愁ついに増長せん。人ねむりを喜〈この〉めば、
(2-558)
ねむりすなわち滋く多きがごとし。婬を貪し酒をたしなむも、またまたかくのごとし。いま大師あり、迦羅鳩駄迦旃延となづく。 乃至
またひとりの臣あり。無弁畏となづく。乃至 いま大師あり尼乾陀若尼乾陀若子となづく。乃至
そのときに大医あり、なづけて耆婆という。王のところに往至して白してもうさく。大王、安眠することをえんや、いなやと。王、偈をして答えていはく、乃至 耆婆。われいま病おもし。正法の王において悪逆害をおこす。一切の良医、妙薬、呪術、善巧、瞻病の治することあたわざるところなり。何をもっての故に、わが父法王、法のごとく国をおさむ。実に辜咎なし、よこさまに逆害を加う。魚の陸に処するがごとし。乃至 われむかし智者のときていいしをききき。身口意業もし清浄ならずば、常に知るべし、この人かならず地獄に堕せんと。われまたまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることをうべきや。いま我また無上の大医の、法要を演説して、わが病苦をのぞくことなしと。耆婆こたえていわく、よきかなよきかな、王つみをなすといえども、心に重悔を生じてしかも慚愧をいだけり。大王、諸仏世尊つねにこの言をときたまわく、ふたつの白法ありよく衆生をたすく。一には慚、二には愧なり。慚はみずからつみをつくらず、愧は他をおしえてなさしめず。慚はうちにみずから羞恥す。愧は発露してひとにむかう。慚は人にはず、愧は天にはず、これを慚愧となづく、無慚愧はなづけて人とせず。なづけて畜生とす。慚愧あるがゆえ、すなわちよく父母、師長を恭敬す。慚愧あるがゆえに、父母、兄弟、姉妹あることをとく。よきかな大王つぶさに慚愧あり。乃至 王の言うところのごとし。よく治す
(2-559)
るものなけん。大王、まさにしるべし、迦毘羅城に浄飯王の子、姓は瞿曇氏、悉達多となづく。師なくして覚悟せり。自然にして阿耨多羅三藐三菩提をえたり。乃至 これ仏世尊なり。金剛智ましまして、よく衆生の一切悪罪を破せしむ。もしあたわずといわば、この処〈ことわり〉あることなけんと。乃至 大王、如来に弟提婆達多あり。衆僧を破壊し、仏身より血をいだし、蓮華比丘尼を害す。三逆罪をつくれり。如来ために種々の法要をときたまうに、その重罪をしてすなわち微薄なることを得しめたまう。このゆえに如来を大良医とす。六師にはあらざるなり。乃至
大王、一逆をつくれば、則ちつぶさに是のごときの一罪をうく。もし二逆罪をつくらば、すなわち二倍ならん。五逆つぶさならば、罪もまた五倍ならん。大王、いま定めてしんぬ、王の悪業かならず免るることをえじ。惟ねがはくは大王、すみやかに仏のみもとにもうずべし。仏世尊をのぞきて余はよく救うことなけん。われいま汝を愍れむがゆえに、あい勧めてみちぴくなりと。そのときに大王この語をききおわりて、心に怖懼をいだけり。身をあげて戦慄す。五体掉動して芭蕉樹のごとし。仰いでこたえていわく、天これ誰とかせん。色像を現ぜすしてただ声のみありていわく、大王、われはこれ汝が父頻婆娑羅なり。なんじいままさに耆婆の所説にしたがうべし。邪見六臣の言にしたがうことなかれと。ときに聞きおわりて悶絶地にたうる。身のかさ増劇して、臭穢なること、さきよりもまされり。冷薬を以てぬり、瘡を治療すといえども、瘡〈かさ〉蒸〈あつか〉わし。毒熱ただ増して損ずることなし。 已上抄出
(2-560)
(一)大臣、日月称となづく。(一)富闌那となづく。(二)蔵徳 (二)末伽梨拘舎離子となづく。(三)一の臣あり、なづけて実徳という。(三)刪闍耶毘羅肱子となづく。(四)一の臣あり、悉知義となづく。(四)阿奢多翅金欽娑羅となづく。(五)大臣なづけて吉徳という。(五)婆蘇仙。(六)加羅鳩駄迦旃延。(六)尼乾陀若尼乾陀若子となづく。
【字解】一。王舎大城 梵名ラーヂャグリハ(Rajagriha)中印度摩竭陀国の都城、紀元前六世紀、頻婆娑羅王の築くところ、その子阿闇世王もここに都し、釈尊の最とも多く伝道せられた地である。今のラージャギル(Rajgeir)の地に当る。
二。阿闇世 梵語アヂャータシャトル(Ajata'satru)ア(阿)は未、ヂャータ(闍)は生、シャトル(世)は怨、即ち未生怨と訳す。初め父頻婆娑羅王が、年老いて子なきを憂え、相者をして占わせると、某山に自分の子となって生まるべき仙人がいることを知り、未だ命数の尽きない中に、人をして其の仙人を殺した。仙人の臨終の怨みが、太子と生れて、父王の怨敵となったと云われている。そしてその名も未生怨とつけられたと云うのである。王は十七歳の時、提婆に唆かされて、父王を殺して王位に上〈のぼ〉ったが、間もなく自分の子を愛する念から、父母の慈愛に目が醒め、旧悪を懺悔して、仏教に帰依し、仏教外護の大施主となった。釈尊滅後、第一結集の際は大檀越として、此の聖業を完成せしめた。其の後も大迦葉、阿難に奉持し、大いに仏法興隆に力を尽した。
三。口四悪 十悪中の口の四悪。妄語、綺語、悪口、両舌。
四。華報 来世の果報を受ける前に、さながら果実を結ぶ前に花咲くように、現世に於いて、善悪の報を受
(2-561)
けること。
五。地獄 梵語耶落迦(Naraka)、無幸処と訳す。地獄は義訳である。地下にある獄の義。閻浮提の地下二万由旬にして無間(阿鼻)地獄あり。その上に重層して、大焦熱、焦熱、大叫喚、叫喚、衆合、黒縄、等活の七地獄あり。之を八熱地獄という。この地獄の各に四門あり、四門の外に各四小地獄あり、即ち一地獄に十六小地獄ある故に、総べて一百三十六地獄となる。又八熱地獄の周囲に八寒地獄(額部陀、尼刺部陀、額哳吒、臛臛婆、虎々婆、嗢鉢羅、鉢特摩、摩訶鉢特摩)がある。総称して八寒八熱の大地獄という。
六。韋提希 上五二三頁をみよ。
七。四大 ここでは肉体という意。上二一八頁をみよ。
八。黒業 悪業のこと。
九。白業 善業のこと。
一〇。提婆達多 梵語デーワダッタ(Deva-datta)天授と訳す。釈尊の従兄弟、阿難の兄、甘露飯王の子と称せらる。
挿図(yakk2-561.gif)
┏ 浄飯王━━━━ 悉達多(釈尊)、難陀
師子頬王━┫ 白飯王───┐
┃ 解飯王───╋ 提婆達多、阿難
┗ 甘露飯王━━┛
(2-562)
点線のような他の二王の子という説もある。或いは又拘利城主善覚長者の子で、耶輸陀羅姫の兄とも云われている。釈尊の弟子となり、晩年に釈尊に反抗し、阿闍世王を唆かして父王を殺さしめ、自分は釈尊を三度も殺さんとしたが、遂に生きながら大地獄の中へ捲き込まれたと伝う。
一一。迦羅々虫 黒虫と訳す。生まるれば必ず母虫を害すという。
十二。騾腹懐妊 芭蕉は実を結んで枯れ、騾馬は子を妊んで死すと『普曜経』等に説かれてある。
十三。瓔珞 印度の貴人、殊に婦人や少年が、頭、頚、胸などに掛けた珠玉の飾りをいう。
一四。僧祗物 僧砥は僧伽、即ち僧家に所有するものをいう。
一五。阿鼻地獄 梵語アイーチナラカ(Avici-Naraka)無間地獄と訳す。八熱地獄の最下に位し、間〈ひま〉なく苦しみを受く、故にこの名あり。
十六。耆婆 梵語ヂーワカ(Jivaka)釈尊当時の名医。父は王舎城の王子無畏、母は時の全盛の娼婦娑羅跋提である。彼女は耆婆を生みて之を路傍に捨てたが、不思議にも父の無畏王子に拾われ、成長の後、北方得叉尸羅国にゆき阿提梨賓迦羅という人に就いて医術を学び、帰りて内外科ともに非凡の手腕を振い、屡〈しばしば〉釈尊の病を治した。
一七。辜咎 辜は罪、即ちつみとが。
一八。迦毘羅城 釈尊誕生の故城。梵語カピラワスツ(Kapilavastu)今のニポール国タライ地方である。
(2-563)
釈尊の晩年、舎衛歓国主瑠璃王のために滅され、西暦五世紀の初め、法顕三蔵の旅行せし頃は、城址荒れ果てて、民家数十散在しておったという。
一九。浄飯王 迦毘羅衛国主。釈尊の父。梵語シュッドホーダナ(Suddhodana)。父は獅子頬王。
二〇。瞿曇 釈迦族の姓にして、又釈尊の通称。梵語ゴータマ(Gotama or (Gatama)種迦種族の先祖の事〈つか〉えた仙人の名であったのを、一族の姓にしたと伝えらる。
二一。蓮華比丘尼 神通第一の比丘尼として有名であった。在俗中はしばしば悲惨の境遇に陥り、遂に目連尊者によりて出家し、修道堅固にして比丘尼教国の上首となったが、提婆か阿闍世王に疎んぜられし時、彼女は宮城より出で来りて提婆に逢い、遂に撲殺された。
【文科】「梵行品」によりて、阿闍世王の逆害後の煩悶をのべ、六師の誘惑と、耆婆の勧化を説きたまう一段である。
【講義】又『涅槃経』梵行品に言わく。王舎城に阿闍世という王があったが、狂悪な性質〈うまれつき〉で、人を殺すことを何とも思わず、口には四悪を絶たず、心には貪欲瞋恚愚痴の煩悩を起こして、逆〈さか〉まく浪のようなはげしい王であった。妻子眷属にまつわって、現世の欲楽にふけり、その欲楽を遂げんがために、無道にも辜のない父の頻婆娑羅王を殺すようになったのである。父の王を殺してから、狂猛な悪人ながら、流石に後悔を生じ煩悶するようにな
(2-564)
った。この心の煩悶が、肉体に顕われて、瘡毒となり、その瘡が穢臭を放って寄りつくことが出来ないようであった。王は自ら思うよう、私は今現に生きながらこういう地獄の業報を受けて居る。もう地獄へ落ち込んで苦患を受けることも間のないことである。王はこう思うで独り苦みを重ねて居った。その王の病気の間、母の韋提希夫人は、我子の可愛さに引かれて、瘡毒の臭きも厭わず、子の無道をも憤らず、種々の薬を王の身体に塗ってやったが、瘡はこれがために勢いを増しても決して減ずるということはなかった。阿闍世は母にいうよう、私のこの瘡は心の煩悶から生じたので身体から出たのではありません。それで決して癒〈なお〉る理窟はありません。王はこうして苦しみを受けて居った。
時に日月称という大臣があったが、王の座所へ参り、御伺いをして片方に立って申し上げるには、大王は何故そのようにおやつれになり、両白くない御顔色をして御座るのでありますか、御身体の御痛みでありますか、御心の御痛みでありますか。王はこれに答えていうよう、私は今どうして、身体も心も苦しみ痛まずに居られようか。私は何の罪も在〈おわ〉しまさぬのに父の王に無道の逆罪を加え奉った。私は昔智慧ある人に聞いたことがある。地獄へ堕ちるに間違ない人間が世間に五人ある。五逆罪を作ったものだということである。
(2-565)
私は今現に数限りもない沢山の罪を負うておる。この私がどうしで身も心も痛まずにいられようぞ、私の身体の病を治して呉れる医者はないのである。
日月称大臣は更に王にいうよう。大王、そんなに御心配遊ばすな。世の中にも「心配すれば心配は増すもの、眠れば益々眠たいもの、色も酒も同じこと」というじゃありませんか。王の仰しゃる様に、地獄へ堕ちるに間違ない人間が五人あるなどと仰せになりますが、そんなら地獄へ行って見て来て大王に御話したものでもありますのか。地獄というは、この世間にあるもののことです、智者のいうたというのはそのことです。大王よ、あなたは、あなたの御病気を治す医者がないと仰せになりますが、今、富蘭那という大医がありまして、この人は一切知見を有し、自在定を得て、清浄の行業をして居られます。この人は常に数限りもない衆生のために、さとりの法を説いております。この人の弟子に教ゆる所に依れば、悪業というものもなければ、悪業の果報というものもない。善業というものもなければ、善業の果報というものもない。上業だの下業だのというものはない。こういう説法であります。この人は今王舎城に来ておりますが、願くば大王、どうぞ駕を枉げてこの人の所へ行いて法を聞き、身心の御病気を療治遊ばれるううに願います。
(2-566)
王はこれに答えて、そんなによく、私の今迄の罪を除き去ってくれる人ならば、私は帰依いたそう、といった。
又蔵徳という大臣があったが、この人も王の座所へ入って次の様に申し上げた。
大王よ、あなたは何故に御顔の艶が衰えて、唇はがさがさと乾いて、御声もそんなに細り給うたのでありますか、御苦しみは身体の方でありますか、御心の方でありますか。
王はこれに答えて申すよう。私は今どうして身体も心も痛まないでいられようぞ、私は盲で、智慧の目がない。悪い友達に近づいて、提婆のような悪人にそそのかされて、正法を護持して居られた父の王に無道な逆害を加え奉った。私は智者の偈を説くのを聞いたが、父母や、仏又は仏弟子に対して、善からぬ心を起こし悪事をしたものは、阿鼻大地獄の果報を受けるという意味であった。これを思えば、私は氷を抱くように心がふるえて苦しむのじゃ。私を療治してくれる良医はないのじゃ。
大臣は更に申し上げるよう。大王、そんなに御心配あそばすな。一概に法と申しますけれども、法にも二通りありて出家の法と王法とは違います。王法に依れば、父を殺害するものは国王となるだけのことであります。これは勿論逆さ事ではありますが、決して罪には
(2-567)
なりませぬ。迦羅羅という虫は母の腹を破って生まれますが、自然の与えた生まれる法がそういうのでありますから、母虫の身を破っても罪はありません。騾驢は子を生むと死にますが、これも自然の法だから罪になりません。王家を治める王法も亦この通り、目上の父や兄を殺した処で罪になりません。それは出家の法は厳しいもので蚊や蟻を殺しても罪になりますが、王法とは根底から相違があるのであります。大王は王の御病気を治す医者はないと仰せになりますが、今末伽梨拘賒梨子という一切知見の大先生があって、衆生を赤子〈せきし〉のように憐れみ、自ら凡ての煩悩を離れて御座るから、衆生の貪瞋痴の三毒の毒箭を抜いて下さります。この大先生は今王舎城に居りますから、どうぞ大王自らこの人の所へ御行き下さい。大王がこの人に御遇い下されば、すべての罪は皆消えて仕舞います。
王はこれに答えていうよう。そんなに能く私の罪を除き去って呉れる人ならば、帰依するであろう。
又実徳という大臣があったが、この人も王の座所へ行って、偈を説いていうよう。大王何故あなたは瓔珞を抜ぎ去り、蓬のように髪を乱して御座るのか。心の苦痛でありますか、又は身体の苦痛に堪えないのでありますか。
(2-568)
王はこれに答えて、私は今どうして身心共に苦痛を感ぜずにいられようぞ。私の父は慈愛溢れ仁深く、常に憐れみを垂れ給うた方で罪は少しも在〈い〉まさなんだのだ。父の王は、人相見の所へ行きて尋ね給うた時に、人相見は、この御児様が生れ給うときっと大王を殺す方になられますと答えた。父はこの予言をきいても猶御厭いなく、私を可愛がって下された。私は昔智者のこう語るをきいたことがある。母に通じたり、比丘尼を汚したり、僧伽のものを盗んだり、無上菩提心を起こした人を殺したり、又は父を殺したりする人は無間他獄に堕つるというのである。して見れば、私はどうして身心の苦痛を感ぜずにいられようぞ。
大臣更に申し上げるよう。大王どうぞ且くその御心配を止めて下さい。すべての衆生は皆過去の業を持って居ります。過去の業があるからいろいろの生死を受けるので、先王にも同じく過去の業縁で、あの様な果てようをなされたのでありますから、王には何も罪はないのであります。大王どうぞ、意を寛うして御心配を止めて下さい。「心配すれば心配は増すもの、眠れば、益々眠むたいもの、色も酒も同じこと」という諺〈ことわざ〉もあります。今、刪闍耶毘羅肱子という大先生がありますが、この人の処へ駕を枉げて、法をきいて下さい。
(2-569)
又、悉知義といふ大臣があって、王の座所へ往き、かく申し上げた。
王はこれに答えて申された。私は今どうして、身心の苦痛を受けずにいられようぞ。父の王には罪在まさぬのに逆害を加えたのは私である。私は昔智者が、父を殺せば数限りもない長の間大苦悩を受けぬばならぬというたことをきいたが.私は間もなく地獄に堕ねばならぬ。この身心の病気を治して呉れる医者はどこにもない。
その時大臣は又申すよう、大王どうぞその御心配を捨てて下さい。大王も御聞き及びのことでありましょうが、昔、羅摩という王があって、父を殺して王位に昇った。跋提大王、毘楼真王、那睺沙王、迦帝迦王、毘舎佉王、月光明王、日光明王、愛王、持多人王、これらの王はみな父の王を殺して、王位を紹〈つ〉いだ人達である。然も一人の王も地獄へ堕ちたものはない。それのみならず、今現に毘璃瑠王、優陀耶王、悪性王、鼠王、蓮華王など、父を殺して王位を奪った王は幾人もありますが、一人もそのように苦しんでいる人はない。地獄、餓鬼、天などいうて居りますけれども、誰もそんなものを見たものはないので、あるものは人間と畜生だけなのであります。それも実は因と縁とで出来たものでもなければ、又因と縁とで滅びて行くものでもありません。もし因縁で生死するものでなければ、
(2-570)
善悪などいうことも何処にもないのであります。どうぞ大王、その御心配を去って下さい。「心配すれば心配は増すもの、眠れば、益々泯むたいもの、色も酒も同じこと」という諺もあります。大王、今阿耆多翅舎欽娑羅という大先生がありますから、この人の処へ行いて法を聴いて下さい。
又吉徳という大臣があった。前の大臣等と同じい様に、初め大王と問答して、扨て改めていうよう。地獄というはどういう意味でありましょう。私が説明してみましょう。地は大地の地である。獄は破るということである。地獄を破って、罪業の報のないというのが地獄の義である。又、地は人、獄は天で、父を殺して人天の楽を得るというのが地獄の義である。それであるから婆蘇仙人は、羊を殺して人天の楽をうるを地獄というというている。又、地は命、獄は長いという義で、寿命の長いのを殺すというが地獄ということである。してみれば大王、地獄というものは全くないのである。大王麦を種〈う〉えれば麦がとれます。米を蒔けば米がとれます。してみれば地獄を殺せば地獄を得るし、人を殺せば人に生れるというのが当り前であります。大王、今私のいうことをきいて下さい。一体世に殺すということはないのであります。何故なれば、有我というても殺はなく、無
(2-571)
我というても殺はない。有我ならば、我は変らぬ常住のものだから殺すということはない。破られもせず壊されもせず、縛られず、繋〈つな〉がれず、瞋〈いか〉られず、喜ばれない、丁度虚空の様なのが我である。してみれば、どうして殺害の罪というものが成り立ちましょうか。もし又我がないものとすれば、一切諸法はすべて無常なもので、念々に滅するものであるから、殺すものも殺されるものも又皆、念々に滅するのである。もしこの様に念々に滅するものとすれば、誰に罪があるとしょうか、罪を受くべき責任者は何処にもないではありませんか。大王よ、火が木を焼いても誰も火に罪があるとは申しませぬ。又斧が樹を斫〈き〉っても、鎌が草を刈っても、罪はありませぬ。又刀が人を殺しても、刀は人でないから罪のないように、人も又罪はありませぬ。毒薬が人を殺してもその通り、毒薬は人でないから罪がなく、人も亦罪のあろう道理はありませぬ。一切のものが、みなこれと同じ様に、殺すということはないのであります。大王よ、どうぞ御心配遊ばすな。「心配すれば心配を増し、眠れば益々眠むたく、色も酒もその通り」というじゃありませんか。今迦羅鳩駄迦旃延という大先生が在ますから、どうぞその人の処へ御出でて法をきいて下さい。
又、無所畏という大臣があったが、この大臣も亦前の人達と同じように大王をなぐさ
(2-572)
めて、尼乾陀若提子の所へ行くようにすすめた。
その時、耆婆という有名な医者があった。この人も亦、王の座所へ見舞して、申し上げるには、大王、御安眠が出来ますか。
王はこれに偈を以て答えられた。耆婆よ、私は今重病にかかっている。王法を護持し給うた父王に無道な逆害を加えた、それから起こって来た重病である。この病気は、どんな名医でも呪法〈まじない〉でも、手のとどいた巧な看病でも療治することの出来ない病気である。何故かといえば、私の父は正法を護持せられた王で、法の如くに善く国を治められ、少しも罪の在まさぬのに、私は無道の逆害を加え奉った。丁度水中の魚を陸へ引き上げたような仕業である。私は昔智者が身口意の三業の清浄でないものは必ず地獄に堕つると説いたのをきいたことがある。私は今それである。どうして安眠することが出来ようぞ。今私の病苦はいかなる大医もこの上ない名医も、法の薬を説いて治して下さることは出来ないのである。
耆婆はこれに答えていうよう。善い哉、善い哉、大王は大罪を犯し給うたけれども、今この大後悔を生じ、大慚愧の心を起こして御座る。大王よ、諸仏世尊は常に宣うよう、二つ
(2-573)
の善い法があって、衆生を救い出す、一は慚である。二は愧である。慚というは自分再び罪を作らないようにする心である。愧というは、他人をして再び罪を作らさない様にする心である。又慚は、自ら内心を省みて恥じる心ばえであり、愧はその心が露〈あら〉われて他人に対して愧〈は〉ずる心ばえである。又慚というは人前を恥じ、愧というは天に向って恥ずる心である。これが慚愧である。この慚愧心のない人は人ではない、畜生である。慚愧心があるから父母師匠目前の人を救う心も起こり、慚愧心があるから、父母兄弟姉妹の関係が結ばれるのである。大王あなたが今この慚愧の思いを充分に味おうて御座るというは誠にうれしいのであります。
大王よ、今あなたの重病を癒〈なお〉してくれる医者がないというのは、あなたの仰せられる通りであります、然し大王、よく御知りなさい。今迦毘羅城に浄飯大王の御子様で瞿曇姓で、悉達多という方があります、この方は師を待たずに独りでに覚悟〈さとり〉を開き、無上正真道を得なさりました、此の方こそ仏であります。世に最も尊ぶべき方であります。よく障碍を破ること金剛の如き智慧を有し、衆生のすべての罪過を消滅して下されます。この仏世尊があなたの重病を治して下さられんということはありませぬ。
(2-574)
大王よ、この如来には従弟の提婆達多という人があります。この提婆は衆僧の和合を破り、仏の御身体から血を出し、蓮華比丘尼を殺し、五逆罪の中三逆罪までも作った人であります。如来はこういう悪人に対して、いろいろの大切の法を御説きなされて、その重い罪を軽くして下されました。それでありますから如来を大良医と申します。六師外道を良医とは申しませぬ。
その時に空中に声あっていうよう。大王よ、一逆罪を作れば、それに相当した罪を受ける。三逆罪を作れば三倍になり、五逆罪を作れば五倍になる。大王よ、してみれば大王の今までの罪は到底堕獄を免かれないのである。大王どうぞ一時も早く如来の御許に行け、如来を除いては王を救うて下さる方はないのである。私は王の身の上が気の毒であるから、こうして来て勧めるのである。
その時阿闍世王は、この空中の語をきいて非常に怖れを懐き、丁度芭蕉の葉のように身体中ぶるぶると慄〈ふる〉わして空中を仰いで、天よ、あなたは誰方〈どなた〉でありますと問うた。空中からしては、もとの通り相〈すがた〉を顕わさないで声のみして、大王、私は王の父の頻婆娑羅である。王よ、耆婆のすすめに随って早く世尊の御許に行くがよい。決して邪見な六大臣の
(2-575)
語に迷わされてはならぬとの答があった。
この語をきいて、阿闍世王は中心の悶えの余り気絶して大地に蹄〈たお〉れた。すると身体中の瘡が一時に増して、その臭いこと、以前に倍するようになった。冷薬を塗って治績せ・しょうとしても、瘡は益々華を開いたように割れては毒熟を吐いて、増しても減ずるようなことはなかった。
日月称という大臣は富蘭那外道をすすめ、蔵徳という大臣は末伽梨拘賒梨子外道をすすめ、実徳という大臣は刪闍耶毘羅肱子外道をすすめ、悉知義大臣は阿嗜多翅舎欽婆羅外道をすすめ、吉徳大臣は婆蘇仙の言を引いて、加羅鳩駄迦旃延外道をすすめ、無所畏大臣は尼乾陀若提子外道をすすめたのである。
【余義】一。此の下正しく阿闍世王の痛烈〈はげ〉しい苦悶〈くるしみ〉を明かす。伝うる所によれば、阿闍世王は父王を幽閉して食を断たしめ、更に父王が窓を通して遥かに耆闍崛山の翠緑を仰いで釈尊を念ずる様を知りて、その窓を塞ぎ、足裏を削らしめた。かような残忍を檀〈ほしいまま〉にした間もなく阿闍世王はその子優陀耶が腫物を病んで傷々しく泣いているのを見て、可愛さ余りてその膿血を吸うてやった、母韋提希夫人はこの時傍にありて、泣いて父頻婆娑羅王が阿闍
(2-576)
世の幼少の折、矢帳りかように膿を吸われたことを告げた。王は之を聞いて、子に対する愛情から電気に撲たれたように父王の愛情を感じた。そして狂気の如く臣下を父王の牢獄に遣わして、父王の安否を見せしめたが、父王はもう此の時は息絶えてあった。阿闍世王の取り返しのつかぬ罪悪感はこの時より起って、日夜に心を噛んだのである。本文に「我父辜なきに横に逆害を加う」と自らの罪悪を摘発〈あばきだ〉して、堕獄の感に戦〈おのの〉いていることによりて明らかである。
二。六師外道中、第一富蘭那迦葉(Purana kasyapa)外道は、空見を主帳する、即ち因果を否定して自己の責任を免れんとするのである。
第二末伽梨拘賒梨子(Maskaragosali-putra)外道は常見を主帳する、人は必ず又人に生まる。そして其の人の苦楽は、生後自然に受ける、従って殺生に就いても責任を受けないというのである。
第三刪闍耶毘羅胝子(Samjayavairatti putra)は、舎利弗、目連の最初の師として有名である。人は皆前世の宿業によりて果報を獲る。これは人間の意志でどうすることも出来ないのである、故に吾等が現世に罪悪を犯しても、決して責任を受けるに及ばぬ。この理
(2-577)
を知らざるによって、人は造罪の為に苦められると云う一種の宿命論者である。
第四、阿耆多翅舎欽婆羅(Ajatakesa-kambala)外道は、自然生を主張す、即ち善悪因果を否定して、罪悪より免れんとする。そしてこの外道は髪を抜き、弊衣を着けて苦行をこととした。
第五、迦羅鳩駄迦旃廷(Karakudakatyayana)外道は、自在天外道らしい。犠牲を供えて福祉を得ることを説いている、又巧妙なる思弁を弄し、一種の哲理を説いて罪悪を否定している。
第六、尼乾陀若提子(Nirgranthajnti-putra)外道は裸形外道である。衣服という虚飾を捨て赤裸々な生活を営みて、苦行を修す。現世に苦しんでおけば来世には福徳を獲るというのである。
以上六帥外道は、当時王舎城に於いて、多くの弟子を養成し、云はば宗教家と教育者と兼帯のような資格を有し、その日常生活に於いても、思想に於いても一般人に抜きんでておった為に、衆人の尊崇を受け、祭祀を司り宗教上のことに就いて、一般人の師匠であった。彼等は亦遊行者と称せられ、各地を遍歴して道を弘めることは釈尊と同じであった。
(2-578)
そしてこれが当時印度宗教家の布教振りであったのである。
六師の説は経典の各所に断片的に説かれてある丈で、その委しい教えの内容を知ることは出来ぬ。本文にもほんの教えの筋道だけしか説いてない。されど上の記載丈にても大体の骨組を知ることが出来る。阿闍世王の逆害の苦悶を中心として、各の説が述べられてあるが、王はこれらの説によりて、苦悶をなくすることが出来なかった。いかに学説に依り思弁を弄しても、現在自分の中心に喰い込んでいる罪悪感は拭い去ることは出来ぬ。愛子の苦痛を自己の苦痛と感ずる王は、同様に父王の苦痛を自己の苦痛と感ぜざるを得ない。これは論理や学説に得たるものではない。直接経験である。その深さは実に生命とその根を一にしているのである。
かくて王は、耆婆の慰問を受けた。耆婆は頻婆娑羅王の弟の子、その母は王舎城第一の遊女であった、彼は生後直ちにその母に捨てられたが、たまたま父の王子に捨われて名医となった。そして深く釈尊に帰依し、この年(成道三十七年)もちょうど自分の邸内に釈尊を請じて雨期の修道を保護しておったのである。流石に耆婆は、深く王の中心に同情を表し、慚愧の徳を述べた。王はいま真の道に進んでいるのである。慚愧は実にその門戸であると
(2-579)
いう。王の心が釈尊に向こうた時、忽然として空中に父王の勧めを聞いた。我を殺した子を熱愛して、死すとも死せず、釈尊に行けと勧む。誠に痛烈骨に徹する趣きがある。王の最後の負け惜みの魂は、この父王の言に撲〈う〉たれて悶絶した。自力我慢の立場がなくなって、他力本願に帰する有様は実に是〈これ〉である。苛〈いやしく〉も信仰を獲る人は、何人もこの趣きを経験するのである。
三。聖人は此の引文の最後に六師と六臣を並べ上げられた。この中第五の婆蘇仙は六師の中でないが、吉徳の言葉の中にでた古仙人の名で、その人の言が全説の主要をなしているのであげられた。普通ならば、第六の迦羅鳩駄迦旃延が、婆蘇仙の位置にあるべきである。又第六の大臣無所畏を略されたのは、婆蘇仙をあげた為である。これは唯上の文の主要の人物を列挙したのである。そして『浄土和讃』の初めに、王舎城の悲劇に関係した十五人をあげて、権者とせられたように、ここにもこれら阿闍世王の苦悶に接触した人々の名を列挙して、権仮方便の聖者と感謝せらるる為であろう。これ聖人が常に自分一人の為と味わわれたことを表明しているのである。
因に『高田本』には六師六臣の配当が順序よくなっている。
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第三科 「梵行品」の文
又言
善男子 如我所言 為阿闍世王 不入涅槃。如是蜜義 汝未能解。
何以故 我言為者 一切凡夫 阿闍世王者 普及一切 造五逆者。
又復為者 即是一切有為衆生。
我終 不為 無為衆生而住於世。何以故 夫無為者 非衆生也。
阿闍世者 即是具足煩悩等者。 又復為者 即是不見仏性衆生。
若見仏性 我終不為久住於世。
何以故 見仏性者 非衆生也。
阿闍世者 即是一切 未発阿耨多羅三藐三菩提心者。{乃至}
又復為者 名為仏性。阿闍者 名為不生。
世者 名怨。以不生仏性故。
則煩悩 怨生。煩悩怨生故 不見仏性。以不生煩悩故 則見仏性。以見仏性故 則得安住大般涅槃。是名不生。
是故 名為阿闍世。
善男子 阿闍者 名不生 不生者名涅槃。世名世法。為者名不汚。以世八法 所不汚故 無量無辺阿僧祇劫 不入涅槃。
是故 我言為阿闍世 無量億劫不入涅槃。
善男子 如来蜜語 不可思議。仏法衆僧 亦不可思議。菩薩摩訶薩 亦不可思議。
大涅槃経 亦不可思議。
爾時世尊 大悲導師 為阿闍世王 入月愛三昧。入三昧已 放大光明。其光清涼 往照王身身 瘡即愈。{乃至}
白王言耆婆 彼天中天。以何因縁 放斯光明。
大王 今是瑞相 相似為及以王。先言 世無良医療治身心故 放此光 先治王身。然後及心。
王言耆婆 如来世尊 亦見念邪。
耆婆答言 譬如一人 而有七子 是七子中遇病 父母之心 非不平等 然於病子心則偏重。大王 如来亦爾。於諸衆生非不平等 然於罪者 心則偏重 於放逸者 仏則慈念。
不放逸者 心則放捨。何等名為不放逸者。謂六住菩薩。大王諸仏世尊 於諸衆生 不観種姓・老少・中年・貧富・時節・日月星宿・工巧・下賤・僮僕・婢使。
唯観衆生 有善心者。若有善心 則便慈念。
大王当知 如是瑞相 即是如来 入月愛三昧 所放光明。
王即問言 何等名為月愛三昧。
耆婆答言 譬如月光 能令一切優鉢羅華 開敷鮮明。月愛三昧亦復如是。
能令衆生 善心開敷。是故名為月愛三昧。大王 譬如 月光能令一切 行路之人 心生歓喜。月愛三昧亦復如是。
能令 修習涅槃道者 心生歓喜。是故復 名月愛三昧。{乃至}諸善中王。為甘露味。
一切衆生之所愛楽。是故復名月愛三昧。{乃至}
爾時仏告 諸大衆言 一切衆生 為阿耨多羅三藐三菩提近因縁者 無先善友。
何以故 阿闍世王 若不随順耆婆語者 来月七日 必定命終 堕阿鼻獄。
是故 近日莫 若善友。阿闍世王 復於前路聞 舎婆提毘瑠璃王 乗船入海辺 遇火 而死。瞿伽離比丘 生身入地 至阿鼻獄。須那刹多 作種種悪 到於仏所 衆罪消滅。聞是語已 語耆婆言 吾今雖聞如是二語 猶未審。定汝来 耆婆 吾欲与汝 同載一象。誤我当入阿鼻地獄 冀汝投持 不令我堕。何以故 吾昔曾聞 得道
之人 不入地獄。{乃至}
云何説言定入地獄。大王 一切衆生所作罪業 凡有二種。一者軽 二者重。若心口作 則名為軽。身口心作 則名為重。
大王 心念口説身不作者 所得報 軽。
大王昔日 口不勅殺 但言削足。大王 若勅侍臣 立斬王首。坐時乃斬 猶不得罪。
況王 不勅 云何得罪。王若得罪 諸仏世尊亦応得罪。何以故 汝父先王頻婆沙羅 常於諸仏 種諸善根。是故今日得居王位。諸仏若不受其供養 則不為王。若不為王 汝則不得為国 生害。
若汝殺父 当有罪者 我等諸仏亦応有罪。
若諸仏世尊無得罪者 汝独云何而得罪邪
大王頻婆沙羅往有悪心 於毘富羅山遊行 射猟鹿周徧曠野。悉無所得。
唯見一仙 五通具足。見已即生瞋恚悪心。我今遊猟所 以不得 正坐此人駆逐令去。
即勅左右而 令殺之。其人臨終 生瞋。悪心退失神通 而作誓言 我実無辜。汝以心口 横加戮害。我於来世 亦当如是還 以心口而害於汝。時王聞已 即生悔心供養死屍。先王如是尚得軽受 不堕地獄。
況王不爾 而当地獄受果報邪。先王自作 還自受之。云何令王而得殺罪。如王所言。
父王無辜者 大王云何 言無失有罪者 則有罪報。無悪業者 則無罪報。
汝父先王 若無辜罪 云何有報。頻婆沙羅 於現世中 亦得善果及以悪果。
是故 先王亦復不定。以不定故殺亦不定。殺不定 云何而言定入地獄。
大王 衆生狂惑凡有四種。一者貪狂 二者薬狂 三者呪狂 四者本業縁狂。
大王我弟子中 有是四狂。雖多作悪 我終不記是人犯戒。是人所作 不至三悪。
若還得心 亦不言犯。王本貪国 此逆害父王。
貪狂心与作。云何得罪。大王 如人耽酔 逆害其母 既醒悟已 心生悔恨。
当知 是業亦不得報。王今貪酔 非本心作。若非本心云何得罪。
大王 譬如幻師 於四衢道頭 幻作 種種男女・象。馬・瓔珞・衣服。
愚痴之人 謂為真実有。智之人知非真。殺亦如是。
凡夫謂実 諸仏世尊 知其非真。
大王 譬如山谷響声。愚痴之人 謂之実声。有智之人知其非真。殺亦如是。凡夫謂実。諸仏世尊 知其非真。大王 如人有怨 詐来親附。愚痴之人 謂為実親。智者了達 乃知其虚詐。殺亦如是。凡夫謂実 諸仏世尊知其非真。
大王 如人執鏡 自見面像 愚痴之人謂 為真面。智者了達 知其非真。
殺亦如是。凡夫謂実 諸仏世尊 知其非真。
大王 如熱時炎。愚痴之人 謂之是水 智者了達 知其非水。殺亦如是。
凡夫謂 実諸仏世尊知其非真。大王 如乾闥婆城。愚痴之人 謂為真実。智者了達知 其非真。殺亦如是。凡夫謂実 諸仏世尊了知 其非真。大王 如人夢中 受五欲楽。
愚痴之人謂之為実。智者了達 知其非真。殺亦如是。凡夫謂実 諸仏世尊知其
非真。大王 殺法・殺業・殺者・殺果及以解脱 我皆了之 則無有罪。
王雖知殺 云何有罪。大王 譬如有人 主知典酒 如其不飲 則亦不酔。
雖復知火 不焼燃。王亦如是。雖復知殺 云何有罪。大王 有諸衆生 於日出時 作種種罪。於月出時 復行劫盗。日月不出則不作罪。雖因日月令 其作罪 然此日月実不得罪。殺亦如是。{乃至}
大王 譬如涅槃非有 非無 而亦是有。殺亦如是。雖非有非無 而亦是有 慙愧之人 則為非有無。慙愧者 則為非無。受果報者 名之為有。空見之人則為非有。
有見之人 則為非無。有有見者 亦名為有。
何以故 有有見者 得果報故。無有見者 則無果報。常見之人 則為非有。
無常見者 則為非無。常常見者 不得為無。
何以故 常常見者 有悪業果故 是故常常見者 不得為無。以是義故
雖非有・非無 而亦是有。大王 夫衆生者 名出入息。
断出入息 故名為殺。諸仏随俗 亦説為殺。{乃至}
世尊我見世間 従伊蘭子 生伊蘭樹。不見伊蘭生栴檀樹者。我今始 見従伊蘭子 生栴檀樹。伊蘭子者 我身是也。栴檀樹者 即是我心無根信也。
無根者 我初不知恭敬如来 不信法僧 是名無根。
世尊 我若不遇如来世尊 当於無量阿僧祇劫 在大地獄 受無量苦。
我今見仏。以是 見仏所得功徳 破壊衆生煩悩悪心。
仏言 大王善哉善哉 我今知 汝必能破壊衆生悪心。
世尊若我審 能破壊衆生諸悪心者 使我常在 阿鼻地獄無量劫中 為諸衆生 受苦悩 不以為苦。
爾時 摩伽陀国無量人民 悉発阿耨多
羅三藐三菩提心。以如是等 無量人民 発大心故 阿闍世王所有重罪 即得微薄。
王及夫人 後宮 采女 悉皆同発 阿耨多羅三藐三菩提心。爾時阿闍世王 語耆婆言 耆婆我今未死已 得天身。捨於短命而得長命 捨無常身 而得常身。
令諸衆生 発阿耨多羅三藐三菩提心{乃至}
諸仏弟子 説是語已 即以種種宝幢{乃至}復以偈頌 而讃嘆言
実語甚微妙 善巧於句義
甚深秘蜜蔵 為衆故顕示
所有広博言 為衆故略説
具足如是語 善能療衆生
若有諸衆生 得聞是語者
若信及不信 定知是仏説
諸仏常軟語 為衆故説麁
麁語及軟語 皆帰第一義
是故我今者 帰依於世尊
如来語一味 猶如大海水
是名第一諦 故無無義語
如来今所説 種種無量法
男女大小聞 同獲第一義
無因亦無果 無生亦無滅
是名大涅槃 聞者破諸結
如来為一切 常作慈父母
当知諸衆生 皆是如来子
世尊大慈悲 為衆修苦行
如人著鬼魅 狂乱多所為
我今得見仏 所得三業善
願以此功徳 廻向無上道
我今所供養 仏法及衆僧
願以此功徳 三宝常在世
我今所当獲 種種諸功徳
願以此破壊 衆生四種魔
我遇悪知識 造作三世罪
今於仏前悔 願後更莫造
願諸衆生等 悉発菩提心
繋心常思念 十方一切仏
復願諸衆生 永破諸煩悩
了了見仏性 猶如妙徳等
爾時世尊 讃阿闍世王 善哉善哉 若有人 能発菩提心。当知 是人則 為荘厳諸仏大衆。大王 汝昔已 於毘婆尸仏 初発阿耨多羅三藐三菩提心。従是已来 至我出世 於其中間 未曾復堕 於地獄受苦。大王 当知 菩提之心 乃有如是無量果報。大王 従今已往 常当懃修菩提之心。何以故 従是因縁 当得消滅無量悪故。
爾時阿闍世王 及摩伽陀国挙人民 従座而起 遶仏三匝 辞退還宮。{已上抄出}
【読方】またいわく善男子、わが言うところのごとし。阿闇世王のために涅槃にいらず。かくの如きの密義、なんじいまだ解することあたわず。なにを以ての故に。わが為というは、一切凡夫、阿闇世王はあまねく一切五逆をつくるものにおよぶなり。また為はすなわちこれ一切有為の衆生なり。われついに無為の衆生のためにして世に住せず。なにをもってのゆえに、その無為は衆生にあらざるなり。阿闇世はすなわちこれ煩悩等を具足せるものなり。また為はすなわちこれ仏性をみざる衆生なり。もし仏性をみんものには、われついに
(2-589)
ために久しく世に住せず。何を以てのゆえに、仏性をみるものは衆生にあらざるものなり。阿闍世はすなわちこれ、一切いまだ阿耨多羅三藐三菩提心を生ぜざるものなり。乃至 また為はなづけて仏性とす。阿闍はなづけて不生とす。世は怨になづく。仏性を生ぜざるをもっての故に、すなわち煩悩のあだ生ず。煩悩のあだ生ずるがゆえに、仏性をみざるなり。煩悩を生ぜざるをもっての故に、すなわち仏性をみる。仏性をみるをもってのゆえに、すなわち大般涅槃に安住することをう。これを不生となづく。この故になづけて阿闇世とす。善男子、阿闇は不生になづく。不生は涅槃となづく。世は世法になづく。為は不汚になづく。世の八法をもってけがされざる所なるがゆえに、無量、無辺、阿僧祗劫に涅槃にいらず。このゆえにわれ阿闍世王のために、無量億劫に涅槃にいらずとのたまえり。善男子、如来の密語不可思議なり。仏、法、衆僧また不可思議なり。菩薩摩訶薩また不可思議なり。大般涅槃経また不可思議なり。そのときに世尊、大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧にいれり。三味にいりおわり、大光明をはなつ。そのひかり清涼にしてゆきて王の身をてらしたまうに、身の瘡〈かさ〉すなわちいえぬ 乃至
王のいわく、耆婆、かれは天中天なり。なんの因縁をもってこの光明を放ちたまうぞや。耆婆答えていわく、大王、いまこの瑞相は王のために及ぼすにあい似たり。王さきに世に良医の身心を療治するものなしというがゆえに、この光を放ちてまず王身を治す。而してのちに心におよぷ。王のいわく、耆婆、如来世尊、また見たてまつらんと念うをや。耆婆こたえてもうさく、たとえば一人にしかも七子あらん、この七子の中にやまいにあえば、父母の心平等ならざるに非ざれども、しかも病子において、心すなわち偏えにおもきがごとし。大王、如来も亦しかなり。もろ
(2-590)
もろの衆生におきて、平等ならざるに非ざれども、しかも罪者において心すなわち偏におもし。放逸のものにおいて、仏すなわち慈悲を生す。不放逸のものには心すなわち放捨す。何等をかなづけて不放逸のものとする。いわく六住の菩薩なり。大王、諸仏世尊もろもろの衆生に於いて種姓、老、少、中年、貧富、時節、日月、星宿、工巧、下賤、僮僕、婢使をみそなわさず。ただ衆生の善心あるものをみそなわす。もし善心あれば、すなわち慈念したまう。大王まさにしるべし。かくのごときの瑞相は、すなわちこれ如来、月愛三昧にいりて放つところの光明なりと。王すなわち問いていわく、なんらをかなづけて月愛三昧とすると。耆婆こたえていわく、たとえば月のひかり、よく一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆえになづけて月愛三昧とす。大王たとえば月のひかりよく一切みちをゆく人の心に歓喜を生ぜしむるが如し。月愛三疎もまたまた是のごとし。よく涅槃道を修習せんもの、心に歓喜を生ぜしむ。このゆえにまた月愛三昧となづく。乃至 諸善のなかの王なり。甘露味とす。一切衆生の愛楽することころなり。このゆえにまた月愛三昧となづく。乃至
そのときに仏、もろもろの大衆につげてのたまわく、一切衆生阿耨多羅三藐三菩提にちかづく因縁のためには、善友をさきとするにはしかず。何をもってのゆえに、阿闍世王もし耆婆のことばに随順せずば、来月七日に必定して命絶して阿鼻獄に堕せん、このゆえに、近き因は、善友にしくことなし。阿闍世王また前路においてきく、舎婆提の毘瑠璃王ふねに乗じて海辺にいりて災して死す。瞿伽離比丘、生身に地にいりて阿鼻獄にいたれり。須那刹多は種々の悪をつくりしかども、仏所にいたりて衆罪消滅しぬと。この語を聞きおわ
(2-591)
りて耆婆にかたりていわく、われ今かくの如きの二の語〈ことば〉をきくといえども、なお未だ定めて審〈あきらか〉ならず。汝きたれ。耆婆、われ汝とおなじく一象にのらんとおもう。たとい我まさに阿鼻地獄にいるべくとも、ねがわくば汝捉持して、我をして堕さしめざれ。何をもっての故に、我むかしかつてききき。得道の人は地獄にいらずと 乃至
いかんぞ説きてさだめて地獄にいると言うと。仏、大王に告げたまわく、一切衆生の所作の罪業に、おおよそ二種あり、一には経、二には重なり。もし心と口とにつくるは、則ちなづけて軽とす。身と口と心につくるは、則ちなづけて重とす。大王、心におもい、口にときて、身になさざれば、うるところの報軽なり。大王、むかし口に殺せよと勅せず、足をけずれといえりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首をきらまし。坐〈つみ〉のときに乃ちきるとも、なお罪をえじ、いわんや王勅せず。いかんぞ罪をえん、王もし罪をえば、諸仏世尊もまた罪をえたまうべし。何をもってのゆえに、汝が父先王頻婆娑羅つねに諸仏においてもろもろの善根をうえりき。このゆえに今日王位に居することをえたり。諸仏もしその供養をうけざらましかば、すなわち王たちざらまし。もし王たらざらましかば、汝すなわち国のために害を生ずることをえざらまし。もし汝、父を殺してまさに罪あるべくば、われ等諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊つみを得たまうことなくば、汝ひとりいかんぞしかも罪をえんや。大王頻婆娑羅、むかし悪心ありて毘富羅山に遊行して、鹿を射猟して曠野を周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の正道具足せるをみる。見おわりてすなわち瞋恚悪心を生じき。われいま遊猟す。得ざる所以はこの人駈り逐うて去らしむるに坐す。すなわち左右に勅して殺さしむ。そのひと終りにのぞんで瞋〈いかり〉を生ず。悪心ありて神通を退
(2-592)
失して、しかも誓言をなさく、われ実に辜なし。なんじ心口をもってよこさまに戮害をくわう。われ来世において、またまさに是の如くかえりて心口をもって、しかも汝を害すべしと。ときに王ききおわりて、すなわち悔心を生じて、死屍を供養しき。先王かくのごとくなお軽くうくることをえて、地獄におちず。いわんや、王は爾らず。しかもまさに幼獄に果報をうくべけんや。先王みずから作りて、かえりて自らこれをうく。いかんぞ王をしてしかも殺罪をえしめん。王のいうところのごとし、父の王つみなしと云わば、大王いかんぞ無といわんや。それ罪あらば、則ち罪報あらん。悪業なくばすなわち罪報なけん。なんじが父先王もし罪あることなくば、いかんぞ報あらん。頻婆娑羅、現世のなかにおいて、また善果および悪果をえたり。このゆえに先王またまた不定なり。不定なるをもってのゆえに、殺もまた不定なり。殺不定ならば、云何んしてかさだめて地獄にいらんといわん。大王、衆生の狂惑におおよそ四種あり。一には貪狂、二は薬狂、三には呪狂、四には本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかにこの四狂あり。おおく悪をつくるといえども、我ついにこの人戒を犯せりと記せず。この人の所作、三悪にいたらず、もしかえりて心をえば、また犯といわず。王もと国を貪してこれ父の王を逆害す。貪狂の心をもってためになせり。いかんぞ罪をえん。大王、ひとの耽酔してその母を逆害せん。すでに醒悟しおわりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報をえじ。王また貪酔せり。本心の作せるにあらず。もし本心にあらずばいかんぞ、罪をえんや。大王、たとえば幻師の四衢道の道のほとりにして、種々の男女、象馬、瓔珞、衣服を幻作するがごとし。愚痴の人はおもうて真実とす。有智のひとは真にあらずとしれり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもえり。諸仏世尊はそれ真にあらずとしろしめせり。大王、たとえば山谷
(2-593)
の響きの声のごとし。愚痴のひとはこれを実のこえとおもえり。有智の人はそれ真にあらずとしれり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもえり。諸仏世尊はそれ真にあらずとしろしめせり。大王、ひとの怨〈あだ〉ありて詐〈いつわ〉りきたりて親付するがごとし。愚痴の人はおもうて真実とす。智者は了達して、すなわちそれ虚く詐れりとしらん。殺もまれかくのごとし。凡夫は実とおもう。諸仏世尊はそれ真にあらずとしろしめせり。大王、ひと鏡をとりてみずから面像をみるがごとし。愚痴の人はおもうて真の面〈おもて〉とす。智者は了達してそれ真にあらずとしれり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもう。諸仏世尊はそれ真にあらずとしろしめせり。大王、熱のときの炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水とおもわん。智者は了達して、それ水にあらずとしらん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもわん。諸仏世尊はそれ真にあらずとしろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人はおもうて真実とす。智者は了達して、それ真にあらずとしれり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもえり。諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまえり。大王、人の夢のうちに五欲の楽をうくるがごとし。愚痴の人はこれをおもうて実とす。智者は了達して、それ真にあらずとしれり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもえり。諸仏世尊はそれ真にあらずとしろしめせり。大王、殺法、殺業、殺因、殺果、および解脱、われみなこれをさとれり。すなはち罪あることなけん。王、殺をしると雖どもいかんぞ罪あらんや。大王、たとえば人主ありて酒を典〈つかさど〉れりとしれども、もしそれ飲まざれば則ちまた酔わざろがごとし。また火としるといえども焼燃せず。王もまた殺を知るといえども、いかんぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありき。日の出づるときにおいて、種々のつみをつくる。月の出づるときにおいて、また劫盗を行ぜん。日月いでざるにすなわち罪をつくらしむといえども.この日月実
(2-594)
につみをえず。殺もまたかくのごとし。乃至
大王、たとえば涅槃は有にあらず、無にあらずして、而もまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有非無にして、しかもまたこれ有なりといえども、慚愧の人はすなわち非有とす。無慚愧の者はすなわち非無とす。果報を受るもの、これを名づけて有とす。空見の人はすなわち非有とす。有見のひとはすなわち非無とす。有有見の者亦なづけて有とす。何を以てのゆえに、有々見のものは果報をうるがゆえに。無有見の者はすなわち果報なし。常見の人はすなわち非有とす。無常見の者はすなわち非無とす。常々見の一ものは無とすることをえず。何を以てのゆえに、常々見のものは悪業の果あるがゆえに、このゆえに常々見のものは無とすることをえず。この義をもってのゆえに、非有非無なりと雖ども而もまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息になづく。出入の息をたつ。がるがゆえになづけて殺とす。諸仏俗にしたがいてまたときて殺とす。乃至
世尊、われ世間をみるに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹の生ずるものをみず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるをみる。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなわちこれわが心、無根の信なり。無根とは、我はじめて如来を恭敬せんことをしらず、法僧を信ぜす、これを無根となづく。世尊、われもし如来世尊にもうあわずばまさに無量阿僧祗劫において、大地獄にありて無量の苦をうくべし。われいま仏をみたてまつる。この仏をみたてまつりて、うるところの功徳をもって、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ。仏ののたまわく、大王、よきかなよきかな、我いま、汝のかならずよく衆生の悪心を破壊することをしれり。世尊、もし我あきらかによく、衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて無量劫のうちに、もろもろの衆
(2-595)
生のために苦悩をうけしむとも、もって苦とせず。そのときに摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心をおこしき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもってのゆえに、阿闍世王所有の重罪、すなわち微薄なることをえしむ。王および夫人、後宮、釆女、ことごとくみなおなじく阿耨多羅三藐三菩提心をおこしき。そのときに阿闍世王、耆婆にかたりていわく、耆婆、われ今いまだ死せずしてすでに天身をえたり。短命をすてて、しかも長命をえ、無常の身をすてて、しかも常身をえたり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ。 乃至 諸仏の弟子、この語をときをわりて、すなわち種々の宝幢をもって 乃至 また偈頌をもって、しかも讃嘆してもうさく。
実語はなはだ微妙なり 善巧句義において、甚深秘密の蔵なり。衆のためのゆえに、所有広博の言を顕示す。衆のためのゆえに、略してとかく是のごときの語を具足して、よく衆生を療す もしもろもろの衆生ありて、この語をきくことを得るものは、もしは信、および不信、さだめてこの仏説をしらん。諸仏つねに軟語をもて、衆のためのゆえに麁をときたまう。麁語および軟語、みな第一義に帰せん この故にわれいま世尊に帰依したてまつる。如来のみことは一味なること、なお大海の水のごとし。これを第一諦となづく。かるがゆえに無々義のみことをもって、如来いま種々無量の法を説きたまう所なり。男女大小、ききておなじく第一義を得しめん 無因また無果なり。無生また無滅なり。これを大涅槃となづく。きくもの諸結を破す。如来一切のために、つねに慈父母となりたまえり。まさに知るべし、もろもろの衆生はみなこれ如来の子なり。世尊大慈悲、衆のために苦行を修したまう。人の鬼魅にくるわされて、狂乱して所為おおきがごとし。わ
(2-596)
れいま仏をみたてまつることを得たり。うるところの三業の善、ねがわくばこの功徳をもって、無上道に回向せん。われいま供養するところの仏法、および衆僧、ねがわくばこの功徳をもって、三宝つねに世にましまさん。我いままさに得べきところの種々のもろもろもろの功徳、ねがわくばこれをもって衆生の四種の魔を破壊せん。われ悪知識にあいて、三世のつみを造作せり。いま仏前にして悔ゆ。ねがわくば後にさらに造ることなからん。ねがわくばもろもろの衆生、ひとしくことごとく菩提心をおこさしめん。心をかけて、つねに十方一切仏を思念せん。またねがわくば、もろもろの衆生、ながくもろもろの煩悩を破し、了々に仏性のみること、なお妙徳のごとくして等しからん。
そのとき世尊、阿闍世王をほめたまわく、善哉善哉〈よきかな、よきかな〉、もし人ありてよく菩提心をおこさん、まさに知るべしこの人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。大王、汝むかしすでに毘婆尸仏において、はじめて阿耨多羅三藐三菩提心をおこしき。これよりこのかたわが出世にいたるまで、その中間において、いまだ曾てまた地獄に堕して苦をうけず。大王まさにしるべし。菩提の心、いましかくのごときの無量の果報あり。大王、きょうより已往に、つねにまさに菩提の心を勤修すべし。何をもっての故に、この因縁にしたがいて、まさに無量の悪を消滅することを得べきがゆえなりと。そのとき阿闍世王および摩伽陀国の人民、こぞりて座より起〈た〉ちて、仏をめぐること三匝して、辞退して宮にかえりにきと。 已上抄出
【字解】一。有為衆生 無為衆生に対す。有為は為作造作の意、無為自然の働きをなすことの出来ない衆生ということ。ここでは凡夫と聖賢、縁覚の二乗を指す。
(2-597)
二。無為衆生 有為衆生に対す。麁雑な心の働きたる為作造作を離れ、無為自然の働きをなす衆生、初住以上の聖者を指す。
三。世八法 『起信論義記』下末によれば、利、衰、毀、誉、称、譏、苦、楽。人生生活には必ずこの八事ありて自他を汚すという。
四。阿僧祗劫 又は阿僧企耶、梵語アサンクフヤ(Asamkhuy)の音訳。無数、無央数と訳す。限りない長い時間のこと。
五。優鉢羅華 梵語ウトパラ(Utpala)又は尼羅烏鉢羅華(Vilatpala)ともいう。青蓮華と訳す。
六。令婆提 舎衛城のこと。梵語シュラーワスティ(Sravasti)室羅筏悉底、尸罷婆提、皆音訳。拘薩羅国の都域、釈尊在世の時、波斯匿王ここに都す。祗園精舎はこの都城の南一里の処にあり。鹿園精舎は、祗園精舎の東北一里の処にあった。
七。瞿伽離 又は瞿波離。提婆達多党の一人で、舎利弗、目連を誹謗した為に、身に悪瘡を生じ、漸次に増大して、膿血流れ、発熱甚しくして焼くが如く、ついに大鉢曇摩地獄(八寒地獄の一)に堕在したと伝う。
八。毘富羅山 摩竭陀国にある山名。梵語ヴィプラ(Vipula)広と訳す。即ち広山。山の形によりて広博脇山とも訳せらる。
九。仙人 世間を離れて、山林に生活し、神通自在の術ありという人。
一〇。五通 五神通。天眼、天耳、宿命、他心、神足通の称。
(2-598)
一一。貪狂 貪欲が本で発狂する。金銭の欲や、名誉欲や、色情のことで発狂するのはそれである。
一二。薬狂 性に合わぬ薬を呑みて発狂する。
一三。呪狂 人に呪われて発狂する。
一四。本業縁狂 過去の業因で発狂する。
一五。乾闥婆城 龍神が空中に現わす所の城廓。今の蜃気楼のこと。乾闥婆はもと西域の楽児のこと。
彼等は奇術によりて種々の幻作をなす。この城は化現の城であるから、楽児の化作に托して、この名を作ったものらしい。
一六。空見之人 罪悪の体は空なものと思う人。
一七。有見之人 罪悪の体はどこ迄もあると思う人。
一八。有有見者 有に於いて有を見る人。即ち罪悪の体は有るということを、もう一つ執着する見解。
一九。無有見 第二の有見に反対する人。罪悪の体はあることはないと云う見解。以上の四種はその内容は有無の二見であるが、論理的に四種に頒かったのである。
二〇。常見之人等 上の「有」を「常」に代えたるもの。即ち罪悪に就いて、上にはその存在(有)にて論じ、今は常恒性(常)に競いて云うの相違あるのである。
二一。伊蘭子 梵語エーランタ(Eranda)、伊蘭樹の実子)ということ。この樹は臭気強く、四十由旬(一由旬は我国の七里弱又は五里。)の間に薫じ、花は紅にして愛すべきも、之を食えば発狂して死に至ると称せらる。
(2-599)
二二。栴檀 梵語チャンダナ(Candana)、香木の名。赤白紫の数種ありて、病を治すという。この木僅かに芽を吹けば、伊蘭林の悪臭を皆失くするという。
二三。後宮 妃、きさき。
二四。采女 宮中に仕える官女。采は彩。紅粉にて化粧する女という意。
二五。天身 浄天身のこと。浄天は聖者のこと。聖者の身ということ。
二六。第一義 第一義諦のこと。即ち真如実相のこと。
二七。四種魔 煩悩魔、死魔、玉陰魔、天魔。
二八。毘娑尸仏 梵語ヰパシュイン(Vipasyin)。過去七仏の第一。人寿八万歳の時、般頭婆提城に生まれ、波波羅樹下に成道して、説法度生せりと。
【文科】同じく「梵行品」の文によりて、仏住世の因縁、逆罪消滅、闍王の獲信等をのべたまう一段である。
【講義】又同じき『涅槃経』梵行品に言わく、善男子よ、私(仏自らを指し給う)のいう通りである。私は、阿闍世王のために、命を延べて、涅槃の雲に隠れぬのである。迦葉よ、汝にはこの秘密の意味合いはいまだ解らぬであろう。何故かといえば、私が「為」というのは、一切の凡夫のためということで、阿闍世はすべて五逆罪を作ったもの共の代表に出したまでのことである。また「為」というのは、一切の有為の衆生即ち凡夫二乗のため
(2-600)
ということである。私は無為の衆生即ち真如有為を証り得た衆生のために、この世に生きているのではない。何故かといえば、無為の衆生というけれども、実は真如無為を証ったものは衆生でないからである。阿闍世というは、ひろく、あらゆる煩悩を具足した凡夫等を指すのである。また「為」というは、いまだ仏性を見ることの出来ない衆生のことである。仏性を見たもののために私はこの世に生きているのではない。何故ならば、仏性をみたものは、既に衆生でないからである。阿闍世というは、いまだ無上の菩提心を起こさないすべての衆生をひろく指すのである。また「為」というは仏性のことである。阿闍世の阿闍(アジャータ)は不生ということ、世(シャトル)は怨〈あだ〉ということである。仏性の芽を生ぜないから、一日中いろいろの煩悩の怨を生じているのである。煩悩の怨が起りづめに起こっているから仏性が見られない。もし煩悩を起こさないようになれば、本有の仏性を見ることが出来、従って、大般涅槃の証悟〈さとり〉に住することが出来るようになるのである。これを不生というのである。それで阿闍世と名づけるのである。
善男子よ、又阿闍は不生ということ、不生は不生不滅で、涅槃のことである。世は世の八法(利衰毀誉等)のことである。「為」は汚〈けが〉されないということである。誉めたり毀〈そし〉ったり
(2-601)
する世の八法に汚されないで、数限りもない長劫の間、涅槃の雲に入らず、世に住することを、阿闍世のために住すというのである。
善男子よ、如来の秘密の御語は思い識ることの出来ぬものである。仏法僧の三宝も亦不可思議である。菩薩摩訶薩も亦不可思議である。『大般涅槃経』も亦不可思議である。
その時に、大慈悲を以て世の導師となり給う世尊は、阿闍世王のために、月愛三昧に入りて大光明を放ち給うた。この御光明はいかにも清らかに涼しく、遥かに阿闍世王の辺〈そば〉にいたり、王の身を照すに、今まで見るに見られぬ全身の瘡〈かさ〉が、一時に跡形もなく癒えたのである。
阿闍世王のいうよう。耆婆よ、彼の如来は天の中でも最も勝れた天である。どういう縁由〈わけ〉で、この光明を放ち給うたのであろうか。
耆婆はこれに答えていうよう。大王よ、今此の光明を放ち給う大瑞相は、王のためにし給うのでありましょう。王が先に自分の病気を療治する医者はないと仰せられましたから、如来は先ずこの光明を放って王の身の病を療治して、それから心の病気の方に向い給うたのであります。
(2-602)
王のいわるるよう、耆婆よ、如来も亦私を見たいと思い給うであろうか。
耆婆これに答えていうよう。譬えて白〈もう〉せば、七人の子のある親は、七人の子供は皆変りなく可愛いが、その中、一人病気の子があるとすると、どうしても特別に、病気の子に心を引かるるようなもので、如来も亦この通りであります。一切の衆生を一子の如く平等に愛し給うけれども、特に罪の重いものに限をかけ給うのである。如来は放逸のものに対して慈悲の念深く、不放逸にして精進の修行の出来るものをば打ち捨て置き給う。不放逸の人とは十住位の前六位の菩薩のことで、この菩薩は打ち捨て置いても、自分のことは自分で処置をつけて行く力があるからである。大王よ、諸仏如来は衆生の氏や素性や、老若貧富の区別や、衆生の生まれた時節、日月、星宿の具合とか、手仕事をするものとか、身分が卑しいとか召使いだとか、そういうことを観給わず、ただ衆生に善心──喩えば慚愧心の如き──の有る無しをみて、善心あるものがあれば、自ら喜び給うて、慈悲愛憐の念を垂れ給うのである。大王よ、私共の先程見奉った瑞相は、如来が、月愛三昧に入って、その定中より放ち給うた光明であります。
王問うて曰わく。月愛三昧とは何のことであるが。
(2-603)
耆婆答えて曰わく。譬えて申しますと、月の光にはすべての青蓮華を鮮明〈あざやか〉に花咲かせるはたらきがあるように、月愛三昧には衆生の善心を起こさしむるはたらきがあります。それで月愛三昧と名づけます。
又譬えて申せば、月の光はすべての路行く人に歓喜をあたえるように、月愛三味も涅槃の道を辿る修行者に歓喜を与え給うのであります。それで月愛三味と名づけます。
又この三昧は、あらゆる善の中の王であります。甘露の味のあるものであります。すべての衆生の非常によろこび願うものであります。それで月愛三昧と名づけます。
其の時に、釈迦牟尼如来は、会座の大衆に告げ給うよう。すべての衆生が、無上正真道のさとりを得る一番近い因縁となるものは、善き友即ち善知識である。何故かといえば、阿闍世王が耆婆のすすめに随わなかったならば、王は来月七日に必ず生命終って、無間地獄に墜つる筈であったのである。それであるから、さとりを得る大切な近い因縁は、善知識である。
阿闍世は、仏の御許へ参ろうとする途中で、舎衛城の毘瑠璃王が災難を避けんがために船に乗って海に入り、却って船火事に遇うて死んだということ、瞿伽離比丘が
(2-604)
生きながら、大地が裂けて無間地獄に堕ち込んだこと、須那刹多はいろいろの悪事を積んだが、仏の御許へ走って、すべての罪の消えたことをきき、耆婆に語っていうようには、こういう二つの事柄、即ち毘瑠璃王と瞿伽離比丘が仏に帰依せずして災に遇うたことと、須那剃多が仏の御許へ参って罪の消えたことと二つの事柄をきくけれども、私は猶迷うている。耆婆よ、私は御前と一緒に同じい象に乗ろうと思う。そうすれば、たとい私が無間地獄へ堕ちようとしても、御前が押えて堕とさしめぬであろう。何故ならば、私は曾て道を得た聖者は決して地獄に堕ちないと聞いて居るからである。すれば私も御前と一緒に居れば地獄へ堕つることはないであろう。
仏、阿闍世王に告げ給わく。すべての衆生のつくる罪に軽罪と重罪の二種類がある。心と口で造る罪は軽罪であるが、身と口と心に造る罪は重罪である。大王よ、心に何々させようと思うて、それを口に顕わした丈で、身体を以てなさなければ、罪も軽く、従ってその人の受くる報いも経いのである。
大王よ、王は昔、父の王を殺せとは命ぜず、ただ禁足して幽閉せよと命ぜられた丈である。たとい大王が侍臣に王の首を斬れと勅命を下して、直ちに王の首を斬っても、猶
(2-605)
自ら手を下さぬのであるから重罪にはならぬ。況んや王ば殺せと命ぜられたのでないから重罪にはならぬ。もし王が重罪を得るというならば、諸仏世尊も亦罪を得給う訳である。何故ならば、王の父頻婆娑羅王は過去世に於いて常に諸仏如来を供養し奉って善根を植え、その善根に依って、今生に王位に昇ったのである。もし諸仏如来がその供養を受け給わなんだならば、頻婆娑羅王も王位に昇らなんだであろうし、従って王も国を奪わんとして殺害するようのこともなかったであろう。王が父の王を殺して重罪あらば、諸仏も亦罪を得給う訳である。諸仏に罪がなくて、王独り罪ある道理はない。
大王よ、昔、王の父頻婆娑羅王は、狂悪の心を懐いて毘富羅山に遊び、鹿を得ようとしてはてしない野をさまよい歩いたが、一頭も得ることが出来ず、不図〈ふと〉、五通を具えた一仙人を見出して、大に怒り、一頭の鹿も得られぬのは、畢竟この仙人が鹿を逐いやったからであると無理なことを思うて、左右の侍臣に命じて仙人を殺さしめたのである。仙人はその臨終に瞋恚の炎を燃やし、五神通を失い、誓を立てていうには、私には罪がないのだ。汝が心と口とに依って私を殺させるのだ。よし私も来生は、汝のした通りに心と口とを以て汝の命をとって復仇するであろうと。頻婆娑羅王はこの呪いの語をきいて、後悔をして、
(2-606)
懇ろに仙人の屍〈かばね〉を供養した。頻婆娑羅王は自ら殺せと命じてこの大罪を犯したけれども、懺悔の力に依って報は軽く地獄に堕ちずに済んだのである。況んや王は殺せと命じたのでないから、王独り堕獄の果報を受けるということはないのである。今度のことは頻婆娑羅王が自ら作って、自らその果報を受けた丈のことである。どうして王が殺逆罪を作ったと曰われようぞ。王は父の王に辜〈つみ〉はないといわれるけれども、どうして罪がないと云われようぞ。罪があるから罪の報いがあるので、罪がないなら罪の報はないのである。王にも罪がないならば、どうして報があろうぞ。頻婆娑羅王は現生に国王の善果と殺害の悪果とを得て居る。それであるから先王は善果の人とも、悪果の人ともいうことが出来ぬ。不定の人である。この不定の人を殺したのであるから、罪も亦重いとも軽いとも名づけられぬ。不定の罪であるから、吃度地獄へ堕ちるとは定められぬ。
大王よ、衆生の狂気に四種類ある。一には貪欲の煩悩が高じて狂気になったもの。二には薬を呑んで狂気になったもの、三には呪詛〈のろ〉われて狂気になったもの。四には過去の業報で狂気になったものの四種類である。大王よ、私の弟子の中にもこの四類の狂者がある。それであるから、私は弟子が罪を作り戒を犯しても、狂気でしたことならば、その人は
(2-607)
戒を犯したとは云わぬ。この狂者の所作は三悪道に堕する罪とはならぬ。正気になれば、戒を犯さぬのであるからである。王も亦、昔国をとりたいという欲から父の王を殺したので、つまり貪狂心でした仕事である、これをどうして罪だということが出来よう。大王、譬えば酒に泥酔して母を殺して酒が醒めて後悔するようなもので、この泥酔の所作は罪とはならぬ。王も亦貪欲の煩悩に酔わされて無道のことをしたので、実は本心ではなかったのである。本心でしたことでなければ、どうして罪を得るといわれようぞ。大王、譬えば幻術者が町の四角で、男女、象馬、瓔珞、衣服のいろいろのものを作り出すを見て、愚かな人は真実のものだと思い、智慧ある人は真実のものでないと知って居る。殺害も丁度その如く、凡夫は実事〈まことのこと〉と思うけれども、諸仏世尊は殺すの殺されるのということはないことを知り給うから、幻であると知り給うのである。又大王、譬えば山彦の様なもので、愚かな人は真実の声と思うけれども、智慧ある人は真実の声でない、ほんの反響であると知っている。殺害もその通りで、凡夫は真実の殺害と思うけれども、諸仏如来は真実のものでなく幻に過ぎないと知り給うのである。大王よ、譬えば怨みを懐いて居る人が、詐って阿訣〈おもねり〉するのに、愚かの人はまことの事と思い、智者は腹を見抜いてその詐りを
(2-608)
看破するようなものである。殺生罪についても、凡夫はまことの事と思い、諸仏世尊はその幻を知り給うのである、大王よ、又譬えば鏡に向って写ったすがたをみて、愚かのものはまことの顔と思い、智慧あるものは鏡中の影であると知るように、殺生についてもその通り、凡夫はまことごとと思い、諸仏世尊はその幻なることを知り給うのである。大王よ、又譬えば陽炎をみて、愚かのものは水と思い誤り、智者は水でないと知るように、殺生についてもその通り、凡夫はまことごとと思い、諸仏世尊は幻であると知り給うのである。大王よ、又譬えば尋香城(蜃気楼)をみて、愚かなものは真実の城と思い、智慧あるものは化城ということを知るように、殺生に就いてもその通り、凡夫はまことと思い、諸仏世尊はその幻なるを知り給うのである。大王よ、又譬えば、人が夢の中で五欲の楽を得るを、愚かな人は現実のことと思い、智者は夢の中のことと悟るように、殺生に就てもその通り、凡夫はまことのことと思い、諸仏世尊はその幻なるを知り給うのである。大王よ、私は殺生の法も正しく殺生することも、殺生の因も、殺生の果も及びその解脱法もすべてみな知っているけれども、殺生をしたことがないから罪がない。王も殺生を知るけれども、これでどうして罪があると曰われよう。譬えば、人あって酒のことを主〈つかさど〉り、酒
(2-609)
のことはよく知って居るけれども、もし飲まなければ、酔うということがなく、復たとい火のことを知っていてもそれ丈で火は物を焼かぬように、王もその通り、殺生のことを知って居っても、それでどうして罪があると云われよう。大王よ、衆生あって、日の出て居る時に種々の罪を造り、月の出ている時に、強盗をはたらき、日も月も共にない時に、罪悪をせなんだとすれば、日と月とに依って罪を作ったということになるが、それでも日も月も罪あるとは云われないように、殺生についても亦その通りである。
大王、又譬えば涅槃の実性は有とも云われず、又無ともいわれず、而もその業用のある辺からいえば有と云わねばならぬと同じである。殺生もその実体からいえば、有ともいわれず、無ともいわれず、業用からいえば有と曰わねばならぬものである。慚愧心ある人に対しては非有であり、慚愧心のない人に対しては非無であり、その果報を受けた人からいえば有である。又諸法の本性本来空なるを知る人には非有である。万有実在の迷妄に囚〈とら〉われている人には非無である。この有見を執じている人には有である。何故ならば、この有々見の人は罪の果報を受けるからである。この有見を持たず、罪体の空なるを知る人には罪の果報はない。又涅槃の本性の常住寂滅なることを了解して居る人には非有である。こ
(2-610)
の涅槃の常住寂滅を知らない人には非無である。又この常住寂滅を執著している人には有である。何故ならば、この常住寂滅を執著している人には罪の果報〈むくい〉があるから有といわねばならぬのである。
それであるから、殺生の実体は、非有であり、非無であって、而もその業用〈はたらき〉から云えば有といわねばならぬ。
大王よ、一体衆生というは出たり入ったりする息を名づけたものである。この出入の息を断ち切って仕舞うのを殺害というのである。五蘊もと無常なれば、殺害ということはないのであるけれども、諸仏世尊は世俗の人々に従って仮りに説いて殺害ということをいわれるのである。
その時、阿闍世王は世尊に左の如く申し上げた。世尊よ、私は世間を見渡しますに、伊蘭という毒樹の実からは伊蘭の樹が生えます。伊蘭の実から旃檀の樹の生えたことを見たことはありません。然るに今私は初めて、伊蘭の実から旃檀の樹の生じたのを見ました。伊蘭の実というは、私のことであります。栴檀の樹というは、私の心に生えた根のない信仰のことであります。根のないというのは、私は今まで恭しく如来に事〈つか〉え奉ったこと
(2-611)
もなく、法宝、僧宝を信じたこともない者でありますが、こう云う者へこの信仰の生じて下されたのは、真実に根のない処へ生えた樹のようであるから申したのであります。世尊、もし私にして、如来世尊に御遇い申すことが出来なんだならば、私は無量永劫の間、地獄へ堕ちて限りのない大苦悩を受けねばならぬのでありました。私は現に今仏を拝し奉っていますが、願くば、この見仏のあらゆる功徳を以て、未来の衆生の煩悩を破りたいと思います。
仏の宣うよう。大王よ、善い哉、善い哉、汝のその功徳を以て未来衆生の煩悩を破り悪心を除き得ることは今、私の見透している所である。
阿闍世王の申し上ぐるよう。世尊、もし私が衆生の悪心を破ることが出来ますならば、私は無間地獄にあって無量永劫の間、衆生のために苦悩を承け通しに承けても苦しいとは思いません。
この阿闍世王の語をきいて、摩伽陀国の数多い国民が一時に大菩提心を起こした。これらの数多い人々が大菩提心を起こしたために、阿闍世王の重い罪は、大いに薄らぐ事が出来た。
阿闍世王を始めとし韋提希夫人、その他奥御殿の釆女達も皆、一様に大菩提心を超こされ
(2-612)
爾の時に、阿闍世王、耆婆に語って申さるるよう。私は近い中に死ぬべき身であり乍ら、死を免かれて、聖者の得給う身体を得た。短かい命を捨てて、無量寿の生命を得た。無常の身体を捨てて、常住の身体を得た。その上、私のことが御縁となって多くの衆生をして無上菩提心を発さしめた。実に何という不可思議なことであろうか。
真の仏弟子──諸の仏弟子とあれども、今はこの意味に用いられるのである──たる阿闍世王は、耆婆に対して右の如く語った後に、いろいろの宝幢を以て、仏を供養し奉り、更に次の偈を以て仏を讃嘆し奉った。
如来の説き給う御語には皆真実〈まこと〉と微妙〈いみじさ〉とがこもっている。如来は能詮〈ときて〉の言句〈ことば〉にも、所詮〈とかれて〉の義理にも巧みに在す。如来の御語には甚深にして量〈はか〉るべからざる秘密の意味が包まれてある。衆生のために時には広く説き、時には略して説き給う。如来はこういう種々の御語を以て、衆生の病を治し給う。もし衆生にして、この如来の御語を聞けば、信ずるものはいうまでもなく、信ぜざるものも、遂には疑い晴れて、まことの仏説を信ずるようになる。如来は常に柔軟〈やわらか〉な語〈ことば〉を以て法を説き給うが、時あって、衆生のためとあれば麁
(2-613)
暴な語を須い給うこともある、けれども軟語と麁語とに拘らず、その肝要たる第一義諦に離れ給うようなことはない。それであるから、私は今世尊に帰依し奉るのである。
如来の御語はいつでも変り給うことなく一実相の御法を説き給うから、一味である。猶、大海水の常住同味であると同じい。これを第一諦と名づけるのである。それであるから、如来には意味のない御語というものはない。如来は今いろいろの数多い法を説き給うたが、男女老少の人々をして、同様に、第一義の涅槃を証〈さと〉らしめんためである。この第一義の涅槃というは、因もなく果もなく、又生もなく減もないもので、これを大涅槃と名づけるのである。この説法を聞く人々はみな自己の煩悩を除き去るを得るのである。如来は、すべての衆生のために、常に慈悲の父母となりて、愛憐し給うのであるから、衆生はすべてこれ如来の子である。如来は衆生を助けたいという大慈悲を以て、衆生に代って、難行苦行をつとめ給い、さながら、魔物につかれて、狂心して、種々雑多のことをする人のように在ます。
私は、今幸いに仏を見奉ることが出来たが、願わくばこの見仏に依って得た身口意三業の功徳を、この上ない菩提の道に指し向けたい。今私が三宝を供養し奉る功徳に依
(2-614)
って、三宝、永くこの世に在〈おわし〉まして衆生のために光となって頂きたい。今私の獲まする種々の功徳を以て、諸の衆生の修道上の魔縁を退治したい。
私は甞て悪い友達に欺かれて、過去未来現在三世の罪を作った。私は今如来の御前に於いて懺悔をいたします。願わくば仏力に依って再び悪をしないようにしたい。すべての衆生が、心をこの方面に注いで、一心に十方法界のすべての諸仏を念じ奉り、自ら長く、自分の煩悩を断ち切り、明了〈あきらか〉に仏性を見ること、文殊菩薩のようにならんことを切に祈るのである。
爾の時に、世尊は阿闍世王を讃めて宣うよう。もし一人でも、大菩提心(他力の信心)を発すものがあるならば、この人は諸仏説法の会座の大衆を荘厳するのである。大王よ、王は昔已〈すで〉に毘婆尸仏の御許に於いて大菩提心を起した。それ以来、今日私の出世に至るまで、未だ一度も地獄へ堕ちて苦悩を受けたことはなかったのである。大王よ、菩提心にはこのような限りない大果報があるのである。大王よ今より以後、常にこの菩提心を失わないようにつとめねばならぬ。何故ならば、この大菩提心に依って量られぬ程多い罪悪を滅することが出来るからである。この説法をきいて、阿闍世王及び摩伽陀国の人民は、そ
(2-615)
の座を立ち、仏を三遶りして、会座を去り、阿闍世王は宮に帰ったのである。
【余義】一。此の引文、正しく阿闍世王の帰仏を説く。その中、初めに釈尊「阿闍世王の為めに涅槃に入らず」という密義を説き給う。そしてその密議を広説せられた。阿闍世王とは、一切の五逆を造る者、一切有為の凡夫及び仏性を見ざる者の謂いであると人に付いて三釈をあげられた。即ち他力信心を得ざる一切迷妄の凡夫の為に涅槃に入らずと仰せられる。次に法に付いて二釈をあぐ。初めは阿闍世王の煩悩に解し、次は涅槃仏性となす。
かくの如く釈尊は、逆悪の阿闍世に就いて具体的に考え、抽象的に思考せられ、無量永劫涅槃に入らずに化他の大益を施し給うを説かれた。是れ実に仏世尊の胸中の秘密である。この逆悪の凡夫の為に初めて如来の本願が説かれるのである、これを本文に「如来の密語不可思議なり。仏法衆僧も亦不可思議なり」等と仰せられた。良に如来の真の御言葉は不可思議である。真の三宝も不可思議である。これを信受する修道者(菩薩)も亦不可思議である。是れ如来の不可思議の誓願の然らしむる所である。今や阿闍世王が耆婆に勧められて仏法に入らんとする心機を見そなわし、即ち月愛三昧に入りて、まず身の病を治し、次に凝りに凝った王の罪悪観の欝血を、八方より実例を挙げて、散らされた。徒〈いたずら〉に機
(2-616)
を儚むは、生命に入る所以でない。罪に執著する心を払わねばならぬ。而もその罪を全く否定し去るような捌きをつけるのではない。罪の執着を払い給う所に、罪悪を愍み給うやるせなき大慈悲が濺〈そそ〉がれるのである。それが如来の秘密である。五逆罪を造る一切衆生の為に涅槃に入らずとは、「若不生者、不取正覚」の大慈悲である。文中、衆生の狂惑四種を説き給う所に、狂惑の自覚を促し給うやるせなき大慈悲が溢れている。この狂惑の自覚がそのま、無限の生命である。本願に摂取せられた所である。これが狂惑を愍み給う大悲心の徹透〈すきとお〉った所である。
果然、王は心中限りなき喜びを感じ、力を感じ、生命を感じ、無限の希望を感じた。これ実に本願他力の表顕〈あらわれ〉である。伊蘭の心より、栴檀の信が生じたのである。煩悩に根のない如来回向の信心である。この無限の生命に蘇った王は、無限の希望を感じて「我、審〈つまびらか〉に能く衆生の諸の悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中に諸の衆生の為に苦悩を受けしむるも、以て苦とはせじ」と叫んだ。これそのまま「我行精進、忍終不悔」の仏心である。自力の大苦悩のどん底から、他力の大信心に浮み上った一念の喜びである。
(2-617)
然るに阿闍世王のこの言葉が、余りに偉大であるというので、之を以って阿闇世王を権者とする証文に擬するのは、余りに斧鑿に過ぎていると思う。聖人は何もそれらの文字に依りて阿闍世王を特に権者とせられたのではない。文字の如何に係らず、信仰上全体として、我一人の為の権者と味わわれたのである。それであるから、権者であると同時に又実業の凡夫である。
二。王は亦先に自分を導いて呉れた耆婆に対して自督を述べた。「我いまだ死せずして已に天身を得たり」等と心ゆくばかりその豊な心境を披瀝した。ここにいかなる罪悪にも妨げられぬ本願の一道がある。『和讃』に
罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて
氷多きに水多し さわり多きに徳多し。
と仰せられ『嘆異鈔』初めには
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに、
悪をも恐るべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
進んで第七節には
(2-618)
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には、天神地祗も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずること能わず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと、云々
今やこれ等の文の具体的の表現がこの阿闍世王の入信である。清沢満之師の『我信念』の終りに
無限大悲の如来は、如何にして私にこの平安を得せしめたまうか。外ではない、一切の責作を引きうけて下さることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も如来の前には毫も障りにならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも私は只自分の気の向かうところ、心の欲する所に順従〈したが〉うて之を行うて差支えはない。その行いが過失であろうと罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は私の一切の責任を負うて下さることである。私は只この如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。
と云われたのは、全くこの阿闍世王の心持ちと軌を同じゅうしているのである。この心境は側から、勝手に極めた善悪の標準をもって、かれこれ批評すべきものではない。全く一人一人
(2-619)
が命懸けに当面〈ぶつか〉って見なければ解らないのである。人生というもの、自分というものの最後に表われた一筋道である。故に聖人は上の三心釈の終りに
おおよそ大心海を按ずれば、 乃至 造罪の多少をとわず、修行の久近を論ぜず、行にあらず、善にあらず、乃至 唯これ不可思議、不可称、不可説の信楽なり。たとえば阿伽陀薬の、よく一切の毒を滅するが如し。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。
良〈まこと〉に滔々たる絶対の天地である。そしてこれ亦吾等の親しく実験する所である。先人と後人と、同一心海に波打つ感じがある。
第四科 「迦葉品」の文
又言
善男子 羅閲祇王頻婆沙羅 其王太子
名曰善見。業因縁故 生悪逆心 欲害其父 而不得便。
爾時悪人提婆達多 亦因過去業因縁故 復於我所 生不善心 欲害於我。
即修五通 不久獲得与善見太子共 為親原。為太子故 現作種種神通之事。従非門出 従門而入 従門而出 非門而入。或時示現 象・馬・牛・羊・男子之身。
善見太子見已 即生愛心・喜心・敬信之心。為是本故 厳説種種供養之具 而供養之。
又復白言 大師聖人 我今欲見曼陀羅華。時提婆達多 即便法至三十三天 従彼天人而求索之 其福尽故 都無与者。既不得華。作是思惟曼陀羅樹 無我・我所 若自取当有何罪。即前欲取便失神通。
還見己身 在王舎城。心生
慙愧 不能復見善見太子 復作是念 我今当往至如来所 求索大衆。
仏若聴者 我当随意 教詔勅便舎利弗等。
爾時提婆達多 便来我所 作如是言 唯願如来 以此大衆付嘱於我。
我当種種説法 教化令其調伏。我言痴人 舎利弗等 聴聞大智 世所信伏。我猶不以大衆付嘱。
況汝 痴人食唾者乎。時提婆達多 復於我所 倍生悪心 作如是言 瞿曇汝今雖復調伏大衆 勢亦不久。当見磨滅。
作是語已 大地即時六反震動。提婆達多尋時躄地 於其身辺出大暴風 吹諸塵土而汚坌之。提婆達多 見悪相已 復作是言 若我此身 現世必入阿鼻地獄 我悪当報如是大悪。
時提婆達多 尋起往
至善見太子所 善見見已 即問聖人 何故顔容憔悴 有憂色邪。
提婆達多言 我常如是 汝不知乎。善見答言 領説其意 何因縁爾。
提婆達言 我今与汝極成親愛。外人罵汝 以為非理。我聞是事 豈得不憂。
善見太子 復作是言 国人云何罵辱於我。提婆達言 国人罵汝 為未生怨。
善見復言 何故名我 為未生怨誰作此名。提婆達言 汝未生時 一切相師 皆作是言 是児生已 当殺其父。是故外人 皆悉号汝為未生怨。一切内人 護汝心故 謂為善見。毘提夫人聞是語已 既生汝 身於高楼上 棄之於地 壊汝一指。
以是因縁 人復号汝為 婆羅留枝。我聞是已 心生愁憤 而復不能向汝説之。
提婆達多 以如是等 種種悪事 教令殺父。
若汝父死 我亦能殺瞿曇沙門。善見太子 問一大臣 名曰雨行。
大王何故 為我立字作 未生怨。大臣即為説其本未。
如提婆達所説無異。善見聞已 即与大臣 収其父王 閉之城外 以四種兵 而守衛之。
毘提夫人 聞是事已 即至王所。時守王人 遮不聴入。爾時夫人 生瞋恚心 便呵罵之時 諸守人 即告太子 大王夫人 欲見父王 不審聴不。善見聞已復 生瞋嫌 即往母所 前牽母髪 抜刀欲斫。
爾時耆婆白言 大王有国已来 罪雖極重 不及女人。況所生母 善見太子聞是語已 為耆婆故 即便放捨 遮断大王衣服・臥具・飲食・湯薬。過七日已 王命便終。
善見太子 見父喪已 方生悔心。雨行大臣 復以種種悪邪之法 而為説之。
大王 一切業行 都無有罪。何故今者而生悔心。耆婆復言 大王当知 如是業者 罪業二重
一者殺父王 二者殺須陀洹。如是罪者 除仏更無能除滅者。
善見王言 如来清浄 無有穢濁。我等罪人 云何得見。
善男子 我知是事。
告阿難 過三月已 吾当涅槃故 善見聞已 即来我所。我為説法 重罪得薄 獲無根信。
善男子 我諸弟子 聞是説已 不解我意故 作是言 如来定説畢竟涅槃。
善男子
菩薩二種。一者実義 二者仮名。仮名菩薩 聞我三月 当入涅槃 皆生退心 而作是言 如其如来 無常不住 我等何為。
為是事故 無量世中 受大苦悩。如来世尊 成就具足無量功徳 尚不能壊。
如是死魔。況我等輩 当能壊邪。善男子 是故我為如是菩薩而 作是言 如来常住無有変易。我諸弟子 聞是説已 不解我意 定言 如来終不畢竟入於涅槃。{已上抄出}
【読方】またいわく、善男子、羅閲祗の王頻婆娑羅、その王の太子なづけて善見という、業因縁のゆえに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに而も便〈たより〉をえず。そのときに悪人提婆達多、また過去の業因縁によるがゆえに、また我所〈わがところ〉において不善の心を生じて、われを害せんと。すなわち五通を修して、久しからずして獲得せり。善見太子とともに、親厚たり。太子のためのゆえに、種々の神道の事を現作す。門にあらざるよりいでて、門よりしていり、門よりしていでて、門に非ざるよりしている。あるときは象馬、牛羊、男子の身を示現す。善見太子みおわりて即ち愛心、喜心、敬信の心を生ず。これを本とするがゆえに、厳しく種々の供養の具を設けて、しかもこれを供養す。
また白してもうさく、大師聖人、われいま曼陀羅華を見んとおもうと。ときに起婆達多、すなわち三十三天に往き至りて、かの天人に従いて、しかも之を求索するに、その福つくるがゆえに、都てあたうるものなし。すでに華をえず。この思惟をなさく、曼陀羅樹は我々所なし、もし自らとらんにまさに何の罪かあるべき。即ちすすんで取らんとするに、すなわち神通をうしなえり。かえりて己身をみれば王舎城にあり。心に
(2-624)
慚愧を生ずるに、また善見太子に見ゆること能わず。またこの念をなさく、われ今まさに如来のみもとに往至して、大衆を求索すべし、仏もし聴さば、われまさに意に随いて、教えてすなわち舎利弗等に教詔勅使すべしと。
そのときに提婆達多、すなわち我ところに来りてかくのごときの言をなさく。唯ねがわくば如来、この大衆をもってわれに付属せよ。我まさに種々に法をときて教化してそれをして調伏せしむべしと。われ痴人にいわく、舎利弗等は聴聞の大智なり。世に信伏せらる。われなお大衆をもって付属せず。いわんや汝痴人、唾を食うものをやと。ときに堤婆達多、また我所においてますます悪心を生じて、是のごときの言をなさく、瞿曇、なんじいままた大衆を調伏すといえども、勢いまた久しからじ。まさに磨滅せらるべしと。この語をなしおわるに、大地即時に六反震動す。提婆達多すなわちの時に地にたふれて、その身の辺より大暴風をいだして,もろもろの塵士をふきて、而もこれを汚坌す。提婆達多、悪相をみおわりてまたこの言をなさく、もし我この身現世にかならず阿鼻地獄にいらば、我必ずまさにかくのごときの大悪を報うべし。ときに提婆達多すなわちたちて善見太子のところに往至す。善見みおわりてすなわち聖人に問わく、なんがゆえぞ顔容憔悴して憂えの色あるやと。提婆達多いわく、われ常にかくのごとし、汝しらずやと。善見にこたえていわく、願わくばそのこころを説くべし。なんの因縁あってしかると。提婆達多のいわく、我いま汝がために、きはめて親愛をなす。外人、汝を罵てもて非理とす。我この事をきくにあに憂えざることをえんや。善見太子またこの言をなさく、国の人いかんぞ我を罵辱すると。提婆達のいわく、国の人、汝を罵りて来生怨とすと。善見またいわく、なんがゆえぞ我をなづけ
(2-625)
て来生怨とする。誰がかの名をなすと、提婆達のいわく、汝いまだ生まれざりしとき、一切相師みなこの言をなさく、この児うまれ已わりてまさにその父を殺すべし。このゆえに外人、みなことごとく汝を号して来生怨とす。一切内のひと汝が心を護るがゆえに、いいて善見とす。毘提夫人この語を聞きおわりて、すでに汝が身を生まんとして高楼のうえよりこれを地にすてて、汝が一の指をやぶれり。この因縁をもて人また汝を号して娑羅留枝とす。我これを聞きおわりて心に愁憤を生じて、しかもまた汝に向いて之を説くことあたわず。提婆達多、かくの如きらの種々の悪事をもって、おしえて父を殺さしむ。もし汝が父死せば、われ亦よく瞿曇沙門を殺さんと。
善見太子ひとりの大臣にとわく、なづけて雨行という。大王なんがゆえぞ我に字を立てんとするに、未生怨と作ると。大臣すなわち為にその本末をとく。提婆達の所説のごとくして異なし。善見きき已りてすなわち大臣とともにその父の王を収〈とり〉て、これを城のほかにとじて、四種の兵をもて而もこれを守衛せしむ。毘提夫人この事をききおわりて、すなわち王のところに至る。時に王を守る人、遮ぎりて入ることをゆるさず。そのときに夫人瞋恚の心を生じてすなわち之を呵罵〈せめののし〉る。ときに諸の守人、すなわち太子につぐらく、大王の夫人、父の王をみんと欲うをば、いぶかし、聴〈ゆる〉してんやいなやと、善見ききおわりてまた瞋嫌を生じて、すなわち母のところにゆきて、すすんで母の髪をひきて、刀を抜きて斫らんとす。そのときに耆婆白していわく、大王、国を有〈たも〉ちてより已来、罪きわめて重しといえども、女人におよばず。いわんや所生の母をやと。善見太子この語
(2-626)
をききおわりて、耆婆のためのゆえに、すなはち放捨す。さえぎりて大王の衣服、臥具、飲食、湯薬をたつ。七日を過ぎおわりて、王の命すなわちおわりぬと。
善見太子父の喪をみおわりてまさに悔心を生ず。雨行大臣また種々の悪邪の法をもって、而もために之をとく。大王一切の業行すべて罪あることなし。何がゆえぞ、いましかも悔心を生ずるやと。耆婆またいわく、大王まさに知るべし。かくのごときの業は罪業二重なり。一には父の王を殺す。二には須陀洹を殺せり。かくのごときの罪は仏を除きてさらによく除滅したまう者なけんと。善見王のいわく、如来は清浄にして穢濁ましますことなし。われら罪人、云何してか見たてまつることをえん。善男子、われこの事をしれり。阿難につげたまわく、三月を過ぎおわりて、吾まさに涅槃すべきがゆえに。善見きおわりりて、即ち我ところに来れり。我ために法をときて重罪をしてうすきことをえしめ、無根の信をえしむ。
善男子、我もろもろの弟子、この説をきき已りて、我意をさとらざるがゆえに、この言をなさく、如来さだめて畢竟涅槃とときたまえり。善男子、菩薩に二種あり。一には実義、二には仮名なり。仮名の菩薩はわれ三月ありてまさに涅槃にいるべしとききて、みな退心を生じて、而もこの言をなさく、もしそれ如来無常にして住したまわずば、我等いかがせん、この事のためのゆえに、無量世のうちに大苦悩をうけき。如来世尊は無量の功徳を成就し具足したまえるに、尚かくの如きの死魔を壊することあたわず。いわんや我等がともがら、当によく壊すべけんやと。善男子、このゆえに我かくのごときの菩薩のために、而もこの言をなさく、如来は常住
(2-627)
にして変易あることなし。我もろもろの弟子、この説を開き已りて我意〈わがこころ〉をさとらざれば、さだめていわく、如来はついに畢竟して涅槃にいらずと。 已上抄出
【字解】一。羅閲祗 梵語ラ―ヂャグリハの音訳。王舎城のこと。
二。善見太子 阿闍世太子のこと。上五六〇頁を看よ。
三。曼陀羅華 梵語マンダラ(Mandara ormadara)天妙華、白華と訳す。高潔にして色香よく、見る者、意に適〈かな〉う故に、適意華ともいう。
四。三十三天 梵語トラーヤストリンシャ―フ(Trayastrmsah)忉利天ともいう。六欲天の第二、閻浮提より八万由旬の上、即ち須弥山の項にあり、城廊八万由旬にして、三十三天に別れ、帝釈天これを結〈す〉ぷ。人間の百年を以て一日一夜として、千年を寿命とす。換算すれば、人寿三億六千万歳である。
五。我 自我のこと。俗に「おれが」というもの。主観の中心にして、常、一、主、宰を内容としている。即ち「いつも、自分一人が、王者のように、我儘自由の出来るもの」が「我」の自性である。
六。我所 自我の所有物。自己の身体を始めとし、眷族、財宝、名誉等、凡て「おれがもの」の中へはいれるものの全称。
七。舎利弗 釈尊の大弟子。梵語シャーリプトラ(Sariputra)本名優波低沙(Upatosya)王舎城の東南
(2-628)
一里半迦羅臂拏迦(Kalapinaka)邑に生まる。友人目連とともに師の波羅門を棄てて釈尊の弟子となり、教団の上首として、智慧第一と称せられ、釈尊入滅の年、故郷に還りて寂す。
八。阿鼻地獄 無間地獄のこと。上五六二頁を看よ。
九。毘提夫人 韋提希夫人のこと。上五二三頁を看よ。
一〇。婆羅留枝 折指というと伝う。梵語不明。
一一。雨行 又は禹舎、梵語ワルシャーカラ(Varshakara)。釈尊当時に於ける王舎城の老臣にして、頻婆娑羅王の死後は、阿闍世王に仕え、王の使いとして釈尊に跋耆国を打つの可否を問い奉り、後巴連弗に城砦を築いて跋耆国を防いだが、此の地は後に摩竭陀の都府となるに至った。
一二。須陀洹 梵語シュロータパンナ(Surotapanna)。声聞四果の一。預流果、又は初果という。三界の見惑(理に迷う煩悩)を断じて、聖者の群に入る位。須陀洹は初果の聖者のこと。
【文科】「迦葉品」によりて、闍王逆罪の顛末、仏入滅の予言等を述べたまうのである。
【講義】又『涅槃経』迦葉品に宣うよう。善男子よ、王舎城の王頻婆娑羅王の太子を善見というが、過去の業報で無道の心を起こし、父の王を殺して国を奪わんとしたが、便りを得なかった。爾の時悪人の提婆達多も亦過去世の業報に依って、私に対して善からぬ心を起こし私を無きものにせようとした。提婆は五神通を修得して居ったが、この神通に依って善見
(2-629)
太子と親しい友達となり、太子のために種々の神道を現じてみせていた。或いは門でない処から出て門から入ったり、門から入って、門でない処から出でたり。又或る時には、象馬牛羊男女のすがたを示したりして、阿闍世王の機嫌を取ったのである。阿闍世王は、この神通をみて、すっかり提婆を好きこのみ、敬い信ずるようになり、いろいろの供養の品物を充分に備えて、提婆を供養したのである。而して提婆に対していうよう。我が大師聖人よ、私は曼陀羅華を見たいと思います。提婆達多はこの阿闍世王の請いを容れて、直ちに神通に依って三十三天に上り、天人について曼陀羅華を求めたが、今は福運が尽きて居るから、誰も与えるものがなかった。提婆は思うよう。曼陀羅の樹は、人間や動物と違って非情であるから我もなく我所もないであろう。してみれば、ひそかにこの華をもぎとっても強ちに罪となることもあるまい。提婆はこのような考えを起こして華をとろうとして神通を失い、振り返って見れば、自分はいつの間にか三十三天を下って王舎城に落ちて居るのである。提婆はこの失敗を非常に恥ずかしく思い、善見太子に見えることが出来なんだ。
提婆達多は又思うよう。私はこれから如来の御許へ行って、如来の弟子を私に付属せんことを願おう。如来もし許し給わば、私は随意に、彼の舎利弗等に命令を下すことが出来
(2-630)
るであろう。提婆達多はこのように思うて、私の処へ来て申し出したのである。世尊願くばこの御弟子等を私に任して預けますまいか。さすれば、私はいろいろに法を説ききかせて、その煩悩を調伏いたします。
私はその時、この愚かものに対していうた。仏弟子の中でも、舎利弟等は常に聴聞を重ねて、広大なる智慧あり、世の人々に信任せられて居る人達である。それでも、猶私は弟子達を委ねないではないか。況〈ま〉して汝のような愚かものの、人の唾を食うような卑しいものにどうして、弟子達を任せられようぞ。
提婆達多はこれをきいて益々私に対して悪心を起こし、瞿曇、汝は今こそ、このように多くの人達を随えて居るけれども、この勢いはやがて遠からず滅びて仕舞うであろう、と申したが、この暴言を吐くと同時に、にわかに大地が六度震動して、提婆達多はこれがために躄〈たお〉され、足下〈あしもと〉より大暴風起こって沙〈すな〉や塵を巻き上げ、提婆達多の身の上に吹きつけて、その身体を汚した。提婆達多はこの有様をみて思うよう。もしどうしても生き乍ら地獄へ堕ちねばならぬとすれば、私もこれに対して大報復をしてやらねばならぬ。
この思いで提婆達多は立ち上って、善見太子の処へ行った。太子は提婆をみて問いかけ
(2-631)
ていうよう。聖人、あなたは何故にそんなに御顔色がわるいのでありますか。何故に心配相にして御座るのでありますか。提婆はいうよう。私はいつもの通りなのであるが、あなたにはこの訳がわからぬのでありますか。太子のいうよう。どうぞその訳をきかして下さい、どうしてそのように御心配になるのか、御聞かせ下さい。
そこで、提婆達多がいうよう。私は今あなたと大変に親しくして居りますが、世間の奴等はあなたのことを罵ってわからずやというて居ります。あなたと親しい間柄にある私がこれをきいてどうして心配せずに居られましょうぞ。善見太子、更に問うていうよう。この国のもの共は、どういう具合に私のことを悪口いうのでありますか。提婆達多がいうには、この国のもの共は、あなたのことを罵って未生怨といって居ります。善見太子のいうよう、何故私のことを来生怨というのであります。そうして誰が、この名を私につけたのであります。提婆達多のいうよう。あなたが未だ生まれられない時に、すべての占相帥〈うらないし〉は皆、この子が生れると父を殺すものになるといいました。それで世間の奴等はあなたのことを来生怨というのであります。宮庭内の人達はあなたにこのことをきかせず、あなたの心を荒れさせないようにするために善見太子と善い名を呼んで居るのであります。
(2-632)
韋提希夫人は、占相師の言をきいて、あなたを生み落す時に、高楼に上って、その上からあなたを真実の意味に於いて生み落したのであります。その時にあなたは一本の指をこわしたので、人々はあなたのことを婆羅留枝ともいうて居ります。私はこういう事をきいて悲しくも思い、腹立たしくも感ずるのである。而もさすがに今まであなたに告ぐることも出来なかったのである。
提婆達多は、こういう風にいろいろの悪事を教え、父の王を殺させるようにし、もしあなたが父を殺せば、私は沙門瞿曇を殺しますとさえ申したのである。
善見太子は提婆からこれらのことをきいて、これを確めるために雨行という大臣に尋ねてみた。父の王は何故私を未生怨と呼ぶようになさしめ給うたのであろうか。雨行大臣は一部始終の物語をして提婆達多と同じい事を話してきかしたのである。
善見太子はこのことをきき終ると、直ちに雨行大臣を相手にして、父の王を捕え、城外の或る場所に幽閉して、四種の兵をして厳しく守らしめた。韋提希夫人はこのことをきいて驚き悲しんで直〈じき〉に頻婆娑羅の所へ行こうとしたが、守門者が入って王に遇うことを許さないので、腹立ちまぎれに惨々に守門者を罵った。守門者は太子の所へ行ってこの話
(2-633)
をして、韋提希夫人が頻婆娑羅王に遇わんとし給うが許しましょうかどうかを尋ねた。これをきいた善見太子は大に瞋〈いか〉り、直ちに母の御殿へ押しかけて、髪の毛を掴んで、叩きたおし刀を抜いて斫〈き〉ろうとしたが、「大王、国立ち始まって以来、罪はいかに重くても、女子には刑罰は加わらぬということになって居ります。況〈ま〉してや太子の母君であります」という耆婆の諫言〈いさめ〉をきいて、殺すことを止めて、頻婆娑羅王の幽所へ赴くことを禁じ、父の王に対しては衣服、夜の具、飲食、湯薬、一切を送らず、かくて頻婆娑羅王は七日目に非業の最後を遂げられたのである。
善見太子は、父の王の死なれたということをきいて、始めて後悔を生じて来た。雨行大臣はいろいろ邪〈よこしま〉のことを説いて、太子の心をまぎらさんとし、どんなことをしても罪などあるものでない。何でそんなにくよくよ思うて御座るのかなどと申した。然し耆婆は、正直に、王の罪は、茲に二色〈ふたいろ〉の大罪になって居ます。一には父を殺した罪、二には父の王は頒陀洹果の証〈さとり〉を開いて御座ったから、須陀洹の聖者を殺した罪の二つであります。このような大罪は、如来の外除き去って下さる方はありませんと申し上げた。善見王は耆婆の勧めをきいたけれども、如来は清浄にして穢濁のない方であれば、私の様な罪人がどうし
(2-634)
て行けようぞと、辞退をして居った。私はこれを知って居ったから、阿難に三月の後に涅槃の雲に隠れることを告げて、善見王の心を急がせ、善見王はこのことをきいて、私の所へ来たのである。私は特に阿闍世王のために法を説き、その重罪を除き、王の汚ない胸に根のない清浄な信仰を起こさしめたのである。
善男子よ、私の弟子の中に、私が三月の後に涅槃に入るというた語をきき、私の語の真義が解らないで、如来は定めて涅槃に入り給うというものがある。善男子よ、凡て菩薩という中にも二種の類の菩薩がある。一には一乗真実の真義、他力本願の謂われを解して居る実義の菩薩と、この真義をききながら了解の出来ない仮名の菩薩とある。この仮名の菩薩は私の三月の後に涅槃に入るというたのをきいて、退堕の心を起こして居る。彼等はこういうことをいうている。如来の御命さえ無常であって、永く世に住し給わないならば、私共はどういたそう、この無常のために死のために、私共は無量永劫の間、大苦悩を受けて来たのである。如来は数限りもない大功徳を成就して一身に具え給いながら、猶この死ということに打ち勝ち給うことが出来ないのである。況してや、私共がどうして死に打ち勝つことが出来ようぞと。
(2-635)
私はこれらの仮名の菩薩の間違った考えを正さんために、如来は常住にして、無量永劫変り給うことはないというたのである。私の弟子の中では、この私の語をきいて、又一辺に観じて、如来はいつまでもいつまでも涅槃に入り給わぬというものがある。
【余義】一。此の引文は、闍王逆悪の起因を示す。一寸した出来事でも、その原因を調べると、それ相応に複雑〈こみい〉った動機と、そのここに至る已〈や〉むを得ない経過があるものである。王舎城内の大悲劇は、かような動機から起こったのであるという所謂、時機純熟の径路〈みちゆき〉を示さんが為に引用せられたのである。『観経和讃』
釈迦韋提方便して 浄土の機線熟すれば
雨行大臣証として 闍王逆悪興ぜしむ
の意である。
二。「獲無根信」の次の一文「善男子、我諸の弟子、是の説を聞き已って」以下は、別に意味があって引かれたのでない、上の文と一連の文であるから引かれたという説と、又、機法二種を円かに会得した者が実義の菩薩、どちらかの一方に偏っている者は仮名の菩薩である故に実義の菩薩たることを勧むる為に引用せられたという説がある。何れにしても御引
(2-636)
用の意は一寸解し難い。
前の同文故来説は余りに投げやりの説である。第二説は稍〈やや〉首肯すべき説であるが、なお至り届かぬ譏〈そし〉りを免れぬ。ここは上来真仏弟子を広説し来ったのであるから、実義、仮名の二菩薩が必要で引用せられたに相違ない。即ち実義菩薩は如来の実意に徹した人、仮名菩薩とは名ばかりで実のない信者ということであろう。そして此の両者の差別を決定〈きめ〉るに、如来の涅槃をもってせられた。経の当相から云えば、涅槃の実議に達した菩薩と、之に達せぬ人の意味に相違ない。然るにこの涅槃の実義とは、如来の大慈悲心である。五逆罪を造る衆生の為に涅槃に入らずと仰せらるる正意に徹するが涅槃の実義に達した人である。即ち如来の大慈悲を信ずる人が実義の菩薩である。然るにこの如来の正意に達せぬ人々は、唯徒に如来の入滅、不入滅という表面の問題を気にしている為に、或いは徒に自分の肉身の無常を思うて死を恐れ、又「如来常住」の教えを聞けば、軽々しくこの言葉によりて如来は入涅槃せずと安堵する。そして自分は何も獲る所がないのである。是等は共に如来の涅槃の実義を解了せぬ仮名の菩薩、名あって実のない菩薩であるというのである。
即ち如来の涅槃とは、単に肉身の滅亡でもなければ、空寂の証りでもない。常に活動し
(2-637)
つつある大慈悲心がそれである。逆悪の衆生を一子の如く憐念し給いてさながら鬼魅に著〈つか〉れて狂乱する人のように、大悲の胸を砕き給うことが涅槃の真意義である。即ち如来の本願である。名号の謂われである。存覚師がこの下の『六要』に名号涅槃の同一を主張せられたのはここの所を力説せられたことと思われる。又左様でなくてはならぬのである。かくてこの引文が非常に深い意義を示すに至るのである。
第二項 私釈
- 是以 今拠大聖真説 難化三機 難治三病者 憑大悲弘誓 帰利他信海 矜哀斯治。
- 憐憫斯療。
- 喩如醍醐妙薬 療一切病。
- 濁世庶類 穢悪群生 応求念金剛不壊真心。
- 可執持 本願醍醐妙薬也 応知。
【読方】ここをもっていま大聖の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲弘誓をたのみ、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治し、これを憐憫して療したまう。たとえば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなり。しるべし。
【字解】一。難化三機 化度し難い三種の機類。五逆、謗法、闡提。
(2-638)
二。庶類 いろいろの類。衆生のこと。
【文科】上の『涅槃経』の引文を結びたまう一段である。
【講義】今まで長々と引用した『涅槃経』の経説に依って見れば、療治し難い三種の病人に譬えた化益し難い三種の衆生は、阿弥陀如来の誓願を頼み、他力の信心を頂かして貰えば、如来は、この衆生をあわれみ給うて、その難治の病気を療治して下さるのである。譬えて申せば最早何の薬に依っても治らない病気も、醍醐の不思議の薬で易々と治るようなものである。であるから、五濁悪世に生まれ遇わした人達、身心共に穢れ果てて造悪のみを仕事とする衆生は、他力より賜わる金剛のように堅固にして壊れない信心を得んと望み、弥陀如来の本願という醍醐の妙薬を大切にいたすべきである。
第三項 抑止文釈
これより以下は、正しく抑止文を釈したまう。第一科は問題を提記し、第二科は曇鸞、善導二師の文をもって解答となし、第三科には更に五逆の何ものたるかを釈したまう。
(2-639)
第一科 問
- 夫拠諸大乗説 難化機。
- 今大経言 唯除五逆誹謗正法 或言唯除造無間悪業 誹謗正法及諸聖人。
- 観経 明五逆往生 不説謗法。
- 涅槃経説 難治機与病。斯等真教 云何思量邪。
【読方】それ諸大乗によるに難化の機をとけり。いま大経には唯除五逆誹謗正法といい、あるいは唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人といえり。観経には、五逆の往生をあかして謗法をとかず。涅槃経には、難治の機と病とをとけり。これらの真教、いかんが思量せんや。
【字解】一。『観無量寿経』一巻。浄土三部経の一。劉宗、畺良耶舎訳(現存)。劉宋、曇摩密多訳(欠本)。梵本欠く。釈尊の晩年に、阿闍世王の為に幽閉せられたる韋提希夫人の為に説かれたる経典。極楽へ往生する方便として、定善十三観、散善三観を説き、最後に一経の要旨として無量寿仏の御名(南無阿弥陀仏)を阿難に付嘱し給う。『大無量寿経』に説かれたる弥陀の本願は、この王者の家庭に於ける大悲劇の上に実現せられたることは注意せねばならぬことである。
【文科】抑止について『大経』『観経』『涅槃経』の相違に就いて問いをおこしたまう。
【講義】いろいろの大乗経典に化益し難い機類のことが説いてあるが、『大無量寿経』
(2-640)
には、唯、五逆と正法を誹謗するをば除くというてある。又、『大経』の異訳の『如来会』には、これに相当する処に、唯無間業を造ると、正法と及び諸聖人とを誹謗することは除くというてある。然るに『観無量寿経』には、五逆のものは往生すると説いてあって、謗法の往生は説いてない。又『涅槃経』には、難治難化の五逆と謗法と一闡提のことが説いてある。それでこの『大経』『観経』『涅槃経』の教説をいかに考うべきであろうか。
第二科 曇鸞善導二師の釈答
報道 論註曰
問曰 無量寿経言 願往生者 皆得往生 唯除五逆誹謗正法。
観無量寿経言 五逆十悪 具諸不善 亦得往生。
此二経云何会。
答曰 一経以具二種重罪。一者五逆 二者誹謗正法。
以此二種罪故
所以不得往生 一経但言 作十悪五逆等罪 不言誹謗正法。
以不謗正法故 是故得生。
問曰 仮使一人 具五逆罪 而不誹謗正法 経許得生。
復有一人 但誹謗正法 而無五逆諸罪 願往生者 得生以不。
答曰 但令誹謗正法 雖更無余罪 必不得生。
何以言之 経言 五逆罪人 堕阿鼻大地獄中 具受一劫重罪。
誹謗正法人 堕阿鼻大地獄中 此劫若尽復転 至他方阿鼻大地獄中。
如是展転 逕百千阿鼻大地獄仏。不記得出時節。
以誹謗正法罪 極重故 又正法者 即是仏法。
此愚痴人 既生誹謗 安有願生仏土之
理。
仮使但貪彼生安楽 而願生者 亦如求非水之氷 無煙之火。
豈有得理。
問曰 何等相是誹謗正法。
答曰 若言無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法。
如是等見 若心自解 若従他受其心 決定 皆名誹謗正法。
問曰 如是等計 但是己事 於衆生 有何苦悩 踰於五逆重罪邪。
答曰 若無諸仏菩薩 説世間・出世間善道 教化衆生者 豈知有仁義・礼智・信邪。
如是世間 一切善法皆断 出世間一切賢聖皆滅。
汝
但知五逆罪為重 而不知五逆罪 従無正法生。是故謗正法人 其罪最重。
問曰 業道経言 業道如称 重者先牽。如観無量寿経言。
有人 造五逆・十悪 具諸不善。応堕悪道 逕歴多劫受無量苦
臨命終時 遇善知識 教称南無無量寿仏。
如是至心 令声不絶 具足十念 便得往生安楽浄土 即入大乗正定之聚 畢竟不退。
与三塗諸苦 永隔。
先牽之義於理如何。又曠劫已来 備造諸行 有漏之法繋属三界。但以十念 念阿弥陀仏 便出三界繋業之義 復欲云何。
答曰 汝謂五逆十悪繋業等為重 以下下品人十念為軽 応為罪所牽 先堕地獄 繋在三界者今当以義 校量軽重之義
在心 在縁 在決定 不在時節久近多少也。
云何在心 彼造罪人 自依止虚妄顛倒 見生。
此十念者 依善知識 方便安慰 聞実相法生。
一実 一虚 豈得相比。
譬如千歳闇室 光若蹔至 即便明朗。
闇豈 得言在室千歳 而不去邪。
是名在心。
云何在縁 彼造罪人 自依止妄想心 依煩悩虚妄果報衆生生。
此十念者 依止無上信心 依阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳名号生。
譬如有人 被毒箭 所中截筋 破骨 聞滅除薬鼓 即箭出毒除。
首楞厳経言 譬如有薬
名曰滅除。若闘戦時用 以塗鼓 聞鼓声者 箭出毒除。
菩薩摩訶薩亦復如是
住首楞厳三昧 聞其名者 三毒之箭 自然抜出。豈可得言彼箭深 毒厲 聞鼓音声 不能抜箭 去毒邪。是名在縁。
云何在決定。彼造罪人 依止有後心有間心生。此十念者 依止無後心無間心生。
是名決定。校量三義 十念者重。重者先牽 能出三有。両経一義耳。
問曰 幾時名為一念。
答曰百一生滅 名一刹那。六十刹那 名為一念。此中云念者 不取此時節也。
但言憶念阿弥陀仏 若総相 若別相 随所観縁 心無他想
十念相続 名為十念。但称名号亦復如是。
問曰 心若他縁 摂之令還 可知念之多少。但知多少 復非無間。若凝心注想 復依何 可得記念之多少。
答曰 経言十念者 明業事成弁耳。不必須知頭数也。
如言蟪蛄不識春秋 伊虫豈知朱陽之節乎。知者言之耳。十念業成者 是亦通神者言之耳。
但積念 相続不縁他事 便罷。復何仮須知念之頭数也。
若必須知 亦有方便。必須口授 不得題之筆点。{已上}
【読方】こたえていわく、論の註にいわく、問ていわく、無量寿経にのたまわく、往生を願ぜんもの、みな往生をえしむ。ただし五逆と誹謗正法とをのぞく。観無量寿経に、五逆十悪もろもろの不善を具するもの、また往生をうとえいり。この二経いかんが会せんや。
こたえていわく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一には五逆、二には誹謗正法なり。この二種の罪をつくるというて、正法を誹謗すといわず。正法を謗せざるをもっての故に、このゆえに生ずることをえしむ。
問いていわく、たとい一人は五逆罪を具して、しかも正法を誹謗せざれば、経に生ずることをうとゆるす。また一人ありて、ただ正法を誹謗して、しかも五逆のもろもろの罪なきもの、往生を願ぜば生ずることをえんやいなや。
こたえていわく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしいうとも、かならず生ずることをえじ。何を以てかこれを言うとならば、経にいわく、五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪をうく。誹謗正法のひとは、阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もしつくれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに、いたる。是のごとく展転して、百千の阿鼻大地獄をふ。仏いづることをうる時節を記したまわず。正法を誹謗するつみ極重なるをもっての故なり。また正法はすわはちこれ仏法なり。この愚痴の人すでに誹謗を生す。いずくんぞ仏を願生する理あらんや。たとい但かの安楽に生ぜんことを貪して、生を願ぜんは、また水
(2-645)
にあらざる氷、姻なき火をもとめんがごとし。あに得ることわりあらんや。
問いていわく、なんらの相かこれ誹謗正法なるや。
こたえていわく、もし仏もなし、仏法もなし、菩薩もなし、菩薩法もなしといわん、是のごときらの見をもって、もしは心にみずから解〈さと〉り、もしは他にしたがいて、その心を受けて決定するを、みな誹謗正法となづく。
問いていわく、是のごときらの計は、ただこれおのれが事なり。衆生において、なんの苦悩ありてか五逆の重罪にこえんや。
こたえていわく、もし諸仏菩薩、世間、出世間の善道をときて、衆生を教化する者ましまさすば、あに仁義礼智信あることをしらんや。かくのごとき世間の一切善法、みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることをしりて、しかも五逆罪の正法なきより生ずることをしらず。このゆえに謗正法の人はそのつみ最重なり。
問いていわく、業道経にいわく、業道ははかりのごとし。重きものまずひく。観無量寿経にいうがごとし。人ありて五逆十悪をつくり、もろもろの不善を具せん。悪道に堕して、多劫を径歴して無量の苦をうくべし。命終のときにのぞんで、善知識の人をして南無無量寿仏を称せしむるにあわん、是のごとく心をいたして、声をしてたえざらしめて、十念を具足すれば、すなわち安楽浄土に往生することをえて、すなわち大乗正定の聚にいりて、畢竟して不退ならん。三塗のもろもろの苦とながくへだつ。まず牽くの義、理においていかん
(2-646)
ぞ。また曠劫よりこのかた、つぶさにもろもろの行をつくれる有漏の法は、三界に繋属せり。ただ十念をもって阿弥陀仏を念じて、すなわち三界をいでなば、繋業の義またいかんかせんとするや。
こたえていわく、なんじ五逆十悪の繋業等を重とし、下々品の人十念を軽として、罪のために牽れてまず地獄に堕して、三界に繋在すべしといわば、いままさに義をもって軽重の義を校量すべし。心にあり、縁にあり、決定にあり。時節の久近、多少にあるにはあらざるなり。いかんぞ心にある、かの罪をつくる人は、みずから虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は善知識の方便安慰して、実相の法をきかしむるによりて生ず。一は実、一は虚なり。あにあい比ぶることをえんや。たとえば千歳の闍室に光もし暫くいたれば、すなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして、しかも去らじということをえんや。これを在心となづく。いかんが縁にある、かの罪をつくる人は、みずから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依止して生ず。この十念は無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便、荘厳、真実、清浄、無量功徳の名号によりて生ず。たとえば人ありて毒の箭〈や〉をこうぶりて、中〈あた〉るところ筋をきり骨をやぶるに、滅除薬の鼓をきけば、すなわち箭ぬけ毒のぞこるがごとし(首楞厳経にいわく、たとえばくすりあり、なづけて滅除という。もし闘戦のときにもって鼓にぬるに、鼓のこえをきくもの、箭ぬけ毒のぞこるがごとし、菩薩摩訶薩もまたくかくのごとし。首楞厳三昧に住して、その名をきくもの、三毒の箭自然に抜け出だす。)あにかの箭ふかく毒はげし、鼓の音声をきくとも箭をぬき毒をさること能わじということを得べけんや。これを在縁となづく。いかんが決定にある、かの釈
(2-647)
をつくる人は、有後心、有間心に依止して生ず。この十念は無後心、無間心に依止して生ず。これを決定となづく。三の義を校量するに、十念は重なり。重きものまづ牽きて、よく三有をいづ。両経一義ならくのみ。
問ていわく、いくばくの時をか、なづけて一念とするや。
こたえていわく、百一の生滅を一刹那となづく。六十刹那をなづけて一念とす。このなかに念というはこの時節をとらざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相、もしは別相、所観の縁にしたがいて、心に他想なくして、十念相続するをなづけて十念とすというなり。ただ名号を称することもまたまたかくのごとし。
問うていわく心もし他縁せば、これを摂してかえらしめて、念の多少をしるべし。ただし多少をしらば、また間〈ひま〉なきにあらず。もし心をこらし想をとどめば、復なにによりてか念の多少を記することをうべきや。
答えていわく、経に十念というは業事成弁をあかすならくのみ。かならずしも須く頭数をしるべからざるなり。蟪蛄春秋をしらず。伊虫あに朱陽の節をしらんやというがごとし。知るもの之を言うならくのみ。十念業成というは、これまた神に通ずるもの之をいうならくのみ。ただ念をつみ相続して他事を縁ぜざれば、すなわち罷みぬ。また何ぞかりに念の頭数をしることをもちいんや。もし必ず知ることをもちいば、また方便あり。かならず口授をもちいよ。これを筆点に題することをえざれと。已上
【字解】一。業道経 此の名の如き経典があるわけでないが、業道因果の理〈ことわり〉を説いた経典を指して、かように名づけられたらしい。
(2-648)
二。十念 十声のこと
三。三塗 三悪道のこと。火塗(地獄)、刀塗(餓鬼)、血塗(畜生)。
四。繋業之義 善悪の業因に繋がれて相当の果報を獲る因果の法則のこと。
五。下々品人 観経に説かれたる九種の機類の中の最下等の人。即ち悪凡夫。
六。『首楞厳経』具には『首楞厳三昧経』三巻。鳩摩羅什訳。仏、堅意菩薩の請いに応じて、首楞厳三昧の妙諦を広説したまいたる経典。
七。首楞厳三昧 梵語シューラガマ、サマ―ドヒ(Suragama or Surangama samadhi)勇健定、健行定と訳す。この三昧に入れば、諸の三昧(定)の内容を知ること恰も大将が諸の兵力を知るようである。又煩悩も悪魔も、決して破壊することが出来ない故にこの名あり。
八。業事成弁 極楽往生の業因ができあがること。
九。蟪蛄 ひぐらし。春生まれて秋死ぬる虫。
ー〇。伊虫 このむし。こおろぎ。
一一。朱陽 夏のこと。
【文科】『論註』によりて逆謗摂不の義をのべたまうのである。
【講義】答えて曰わく、『浄土論註』に、委しくこのことについて問答してあるから、今そ
(2-649)
の文を引用して見よう。
問うて曰わく。『大無量寿経』には、往生したいと願うものは皆生まれさして頂くことが出来るが、五逆非のものと正法を誹謗するものはこの限りでないというてある。然るに『観無量寿経』には、五逆十逆等のいかなる悪業をかかえたものでも、みな往生することが出来るというてある。この二経の相違はいかように会通すべきであろうか。
答えて曰わく、『大経』には五逆と謗法の二種の重罪を挙げて、この二重罪のものは往生が出来ないと説き、『観経』では、五逆十悪等の罪だけ挙げて謗法のことをいうてないから、往生することが出来ると説いたものである。
問うて曰わく。五逆罪を作っても、正法を誹謗せないものは往生が出来るというてある。ならば反対に正法を誹謗しても五逆罪を作らぬ人ならば、往生が出来るであろうか。
答えて曰わく、正法を誹謗すれば、たとひ他の罪を少しも作らぬものでも往生することは出来ぬ。何故ならば『大品般若経』には、五逆罪を造ったものは無間地獄に堕ちて一劫の長い間苦悩を受けねばならね、然し正法を誹謗するものはこれにも増して無間地獄に堕ち、その地獄にて苦しむ時間が過ぎれば、又他方の無間地獄に堕ち、こうして無数
(2-650)
の無間地獄を経めぐると説いてある。如来は、この謗法罪のものが無間地獄を出づる時を説き給わぬのである。謗法の罪がありとあらゆる罪の中で最も重いものであるからである。
又、誹謗正法の正法というは仏法のことである。愚かものはこの仏法を誹謗する以上、理として浄土へ生まれたいと願う思いのないことは定っている。よし又たとい浄土は安楽な処だから生まれたいという貪欲の心から往生を願うても、丁度、水でない氷、姻のない火を求むるようなもので、往生の出来よう道理はないのである。
問うて曰わく、正法を誹謗するというのはどういうことを指していうのであるか。
答えて曰わく、仏もない、仏法もない、菩薩もない、菩薩の法もないという、こういう考えを自ら独り手に起こすもの、又は他人からきいて、成程それに相違ないと心を決めるようなことを誹謗正法というのである。
問うて曰わく、そんならこういう考は自分一人だけで起こしているもので、他の人々に害を及ぼし苦悩を与えるものでもない。どうしてこれをかの恐るべき五逆罪よりも重いというのであるか。
(2-651)
答えて曰わく、もし諸仏菩薩が世間の道、出世門の道、両方を説いて衆生に御きかせ下さらなかったならば、人々はどうして仁義礼智信という人の道を弁えることが出来ようぞ。そうなれば世間の善いことはみな滅び、出世間の賢人も聖者もみな後を断ち給うであろう。汝は五逆罪の重いことを知っているが、この五逆罪が仏法のない所から起こって来ることに気がつかないのである。であるからして、正法を誹謗する人の罪は、罪という罪の中で一番重いのである。
問うて曰わく、『業道経』には、業道は秤〈はかり〉のようなもので、重い方に先ず傾くものであるというてある。然るに『観無量寿経』には、五逆十悪を造り、いろいろよからぬことを身に具え、地獄へ堕ち込んで限りのない苦悩を受けねばならぬ人が、臨終の時に善知識に遇うて、南無阿弥陀仏を称えよ、という教えを蒙むり、一心になって声を絶やさず、十返念仏を称うれば、安楽浄土に往生して、正定不退の位に入り、永久に三塗にかえることはないというてある。重い業の方に先ず牽かれるという仏説をあてはめて見ると、どうなるのであろうか。又衆生は久遠劫来いろいろのことをやって来て居るが、皆煩悩妄念の結果であるから、皆この迷いの三界につながれている。たった十念の称名で、この長い間繋が
(2-652)
れて居った三界を出るというならば、業によってつながれるということもいかが考うべきことであろうか。
答えて曰わく、汝は五逆十悪等の罪の方を重いように見て、下々品の人が称うる十念の念仏を軽いように思うているが、それがそもそも間違いである。その間違いがあるから、重い罪の方に牽かれて地獄に堕ち、迷いの三界に繋がれるというのであるが、今、義理を立てて五逆等の罪が重いか、十念の念仏の方が重いか験〈しら〉べてみよう。重い軽いは心に在り、縁に在り、決定にあるので、時間の長い短いに依るのではないのである。
第一に心に在るというは、いかなることかというに、罪を造るのは顛例の妄想からであるし、十念の念仏は、善知識のいろいろに慰めて下されて、実相微妙の六字名号をきかして下され、きいて信ずる、まこと心から出て来るのである。罪は虚〈うそ〉から出で、念仏は実から出る。これだけの区別があって見れば、どうしてかれとこれと比較することが出来ようぞ。譬えてみれば、千年も黒闇の続いた室に、光を持って来れば、一時に明るくなるようなものである。闇が千年もこの室を占領して居ったのだからと意地帳ってみても、光にはかなわないのである。これが心に在るというた意味である。
(2-653)
第二に縁に在るというはいかなる意味かというに、罪を造るは妄想に依り、煩悩をかかえたうそいつわりの業報の衆生に対して罪を造るのであり、十念の念仏はこの上ない他力の信心から起こるので、阿弥陀如来の三種の荘厳、及び真実にして清らかな無量の功徳を具えた名号に依って出て来るのである。一は煩悩の衆生を相手とし、一は阿弥陀如来を相手として居る。丸で比べものにならぬのである。それであるから譬えていうと、毒箭〈どくや〉を受けた人が、毒箭のために筋肉は截れ、骨髄まで壊れても、かの滅除薬の故(『首楞厳経』に出でて居る譬であって、譬えば滅除薬という薬を、闘戦の時に鼓に塗って、この鼓を打てば、この声をきくものは受けた箭が自然に抜け出でて毒がなくなるように、菩薩摩訶薩もその通りに、首楞厳三昧に住してその三味の名をきけば、貪瞋痴の三毒の煩悩の箭がひとりでに抜け出でると記してある)の音を聞けば、箭もひとりでに抜け出でて、毒もなくなるようなものであって、箭が深く入って居るから、毒が厲〈はげ〉しいからというて、いかに鼓の音をきいても、箭が抜けまい毒が消えまいとは云われないのである。これが縁に在るという意味である。
第三に決定にあるというのは、罪を造る時には、この後にも猶生きて居ると予想してつ
(2-654)
くるので、従って、他の考えに雑〈まじ〉られるのであるが、この十念の念仏はせっぱつまった時の念仏で、後があるとも思わず、従って少しも余念の雑らぬ、最も緊調〈はりき〉った心から出るのである。この相違を決定に在るというたのである。
以上三つの義理があるから、十念の念仏の方が重いので、重いものが先ず牽くという原則に従って、この十念の念仏に依って迷妄の三界を離れるのである。それであるから『業道経』の所説も、『観経』の所説も少しも違わぬのである。
問うて曰わく、一念というは何れ程の時間のことをいうのであるか。
答えて曰わく、この一念の中には六十の刹那があり、一刹那の中には百一の生滅があったのである。けれども今一念というのはこの時間を指していうのではなく、阿弥陀仏のことを思い奉るに、仏の全体を思い、一部分を思うにしても、外の想いに邪魔せられず、十念相続するを十念というたのである。又名号を称する心の相続も十念というのである。
問うて曰わく、されど十念念仏の時、心がもう外へ走って行って居るならば、もとへもどして来て、一返、二返と、念仏の数を知ることも出来る。然しこういう風に数を数える様では、心に余裕があるので、先に云われた無関心で申す念仏ではなくなる。又もし一心
(2-655)
に心を凝〈こら〉し、仏の方ばかりに気をとられて居れば、十念の数を知ることは出来ぬ。これはいかがすべきであろうか。
答えて曰わく、経文には十念とあるが、これは往生の事業〈こと〉が成弁〈できあがる〉することを示したので、
十念の数を覚えて称えよというのではない。譬えば、ひぐらしという虫は、春も秋も知らず、夏に生まれて夏に死ぬ虫であるが、この虫が夏に生まれるからというて、夏を知っているというのではない、知って居るのは人間ばかりで、人間が「あの虫は夏に生まれる」というのである。今十念に往生の業事が成弁するというのも、如来の方で仰せられるので、凡夫の方では一念一念と念仏を申し、相続して、他の事を思わねばよいので、数を知る必要はないのである。もし数を知りたいというのならば、又別に手段もあることであるが、これは口づから伝うべきことで、筆に上〈のぼ〉すべきものではない。
【余義】一。これより以下、正しく諸経典の文面に就いて細かに逆謗の摂不を示す。即ち『大経』第十八願には、五逆罪と謗法罪の両罪は往生することを得ずと説き、『観経』には、下下品に於いて、五逆罪の往生を許し、『涅槃経』には、五逆と謗法と闢提の三機の往生を許す。かように経文に相違のあるのはどういう道理であろうかというのである。是等の問題
(2-656)
に対して聖人は、初に『論註』を引き、後に『散善義』『法事讃』の文を引いて、答とし給う。
以下『論註』文は上巻八番問答の中、第一を除いて、以下七番の問答を引用せらる。先ず始めに『大経』『観経』二経の相違に就いては、大経は二種の重罪を具えているし、観経は唯五逆罪で丈であるから往生を許すといい、経証、理証に亙りて細かに謗法罪の極罪たることを明らかにせられた。
上の説丈に就いて云えば、鸞師は絶対的に謗法の罪人を抑止せらるるようであるが、強ちそうではない。下の『法事讃』の釈の如く回心すれば、皆往生を許すのである。『観経』に五逆罪を摂取することを説かるるも矢帳り回心の機に就いて云うことは言を俟たない。既に謗法罪に就いても、上(四八二頁)に引用せる如く『論註』下十七丁に
衆生、驕慢を以ての故に正法を誹謗す、乃至是の如き等の諸の苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名号説法の音声を聞けば、上の如き種々の曰業の繋縛皆解脱を得、如来の家に入り、畢竟して平等の口業を得。
と釈してある。この文中至徳の名号を聞くときは云うまでもなく信ずることである。即ち
(2-657)
回心である。謗法闡提の桟も回心すれば皆往生をうるということは鸞師も善導と異なることはない。
唯この『論註』の文は、謗法罪の極重なることを遺憾なく示しておられることは、吾等の心を沈めて味わわねばならぬ所である。
二。五逆の重罪がどうして、命終の十念々仏よりも力が弱いのであるか、それでは重きもの先牽くの理に離〈はず〉れているでないか。又曠劫以来三界に繋属している業が、どうして十念々仏によりて、この業繋を断ずることが出来るか。これ等の重要な問題に対して鸞師は三在釈を出された。
良にこの問題は、宗教の根本に触れている問題である。十念往生は、常識をもっては決して納得することの出来ない説である。従ってこの問いは、宗教の精髄を引き出さずにはおかぬものである。鸞師の此の三在釈は、此の重要なる任務を帯びて生まれた。千鈞の重さがある。
第一は在心である。凡夫虚妄の心に依りて造る罪は、如来の真実心より生ずる十念には比べることは出来ぬ。千歳の暗室も、光来れば、直ちに消える。信の一念に六趣四生の
(2-658)
因亡じ果滅するは、この不可思議の事実であるというのである。
第二は在縁である。縁は増上縁をいう。此の下の『六要』に「在縁は境に約す」とあるに就いて、種々に議論があるようであるが、矢張り増上縁でよいと思う。今造罪に就いて上の阿闍世王の例に取れば、王は提婆の誘悪によりて殺父殺母の逆罪を犯すに至った。即ち提婆という虚妄の衆生を増上縁としたのである。かように吾等の造罪は、常に煩悩虚妄の衆生を増上縁とするが、この十念は、功徳無量の名号を増上縁として生じたのである。故に此の十念の力が強いというのである。
第三は決定である。造罪は何というても自己の生命の継続を予想して行う故に、その心には余裕〈ゆとり〉がある。緊帳〈ひきしま〉っておらぬ。深刻でない。然るに臨終の十念は、生命の継続を予想しない。命懸けである。故にこの十念は、我等の心の奥底から根ざした心であるから力が強いというのである。
上の三理由によりて、十念往生の義を成立せられた。文面の上から上の三理由を図示すれば左の通りである。
(2-659)
心━━能信┓
┣━平生┓
縁━━所信┛ ┃
┃
決定━━━━━臨終┛
この中、決定は一応は臨終であるが、よく文意を探れば、矢帳り平生にもあるのである。即ちこの三在釈は、そのまま信の一念の内容である。
心━━━信心歓喜
縁━━━聞其名号
決定━━即得往生住不退転
この三が一念同時であることは、上にしばしば述ぶる所である。鸞師はこの一念の内容を打ち出して、上の重罪消滅の意義を明らかにせられたのである。
二。上に十念と重罪と比較したが、この十念は如何なるものであるかという問題が残っている。そこでここに一念を釈せらるる此の下の『六要』に、念に三義を挙ぐ、時節、観念、称念である。今この釈に従って、上の文を解釈すれば、
第一、この十念の念は時節の念でないと明瞭〈はっきり〉と決定〈きめ〉られた。上四〇一頁「信楽開発の時
(2-660)
刻の極促」の意義参照、親鸞聖人の時刻の極促とは、この時節の意味ではない。
第二、観念、ここに観念とは、観法の意味でない。意念憶念のことである。心に念ずることである。即ち阿弥陀仏の本願を心に浮べみるの意、本願を信ずる心をいう。其の次に「若しは総相、若しは別相、所観の縁に随って、心に他想なく」等とあるは、如来の様々の功徳、即ち智慧・威神・御相好等をその時に従って心に感じ喜ぶことで、上の「憶念阿弥陀仏」の憶念の内容を示されたものである。是等の言葉は凡て定善の観法のように解せられるようであるか。決して左様ではない。既にこの場合が『観経』散善下々品の十念であるから、定善の観法であるべき筈でない。吾等の散心をもって如来を念ずること、即ち信心相続を示されたものである。
第三、称念は「但し名号を称すること」云々の所である。これは上に総相、別相等を念ずる意念の如く、名号を称えんとする心の相続を示されたもので、矢張り心念である。十声の称名ではない。「念仏申さんと思いたつ心」を指す。この心の相続が十念相続であるというのである。
四。かくて最後に、「然らば何故に経に特に十念と説かれたのであるか」という問題が起こ
(2-661)
る。是に対して鸞師は、十念とは業事成弁の異名であると断言せられた。即ち上に述べた一念は絶対の一念であるから、ここに十念というも、数学的に一を十度加えた十ではない。絶対者の言葉である。我等はただ心を一つにして一心一向に仏に向い奉ればよいのである。この一心帰命の心を十念と名づけるのである。是は常識的な、数学的な、概念的な言葉でない。神秘的な哲学的な、実感的な言葉であるというのである。
光明寺和尚云
問曰 如四十八願中 唯除五逆誹謗正法 不得往生。
今此観経下品下生中 簡誹謗摂五逆者 有何意也。
答曰 此義仰就抑止門中解。如四十八願中 除謗法五逆者。
然此之二業 其障極重。衆生若造 直入阿鼻 歴劫周章 無由可出
但如来 恐其造 斯二過方便止 言不得往生。亦不是不摂也。
又下品下生中取五逆 除謗法者 其五逆已作 不可捨令流転。
還発大悲 摂取往生。然謗法之罪 未為 又止 言若起謗法 即不得生。
此就未造業而解也。若造還摂得生。
雖得生 彼華合 逕於多劫。此等罪人 在華内時 有三種障 一者不得見仏及諸聖聚 二者不得聴聞正法 三者不得歴事供養。
除此已外 更無諸苦。経云 猶如比丘入三禅之楽也 応知。
雖在華中多劫不開 可不勝阿鼻地獄之中 長時永劫 受諸苦痛也。此義就抑止門解竟。{已上}
又云
永絶譏嫌 等無憂悩。人天善悪皆得。
往到彼 無殊。斉同不退。何意然者 乃由弥陀因地 世饒王仏所 捨位出家 即起悲智之心 広弘四十八願。
仏以願力 五逆之与十悪罪滅得生。
謗法闡提 回心皆往。{抄出}
【読方】光明寺の和尚のたまわく。問うていわく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とをのぞきて往生をえしめず。いまこの観経の下品下生のなかには、誹謗をえらんで、五逆を摂せるはなんのこころかあるや。答えていわく、この義あおいで抑止門のなかにつきて解す。四十八願のなかのごとき、謗法五逆をのぞくは、然るにこの二業、そのさわり極重なり。衆生もし造ればただちに阿鼻にいりて、歴劫周章していづべきによしなし。ただ如来、それこの二つの過〈とが〉を造らんを恐れて、方便してとどめて往生をえずとのたまえり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生のなかに、五逆をとりて謗法をのぞくことは、それ五逆はす
(2-663)
でにつくれり、すてて流転せしむべからず。かえりて大悲をおこして摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪はいまだつくらず。また止めてもし謗法をおこさば、すなわち生ずることをえじとのたまう。これは未造業について解するなり。もし造らばかえりて摂して生ずることをえしめん。かしこに生ずることを得というとも、華合して多劫をへん。これらの罪人は華のうちにあるとき、三種のさわりあり。一には仏およびもろもろの聖衆をみることをえじ。二にば正法を聴聞することをえじ。三には歴事供養をえじ。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。経にいわく.なお比丘の三禅の楽にいるがごときなり。しるべし、華の中にありて多劫ひらけずというも、阿鼻地獄のなかにして、長時永劫にもろもろの苦痛をうけんに勝れざるべけんや。この義、抑止門につきて解しおわんぬ。已上
またいわく、ながく譏嬢を絶ちて、ひとしくして憂悩なし。人天善悪みな往くことをう。かしこに到りて殊なることなし。斉同不退なり。何の意ありてか然るとならば、いまし弥陀の因地にして、世饒王仏のみもとにして、位をすて家をいでて、すなわち悲智の心をおこして、ひろく四十八願を広めたまいしによりてなり。仏願力をもて五逆と十悪と罪滅し生ずることをえしむ。謗法闡提回心すればみなゆく。抄出
【字解】一。阿鼻 阿鼻地獄。無間地獄のこと。
二。歴却 劫を歴〈ふ〉ること。長い劫波をすごすこと。
三。三禅之楽 色界の第三禅の楽。欲界にありて、色界の四禅定に入ることが出来る。今はその中の第三禅の楽しみをいう。
(2-664)
【文科】善導大師の二文『散善義』『法事讃』によりて逆謗の摂不を述べたまうのである。
【講義】光明寺の善導和尚の『散善義』に宣わく。問うて曰わく、四十八願の中、第十八願には、五逆と正法を誹謗するものは往生が出来ないというてある。しかるに今この『観経』の下々品の処では誹謗正法のことは記してないが、五逆のものも往生が出来ると摂取してあるは、どういう意味であろうか。
答えて曰わく、このことは釈迦如来の慈悲の御心から抑止して下される。その方面から伺わねばならぬ。第十八願に於いて、謗法罪と五逆罪を除くと記し給うたは、罪という罪の中でもこの二つの罪は障りが最も重く、衆生もしこの罪を造れば直ちに阿鼻地獄に堕ちて、長い長い間、いかにあわてて見ても出づることが出来ないので、釈迦如来、大慈悲心から、衆生のこの二罪を作らんことを恐れて、方便を以て往生が出来ないぞと厳しく止めて下さったのであって、そういう罪人は摂取しないということではない。それで『観経』下々品の中に、五逆のものは救われると説きながら、謗法罪のものを除き給うたのは、五逆罪は既に作ったものであるから仕方もない、捨てては置かれぬ。釈迦如来茲に於いて大慈悲心を以てそのものも、阿弥陀如来の本願の信心念仏で助かるぞ、往生出来るぞ
(2-665)
と、こちらへ抱きとって教えて下されたのである、謗法の重罪は未だ造らないから、謗法罪を犯さないように、謗法のものは往生することは出来ないと説き給うのである。即ち未造業という側で止め、造れば摂取して往生出来るぞと教え給うのである。
此の両罪のものは、浄土に往生することが出来るが、華の中に包まれて、十二大劫の間その中から出ることは出来ぬ。彼等はこの華の中で、三つの障を受ける。一には、仏や聖衆の御すがたを拝むことが出来ぬ。二には正法を聴聞することが出来ぬ。三には諸仏如来の御国を経行〈へめぐ〉りて供養し奉ることが出来ぬ。この三つの障りを除いては、外の苦悩は何もない 経典にはこの境地を写して、比丘が色界三禅天に入って楽しむようなものであると説いてある。華に包まれて十二大劫の間出ることは出来ぬとも、無間地獄の中で兆載永劫の間苦しむのとは比べものにならぬ。以上、釈迦如来の大慈悲心から抑止し給う義門で解釈し竟ったのである。
又『法事讃』に宣うよう、彼の浄土には二乗と女人と根欠(肉体の不具のもの)のものがない許りでなく、この三者を譏った名もないのである。少しも心配や苦悩というものはない。人間でも天人でも、善人でも悪人でも、皆往生することが出来る。浄土へ往生す
(2-666)
れば、みな一味平等の証〈さとり〉を開いて、再び悪趣へかえることはないのである。どうしてこれが出来るかといえば、阿弥陀如来が因位永劫の昔、世自在王仏の御許で、王位を捨て家を捨て、大悲大智の御心から広く四十八願を起こして下されたからである。この因位の願力で、五逆のものでも十悪のものでも、みな罪が消えて浄土に往生することが出来るのである。正法を誹謗する恐ろしいものも、断善根の仕方のないものも、みな回心して如来に向いさえすれば往生が出来るのである。
【余義】一。善導大師の抑止門に対する見解は、人情の機微を穿った説である。即ち親が子を愛する余りに、重罪を犯すことを恐れて、予め誡めたのが、大経の両罪抑止である。即ち未造業に就いての抑止である。然るに『観経』にありては、既に五逆を犯している。故に大慈悲の正意を顕わして摂取せられたのである。されど謗法罪はまだ起っておらぬ故に之を抑止せられた。もし謗法罪が起これば、亦摂取するのである。即ち五逆は申す迄もなく、謗法も闡提も、回心すれば皆往生することが出来ると決せられた。この最後の『法事讃』の文によりて、折り返して釘を打つように、上の最初の問題を解決せられたのである。
(2-667)
以上、曇鸞、善導二師の真意を概括して仰せられたのが、上(五四一頁)所引の銘文の言葉である。
このふたつのつみ(五逆、謗法の)おもきことをしらしめて、十方一切の衆生、みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
二。上の文中、五逆、謗法の人が摂取せられて往生しても、なお華に包まれて、三宝を見聞することが出来ないと云われている。之を多劫抑止と称す。これは下々品の往生人ばかりでない、下三品に通ずる抑止である。されどこの抑止も亦釈尊の方便であって、弥陀の真意でない。弥陀の本願は一切の悪人を等しく救済し給うにある。唯釈尊がどこ迄もこの方便の抑止を致されるのは、これによってますます本願の正意を顕彰せられんが為である。父は叱り、母は懐く。共に子の為に働く同一慈悲心の発現である。かくて摂取とは抑止を孕んだ摂取であり、抑止は亦摂取を含んだ抑止である。これが大慈悲の内容である。
第三科 五逆釈義
言五逆者
若依淄州 五逆有二。一者三乗五逆。
謂一者 故思殺父 二者故思殺母 三者故思殺羅漢 四者倒見破和合僧 五者悪心出仏身血 以背恩田 違福田故 名之為逆。
執此逆者 身壊命終 必定堕無間地獄 一大劫中 受無間苦 名無間業。
又倶舎論中 有五無間同類業。彼頌云 汚母・無学尼{殺母罪同類}。殺住定菩薩{殺父罪同類}。
及有学無学{殺羅漢同類}奪僧和合縁{破僧罪同類}
破壊率都波{出仏身血}
二者大乗五逆。如薩遮尼乾子経説。
一者破壊塔焚焼経蔵。及以盗用三宝財物。
二者謗三乗法 言非聖教 障破留難 隠蔽落蔵。
三者一切出家人 若戒・無戒・破戒 打罵呵責 説過 禁閉還俗 駆使債調断命。
四者殺父害母 出仏身血 破和合僧 殺阿羅漢。
五者謗無因果 長夜常行十不善業。{已上}
彼経云 一起不善心 殺害独覚。是殺生。
二婬羅漢尼 是云邪行也。
三侵損所施三宝物。是不与取
四倒見破和合僧衆 是虚誑語也。{略出}
【読方】五逆というは、もし淄州によるに、五逆にふたつあり。一には三乗の五逆、いわく一には故〈ことさら〉におも
(2-669)
うて父を殺す。二には故〈ことさら〉におもうて母を殺す。三にに故におもうて羅漢を殺す。四には倒見して和合僧を破す。五には悪心をもって仏身より血をいだす。恩田にそむき、福田に違するをもっての故に、これをなづけて逆とす。この逆を執するものは、身やぶれ命おえて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦をうけん。無間の業となづく。
また倶舎論のなかに五無間の同類の業あり。彼の頌にいわく、母無学尼をけがす(殺母罪の同類)。住定の菩薩(殺父罪の同類)および有事無学を殺す(殺羅漢の同類)。僧の和合縁をうばう(破僧罪の同類)率都婆を破壊す。(出仏身血の同類)。
二には大乗の五逆。薩遮尼乾子経にとくがごとし、一には塔を破壊し、経蔵を焚焼し、および三宝の財物を盗用するなり。二には三乗の法をそしりて、聖教にあらずといいて、障破、留難し、隠蔽覆蔵す。三には一切出家の人、もしは戒、無戒、破戒のものを打罵し呵責して、過〈とが〉をとき禁閉し、還俗せしめ駈使債調し、断命せしむ。四には父を殺し、母を害し、仏身より血をいだし、和合増を破し、阿羅漢を殺す。五には因果なしと謗して長夜につねに十不善業を行ずるなり。已上
かの経にいわく、一には不善の心をおこして、独覚を殺害する、これ殺生なり。二には羅漢尼を婬する、これを邪行というなり。三には所施の三宝物を侵損する、これ不与取なり。四には倒見して和合僧衆を破する、これ虚誑語なり。略出
【字解】一。淄州 支那法相宗第三祖智周(四歴七〇〇年の人)をいう。淄州はその住地である。慈恩の門下
(2-670)
たる慧沼の弟子、撲陽の人であるから撲陽大師とも称せらる。日本の知凰入唐の際、法相宗を授けた人である。『成唯識演秘鈔』『成唯識論了義燈記』等十部四十余巻の著あり。寂年かく。
二。『倶舎論』 具には『阿毘達磨倶舎論』梵語(Abhidhakoaarmasastra)『対法蔵論』と訳す。三十巻。真宗七高僧の一、天親(又は世親という〕菩薩著。唐の玄奘三蔵訳。界品(二巻)、根品(五巻)、世間品(五巻)、業品(六巻)、随眠品(三巻)、賢聖品(四巻)、智品(二巻)、定品(二巻)、破我品(一巻、)。初め八品に於いて、認識論、宇宙論、因果論、修道論等、所謂有漏無漏の諸法を論じ、最後の「破我品」に於いて、無我の真理を説示す。倶舎宗正依の論にして、亦鈍乎たる古代の宗教哲学書である。
三。率都婆 塔のこと。梵語スツーパ(Stupa)、率都婆、塔婆、蘇偸婆、浮都等と音訳す。方墳、廟、高顕等と訳す。古代印度に於いては、舎利を蔵むる為、供養の為、報恩の為、霊域を表わすため等に建てた。『長阿含経』には、辟支仏縁覚、声聞、転輪王の四人には、塔を建てて供養せよと説かれてある。爾来、印度、支那、日本に通じて、塔は盛んに建立せられた。現今、俗にソトバ(卒都婆)又はトウバ(塔婆)というは、細長い板の上部を塔の形に模して、是に経文を書いたものを指すは、根本の意味より狭くなっているのである。
四。障破留難 仏法を障え破りて、難を留めること。即ち仏法の流布するを妨げ、危害を構えること。
五。隠蔽覆蔵 上の妨害は積極的であるが、これは消極的に仏法の光を覆い隠して、弘まらぬよ
(2-671)
うにすること。
六。債調 債は責めること。調は調伏、即ち荒れ馬をこなすこと。馬を使うようにこきつかうこと。
七。十不善業 十悪のこと。殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、愚痴
【文科】『往生十因』によりて逆罪を広く述べたまう一段である。
【講義】五逆罪ということについて、法相宗の淄州の恵沼大師は三乗の五逆と、大乗の五逆と二種類に分けて置き給うた。その中、三乗の五逆というのは、一には故意に父を殺すこと、二には故意に母を殺すこと、三には故意に阿羅漢を殺すこと、四には顛倒の妄見から、僧団の和合を破ること、五には悪心を起こして仏の御身体から血を流すこと、それである。これは父母の恩田に背き、仏僧の福田に背くことであるから逆罪と名づけるのである。この逆罪を犯すものは、一身の寿命終る時に無間地獄へ堕ち込んで、一大劫の間、間〈ひま〉のない苦悩を受けねばならぬ。間のない苦を受ける地獄であるから無間地獄と名づけるのである。
又『倶舎論』の中にこの五無間業に似て居る罪を挙げてある。倶舎論の頌にこのようにいうてある。母と阿羅漢果を得た比丘尼の節操を汚すこと(殺母罪の同類)。三僧祗劫の修
(2-672)
行が済んで、今百大劫の修行中の住定の菩薩を殺すこと(殺父罪の同類)。有学果、無学果の聖者を殺すこと(殺阿羅漢罪の同類)。僧団の和合して行く資縁〈たすけ〉となるもの、即ち米麦等の飲食を奪うこと(破和合僧の同類)。卒都婆を壊すこと(出仏身血の同類)。
第二に大乗の五逆というのは、『薩遮尼乾子経』に説いてある通り、一には、塔をこわし、経蔵を焼き、仏法僧三宝に附属する財物を盗み用ゆること。二には、声聞縁覚菩薩三乗の教えを排して、仏教でないというて、仏法の世の間に弘まることに邪魔をすること。三には、すべての出家の人や戒を持〈たも〉っている人、戒を破った人を打ったり罵ったり責めたりして、過失を挙げて無理に還俗させ、追い使い、責めさいなんで、死なせること。四には殺父、害母、出仏身血、破和合僧、殺阿羅漢のこと、五には、因果などはないことと邪見をつのって、長夜の夢を貪り、十悪を犯して居ることである。『十輪経』に曰わく、一に善からぬ心を起こして縁覚を殺すは、殺生である。二に無学果を証った比丘尼に対して婬行をするは、邪婬行である。三に諸方から施与になった三宝の財物を侵すは不与取である。四に顛倒の妄想から、僧団の和合を破るはうそいつわりの語である。
【余義】一。引く所の文は、永観の『往生十因』に依りて淄州の智周師の釈を引く。即ち
(2-673)
師の『最勝王経疏』の文である。
此の文の引意に就いては、此の下の『六要』に二義を挙げてある。一は、上に五逆謗法の往生を示しているが、その中謗法罪に就いては、『論註』に委しく解釈せられてあるが、五逆に就いては未だその内容を明らかにしてない。今やその罪相を示さんが為に引用せられた。二は、若し小乗の五逆ならば、多くの人は、犯しておらぬと思うている。けれども大乗の五逆説に照らさるる時は、何人も五逆罪を免ることは出来ない。人は皆常に十悪五逆を行うているのである。乃ち是等の罪相を明らかにして、慚愧の念を生ぜんが為に引用せられたというのである。
『六要』の此の二義は、動きの取れない適切の説である。但し文中『薩遮尼乾子経』の説に依れば、謗法罪も亦第二逆罪の中に摂している所から見れば『観経』の五逆罪を摂取する中に、矢帳り謗法罪をも摂めていることが知られると経証せられたに相違ない。
良〈まこと〉に上来、五逆謗法の両罪に就いて多くの問題が起こっているのであるが、この両罪とて決して離れているものでない。矢張り私共一人一人に相関連して存するのである。吾等は実に五逆謗法闡提の凡てを集めている悪機である。『末灯鈔』四十七丁に
(2-674)
善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものと申すなり。親をそしるものをば、五逆のものと申すなり。
殊に吾等に取りては適切の御言葉である。ああ何人〈なんびと〉か五逆謗法の罪を免るることが出来ようぞ。聖人は自らこの自覚を表白し、普くこの自覚を促し給う為に此の文を引用せられたものである。
脚 注