教行信証講義/真仏土巻
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教行信証講義 |
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山邊習学 赤沼智善 共著
教行信証講義
第三巻 真の巻 化の巻
昭和三年九月十日 十二版
(初版 大正三年六月二十五日)
教行信証講義
自序
真実の宗教は、理想と現実の霊的抱合でなければなりません。即ち帰依と讃詠と法悦の極みなきとともに、更に綿細なる観察と現実的批判を要するのであります。我聖人の宗教を知らんとする人々は、此の消息を理解せねばなりません。
土の中から花卉が生じるように、凡ての理想は現実より生まれるものでありますが、吾々は稍もすれば、其の理想の芳薫に酔いて、更に現実の批判を忘れんとするのであります。あらゆる宗教上の沈滞と迷信とは此の魔境から生まれてくる。是は霊海に棹さす者の一様に遭遇する危難である思います。
良や理想に奔れば高踏的な貴族主義に陥り現実に専注すれば、往々にして冷酷な自然主義に沈みて共に霊を失います。道に進む者の最も難関とする所であります。
けれども真実の宗教は、常に此の両者を不可思議に調和して限りなく進展するものであります。我聖人は、本典の前五巻に於いて高遠なる霊界の光景を説示せられましたが、此の「化巻」に来りて、真為邪正の分斉を決判し、進んで正道に至る心霊的歴程を開示し、更に信議雑心の細微に分け入りて、明快なる批判を施された。而も夫は冷酷な理知的批判ではなくして、慈愛に裏づけられた涙ある告白であります。斯くして此の「化巻」は前五巻を裏書して理想を現実化せしめ、そして限りなき人類を摂受し教化する力を体現せられたのであります。是は良に霊界の驚異であると思います。我有縁の読者が、深く此の機微に触れられんことを望むや切であります。
顧みれば、私共不肖をもって本典講述の筆を執りましてから茲に四星霜、此の間時代思潮の推移、教界の変遷等様々の障碍は、私共の身辺を襲うたことでありますが、幸いに仏天の冥祐と先輩師友の提撕によりまして、ここに本講を完成すること得ましたのは、私共の感激措く能わざる所であります。茲に謹んで感謝の意を表する次第であります。
今や本講を結ぶに当たりまして、既往を省みれば、当初期する所の半ばにも達することが出来ず、徒に無上の聖典を涜し奉りしの思い溢れて、只管慚愧に堪えぬ次第であります。只今後の努力が、此の欠陥の幾分にても満たすことが出来まするならば、私共の至高であると思います。
大正四年十月六日
渡印の途上、香港沖の宮崎丸にて 著者識
教行信証 講義 巻三
山邊習学 赤沼智善 共著
真仏土巻
序講
第一章 真仏土巻来由(3-001)
一。親鸞聖人は、その畢生の心血をしぼり、その高潮の信仰を吐き尽くして『教行信証』六軸を製作なされた。『教行信証』は、古来の仏教に一時期を画すると共に、永遠に亘りて変わることない生の宗教を樹立し給うたものである。人間のあらゆる粉装を脱却し放下せしめて、赤裸々の生そのものに返して、この上に溢るる許りの法悦と歓喜とを得せしめ給うのが、我が親鸞聖人の宗教であり、永遠に変わることなき生の宗教である。
親鸞聖人が「真教真宗是也」と仰せられ、教というは本願円頓一乗の教のみであると絶対的判釈を以て仰せられるように、古来宗教は一である。少なくとも、その本質に於いて一である、一であるべき筈である。我々は平常、大抵、自分の粉装に欺かれて、自己の本真を見得ないと共に、往々にして宗教の粉装に欺かれて、宗教の本真を見失うのである。親鸞聖人御出生当時は、所謂この外部の粉装に欺かれて、宗教の本真を見失うた時である。聖人は、自己の本真を掴むと共に、宗教の本真を掴まれた。而してこれをその儘真教真宗これ也と宣伝なされたのである。
二。教行信証四法の綱格のことについては、已に第一巻に詳述した通りである。今茲に更に語を加える必要は見ないが、ちょっと側面的に観察すると、次の様にいえるのである。而して往々この側面的観察に、実際の真理が握られることが多いのである。
教というは、我々の粉装を脱して、永遠の本真に帰さしめようという教主の慈悲である。行というはその教に依って詮顕された永遠の本真、本体である。
信は「自然に帰った時に宗教がある」という西哲の語のように、教主に依って、一切の粉装を脱却せしめられた時に、赤裸々の生に湧く他力自然の確信である。力である。
証は、その本真に帰ったもののみの上に顕わるる永遠の神秘である。
この見方は、余りに大体な大掴みな観察であるが、自己及び世界を極端に単純化せられた我が永生の聖人には最も相応〈ふさわ〉しい観察ではなかろうかと思う。『優婆尼殺土〈ウッパニシャッド〉』にこういう語がある。「世界を複雑に見る人は滅亡に行く人である」。ところがあらゆる人は世界を悉く渾沌としたものと見ている。山川草木虫魚雑然としていて何等の統一のないものに考えている。天体の運行に音楽をきく耳は持たない。それだからして、その因として、又その果として、精神の統一もなく、自己はいくつにも分裂して、みじめな生活をしているのである。信とは雑多の中に統一を見出すことである。天体の運行に諧調の音楽をきき、無辺に広い大地の中に、一貫した全一を見出すことである。我が親鸞聖人は、仏凡一体、機法一体という極端な単純化を身証体現なされた方である。
三。教行信証の四法は、かく宇宙を単化し霊化(単純化は霊化でなければならない。霊の眼のない人は、到底単化をなし得るものではない。)した親鸞聖人の四法である。それだから、聖人の四法は、語拠語例が前にいうように昔の人の上にあるにせよ、余程異なった一点から見得る眼がなくては、到底その真髄を掴めるものではない。
それで、教行信証の四法は、極端な単純化を成し遂げ得られた我が聖人の霊の終始である。同時に、我々生あるもの一切の霊の終始である。我等は宇宙一切に磅[ハク02]する教命に耳傾けねばならぬ、而してその教命に詮顕された大法界の本源を了会し、その本源と我等の生の一体を身証せねばならぬ、証はその身証者体現者の霊の生活である。その生活の表現である。『教行信証』六軸の前四巻「証巻」までを熟読なされた方は、這般の意味を充分に会得してくだされたことと思う。
四。かくの如く『教行信証』前四巻を見来たる時には、これからの『真仏土巻』『化身土巻』の来由が明らかに知れて来ようと思う。
古来『真仏土巻』は「証巻」から開出せられたもの、『化身土巻』も同じく「証巻」から流出したもの、『真仏土巻』は「証巻」開出せられて、上に向っては、上来前四巻が能帰の機に約して衆生往生の因果を明かしたるに対し、所帰の身土を示し、下『化身土巻』に対しては要弘対、真弘対を以て、真化の義を詮明し給うたものとしている。この中にも細かい点に至っては随分種々の異論があるが大抵はこういうことになっている。
今この『真仏土巻』に就いて、上来の四巻が能帰の機に約し、本巻が所帰の真土を明かすというは、『六要鈔』主の指南であって、正当な分科であると思う。『樹心録』では語を換えて、上来所化の始終を明かし、この巻は能化の身土を明かすというている。
五。『真仏土巻』が「証巻」から開出せられたことはいうまでもない。衆生の所証は畢竟能化者の所証であって、衆生の所証を説き畢わって、その体を一にする能化者の所証を説明するというは最も自然であるからである。弘願一乗教の妙味は茲に存しているのである。けれども『真仏土巻』を以て、只「証巻」から開出されたものとして、それで片付けて置くことは、少しく義を尽くさないように思う。私共が『教行信証』前四巻を知れば、『真仏土巻』の来由も自ずから知れるというたのは茲のことである。私共は『真仏土巻』を「行巻」に関係せしめて見たいのである。
行とは何か、南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は何か。これを以て単に弥陀如来の名号と見るは未だ義を得ない。名体不二の南無阿弥陀仏は、その儘法界の本源本真である。我等の所帰帰信である。弥陀如来と南無阿弥陀仏と義に分けていえば、体と名号であるが我々の上に頂いた南無阿弥陀仏は力である。寿である。この力と寿を認めた上から名体不二という霊感があるのである。南無阿弥陀仏に力と寿とを認めない人は、南無阿弥陀仏を殺している人である。もしそうだとすれば、信者の主観的霊興の上には、一南無阿弥陀仏が、大法界の本源本真となるのである。
さて『真仏土巻』は、所帰の真土を明かしてある。仏は不可思議光如来、土は無量光明土が当巻の書出しである。不可思議光如来というは、体である。法界の本源本真である。してみると、『真仏土巻』と「行巻」とは余程密接の関係を持って来るのである。古来この両巻の関係に就いて余り研究せられてないのは、遺憾の至りである。
私共から見ると、「行巻」は本真本体の動的発動を説き明かされたもの、『真仏土巻』はその本真本体の静的方面を述べられたものと思う。「我が弥陀は名を以て物を摂す」。体は発動して名となった、名は空名でなくて、力である。一切衆生を摂取し包容する力である。この本体の発動方面、力としての名号は説明され讃嘆し尽くされた、今茲には改めて、その我等所帰の本体を静的に見て讃嘆なさろうとするのである。「仏者即不可思議光如来、土者亦是無量光明土也。」所帰の身土を並べ明かして、力の発動する原因を究尽し、讃嘆せられるものである。
六。『化身土巻』のことは、これまでの所説に対照して見ると、明らかに知れて来るものであるが、そのことは、下に至って述べることとする。
本講
第一編 真仏土 (真仏土巻)
第一章 解 題
第一節 題号と選号
(3-007)
顕浄土真仏土文類五 愚禿釈親鸞集
【講義】 浄土真宗の真仏土を顕わす文類
【字解】 一。愚禿釈親鸞。親鸞聖人自選の号。本願の実機を示すとともに、自ら慚愧の自督を表し給う。本書第一巻(一五一頁)第二巻(二十五頁)詳述。
【余義】 一。茲には「真仏土巻」というてある、もしこれを上四巻「真実何々巻」とあるに対すれば、「真実仏土巻」と標すべきであり、次の「方便化身土巻」に対すれば「真実真仏土巻」と標すべきであろうと思われる。然るに単に「真仏土巻」と標するは、巻名相望の上に不備の点があるではないか。
この疑難は一応成る程と思われるが『教行信証』六軸を互いに相対せしめて、その位置を知る時には、聖人が、単に「真仏土巻」となされたところに、一字をも苟しくもなさらない面影が偲ばれるのである。何故ならば、前四巻に「真実何々巻」とあるは、要門真門の浄土の方便を簡ぶので、「方便化身土巻」の方便に対するものである。今当巻の「真仏土巻」は正しく「化身土巻」に対して、化身土を簡ぶのである。「方便化身土巻」からいえば、方便を以て前四巻に対し、化を以て「真仏土巻」に対するのである。
真実(前四巻)・・・・・・・・方便┐
├ (身土巻)
真(仏土巻)・・・・・・・・・化 ┘
二。次に、もしこの題号が次巻の化身土に対するとすれば、語をそろえる上からは「真身土」と標する方が妥当でなかろうか。「化巻」には化身土といい、当巻には真仏土というは何等の意味があるのであろうか。
仏、身二字の使いわけには、何等の意味があるのではない。これが所謂影略互顕と称するもので、互いに通じる意味を持っているのである。只用語上、仏土と称する方が、比較的依正不二の義が顕われ易く、身土と称する時は、依正差別の義が勝るから、真仏身土を説く当巻に仏の字を用い、化仏化土を説く「化巻」に身の字を用いたのである。
第二章 標挙(3-010)
【大意】「真仏土巻」全体に亘りて説き明かすべき光寿二無量の願を標し給う。この十二字、『御草本』『御真本』『高田本』とともに、本文標題の前、表紙の裏にあり。
光明無量之願 寿命無量之願
【字解】一。光明無量之願『大無量寿経』に説かれたる四十八願中第十二願。得勝光明願。又は仏光無辺願と名づけらる。如来の智慧光の無量なることを誓うた願である。
二。寿命無量之願『大無量寿経』に説かれたる四十八願中第十三願。得寿久住願、又は仏寿無量願と名づけらる。如来の寿命の無量なることを誓うた願である。光明は用、寿命は体、即ち仏身の無量の諸徳をこの体用の二つに総括して明かしたまうものである。
【文科】「真仏土巻」全部に説き明かす本尊の体用を標挙する一段。
【講義】この一巻に明かす所の仏身は、この十二、十三の二願によりて成就せられたるものに外ならぬ、即ち上四巻の綱格に従いてこの二願を標挙し給う。真仏土の如来は其の体寿命無量にして竪に三世を貫き。其の用は光明無量にして横に十方の衆生を摂化し給うこと測りなし。真報身の弥陀如来の勝徳は限りなけれども、この光寿の二徳をあげれば、他の徳相は尽く是を収め尽くされるのである。
【余義】一。今茲に十二、十三の両願が挙げてある。両願は、摂法身、摂浄土、摂衆生の三を以て四十八願を類聚する時の摂法身の願に収まるものである。而してこの「真仏土巻」は、その名にも示されてある通り、真仏真土の両方を説くものである。然らば何故、摂法身の願だけ標挙して、摂浄土の願を標挙しないのであろうか。
四十八願中、摂浄土の願というと、三十一の国土徹照の願と、三十二の国土厳飾の願である。この両願は真報土の一相を顕わしてあるだけで、広大究竟の報土の真相を説き尽すものではない。それで限られた一相を示す両願を標挙するよりは、仏身を挙げて、その仏身のい給う浄土は仏身に準じて知るべきものとなし給うたのである。依正はもとより不二であるから、正報の仏身を示せば、依報の土は自然に其処に顕わされるのである。「仏者則是不可思議光如来、土者亦是無量光明土也」、不可思議光如来の御座所は無量光明土であるというが我が聖人の顕わし方である。それ故に「真仏土巻」に於いて、証成の経文を出し給うに就いても、仏身の証文を多く出して、仏土の証文は『平等覚経』の「無量光明土」の文があるだけである。化土は差別の相が明らかであるから、この差別限局の相を示さんために、「化身土巻」に於いては、化土の証文を多く出して、仏身の証文は「真身観仏是也」とあるだけである。この顕わし方の相違に依っても、真仏真土と化仏化土の差別を明らかに看取することが出来のである。
右の理由に依って、今聖人は、摂法身の二願を標挙して、摂浄土の願を出し給わなんだのである。
二。次に、摂法身の願というは、第十二の光明無量願、第十三の寿命無量願、第十七の名号成就の願である。今この三願の中、第十二と第十三を出して、第十七願を出し給わぬはいかなる理由かというに、第十七願は勿論摂法身の願には相違ないけれども、その特殊の任務は名号成就であって、名号は行に摂属するものであるから、今茲に標出しないのである。
三。さて茲に問題の起こって来るのは、光明と寿命ということについてである。阿弥陀仏に於いて殊に著しい特長であるが、仏陀というはあらゆる徳をすべて具え給うた方であるのに、いつも、特にこの光明と寿命の二徳を挙げて置くのは何故であろうか。源へ還っていえば、弥陀如来は摂法身の願に於いて何故にこの光明寿命の二無量を特別に誓われたのであろうか。このことについては古来いろいろに説明を下している。一節を出してみると『光融録』には、下の六義を立てて、仏徳は無量であっても、光寿二無量の二徳で摂め尽くして仕舞うからというてある。
一。二徳を大悲の本とする。即ち二徳を以て名を成じ、名を以て物を摂する。
二。寿命は法身常住の体、光は仏智現照の用。
三。寿命は福報、光明は智果。
四。寿命は竪に三際を利し、光明は横に十方を益する。
五。衆生の所欲に適するため、即ち衆生はただ長寿と明智とを欲するから。
六。現在に光照を蒙り、当来に長寿を得る。
義の挙げ方や、その数に相違はあるが、要するに光寿無量の二徳を以て、一切の徳を摂めることが出来るからというには、諸説すべて一致している。そうして更にこれを約めて、最も適切にいえば、宗教的であるからということになる。あらゆる宗教は衆生の要求を根本とする。大悲の働きかけて下さるのは、その衆生の要求をめがけてである。本願の光寿二無量の成就は、衆生の要求の具体化である。複雑な我々の本能的要求を単純化して見れば、生命と明るさである。我々の宗教的であるということは、この複雑な我々の本能的要求を単純化することが出来るということである。即ち根底的な要求を突きつめることが出来るということである。そうしてその単純化された根底的な要求は、生きたいということ明るみに出たいということである。この根底的な要求に応えて顕われ給うたのが、本願の光明寿命の二無量である。『和讃』に「光明寿命の誓願を、大悲の本としたまえり」とあるのは、親鸞聖人が、この衆生の要求の機微を捕え給うた偉大な宗教的天才であることを示しているのである。してみれば、弥陀如来の摂法身は衆生の根本的要求に応ずべきこの光寿二無量の成就であることはいうまでもないことである。今茲にこの二無量の両願を標挙し給うたのは最も当を得、しかあるべきことと云わねばならぬ。
四。所が更に問題が起こって来る、それは外ではないが、親鸞聖人は『唯信鈔文意』一八丁に
この誓願のなかに、光明無量の本願、寿命無量の弘誓をあらわしたまえる御かたちを世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。この如来すなわち誓願の業因にむくいたまいて、法身如来ともうすなり。
と宣い、『末灯鈔』六丁には
第十八の本願成就のゆえに、阿弥陀如来とならせ給いて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらわしたまえり。
と宣うてある。『唯信鈔文意』の文は、今この「真仏土巻」の二願標挙の義意と同じいが、『末灯鈔』にはこれに反して、第十八願に依って覚体成就をいうてある。この相違をいかに会するかという問題である。これについて『樹心録』は体用を以て会し、
仏はもと光寿二徳を以て名となし、名を以て物を摂す。故に光寿両願を以て体となす。念仏往生の願を用となす。体用一源、唯是大悲、各一義に拠って光寿相違せず
といい、皆往院師は自利利他を以て会し、
『当巻』、『唯信鈔文意』は摂法身の義にして先ずは仏の自利門に約し、『末灯鈔』は摂衆生の義に約す、これ仏の利他門に当れり、所詮仏は自利利他成就する二利満足の弥陀なり。然れば義門の差別にして格別の異義にあらず。
というておられる。私共から見ても、この辺の処かと思うが、一言加えていえば、覚体成就の側からいえば、十二・十三両願成就して弥陀如来となり給うたというべきであり、しかも弥陀如来の弥陀如来たるは、一切衆生摂取にあるから、この側からいえば、十八願成就のゆえに弥陀とならせ給うたと云わねばならぬと思う。しかも覚体の成就は、その儘発動して衆生引摂となるのであり、衆生引摂の力の源は覚体成就にあるのであるから、この辺のことはわけてわけられないものと云わねばならぬ。こちらの主観的の宗教的感情に依って右をいい、左を云わねばならぬようにせしめられるのである。
五。光明と寿命の次第に就いては、体と用という方からいえば、寿命が体であって光明がその用であるから、寿光という次第にせねばならぬのであるが、今は宗教的に最も大切な摂化ということを本とするから、先ず光明を以て照らして寿命を与うるという次第で光寿としたものである。今の願文の次第にせよ、『阿弥陀経』の得名段にせよ、皆この摂化の側から次第したものである。
第三章 真仏土
第一節 略顕
(3-017)
【大意】是より正しく真仏土を説示せらる。初めに其の大略をのべるがこの一段である。第一項に身土を略標し、第二項に法真報土の報の意義を説き、第三項に願名を標し給う。
第一項 身土略標
(3-017)
謹按真仏土者則是不可思議光如来土者亦是無量光明土也。
【読方】謹んで真仏土に按ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり。土はまたこれ無量光明土なり。
【字解】一。真仏土 化身土の対。真仏と真土の意。即ち真報身の仏と、その仏のおり給う真実報土を指す。
二。不可思議光如来 阿弥陀仏の異名、下三一頁に引く『如来会』の十五光仏(又一説には十三光仏)の一。『大無量寿経』の十二光にあつれば、難思光仏と無称光仏である。
三。無量光明土 阿弥陀如来の浄土をいう。下三三頁に引く所の『平等覚経』の文に依る。絶対絶妙の浄土をこの名にて表わし給うのである。
【文科】吾等の帰依すべき真実の身土を略標する一段。
【講義】謹んで浄土真宗に建つる所の真実の仏土を考えて見まするに、その仏とは吾等凡夫の心も言葉も絶え果てた不可思議光如来にてまします。又その仏の居給う土は、限りなき光明の国である。
【余義】一。先に本巻の標挙として、光明無量、寿命無量の両願を出しながら、今この両標段へ来たって、仏は不可思議光如来、土は無量光明土と、身土共に光明を以て顕し給うた理由はなにであろうか。
このことに就いては、先にも曰った様に、この『教行信証』六軸が、学問の書や、論義の書と違って、信仰の書、讃仰の書であることを忘れてはならぬ。信仰の書は、高潮した自己の宗教的感情を直情に吐露して、其の儘渾然たる讃仰となるものである。今この「仏者則是不可思議光如来、土者亦是無量光明土」というも、茲に先ず聖人の燃ゆるが如き宗教的感情を読まねばならぬ。聖人は法悦と感激の心栄えから、教主の如来に対して、この讃仰の二十字を捧げ奉られたのである。してみると、この二十字については、聖人の法悦と感激の情とを頂かねばならぬのであるが、何故に一方を閑却して、一方だけ云われたものかと問いつめるべきものではないのである。何故なら、冷静な思考の上の語ではないから、冷静な分析意的質問は許されない訳であるからである。
すると、先に提出した質問は撤回せねばならぬことになるが、私共を以てすると、この質問を冷静な分析的なものとせず、聖人の讃仰がこういう形式を以て顕われるに至った内的の理由を知ろうとすることになるのである。
これだけの準備を以てすると、この質問はさらりと解けて来る。光明を挙げられたのは大悲摂化の例を重視せられたから。如来の大悲摂化に就いて、殊に法悦と歓喜を有せられたから。それで寿命の徳は光明の徳に収めて不可思議光如来云々と讃仰せられたのである。この不可思議光如来は下に出て来る『如来会』に依り、「無量光明土」は同じく下に引かれている『平等覚経』に依られたことは申すまでもない。
二。光明の尊号の中に、平生用い給う尽十方無碍光如来と不可思議光如来の二名がある。尽十方無碍光如来は、近く『浄土論』に出でて、最も親しいみ名であるのに、何故に不可思議光如来のみ名を用い給うたか。
この理由としては、どうも徹底して伺われないが、我が聖人の御心持では、先ず第一には、経文に依って、真仏真土の名を立てるおつもりで、真仏については『如来会』に依って不可思議光如来と讃し、真土については『平等覚経』に依って無量光明土と讃し給もうたものではあるまいか。次には、大谷派の雲[ジュ02]院神興師が、「化身土巻」に対し、真身観所見の数量可思議の仏に対して、真仏を顕わさんため遮情門に依って、不可思議光如来と宣うたものと云われてあるのが尤もとうかがわれる。雲[ジュ02]院師の考えでは、十二光仏の中、前十一光は所喩、第十二光は能喩であり、所喩の中、前九光は表徳にて、十の難思光と十一の無称光は遮情である。而してこの難思光は『如来会』に於いては不可思議光である。それで今、表徳門の尽十方無碍光如来を用いず、遮情門の不可思議光如来を以て、真仏を讃嘆なされたというのである。
第二項 報の意義
(3-020)
然則酬報大悲誓願故曰真報仏土
【読方】然ればすなわち大悲の誓願に酬報す。かるがゆえに真の報仏土という。
【文科】簡潔に「報」の意義を示して、報仏報土の何たるかを決判し給う一段。
【講義】そして此の真仏真土は、決して偶然に顕現われたものではなく、全く如来大悲の因位の誓願に酬報〈むく〉い現れたものである。これは因位の大法に従って真実にそして自然に現れたものであるから真の果報たる仏土というのである。
【余義】一。「大悲の誓願に酬報するが故に、真の報仏土と曰う。」大悲の誓願というは、茲では無論十二・十三の両願を指しているのである。四十八願の中に摂浄土の願があるのに摂法身の願たる光寿二無量の両願に依って真の報土を酬報したということは、少しく理を外れているようであるが、このことは既に前に説明した通りである。
一体報身報土の酬報を談ずるについては、四十八願についていうと、十八願についていうと、十二・十三の両願についていうとの三種がある。このことについて前十五頁に少し述べてあるが、場所の上からいい尽くせない所があるから茲に補って置くのである。
此の三種の荘厳成就は本と四十八願等の清浄願心の荘厳せる所なるに依って、因浄なるが故に果浄なり 『論註』下二十三丁
此れは弥陀の本国四十八願なることを明かす。願々皆増上の勝因を発す。因に依って勝行を起こす。行に依って勝果を感ず。果に依って勝報を感成す。報に依って極楽を感成す。 「序分義」二十六丁
四十八願の荘厳して起こすところ、諸仏の刹に超えて、最も勝となす。 『法事讃』
以上の三文は明らかに四十八願全体から報身報土を酬報するということを示しているものである。我が聖人はこれを受けて、「真仏土巻」の終わりに「それ報を案ずれば、如来の願海に由って果成の土を酬報し給えり」と宣い、『帖外和讃』には更に明らかに「四十八願成就して 正覚の阿弥陀となりたまう」と記されたのである。然しこの四十八願酬報というは所謂総論で、我が聖人は身土に真化を分ち、四十八願にも真実方便とわけて別論し給うのである。それで「真仏土巻」の前文に引きつづいて「仏土に就いて真あり仮あり。選択本願の正因に依って、真仏土を成就せり」と宣うたのである。四十八願酬報は総論である。十八願酬報、十二・十三願酬報は別論である。十八願酬報、十二・十三両願酬報については前十五、十六頁に云ってある。
二。大悲願というについては、本書第一巻二九二頁に詳説して置いたが、如来の大悲心から流れ出でた本願という義があるから、総じて四十八願を指し、別しては第十七願を指す願名である。今茲に大悲願と云われたのは、所謂言総意別で、十二・十三の両願は、もとより光明寿命の摂法身の願ではあるけれども、弥陀の成仏は衆生の救済のためで、摂法身そのままが大悲、自利そのままが利他であるから大悲誓願と宣うものである。語の使い方からいえば、摂法身の願に酬報するが故にとあった方が却って適切であり至当である様に思われるが、特に「大悲の誓願に酬報するが故に真の報仏土という」といわれたところに、一段の宗教的妙味を味わわれるのである。この一句に依って、弥陀の成仏、弥陀の存在が、根底的に、衆生救済のためであることが知られるのである。
第三項 十二、十三願名
(3-023)
既而有願即光明寿命之願是也
【読方】すでにして願います。すなわち光明寿命の願これなり。
【文科】光寿の二願を標示して、報仏報土の根源を顕わす一段。
【講義】即ち既にこの果報を生むべき本願がまします。それは四十八願中の第十二光明無量の願、第十三寿命無量の願がこれである。
第二節 経文証
(3-024)
【大意】上に真仏土の要義を略標し了ったから、以下経釈の文を引いて、真仏土を証明し讃嘆せらる。
以下『大経』及び其の異訳、『不空羂索経』を引き、終りに『涅槃経』を広引して真仏土の内面を表現し給う。
第一項 『大無量寿経』の文
第一科 本願文
(3-024)
大経言設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚又願言設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚
【読方】大経にのたまわく、たといわれ仏をえたらんに、光明よく限量ありて、しも百千億那由他の諸仏の国を照らさざるにいたらば、正覚をとらじと。また願にのたまわく、たといわれ仏をえたらんに、寿命よく限量ありて、しも百千億那由他の劫にいたらば、正覚をとらじと。
【文科】初めに正依の願文を引いて真仏土を証し給う。
【字解】一。那由他 印度の数名。梵音ナユタ(Nayuta)万億、千億、又は数千万等と訳す。
【講義】大無量寿経の第十二願に宣べ給わく、
設我れ仏となるであろう時、その威神光明に限量があって、下百千億万、あらゆる諸仏国を照らすことが出来ないならば、決して正覚を開かぬであろう。
更に第十三願に宣べ給わく、
設我れ仏となるであろう時、その寿命に限量があって、その後、百千億万劫にして終るようならば、正覚を開かぬであろう。
第二科 成就文
(3-025)
願成就文言仏告阿難無量寿仏威神光明最尊第一諸仏光明所不能及乃至是故無量寿仏号無量光仏無辺光仏無碍光仏無対光仏炎王光仏清浄光仏歓喜光仏智慧光仏不断光仏難思光仏無称光仏超日月光仏其有衆生遇斯光者三垢消滅身意柔軟歓喜踊躍善心生焉若在三塗勤苦之処見此光明皆得休息無復苦悩寿終之後皆蒙解脱無量寿仏光明顕赫照耀十方諸仏国土莫不聞焉不但我今称其光明一切諸仏声聞縁覚諸菩薩衆咸共嘆誉亦復如是若有衆生聞其光明威神功徳日夜称説至心不断随意所願得生其国為諸菩薩声聞大衆所共嘆誉称其功徳至其然後得仏道時晋為十方諸仏菩薩嘆其光明亦如今也仏言我説無量寿仏光明威神巍巍殊妙昼夜一劫尚未能尽仏語阿難無量寿仏寿命長久不可勝計汝寧知乎仮使十方世界無量衆生皆得人身悉令成就声聞縁覚都共集会禅思一心竭其智力於百千万劫悉其推算計其寿命長遠之数不能窮尽知其限極 抄出
【読方】願成就の文にのたまわく、仏、阿難につげたまわく、無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶことあたわざるところなり。乃至 このゆえに無量寿仏をば、無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号す。それ衆生ありてこの光にあうものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心ここに生ず。もし三塗懃苦のところにありても、この光明をみれば、みな、休息をえてまた苦悩なし命終えての後にみな解脱をこうむる。無量寿仏は光明顕赫にして十方を照耀す。諸仏の国土にきこえざることなし。但し我いまその光明を称するのみにあらず。一切の諸仏声聞縁覚、もろもろの菩薩衆、ことごとくともに、嘆誉することまたかくのごとし。もし衆生ありてその光明の威神功徳をききて、日夜に称説して至心不断なれば、こころの所願にしたがいて、その国に生ずることをえて、もろもろの菩薩声聞大衆のためにともに、嘆誉し、その功徳を称せられん。それ然してのち、仏道をえる時にいたりて、あまねく十方諸仏菩薩のためにその光明を嘆られんこと、また今のごとくならん。仏のたまわく、われ無量寿仏の光明威神巍巍殊妙なるを説くこと、昼夜一劫すともなお未だつくすことあたわずと、仏、阿難にかたりたまわく、無量寿仏は寿命長久にして勝計すべからず。汝むしろ知れりや、たとい十方世界の無量の衆生、みな人身をえて、ことごとく声聞縁覚を成就せしめて、都ともに集会し、思いをもっぱらにし、心を一にして、その智力をつくして、百千万劫において、ことごとくともに推算して、その寿命長遠の数をはからんに、窮尽してその限極を知ることあたわずと。抄出
【字解】一。三垢 三毒のこと。貪欲、瞋恚、愚痴の煩悩のこと。
二。声聞 二乗、三乗、五乗の一。梵語 シュラーワカ(Sravaka)の訳。仏の教えの声を聞いて証る人という意。四諦の理を観じて現身に証を獲、又は三生六十劫の修行を経て阿羅漢を証する聖者をいう。
三。縁覚 二乗、三乗、五乗の一。梵語 プラトエーカ、ブツドバ(Pratyeka-Baddha)の訳。独覚、又因縁覚ともいう。師によらずして、飛花落葉等を観じて証を開くから独覚といい、又十二因縁を観じて証を開くから縁覚というのである。これに二類あり、一は、はじめに部衆と雑じわり住する声聞で第四果を得るときに独証するもので、是を部行独覚という。二は初めから無師独悟するもので、是を麟角喩独覚という。ともに四生(極速)又は百劫(極遅)にして証果を得。
四。菩薩 菩提薩[タ01]の略。梵音ボードヒサツトワ(Bodhisattva)、覚有情、大士、大心衆生、等と訳される。菩提は覚、薩[タ01]は有情である。三乗、五乗の一。大心を発して仏道に入りたる人をいう。即ち四弘誓願を発し、六度の行を修め、上菩提を求め、下衆生を化す。五十一位、三祇百大劫の修行を経て、仏果を証る。これに頓悟、漸悟の差別がある。
五。劫 梵音カルパ(Kalpa)。劫波、劫簸、羯臘波ともいう。非常に長い時間のこと。方高四十里の城に芥子粒を満たし、三年毎に一粒を取りて、遂に取り尽くすに至る間を一劫とす。是を芥子劫という。又方高四十里の石を、天人が三年に一度、重さ三銖の天衣をもって払拭し尽くす間を一劫とす。是を払石劫という。
以上の劫は小劫である。中劫は方高八十里、大劫は百二十里の城と石をもって比顕せらる。
又、人寿八万四千歳の時より、百年毎に一歳を減じて、人寿十歳に至り、さらに百年毎に一歳を増して人寿八万四千歳の時に至る。この一増一減の間を一小劫といい、二十小劫を一中劫、四中劫を一大劫と名づける。
【文科】十二、十三願成就文を引いて光寿無量の仏身を証し給う。
【講義】大経願成就の文に言く。
仏、阿難尊者に仰せらるるよう、阿難よ、無量寿仏の威神光明は、尊厳なること第一に位して、如何なる諸仏の光明も能く及ぶ所ではない。乃至、それであるから無量寿仏をば無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号づけ奉る。
もし此の光明に逢い奉る者あらば、貪瞋痴、三毒の垢は朝日に溶ける霜のように消え失せ、煩悩のために硬った身体も意も柔軟となる。霊の歓喜びに心踊躍りて、真実の善き心は自ずと生まれてくる、よしや又三塗(三悪道)の限りない苦しみの底にありても、一度この光明に逢い奉るならば、皆大悲の隠家に憩い休むことが出来て、復の苦悩みはないであろう。その処の寿終えての後は、皆苦しみから解脱〈のがれ〉ることが出来る。
かように無量寿仏の光明は、太陽の如く朗らかに赫いて、十方の諸仏の国々を照耀して行き亙らぬ処なく、その名を聞えざる処はない。但しこの土の仏たる私だけがかの御仏の光明を称讃するばかりでなく、一切の諸仏、一切の声聞、縁覚、又は一切の諸菩薩も、咸〈みな〉声を揃えて嘆称することは、私と異なることはない。
故に若し衆生ありて、その光明、威神、功徳利益の広大なるを聞いて、夜も日も隔てなく其の功徳を称讃し奉り、心を一つにして止むことなければ、心の所願通りに無量寿国に生れることが出来る。即ち仏道を開いた後に、諸の菩薩、声聞などの大衆をはじめ、普く十方の諸仏達の為に、その光明功徳を称讃せらるること、今無量寿仏の讃嘆せらるるようである。
仏、重ねて仰せらるるよう、
我、無量寿仏の光明威神の巍々として高山に聳えるような殊妙〈すぐれた〉徳を説き示さんとするならば昼夜の分かちなく一劫の時を尽くしても、その全分を説くことは出来ぬであろう。
仏、阿難に語り給うよう。
阿難よ、無量寿仏の光明の威徳は上に述べたようであるが、その寿命も亦長久にして、あげて計えることは出来ない。阿難よ、知らずや、よしや十方世界の限りない衆生が、皆人間と生まれて、悉く声聞縁覚の智慧を得、そして皆が一つに集まりて、思いを禅〈しず〉かにし、心を一つにして、其のあらん限り、智力を尽くして、百千万劫の長い間、理を推し、数を数えて無量寿仏の長遠なる寿命を測り奉っても、到底その限極を窮め尽くすことは出来ないのである。
第二項 『如来会』の文
(3-031)
無量寿如来会言阿難以是義故無量寿仏復有異名謂無量光無辺光無著光無碍光光照王端厳光愛光喜光可観光不思議光無等光不可称量光映蔽日光映蔽月光掩奪日月光彼之光明清浄広大普令衆生身心悦楽復令一切余仏刹中天龍夜叉阿修羅等皆得歓悦 已上
【読方】無量寿如来会にのたまわく、阿難この義をもってのゆえに、無量寿仏はまた異名まします。いわく無量光、無辺光、無著光、無碍光、光照王、端厳光、愛光、喜光、可観光、不思議光、無等光、不可称量光、映蔽日光、映蔽月光、掩奪日月光なり。かの光明、清浄広大にして、あまねく衆生をして身心悦楽せしむ。また一切余の仏刹中の天、龍、夜叉、阿修羅等みな歓悦をえしむと 已上。
【字解】一。『無量寿如来会』 『大無量寿経』の異訳。唐の菩提流支の訳。『大宝積経』四十九会百二十巻中の第五会に収められて其の十七巻、十八巻となっている。(「第一巻」一九一頁、大経異訳対顕をみよ。)
二。天 八部衆の一。梵天、帝釈、四天王等の天部の総称。
三。龍 八部衆の一。龍神及び其の眷属の総称。難陀龍王、跋難陀竜王等を指す。
四。夜叉 八部衆の一。梵音ヤクシャ(Yaksa)薬叉閲叉と音訳す。勇健、暴悪等と訳す。能く虚空を飛行する故に捷疾鬼とも称せらる。天夜叉、虚空夜叉、地夜叉の三種あり。地夜叉は飛行することが出来ないという。
五。阿修羅 凡音アスラ(Asura) 阿素羅、阿素洛、阿須倫と音訳し、略して修羅という。非天、非類、不端正と訳す。十界、六道の一。常に三十三天と戦うと『長阿含経』に見ゆ。
【文科】異訳三文の中第一に『如来会』願成就文を引いて正依を助顕し給う。
【講義】『無量寿如来会』に曰く、阿難よ、是の義をもって無量寿仏に復異名がまします、無量光、無辺光、無著光、無碍光、光照王、端厳光、愛光、喜光、可観光、不思議光、無等光、不可称量光、映蔽日光、映蔽月光、掩奪日月光でる。
この仏の光明は清浄にして、広く大にして一切に行き亙り、光に触るる衆生をして、身も心も悦楽を覚えしめる。復あらゆる余の仏国の中の天、人、龍神、夜叉、阿修羅等をして皆、法の歓悦を得せしむる。
【余義】一。これより先『大経』の十二、十三の両願文、及び成就文を引いて、光明寿命の三無量の義は充分に顕わしてあるが、更に『大経』の異訳の経典を引いて助顕し給うのである。異訳の経は『如来会』と『平等覚経』と『大阿弥陀経』である。
『如来会』を引き給うのは、いうまでもなく、「仏者則是不可思議光如来」のみ名の出所を示し給うものである。
『平等覚経』を引き給うは「土者亦是無量光明土也」の報土の名目の出所を示し給うものである。
『大阿弥陀経』を引き給うは、その報身報土が超勝独妙の真仏真土にして、諸仏の身土に超過しているという相が、該経に充分に示されているから、特に其の経文を引いてその義を顕わし給うたのである。
第三項 『平等覚経』の文
(3-033)
無量清浄平等覚経言速疾超便可到安楽国之世界至無量光明土供養於無数仏 已上
【読方】無量清浄平等覚経にのたまわく。(帛延訳)速疾にこえて、すなわち安楽国の世界にいたるべし。無量光明土にいたりて、無数の仏を供養すと。 已上
【文科】異訳助顕の第二、『平等覚経』の文
【講義】『無量清浄平等覚経』(帛延訳)に言く、長い修行の時間を要せず、速疾に悪童を超越して、光明世界たる安楽国に到ることが出来る。即ち無量光明の国に至りて、数限りない諸仏を供養し奉るのである。
第四項 『大阿弥陀経』の文
(3-034)
仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経 支謙訳 言仏言阿弥陀仏光明最尊第一無比諸仏光明皆所不及也八方上下無央数諸仏中有仏頂中光明照七丈有仏頂中光明照一里乃至 有仏頂中光明照二百万仏国仏言諸八方上下無央数仏頂中光明所炎照皆如是也阿弥陀仏緒頂光明所炎照千万仏国所以諸仏光明所照有近遠者何本其前世宿命求道為菩薩時所願功徳各自有大小至其然後作仏時各自得之是故令光明転不同等諸仏威神同等耳自在意所欲作為不予計阿弥陀仏光明所照最大諸仏光明皆所不能及也仏称誉阿弥陀仏光明極善阿弥陀仏光明極善善中明好甚快無比絶殊無極也阿弥陀仏光明清潔無瑕穢欠減也阿弥陀仏光明殊好勝於日月之明百千億万倍諸仏光明中之極明也光明中之極好也光明中之極雄傑也光明中之快善也諸仏中之王也光明中之極尊也光明中之最明無極也炎照諸無数天下幽冥之処皆常大明諸有人民[ケン06]飛蠕動之類莫大不見阿弥陀仏光明也見者莫不慈心歓喜者世間諸有婬[イツ01]瞋怒愚痴者見阿弥陀仏光明莫大作善也諸在泥犁禽獣薛茘考掠勤苦之処見阿弥陀仏光明至皆休止不復治死後莫不得解脱憂苦者也阿弥陀仏光明名聞八方上下無窮無極無央数諸仏国諸天人民莫不聞知聞者莫不度脱也仏言不独我称誉阿弥陀仏光明也八方上下無央数仏辟支仏菩薩阿羅漢所称誉皆如是仏言其有人民善男子善女人聞阿弥陀仏声称誉光明朝暮常称誉其光明好至心不断絶在心所願往生阿弥陀仏国 已上
【読方】『仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経』(支謙訳)にのたまわく、仏のたまわく、阿弥陀仏の光明最尊第一にしてならびなし。諸仏の光明みな及ばざるところなり。八方上下無央数の諸仏のなかに、仏の頂中の光明七丈をてらすあり。仏の頂中の光明一里をてらすあり。乃至 仏の頂中の光明二百万仏国をてらすあり。仏のたまわく、もろもろの八方上下無央数の仏の頂中の光明、炎照するところ皆かくのごとし。阿弥陀仏の頂中の光明の炎照するところ千万仏国なり。諸仏の光明の照らすところに、近遠あるゆえは何となれば、もとそれ前世の宿命に道をもとめて菩薩たりしとき、所願の功徳おのおのおのずから大小あり。其れしこうしてのち作仏するときに至りて、おのおのみずからこれを得たり。このゆえに光明うたた同等ならざらしむ。諸仏の威神同等なるならくのみ。自在のこころの所欲、作為して予めはからず。阿弥陀仏の光明の照らすところ最大なり。諸仏の光明みな及ぶこと能わざるところなり。仏、阿弥陀仏の光明の極善なることを称誉したまう。阿弥陀仏の光明は、極善にして善のなかの明好なり。それ快きことならびなし。絶殊無極なり。阿弥陀仏の光明は清潔にして瑕穢なく欠減なし。阿弥陀仏の光明は、殊好にして日月の明よりも勝れたること百千億万倍なり。諸仏の光明のなかの極明なり。光明のなかの極好なり。光明のなかの極雄傑なり。光明のなかの快善なり。諸仏のなかの王なり。光明のなかの極尊なり。光明のなかの最明無極なり。もろもろの無数天下の幽冥のところを炎照するに、みなつねに大明なり。諸有の人民、[ケン06]飛、蠕動の類、阿弥陀仏の光明をみざることなし。みたてまつるもの、慈心歓喜せざるものなけん。世間諸有の婬[イツ01]、慎怒、愚痴のもの、阿弥陀仏の光明をみたてまつりて善をなさざるはなし。もろもろの泥犁、禽狩、辟茘、考掠、勤苦のところありて、阿弥陀仏の光明をみたてまつれば、いたりてみな休止してまた治することをえざれども、死してのち憂苦を解脱することをえざれるものはなし。阿弥陀仏の光明と名とは八方、上下、無窮、無極、無央数の諸仏国にきかしめたまう。諸天人民聞知せざることなし、聞知せんもの度脱せざるはなし、仏のたまわく、独りわれのみ阿弥陀仏の光明を称誉せず、八方、上下、無央数の仏、辟支仏、菩薩、阿羅漢、称誉する所みなかくのごとし。仏のたまわく、それ人民、善男子、善女人ありて、阿弥陀仏の名をききて光明を称誉して、朝暮につねにその光好を称誉して、至心断絶せざれば、心の所願にありて阿弥陀仏国に往生すと。已上
【字解】一。『仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経』 『仏説阿弥陀経』(二巻)の内題である。云わばこの経は別名というべきである。『大無量寿経』の異訳。五存七欠中、五存の第二。呉の月支国優婆塞、支謙、字は恭明の訳。西暦二百二十三年より二百五十三年に至る間の訳である。(第一巻三一八頁参照)
二。無央数 印度の数名。梵音アサンクフヤ(Asamkhya)。阿僧祇、阿僧祇耶と音訳し、無央数、無数等と訳す。華厳十大数の一。
三。[ケン06]飛 飛びあるくこまかな虫けらの類。
四。蠕動 うごめいて居る蛆虫の類。
五。婬[イツ01] 婬なること。諸の欲の中、この欲が尤も修道の妨げるから、貪欲の代表としてあげ給う。故に広義に取れば貪欲のことである。
六。瞋怒 瞋恚のこと。腹立つこと。
七。泥梨 梵音ナカラ(Naraka)。那落迦、奈落とも音訳す。地獄と訳す。
八。禽狩 獣。畜類のこと。
九。辟茘 餓鬼のこと。
十。考掠 拷掠に同じ。拷は打つこと、掠も鞭打つこと。互いに相争うて苦しむこと。
十一。辟支仏 独覚の梵語プラトエーカプツドハの音訳。独覚に同じ上二八頁を見よ。
十二。阿羅漢 梵音アルハット(Arhat)。阿羅訶、阿羅呵等とも音訳す。応供、殺賊、無生、離悪等と訳す。声聞四果の一。三界の見惑、修惑の煩悩を断ちて無学位に住し、世の供養を受くるに堪えたる聖者をいう。
【文科】異訳助顕の第三『大阿弥陀経』の文。
【講義】『仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経』(呉の支謙訳)に曰く、
仏宣給わく、阿弥陀仏の光明の勝れて尊いことは、あらゆる光明中第一にして、諸仏の光明の及ぶ所でない、東西南北、四維の八方及び上下に在します無央数諸仏の中にはその頂中の光りが、七丈を照らすもの、又はその光が一里を照らすもの、乃至、その仏の頂中の光明が二百万仏国を照らすものがある。仏重ねて仰せらるるよう。八方上下の諸の無央数仏達の頂中の光明の照し輝かす所はこのようである。然るに阿弥陀仏の頂中の光明は、千万仏国を照らし給う。かような諸仏の光明の照らす範囲は遠近の差別をもつということは如何なる訳かと云えば、本前世の宿命に、道を求めて菩薩(修道者)となった時、その各々の所願の功徳力に自ずと大小がある為に、其の後願いが成就して果上の仏となる時に、因相応の果力を各自が得ることになる。それ故に諸仏の光明に不同があるのである。もと諸仏の威神は同等なのであるが、自在意の所欲に随いて、行いに表わし、予めこうという制限や定義を設けないから各々の仏達のうる結果がかように異なるのである。
この中、阿弥陀仏の光明の照らす所は最も偉いなるものである。釈迦如来は、阿弥陀仏の光明が善の極みであることを称誉〈ほめたた〉え給いて仰せららるよう、阿弥陀仏の光明は善の極みにして、又善の中の尤も明好なるものである。その快いことは他に比べうるものはない。絶殊〈たえすぐ〉れて極まる所がない、阿弥陀仏の光明は清潔にして瑕も穢れもなく、欠減もない。まるで明玉のようなものである。阿弥陀仏の光明は、殊好なること日月の明かなるにも勝っている、実に百千億万倍である。あらゆる仏達の光明中の尤も明らかなるものである。あらゆる光明中に尤も好きものである、あらゆる光明中に尤も傑出せるものである。光明中の尤も快善ものである。諸仏の王の位するものである。光明中の至極尊である。光明の中に尤も極みなき明らかなるものである。それは諸の無数天下の幽冥界たる地獄の底を照らし輝かして、いつも暗を払う太陽のように明かならしむる。あらゆる人民から[ケン06]飛、蠕動の類にいたるまで、阿弥陀仏の光明を仰がぬものはない。苟しくもこの光明を見奉るものは、慈愛の念溢れて歓喜びに胸を躍らせぬものはない。世間も諸有婬沃、瞋怒、愚痴の者も、阿弥陀仏の光明を見奉れば、善に赴き、善に蘇き返らぬものはない。地獄、畜生、餓鬼等に堕在して、互に考掠〈おかしころ〉し合うような苦しみの処にある者も、阿弥陀仏の光明の照らし至るを見奉れば、皆苦しみから脱れて休安むことが出来る。その時全く苦しみを脱れて仕舞うことは出来ないが、苦しみの果報つきて其の生を終れば、憂苦を解脱することを得ないものは一人もない。
又、阿弥陀仏の光明と名とは、八方上下の無窮無極無央数諸仏の国々に轟きわたっているから、諸の天上人間の人々もこの名を聞かぬものはない。そして苟くも名の義を聞信するものは、生死の苦しみを脱れないものはない。
釈尊重ねて宣給わく、我のみ独り阿弥陀仏の光明を称誉えるばかりでない、あらゆる八方上下の無央数仏、辟支仏、菩薩、阿羅漢達の尽く称誉え奉ること我と同じである。又宣給わく、もし宿縁厚き善男子、善女人ありて、阿弥陀仏の声を聞いて、その光明を称誉え、朝暮かわらず其の光明の妙好なるを称誉え、心を一つにして断絶なければ、心の所願通りに、阿弥陀仏の国に往生することが出来る。
第五項 『不空羂索経』の文
(3-041)
不空羂索神変真言経言汝当生処是阿弥陀仏清浄報土蓮華化生常見諸仏証諸法忍寿命無量百千劫数直至阿耨多羅三藐三菩提不復退転我常祐護 已上
【読方】『不空羂索神変真言経』にのたまわく、なんじ当生のところは、これ阿弥陀仏清浄報土なり、蓮華より化生してつねに、諸仏をみたてまつる、もろもろの法忍を証せん。寿命無量百千劫数ならん。直ちに阿耨多羅三藐三菩提にいたる。また退転せず。われつねに祐護すと。已上
【字解】一。『不空羂索神変真言経』三十巻。唐の菩提流志訳。観世音菩薩の陀羅尼の功徳を説く。不空羂索は七観音の一。多くは三面八譬にして手に蓮花、錫杖羂索をもつ。不空は心願空しからざる意、羂索は彼此折縛して成就せしむる義、生死の大海に妙法蓮華の餌を蒔き、心念不空の索をもって衆生を釣り上げ、涅槃の岸に至らしむると云うのが、この観世音菩薩の意義である。本経は、此の菩薩が九十一劫昔に世間自在王如来より授かった上述の意味をもって「不空羂索陀羅尼」を広説したものである。
【文科】他経助顕中の第一『不空羂索経』の文。
【講義】『不空羂索神変真言経』に曰く、汝等の生まれるべき処は阿弥陀仏の清浄なる報土であるが、そは弥陀如来の身内証の表象たる蓮華より化生〈うま〉れて、いつも諸仏世尊を見奉る。そして諸の証忍〈さとり〉を得るであろう。其の寿命は長遠にして無量百千劫の数ならん。
かように現世に於いて無上正真道の因を得るに定まれば、決して退転することはない。我はこの行者を常に影の形に添う如く祐護〈まも〉るであろう。
第六項 『涅槃経』の文
第一科 四相品の文
(3-042)
涅槃経言又解脱者名曰虚無虚無即是解脱解脱是如来如来即是虚無非作所作乃至 真解脱者不生不滅是故解脱即是如来如来亦爾不生不滅不老不死不破不壊非有為法以是義故名曰如来入大涅槃乃至 又解脱者名無上上乃至 無上上者即真解脱真解脱者即是如来乃至 若得成於阿耨多羅三藐三菩提已無愛無疑無愛無疑即真解脱者即是如来乃至 如来者即是涅槃涅槃者即是無尽無尽者即是仏性仏性者即是決定決定者即是阿耨多羅三藐三菩提迦葉菩薩白仏言世尊若涅槃仏性決定如来是一義者云何説言有三帰依仏告迦葉善男子一切衆生怖畏生死故求三帰故則知仏性決定涅槃善男子有法名一義異有法名義倶異名一義異者仏常法常比丘僧常涅槃虚空皆亦是常是名名一義異名義倶異者仏名為覚法名不覚僧名和合涅槃名解脱虚空名非善亦名無碍是為名義倶異善男子三帰依者亦復如是 抄出
【読方】涅槃経にのたまわく、また解脱はなづけて虚無という。虚無はすなわちこれ解脱、解脱はすなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ虚無なり。非作の所作なり。(乃至)真解脱は不生不滅なり。このゆえに解脱すなわちこれ如来なり。如来またしかなり。不生、不滅、不老、不死、不破、不壊にして有為の法にあらず。この義をもってのゆえに、なづけて如来入大涅槃という。(乃至)また解脱は無上上となづく。(乃至)無上上はすなわち真解脱なり、真解脱はすなわちこれ如来なり。(乃至)もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得おわりて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわちこれ如来なり。(乃至)如来は即ちこれ涅槃なり。涅槃は即ちこれ無尽なり。無尽は即ちこれ仏性なり。仏性は即ちこれ決定なり。決定は即ちこれ阿耨多羅三藐三菩提なりと。迦葉菩薩、仏にもうしてもうさく、世尊、もし涅槃と仏性と決定と如来と、これ一義ならば、いかんぞときて三帰依ありとのたまえるや。仏、迦葉に告げたまわく、善男子一切衆生生死を怖畏するがゆえに三帰をもとむ。三帰をもっての故に即ち仏性と決定と涅槃とを知るなり。善男子、法の名一義異なるあり。法の名義倶異なるあり。名一義異というは、仏常、法常、比丘僧常なり。涅槃虚空みなまたこれ常なり。これを名一義異となづく、名義倶異というは、仏を名づけて覚となし、法を不覚と名づけ、僧を和合と名づけ、涅槃を解脱となづけ、虚空を非善となづけ、また無碍となづく。これを名義倶異とす。善男子、三帰依というはまたまたかくのごとしと。略出
【字解】一。『涅槃経』 具には『大般涅槃経』釈尊入涅槃、並びに其の際説かれたるを記載す。二本あり、一は北本、四十巻。北涼の曇無讖の訳。二は南本、三十六巻。劉宋の慧観、慧厳、謝霊運の三人が、法顕訳の小乗の『涅槃経』を参酌して、北本を再冶校合したものである。
二。有為 為とは為作造作の義。故に有為とはこの為を有することである。因縁により生じた諸現象をいう。倶舎の七十五法(一切諸法を摂めたる名目)のうち、三無為を除き、唯識の百法(同左)にては、六無為を除いた他の諸法を指す。無為の対。
三。阿耨多羅三藐三菩提又は阿耨三菩提、阿耨菩提、梵音、アヌッタラ、サムヤク、サンポードヒ(Anuttara-Samyk-Sambodhi)、無上正遍知、無上正等正覚と訳す。仏の覚智をいう。仏は平等の真理を覚り世に無上なる故にこの名がある。
四。三帰 三帰依のこと。仏法僧の三宝に帰依することをいう。
【文科】四相品の文によりて解脱、如来、涅槃の意義を述べ給う。
【講義】『大般涅槃経』に曰く、又解脱を虚無と名づける。折り返して云えば虚無そのままが解脱である。そして、解脱は如来に外ならぬ故に、如来は即ち虚無であると云わねばならぬ。なぜかように解脱又は如来を虚無と名づけるのであるかと云えば、それは自然法爾(非作)の運行(所作)であるからである。人為の小賢しい煩わしい思慮分別からの活動でなく、是等の計度を離れた大自然の進展であるから虚無というたのである。唯の無ということでない。非作の作をいうのである。乃至
真解脱とは、生ぜず、滅せずの謂いである。それであるから、解脱はその儘如来である。誠に如来は其の通りである。生ぜず、滅せず、老いず、死せず、破れず、壊れず、これ如来の意義である。生滅老死の法は有為の法である。如来は実にこの有為の法を遠離して、是等の煩わす所とはならぬ。是義をもって如来を指して入大涅槃というのである。即ち不生不滅の大涅槃に証入したる人を如来と名づけるのである。
又解脱とは無上の上とも名づける。乃至 無上上は真解脱である。そして真解脱は即ち如来である。これは解脱を、世に超えるものはない、という方面の徳から云い表したものである。乃至 若し無上正真道を円に成就し已れば、無愛無疑となる。即ち穢れた愛着や疑念なき心となる。是は凡夫の能くする所でない。この無愛無疑こそ真の解脱である。是即ち如来である。真実報土に於ける証りの内容である。乃至
如来はそのまま涅槃である。涅槃は断滅とか無とかいうものではなく、無尽ということである。即ち永遠ということである。この無尽永遠は是仏性に外ならぬ。そしてこの仏性は決定である。決定とは不安、不定、動揺を離れた確固不抜の意義である。この決定は即ち無上正真道である。即ち証りの内的意義である。
この時、迦葉菩薩、釈迦牟尼仏に白すよう、世尊よ、若し仰せの如く涅槃と仏性と決定と如来と同一義の名であるとするならば、何故に三帰依の差別を御説きになったのでありまする、三帰依も矢張り上の如く同一義と云われることでありましょう。仏宣給く、三帰依を説いた所以は、衆生が生死を畏怖れるからである。その衆生は生死を怖れて三帰依の隠れ家を求める。この仏法僧の三帰依によりて、始めて仏性と決定と涅槃の意義を知るのである。善男子よ、法の名は同一で、其の意義の異なるのと、法も名も倶に異なるものと二つがある。第一の名一義異とは、仏も常住、法も常住、比丘僧も常住、涅槃、虚空も常住というのがそれである。是等は皆常住の名に於いて同一であるが、併しその各々の表わす意義は異なっている。是を名一義異という。第二の名義倶異というは、仏を覚と名づける。覚とは迷える者が覚ったという意味がある。そこには人格的の響きがある。然るに之に対して法を不覚と名づける。法は仏が証りの意義を言説に表彰したのであるから迷いから醒めて覚るというような意味はない。故に之を無意識的の意味に於いて不覚と名づける。そして僧とは和合ということ、涅槃は生死の苦しみから脱れるという意味で解脱と名づける。又虚空は善悪の標準を超えているから非善という、亦碍えられることはないから無碍と名づける。是を名も義も異なるというのである。善男子よ、三帰依とは亦実にかような意味を有しておるのである。
【余義】一。我が親鸞聖人は、「行巻」の一乗海の下、「信巻」の信楽釈の下に、『涅槃経』と『華厳経』を引用なされたことは読者と共に私共の既に熟知したことである。何故浄土他力門の正依の経典でない『涅槃経』や『華厳経』を引用し給うたかということは、前に説明し了わったことであるが、要するに、聖人の眼中には他宗の経典もなく、又他宗もなく、釈尊一代の経典悉く弥陀他力の弘願の行信を闡明するにあるので、聖人は釈尊成道最初の経典たる『華厳経』と、入涅槃時の経典たる『涅槃経』とを以て仏一代の経典を核摂し、一代経みなかくの如く弥陀の弘願の行信を開闡し給うと示されたのである。
二。今この「真仏土巻」に於いてもその如く、わが聖人は、これまで正依の『大経』と其の異訳の経典を引用し終って、茲に普通他宗の経典と見られている『不空羂索神変真言経』と『涅槃経』とを引用なされるのである。引用の御思召は、「行巻」「信巻」に於けるが如く、この両経を以て仏一代の経典を総括せしめ、一代経悉く弥陀如来の身土を説き明かすにあることを証明せられるのである。呉れぐれもいうが、我が聖人の眼中には自宗とか他宗とかの区別はない。従って『神変真言経』にせよ、『涅槃経』にせよ、初めから他宗の経典だなどとは思っておられないので、文相の上にこそ直接には顕われて居らないにしても、意を潜めて、紙背の精神を読む時は、何れの経典の如何なる文字でも弥陀法の讃仰と宣伝でないものはないのである。「一実円満の真教真宗これなり」。信仰とは宇宙の一つの心、一の生命を読むことである。この流れ輝く生命を読み得た崇い尊い境地にどうして自他宗などという小さな区別があろう。浄土宗というは聖道門の諸宗に対する宗旨であるかも知れぬ、然し浄土真宗は真の一字があるために対待のない唯一無二の宗教である。我が聖人が真の一字を特に用いられた意味は茲に至って千鈞の重みがある。この味わいを徹底的に会得が出来れば、我が聖人が所謂他宗の経典を引用なさる思召しがありありと伺われるのである。
三。『華厳経』と『涅槃経』とが、最初の経と最後の経という意味で、一代経を代表した様に、今茲では『不空羂索神変真言経』は密教の経典、『涅槃経』は顕教の教典、顕密両教で仏一代の教を総括する意味で、この両経典が矢張り一代経を代表しているのである。
四。然らば何故、数多い密教経典の中から特にこの『羂索経』が択び出されたか。又この『羂索経』がかくして択び出されて引用せられた上は、どういう詮表の使命をさずけられているのか。これが次に考えねばならぬ問題である。
数多い密教経典の中から、この『羂索経』が択び出された理由は、不空羂索尊というが、弥陀如来二脇士の一たる観音菩薩の異名であって、その観音菩薩が持呪の行者に授け給うた語であるということ、そしてその語がいかにも明らかに弥陀教の報土のすがたを顕わしているからということで尽きよう。それはともあれ、我が聖人は数多い蔵経が悉く、こういう具合に、同じ一つ呼吸に呼吸しているのを御覧なされてどれ程の喜悦を感じなされたであろうか。この喜びは天地に満つる一つにしてすべての生命を感得した信仰の人の特権である。
第二の『不空羂索経』の使命は、密教の書としては文面に驚くべき程明白に顕われている清浄報土のすがたを示すことである。
五。『涅槃経』の御引用の御思召は、一口にいえば、法身のすがたを示すことであるが、文が多いのと、義が複雑なのとで、一見してはっきりと御引用の旨意を捕捉することは出来ない。然し聖人は、かく諸経論を引用し終わって、最後に「爾者如来真説、宗師釈義、明知顕安養浄刹真報土惑染衆生於此不能見性所覆煩悩故(しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに)」と宣うてある。この御言葉から振り返って、『涅槃経』の引用文を見直して見ると、彷彿として聖人の御覚召のこの辺にあったであろうということが知られるのである。
六。一口に『涅槃経』というているが、茲には『涅槃経』から十三文引いてある。この内前七文は表詮ともいうべく、仏身のすがたを積極的に内容的に示し、後六文は遮詮ともいうべく、消極的に、惑染の衆生は仏身涅槃のすがたを現身に見ることは出来ない。往生極楽の後に、肉体の囹圄を脱した後に証見するものであることを示すのである。表詮の七文の中、又二つに分かれて、第一、第二文は寿命無量、光明無量の義を示し、第三、第四、第五、第六、第七の五文は、常楽我浄の四徳を出して、弥陀法身の内容は、この四徳円満の妙果なることを顕わすのである。
第一 四相品文――寿命無量―┐
第二 四依品文――光明無量─┴(光寿二無量の法身なることを示す。)─┐
第三 聖行品文――常徳─────┐ │
第四 梵行品文――常徳―後半我徳┤ ├表詮、積極的に
第五 徳王品文――楽徳─────┼(浄楽我浄の四徳の妙果なるを │仏身の内容を示す。
第六 徳王品文――浄徳─────┤ 示す。)──┘
第七 徳王品文――浄徳─────┘
第八 迦葉品文――未来得見仏性────────────┐
第九 迦葉品文――衆生根性不決定───────────┤
第十 梵行品文――上の文の第一義とあるのを助顕する也─┼遮詮、消極的に仏身の尊貴を示す。
第十一 迦葉品文――衆生不解我意────────────┤
第十二 迦葉品文――十住菩薩小見仏性──────────┤
第十三 獅子吼品文――眼見聞見─────────────┘
こういう風に見て行くということは、或は無理なものかも知れない。一体『涅槃経』の文は、『羂索経』の文の様に、文の当相が直接弥陀如来に関係しているのでなく、釈尊御自身の涅槃の果徳を示しているのだから文字の裡に秘められた意義こそ味得することは出来るけれども、これを顕わに文に当って説明することは出来ないのである。然し潜心、聖人の意底を思い、静かに『涅槃経』の引文を拝読する時、彷彿として或る種のものを会得することが出来るのである。
第一『四相品』、第二『四依品』の文が寿光二無量を顕わしていることは明らかである。
第三『聖行品』の文が常徳を、第五『徳王品』の文が楽徳を、第六第七『徳王品』の文が浄徳を顕わしていることも明らかである。ただ第四梵行品の文は一見すれば、ただ常徳を示しているようであるが、私共はその文の終わりの方の「如衆生心」以下が我徳を示している様に見えたのである。
第八『迦葉品』の文以下には、全体として、現在に於いて見得るべからざる仏性涅槃も、遂に彼岸に到達して見得ることを顕わしてある。
七。最後に云わねばならぬ、かくの如き見方は余り狭すぎる感じがあるが、これはただ大体の見当をつけたまでのことで、これにくくられて、外を見ることが出来ないようでは『涅槃経』の生命ある文字を殺して仕舞うこととなる。そうして同時に聖人の御引用の御思召をも失って仕舞うこととなる。
拝読者は一々の文字に一一の生命ある響きをきくことが最も大切なのである。
第二科 四依品の文
(3-053)
又言光明者名不羸劣不羸劣者名曰如来又光明者名為智慧
【読方】又のたまわく、光明は不羸劣になづく。不羸劣というは、なづけて如来という。また光明とは、なづけて、智慧とすと。已上
【文科】四依品の文によりて、光明の意義を説示せらる。
【講義】又言く、光明ということは、羸劣〈もろ〉くないということである。即ち不変〈かわらぬ〉というと、この羸劣〈もろ〉くないことは即ち如来である。如来を除いては、皆羸劣〈もろい〉もの、衰え易いものである。また光明は智慧、智慧即ち光明である。
第三科 聖行品の文
(3-054)
又言善男子一切有為皆是無常虚空無為是故為常仏性無為是故為常虚空者即是仏性仏性者即是如来如来者即是無為無為者即是常常者即是法法者即是僧僧即無為無為者即是常 乃至 善男子譬如従牛出乳従乳出酪従酪出生蘇従生蘇出熟蘇従熟蘇出醍醐醍醐最上若有服者衆病皆除所有薬悉入其中善男子仏亦如是従仏出十二部経従十二部経出修多羅従修多羅出方等経従方等経出般若波羅蜜従般若波羅密出大涅槃猶如醍醐言醍醐者喩於仏性仏性者即是如来善男子以是義故説言如来所有功徳無量無辺不可称計 抄出
【読方】またのたまわく、善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり。このゆえに常とす。仏性は無為なり。このゆえに常とす。虚空はすなわちこれ仏性、仏性はすなわちこれ如来、如来はすなわちこれ無為、無為はすなわちこれ常、常はすなわちこれ法、法はすなわちこれ僧、僧はすなわち無為、無為はすなわちこれ常なり。乃至 善男子、たとえば牛より乳をいだす、乳より酪をいだす。酪より生蘇をいだす。生蘇より熟蘇をいだす。熟蘇より醍醐をいだす。醍醐最上なり。もし服することあるものは、衆病みなのぞこる。所有のもろもろの薬は、ことごとくその中にいるがごとし。善男子、仏もまたかくのごとし。仏より十二部経をいだす。十二部経より修多羅をいだす。修多羅より方等経をいだす。方等経より般若波羅密をいだす。般若波羅密より大涅槃をいだす。なおし醍醐のごとし。醍醐というは仏性にたとう。仏性はすなわちこれ如来なり。善男子かくのごときの義のゆえに、ときて、如来所有の功徳、無量無辺不可称計とのたまえり。抄出
【字解】一。酪 牛乳を精製したるもの。
二。生蘇 酪を更に精製したるもの。
三。熟蘇 蘇を更に精製したるもの。
四。醍醐 熟蘇を更に精製したるもの。
五。十二部経 仏の説法の体裁に十二通りある故に、経文を総称して十二部経という。(一)長行説、法門義理を散文的に説かるること。(二)重頌説、長行を韻文的に説かるること。(三)授記説、仏が聴衆の為に、其の未来の証悟を予言したまうこと。(四)弧起説、単独に韻文をもって説法せらるること。伽陀のこと。(五)無問自説、対手の尋ねざるに説きたまうこと。(六)因縁説、種々の因縁によりて説きたまうこと。(七)譬喩説、譬をもって法を説きたまうこと。(八)本事説、因位の時のことを説きたまうこと。(九)本生説、過去世の苦行等を説きたまうこと。(十)方広説、義広く、理ゆたかに説きたまうこと。(十一)未曾有説、不思議のことを説きたまうこと。(十二)論議説、義理を論議し問答したまうことをいうのである。
六。修多羅 梵音スートラ(Sutra)、経と義訳す。正しくは線と訳し、線が花を貫いて花環を作るように、仏の説かれた義理を貫いて散り乱れぬようにしている語を修多羅という。支那の聖人の語録を経という故に、此の字をもって訳したのである。
┌─経──―┬─ 一、長行説──修多羅
三蔵─┼─律 ├─ 二、頌
└─論 ├─ 乃至
└─ 十二、論議説
図の如く三蔵の一なる経を総修多羅といい、十二部経の一なる長行説を別修多羅と称す。(「第一巻」四三四頁参照)。
七。方等経 方は方広にして横に十方にあまねきをいい、等は平等にして、竪に凡聖を該ぬるをいう。即ち普遍平等なる真如実相の妙理を方等というのである。この妙理を説ける大乗経典を総称して方等経という。
八。般若波羅密 般若は梵音プラヂュニヤー(Prajua)。智慧。波羅密は梵音パーラミター(Paramita)到彼岸。菩薩がこの智慧により一切諸法を照らし、涅槃の彼岸に到る意である。
【文科】聖行品によりて如来の無為常住を明かし給う。
【講義】又『涅槃経』に言く、善男子よ、一切有為の法は皆常なきものである。然るに虚空は因果の法則に左右せらるることはないから無為自然の法である。故に常住の法である、仏性は亦無為である。故に常住である。変わるということはない。即ち上にあげた虚空は仏性である。ともに無為自然にして常住であるからである。そして仏性は三宝の中の如来、如来は即ち無為自然である。即ち無為は常住の義、この常住は法宝の外ならず、この法が人格的に現れた所が僧であるから、法はその儘僧である、僧は亦無為である。即ち小さい自我の計らいを離れて、無為自然の大道を体現したものが僧である。そしてこの真実の僧宝は即ち時に移さるることのない永久の人格である。即ち常任そのものである。乃至
善男子よ、一例をあげて云えば、牛から乳をいだす、乳から酪、酪から生蘇、生蘇から熟蘇、熟蘇から醍醐をいだす、この醍醐が牛乳の尤も最上に精製せられたものである。若しこの醍醐を服用すれば、あらゆる病気は皆治ることが出来る。そは一切薬が残らずこの醍醐の中に含まれているからである。善男子よ、如来の亦このようである。仏より十二部経即ち『華厳経』を出す。是は仏最初に説き給う所である。次に『華厳経』から『修多羅経』即ち『阿含経』を出す。『阿含経』から『方等部』の経典を出す。『方等部』の経典から『般若波羅蜜多経』を出す。そして是より『大涅槃経』を出すと、ちょうど熟蘇から醍醐の妙薬を出すようなものである。この醍醐は即ち仏性に譬えるのである。そしてこの因位の仏性が果上に開顕せられたのが如来であるから仏性即ち如来である。
善男子よ、かような義があるから、如来に具わる功徳は量なく、辺なく、思い測ることの出来ないものであると説くのである。
第四科 『梵行品』の文
(3-058)
又言善男子道有二種一者常二者無常菩提之相亦有二種一者常二者無常涅槃亦爾外道道者名為無常内道道者名之為常声聞縁覚所有菩提名為無常菩薩諸仏所有菩提名之為常外解脱者名為無常内解脱者名之為常善男子道与菩提及以涅槃悉名為常一切衆生常為無量煩悩所覆無慧眼故不能得見而諸衆生為欲見故修戒定慧以修行故見道菩提及以涅槃是名菩薩得道菩提涅槃道之性相実不生滅以是義故不可捉持 乃至 道者雖無色像可見称量可知而実有用 乃至 如衆生心雖是非色非長非短非麁非細非縛非解非是見法而亦是有。抄出
【読方】またのたまわく、善男子よ、道に二種あり、一には常、二には無常なり。菩薩の相にまた二種あり、一には常、二には無常なり、涅槃もまたしかなり。外道の道をなづけて無常とす。内道の道をば、之をなづけて常とす、声聞、縁覚、所有の菩提をなづけて無常とす。菩薩諸仏の所有の菩提これをなづけて常とす。外の解脱をなづけて無常とす。内の解脱はこれをなづけて常とすと。善男子、道と菩提および涅槃と、ことごとくなづけて常とす。一切衆生は、つねに無量の煩悩のために、おおわれて、慧眼なきがゆえに、見ることを得ること能わず。もろもろの衆生、見んと欲うがために、戒定慧を修す。修行をもってのゆえに、道と菩提とおよび涅槃とをみる、これを菩薩の得道菩提涅槃となづく。道の性相、実に不生滅なり。この義をもってのゆえに捉持すべからず。(乃至)道は色像のみつべく、称量して知るべきなしと雖も、しかも実に用あり。(乃至)衆生の心のごときはこれ色にあらず、長にあらず、短にあらず、麁にあらず、縛にあらず、解にあらず、これ見にあらずといえども、法としてまたこれ有なりと。 抄出
【文科】梵行品によりて涅槃、菩提(道)の意義を闡明し給う。
【講義】又『涅槃経』に曰く、善男子よ、証りを獲る智慧、即ち因道に二種ある。一は常住にして変易〈かわ〉ることのない智慧、二は移り変わる不定の智慧である。因の智慧に二種あるように、果の智慧たる菩提の相にも、常住と無常の二種がある。そして又涅槃の上にもこの常、無常の二つがある。
仏教以外の異教の道は無常にして当てにならぬものである。是に対して仏の教は常住不変の道である。更に仏教の内部に就いて見るに、声聞縁覚等の小乗教徒の得る所の菩提(智慧)は無常、大乗菩薩並びに諸仏の得る所の智慧は常住不変である。そして外道のいう所の解脱は無常、内道即ち仏教の教うる所の解脱は常住と名づける。
善男子よ、因の智慧(道)と果の智慧(菩提)とそして涅槃の三法は悉く常住であるが、一切衆生はいつも量〈かぎり〉なき煩悩の為に智慧の眼を覆われて、この常住の法を見ることが出来ない。然るに諸の衆生はこの常住を見たい為に戒定慧の三学を修める。この修行の功によりて道と菩提と涅槃を見る。是を菩薩(修道者)が、上の道、菩提、涅槃の三法を得るというのである。
そも道(智慧)の本性も相〈すがた〉も不生不滅であるから、是を観念や概念をもって捉持〈おさ〉えておくことは出来ない。これは把住すれば、もう道は脱〈のが〉れて仕舞うのである。乃至
智慧は色像の見るべきもの、称量〈おもいはか〉りて知るべきものはないが、而も実際上惑いを断つという功用〈はたらき〉がある。乃至
衆生の心の如きも物質でないから、長いというでもなく、短いというでもなく、麁いとか細かいとかいうべきでなく、縛ることも解くことも出来ないから、見るべきものではないが、而もその功用ある法としては厳然として存在しておるのである。
第五科 徳王品の文
(3-061)
又言善男子有大楽故名大涅槃涅槃無楽以四楽故名大涅槃何等為四一者断諸楽故不断楽者則名為苦若有苦者不名大楽以断楽故則無有苦無苦無楽乃名大楽涅槃之性無苦無楽是故涅槃名為大楽以是義故名大涅槃復次善男子楽有二種一者凡夫二者諸仏凡夫之楽無常敗壊是故無楽諸仏常楽無有変易故名大楽復次善男子有三種受一者苦受二者楽受三者不苦不楽受不苦不楽是亦為苦涅槃雖同不苦不楽然名大楽以大楽故名大涅槃二者大寂静故名為大楽涅槃之性是大寂静何以故遠離一切[カイ01]閙法故以大寂故名大涅槃三者一切知故名為大楽非一切知不名大楽諸仏如来一切知故名為大楽以大楽故名大涅槃四者身不壊故名為大楽身若可壊則不名楽如来之身金剛無壊非煩悩無常之身故名大楽以大楽故名大涅槃 已上
【読方】またのたまわく、善男子、大楽あるがゆえに大涅槃となづく、涅槃は無楽なり。四楽をもっての故に大涅槃となづく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに、楽を断ぜざるは、則ちなづけて苦とす。もし苦あらば大楽となづけず。楽を断ずるを以ての故にすなわち苦あることなけん。無苦無楽をいまし大楽となづく。涅槃の性は無苦無楽なり。このゆえに涅槃をなづけて大楽とす。この義を以ての故に大涅槃となづく。またつぎに善男子、楽に二種あり。一つには凡夫、二つには諸仏なり。凡夫の楽は無常敗壊なり。このゆえに無楽なり。諸仏は常楽なり。変易あることなきがゆえに大楽となづく。復つぎに善男子、三種の受あり。一には苦受、二には楽受、三には不苦不楽受なり。不苦不楽これまた苦とす。涅槃も不苦不楽におなじといえども、しかも大楽となづく。大楽を以ての故に大涅槃となづく。二つには大寂静のゆえに名づけて大楽とす。涅槃の性これ大寂静なり。なにをもってのゆえに、一切[カイ01]閙〈かいにょう〉の法を遠離せるゆえに。大寂を以ての故に大涅槃となづく。三には一切智のゆえに名づけて大楽とす。一切智にあらざるをば大楽となづけず。諸仏如来は一切智のゆえになづけて大楽とす。大楽を以てゆえに大涅槃となづく。四には身不壊の故に名づけて大楽とす。身もし壊すべきはすなわち楽となづけず。如来の身は金剛にして壊なし。煩悩の身無常の身にあらず。故に大楽となづく。大楽をもってのゆえに大涅槃となづく。 已上
【字解】一。受 心所の名。根、境、識の三者和合して生じたる触を領納れると。即ち感覚のこと。
二。[カイ01]閙法 [カイ01]は騒がしいこと。閙〈にょう〉は喧しいこと。紛然雑然たる迷いの法をいう。
【文科】徳王品の第一文によりて大涅槃の意義を明かす一段である。
【講義】又曰く、善男子よ、大いなる楽があるから大涅槃と名づける。単に涅槃と云えば楽しみが無いことである。上の四楽を具えておるから大涅槃と名づける。その四楽とは何であるか。
一は諸の不純の楽を断じているということ。五官の楽しみをはじめ凡て世間的の楽しみを断滅せなければ、それは苦しみと名づけざるを得ない。苦しみのあるものならば、大楽と名づけることは出来ない。是等の地上の快楽を断っておるから苦というものはない。この苦しみなく楽しみなしというのが、乃ち大楽たる所以である。大体涅槃の本性は苦なく楽なしということである。地上の苦楽を払い除けた所に自ずと湧き上がる楽しみを大楽という、是が即ち涅槃である。この義をもって大涅槃と名づける。復善男子よ。上来楽しみということを度々いうたが、この楽しみに二種ある。一は凡夫の楽しみ、二は諸仏の楽しみである。凡夫の楽しみは無常にして敗壊〈こわ〉れるものである。それであるから真の意味から云えば楽しみなしと云うべきである。然るに諸仏は常に楽しんでおられる。その楽しみに変易はない。それであるから諸仏の楽しみを大楽というのである。復善男子よ、楽しみということに連関して三受を説かねばならぬ。一は苦受、二は楽受、三は不苦不楽受である。受は感覚の謂にして我々には以上三種の感覚をもっている。この中不苦不楽受は捨受とも名づけられるが、是は苦楽二受のように一括して云えば矢張り苦しみの中に入る。凡夫のあらゆる感覚は迷いにして苦しみであるからである。然るに涅槃は不苦不楽と名づけられてあるけども、それは普通にいう苦楽でないという意味で消極的に云い表わしただけで、凡夫のもつ所の三受中の不苦不楽受とは違うのである。だから積極的に云えば涅槃を大楽という。故に大涅槃と名づける。
二には、涅槃は大寂静の意義を有す、それであるから大楽というのである。涅槃の性としてこの大寂静を有するのである。それは一切〈あらゆる〉[カイ01]閙〈さわがし〉い虚偽〈いつわり〉の法を遠離〈はらいの〉けておるからである。故に大寂を涅槃の別名とするのである。
三には、涅槃は一切智の謂である、それ故に大楽と名づける。真実の一切智慧をもっているものでなければ大楽とは名づけることは出来ない。諸仏如来は一切智者であるから大楽となづける。大楽は即ち大涅槃である。
四には、身が壊れないということから大楽と名づける。身が壊れるというならば大楽とは名づけられない、如来の真身は金剛の堅固をもっているから壊れることはない。煩悩の身でない、無常の身でない。だから大楽と名づける。即ち凡夫の楽しみはこの壊れる肉身によりて獲る所であるから大楽と名づけられない。この身不壊から得る楽しみを大楽と名づけ、是を大涅槃と名づける。
(3-066)
又言不可称量不可思議故得名為大般涅槃以純浄故名大涅槃云何純浄浄有四種何等為四一者二十五有名為不浄能永断故得名為浄浄即涅槃如是涅槃亦得名有而是涅槃実非是有諸仏如来随世俗故説涅槃有譬如世人非父言父非母言母実非父母而言父母涅槃亦爾随世俗故説言諸仏有大涅槃二者業清浄故一切凡夫業不清浄故無涅槃諸仏如来業清浄故故名大浄以大浄故名大涅槃三者身清浄故身若無常則名不浄如来身常故名大浄以大浄故名大涅槃四者心清浄故心若有漏名曰不浄仏心無漏故名大浄以大浄故名大涅槃善男子是名善男子善女人 抄出
【読方】又のたまわく、不可称量、不可思議なるが故に、なづけて大涅槃とすることをうる。純浄を以ての故に大涅槃となづく。いかんが純浄なる。浄に四種あり。何等かを四とする。一には二十五有なづけて不浄とす。能くながく断ずるがゆえに名づけて浄とすることをうる。浄すなわち涅槃なり。かくのごときの涅槃、また有にしてこれ涅槃と名づくることをうる。実にこれ有にあらず。諸仏如来、世俗にしたがうがゆえに涅槃有なりと説きたまえり。たとえば世人父にあらざるを父といい、母にあらざるを母という。実に父母にあらざるを父母と言うがごとし。涅槃またしかりなり。世俗に随うがゆえに、ときて諸仏に大涅槃ありとのたまえり。二には業清浄のゆえに、一切凡夫の業は不清浄のゆえに涅槃なし、諸仏如来は業清浄のゆえに、かるがゆえに大浄と名づく。大浄をもっての故に大涅槃となづく。三には身清浄のゆえに。身もし無常なるをすなわち不浄となづく。如来の身は常なるがゆえに大浄となづく。大浄をもってのゆえに大涅槃となづく。四には心清浄のゆえに心もし有漏なるを名づけて不浄という。仏心は無漏なるがゆえに大浄となづく。大浄をもっての故に大涅槃となづく。善男子、これを善男子善女人と名づくと。 抄出
【字解】一。二十五有 迷妄の世界の総称。四洲(四有)、四悪趣(四有)、六欲天(六有)、梵天(一有)、無想天(一有)、五那含天(一有)、四禅天(四有)、四空処天(四有)、の称。
二。業 身口意に作す所のすべてをいう。業は梵語カルマ(Karma)の訳、事、所作、作法など同意である。
三。有漏 無漏の対。煩悩の異名。漏は漏泄又は欠漏の義。煩悩は膿血のように、外に漏れるから有漏という。
四。無漏 有漏の対。漏は煩悩。煩悩を増上せしめざる智慧をいう。
【文科】徳王品の第二文によりて四種の涅槃を述べたまう。
【講義】又曰く、量をもって称ることも出来ず、思い謀ることの出来ないと言う方面から、大涅槃と名づけることが出来る。又純一清浄ということをもっても大涅槃と名づける純浄とはどういうことであるか、是に四種あり。四種とは何。
一には、迷いの衆生の得る所の三界、二十五有の世界は不浄である。是は穢れた煩悩の因から生まれた果実であるから矢張り穢れておる。是等の不浄の果を永く断ち切っておるから浄というのである。この意味に於いて浄即ち涅槃である。迷いの穢れた有(存在)に対して涅槃を云う時には、涅槃も亦悟りの清浄なる有(存在)ということが出来る。併し涅槃は決して普通にいう所の存在ではない、諸仏如来は暫く世俗の人々の概念に随うて涅槃は有であると説かれたのである。譬えて云えば、世間の人達が、父でないのを父と云い、母でないのを母といい、真実の父母ではないものを父母というようなものである。是は暫く世上の約束に応じてかように云うのである。涅槃も亦そうである。世俗でいう有(存在)と涅槃の有とは、全く其の内容を異にしているけれども、唯世俗になぞらえて有という文字を使うのである。斯の如く世俗に随うて諸仏には大涅槃があるというのである。
二には、業清浄の義である。上の果の清浄について明かしたのであるが、ここは因の清浄についていう。一切凡夫のなす所の業作は、皆煩悩の穢れをもっている。だから涅槃はない。即ち清浄はない。然るに諸仏如来の業作は少しも穢れはない。故に之を大浄と名づける。大浄であるから大涅槃と名づけるのである。
三には、身清浄という所から大浄と名づける。身が清浄なるには無常では駄目であるこの意味に於いて無常と不浄とは同一義である。如来の身は常住にして変易がないから大浄と名づける。大浄であるから大涅槃と名づけるのである。
四には、心清浄の義である。心にもし有漏(煩悩)があるならば不浄という。仏心は無漏(無煩悩)であるから大浄と名づける。大浄であるから大涅槃と名づける。善男子よ、この大涅槃を開発すべき因を得たる人を善男子、善女人と名づけるのである。 已上抄出
(3-069)
又言善男子諸仏如来煩悩不起是名涅槃所有智慧於法無碍是為如来如来非是凡夫声聞縁覚菩薩是名仏性如来身心智慧遍満無量無辺阿僧祇土無所障碍是名虚空如来常住無有変易名曰実相以是義故如来実不畢竟涅槃是名菩薩 已上
【読方】又のたまわく、善男子、諸仏如来は煩悩おこらず。これを涅槃となづく。所有の智慧法において無碍なり。これを如来とす。如来はこれ凡夫、声聞、縁覚、菩薩にあらず。これを仏性となづく。如来は身心、智慧、無量、無辺、阿僧祇の土に遍満したまう。障碍するところなし。これを虚空となづく。如来は常住にして変易あることなければ、なづけて実相という。この義をもってもゆえに如来は実に畢竟涅槃にあらず。これを菩薩となづく。已上
【字解】一。阿僧祇 梵音アサンクフヤ(Asamkhya)。印度の大数の名。無数、無央数等と訳す。
【文科】徳王品の第二科によりて、如来の意義を述べ給う。
【講義】又曰く、善男子よ、諸仏如来、迷いを離れておるから煩悩は起こらぬ。是を涅槃と名づける。如来の具え給う智慧は、単なる思弁や概念と違い、活きている力であるから、一切の法に接触しても滞る所なく、碍えられることはない。是を指して如来というのである。如来は実に凡夫、声聞、縁覚、菩薩のような未開発の心をもっている方ではない。凡て円満に完成された方である。これを仏性と名づく。ここにいう仏は所謂至徳果仏性にして果上に開顕せられた仏性である。如来の心も身も智慧も遍く無量無辺阿僧祇国土に満ち亙っておる。そして少しも滞り碍えられることはない。この意味に於いて虚空と名づけるのである。如来の法身は常住にして変易ということはない。これを名づけて実相というのである。かくして如来は遂に畢竟涅槃し給うことはない。常に生々溌溂として、進展し活動しつつあり。如来は亦この意味に於いて菩薩にてまします。果上後の普賢大悲の行は、如来のこの方面をいうのである。 已上
第六科 迦葉品の文
(3-071)
又言迦葉菩薩言世尊仏性者常猶如虚空何故如来説言未来如来若言一闡提輩無善法者一闡提輩於其同学同師父母親族妻子豈当不生愛念心耶如其生者非是善乎仏言善哉善哉善男子快発斯問仏性者猶如虚空非過去非未来非現在一切衆生有三種身所謂過去未来現在衆生未来具足荘厳清浄之身而得見仏性是故我言仏性未来善男子我為衆生或時説因為果或時説果為因是故経中説命為食見色名触未来身浄故説仏性世尊如仏所説義如是者何故説言一切衆生悉有仏性善男子衆生仏性雖現在無不可言無如虚空性雖無現在不得言無一切衆生雖復無常而是仏性常住無変是故我於此経中説衆生仏性非内非外独如虚空非内非外如其虚空有内外者虚空不名為一為常亦不得言一切処有虚空雖復非内非外而諸衆生悉皆有之衆生仏性亦復如是如汝所言一闡提輩有善法者是義不然何以故一闡提輩若有身業口業意業取業求業施業解業如是等業悉是邪業何以故不求因果故善男子如訶梨勒果根茎枝葉華実悉苦一闡提業亦復如是 已上
【読方】又のたまわく迦葉菩薩いわく、世尊、仏性は、常なり。なお虚空のごとし。なんがゆえぞ如来ときて未来とのたまうやと。如来もし一闡提の輩善法なしとのたまわば一闡提のともがら、それ同学、同師、父母、親族、妻子において豈まさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜばこれ善にあらずやと。仏のたまわく、善哉、善哉、善男子こころよくこの問を発せり。仏性なお虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず、一切衆生に三種の身あり。いわゆる過去未来現在なり。衆生未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性をみることをえん。この故にわれ仏性未来といえりと。善男子、あるいは衆生のために或る時は因をときて果とす。あるときは果をときて因とす。このゆえに経の中に、命をときて食とす。色をみるを触となづく。未来の身浄なるがゆえに仏性ととく。世尊仏の所説の義のごとし。是の如きもの何が故ぞときて一切衆生悉有仏性とのたまえると。善男子、衆生の仏性は現在に無なりといえども、無というべからず。虚空の性は現在に無なりといえども、無ということをえざるが如し。一切衆生また無常なりといえども而もこれ仏性は常住にして変なし。是ゆえにわれこの経の中において、衆生の仏性は非内非外にして、なお虚空の非内非外なるが如しと説く。如しそれ虚空に内外あらば、虚空は名づけて一とし常とせず。また一切処有いうことをえず。虚空はまた内にあらず外にあらずといえども、而ももろもろの衆生ことごとく皆これにあり。衆生の仏性またまたかくのごとし。汝がいうところの一闡提の輩のごとき、もし身業、口業、意業、取業、求業、施業、解業あらば、是の如きらの業は、ことごとくこれ邪業なり。何を以てのゆえに因果をもとめざるがゆえに。善男子、訶梨勒の果根茎枝葉華実、ことごとく苦きがことし。一闡提の業も、またまたかくのごとし。 已上
【字解】一。一闡提 梵音イッチャンチカ(Icchantika) 一闡提伽、一闡底柯、一顛迦とも音訳す。何処までも求めて満足しない義。裏から云えば、道の深さに達することが出来ない為に、従って満足することが出来ない性分の人をいうのであろうと思う。望みの絶え果てたものの意、信不具足、又は断善根と訳してある。到底成仏の出来ない性を有する人のことであるが、今は慚愧の心のない曾無一善の凡夫をさしていうのである。
二。色 色法、または色薀の略。自体に変化を起し、互に相障える事物の総称、ここでは物質という程の意。
三。取業 ものを取る心の働き。即ち欲のこと。
四。求業 心に分別思惟して求め働き。願望のこと。
五。施業 布施する心の働き。慈善心のこと。
六。解業 事理を了解する働き。智慧のこと。
七。訶梨勒果 梵音ハリタキ(Haritaki)、呵[リ03]勒、呵羅勒、賀[リ03]怛繋などと音訳せらるる樹の実。此の樹は印度、緬甸〈ビルマ〉等の国に産し。幹の高さ八丈より十八丈に達す。葉は楕円にして長さ三四寸、花は白色にして小さく、果は卵形にして長さ六分乃至一寸、乾せば五稷となり薬用に供せらる。
【文科】迦葉品の第一文によりて仏性常住等の要義を示し給う。
【講義】又曰く、迦葉菩薩、世尊に申して言く、世尊よ仏性は、常住にして変易〈かわ〉ることなく、悟も虚空のようであるとならば、何故に如来は「未来」というようことを仰せられるのでありますか。仏性常住というならば時間ということは成立ないことをではありませぬか。次に如来は、一闡提の輩には、少しも善法がないと仰せられてあるが、併し彼等でも其の同学の友や、同学の師匠や、父母、親族、妻子等を愛念心を起こすことと存じまする。若しその心を起こすというならば、それは善心ではありませぬか。
仏宣給わく、善哉々々、善男子よ、快くもこの問いを起して呉れた。成る程、仏性は虚空の如く過去でもなく、未来でも現在でもないのである。所が現に一切衆生を見るに三種の身をもっている。所謂過去、未来、現在の身である。衆生は現在にはもってはおらぬが、未来には清浄に荘厳したる身を具え、仏性を見ることが出来る。それ故に我は衆生の仏性は未来であると説いたのである。善男子よ、我は衆生の為に或る時は因のことを果と説き、又或る時は果を因と説くこともある。即ち経の中には、命は食を取った結果であるけれども、命を食と説いたこともあり、色(物質)は触(接触)によって認められた結果であるけれども、色のことを触と説いたこともある。かように衆生にありても、未来の結果は身清浄に至ることが出来る点に就いて、仏性と説いたのである。
迦葉菩薩、この時問うて曰く、世尊の御説通り衆生の仏性が単に未来に属するという義ならば、世尊は何故に先に一切の衆生は悉く仏性ありと説かれたのでありますか。
仏答えて、善男子よ、衆生の仏性は前説の通り現在には無いけれども、之を一概に無いと断じ去る訳には行かぬ。ちょうど虚空というものは、現にこれという作用はないけれども、而も虚空はないと云うことが、出来ないようなものである。一切の衆生も其の相の上では無常であるけれども、而も其の性の上から云えば、仏性は常住にして変わることはない。是故に我この経の中に、衆生の仏性は、精神内にあるのでもなく、精神の外にあるのでもない。ちょうど虚空のようなもので、内界にあらず、外界にあらずと説いたのである。もしも虚空に内外の差別があるならば、虚空でありながら一ということも出来ず、常住不変ということも出来ないであろう。亦もしかように内外の相違があるならば、一切の処に虚空があるとも言うことが出来ないのである。然るに虚空の性として内とか、外とか限ることは出来ないものであるが、而も諸の衆生は悉く皆虚空を有しておるのである。仏性も亦この虚空と同じもので、衆生にありては、今は何も其の作用がないけれども、本より法爾に具えておるのである。
次に汝が尋ねた所の一闡提の輩に就いては、元より彼等とても自分の周囲の者に対して愛念を起こすこともあろう。即ち身口意の三業を起し、取業、求業、施業、解業を起こすであろうが、併しそれ等は凡て邪まの見解から起こった業作である。何故かと云えば、因果の道理を求めることを忘れておるからである。凡て因果を信じないものは邪業の徒である。善男子よ。あの詞梨勒果がまだ熟せない時は、根も茎も枝葉も、華も実も悉く苦いようなものである。一闡提もこれと同じく、彼等の身口意の三業は悉くみな邪まなるものである。 已上
(3-076)
又言善男子如来具足知諸根力是故善解分別衆生上中下根能知是人転下作中能知是人転中作上能知是人転上作中能知是人転中作下是故当知衆生根性無有決定以無定故或断善根断已還生若諸衆生根性定者終不先断断已復生亦不応説一闡提輩堕於地獄寿命一劫善男子是故如来説一切法無有定相迦葉菩薩白仏言世尊如来具足知諸根力定知善星当断善根以何因縁聴其出家仏言善男子我於往昔初出家時吾弟難陀従弟阿難達婆達多子羅[ゴ02]羅如是等輩皆悉随我出家修道我若不聴善星出家其人次当得紹王位其力自在当壊仏法以是因縁我便聴其出家修道善男子善星比丘若不出家亦断善根於無量世都無利益今出家已雖断善根受持戒供養恭敬耆旧長宿有徳之人修習初禅乃至四禅是名善因如是善因能生善法善法既生能修習道既修習道当得阿耨多羅三藐三菩提是故我聴善星出家善男子若我不聴善星比丘出家受戒則不得称我為如来具足十力 乃至 善男子如来善知衆生如是上中下根是故称仏具知根力迦葉菩薩白仏言世尊如来具足是知根力是故能知一切衆生上中下根利鈍差別随人随意随時故名如来知諸根力 乃至 或有説言犯四重禁作五逆罪一闡提等皆有仏性 乃至
【読方】又のたまわく、善男子、如来は知諸根力を具足したまえり。是のゆえによく衆生の上中下根をさとり分別してよく是の人下を転じて中となると知り、よく是の人中を転じ上となるを知り、よく是の人上を転じて中と知り、よく是の人中を転じて下となると知りたまう。この故にまさにしるべし。衆生の根性に決定あることなし。定なきをもってのゆえにあるいは善根を断ず。断じておわりてかえりて生ず。もしもろもろの衆生の根性、定ならば、ついに先に断じて、断じおわりてまた生ぜざらん。また一闡提のともがら、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからずと。善男子、このゆえに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまえり。迦葉菩薩、仏にもうしてもうさく、世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしとしろしめさん。なんの因縁をもってその出家をゆるしたまうと。仏のたまわく、善男子、われ往昔のそのかみにおいて出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難、提婆達多、子羅[ゴ02]羅、かくの如きの輩、皆ことごとく我にしたがいて出家修道す。われもし善星が出家をゆるさずば、その人つぎにまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にしてまさに仏法を壊すべし。この因縁をもって我すなわちその出家修道をゆるす。善男子、善星比丘もし出家せずば、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しおわりて善根を断ずといえども、よく戒を受持して耆旧長宿有徳のひとを供養恭敬し、初禅乃至四禅を修習せん。これを善因となづく。是のごときの善因よく善法を生ず。善法を生ぜばよく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提をうべし。この故にわれ善星が出家をゆるす。善男子、もしそれ善星比丘が出家をゆるし戒をうけしめずば、すなわち我を称して如来具足十方とすることをえざらんと。(乃至)善男子、如来よく衆生の是の如きの上中下根をしらしめす。このゆえに仏を具知根力と称す。迦葉菩薩、仏にもうしてもうさく。世尊如来はこの知根力を具足したまえり。このゆえによく一切衆生の上中下根利鈍の差別をしらしめして、人にしたがい意にしたがい、時にしたがうがゆえに、如来、知諸根力となづけたてまつる。(乃至)あるいはときて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありと言うことありと。(乃至)
【字解】一。善星 釈尊の子、羅[ゴ02]羅の異母兄と称せらる。釈尊の弟子となったが、邪見を起した為に、尼連禅河の辺に於いて、大地割れて生きながら阿鼻獄に堕ちたと伝う。
二。難陀 釈尊の異母弟。
三。阿難、提婆達多 は兄弟にして釈尊の従弟。
四。羅[ゴ02]羅 釈尊の子。以上四人の伝記は山邊著『仏弟子伝』に委し。
五。初禅乃至四禅 四静慮のこと。色界の四禅定のこと。初禅は有尋有伺定(定中なお覚観あり)二禅は無尋唯伺定(麁の尋はないが、細の伺がある)三禅は無尋無伺定(尋伺ともになくなり勝妙の楽、身に満つる定)四禅は捨念法事定(二禅の喜、三禅の楽をすて、心に憎愛なく一念平等清浄なる定)
六。具知根力 衆生の根抵を知り、それに応じて法を説き給う仏の力をいう。
七。四重禁 具には四重禁戒、略して四重又は重罪という。殺生、偸盗、邪婬、妄語の称。
【文科】迦葉品の第二文によりて如来の知根力等を述べたまう。
【講義】又言わく、善男子よ、如来は知諸根力を具えておる。それは衆生の根機を熟知する力である。それであるから能く衆生の上根、中根、下根を理解し、夫々分別して、是人は下根の機類であるけれども、能く中根の機となるということを知り、或は此の人は中根であるけれども、能く上根となるであろうと知り、或は此の人は上根から転じて中根となることを知り、又は此の人は中根から退いて下根となることを知ることが出来るのである。かような有様であるから衆生の根性には、定めてこうだという決定性がないものであることを知らねばならぬ。定性がないから或る時は一度善根を断つようなことがあっても、再び又善根を生ずることがある。若し諸の衆生の根性が、必然的に定まっておるものならば、一度善根を断じ已ったものが、もう一度再び生ずる訳はない。随って亦一闡提の輩が地獄に堕ちて、その地獄の寿命一劫であるなぞと説くことは出来ない筈である。即ち一闡提と雖も或る時節が来れば其の地獄の果報を脱れて、再び求法聞法することが出来るのである。是の故に如来は、一切の法(有情、非情を含む)は決定した相はないと説かれたのである。人々は多く過去の経験や、現在の状態を観察して、直ちに一切法に就いてこうだ、ああだという判断を下すが、是は法の深い自性を覚らず、只表面に眼を注ぐ謬りの致す所である。
時に迦葉菩薩、仏に申すよう。如来世尊は衆生の根機を知り、力を具足〈そな〉え給うというならば、あの善星比丘が、修行を退堕し、善根を断ずるということを前もって御承知である筈と存じます、然るにどういう因縁で、あの比丘に出家を御許しになったのでありまするか。
仏、答えて、善男子よ、我嘗って初めて出家した時、我が弟の難陀、従弟阿難、提婆達多、吾子羅[ゴ02]羅等の釈氏の子弟が相連れ立ちて、我に随うて出家して道を修めた。然るに若しあの際に善星の出家を許さなかったならば、彼は同族の子弟の出家の後を承けて必ず王位を紹ぐであろう。若し彼が王位に登るならば、其の王権を自由に振舞うて仏法を破壊するであろう。かような恐れがあるから、我は破戒を予知しながら出家修道を許したことである。善男子よ、若しあの善星比丘が出家せなんだならば即ち亦善根を断つに相違ない。さすれば未来永劫に亘りて、彼に取りて何の利益もない。今出家してよしや善根を断ち切ったというても、能く戒を受持ち、教団の先輩たる徳の高い人々を供養し恭敬の念を捧げ初禅より進んで四禅定を修めたならば、是が即ち善因である。この修道の善因は能く善法を産む。既に其の人の心内に善法を芽ぐんでくれば必ず能く道を修めるに相違ない。かように精進に道を修むれば、当に無上正真道を得るであろう。是故に我は善星の出家を許したことである。善男子よ、かような理由であるから、若し我善星比丘が出家受戒を許さなかったならば、我は十方を具えておる如来とは云われまい。乃至
善男子よ、如来は善く衆生の上中下根の機類のことに就いて、かように委しく承知しているのである。是故に、仏を具知根力と称することである。
迦葉菩薩、仏に申し上げるよう、如来世尊は実に衆生の根機を知す所の具知根力を具え給うが故に、能く一切衆生の上根、中根、下根の差別、利根、鈍根の差別を御知りになって、人に随い、その人の意に相応し、又時機に応じて法を説き給う。かくして如来を知諸根力と名づけ奉るのである。乃至或は又如来は、四重禁戒を犯したもの、五逆罪を造ったもの、および一闡提にても、仏性があるという尊い法を御説きになったことである。乃至
(3-082)
如来世尊為国土故為時節故為他語故為人故為衆根故於一法中作二種説於一名法説無量名於一義中説無量名於無量義説無量名云何一名説無量名猶如涅槃亦名涅槃亦名無生亦名無出亦名無作亦名無為亦名帰依亦名窟宅亦名解脱亦名光明亦名灯明亦名彼岸亦名無畏亦名無退亦名安処亦名寂静亦名無相亦名無二亦名一行亦名清涼亦名無闇亦名無碍亦名無諍亦名無濁亦名広大亦名甘露亦名吉祥是名一名作無量名云何一義説無量名猶如帝釈 乃至 云何於無量義説無量名如仏如来名為如来義異名異亦名阿羅訶義異名異亦名三藐三仏陀義異名異亦名船師亦名導師亦名正覚亦名明行足亦名大師子王亦名沙門亦名婆羅門亦名寂静亦名施主亦名到彼岸亦名大医王亦名大象王亦名大龍王亦名施眼亦名大力士亦名大無畏亦名宝聚亦名商主亦名得解脱亦名大丈夫亦名天人師亦名大分陀利亦名独無等侶亦名大福田亦名大智海亦名無相亦名具足八智如是一切義異名異善男子是名無量義中説無量名復有一義説無量名所謂如陰亦名為陰亦名顛倒亦名為諦亦名為四念処亦名四食亦名四識住処亦名為有亦名為道亦名為時亦名為衆生亦名為世亦名第一義亦名三修謂身戒心亦名因果亦名煩悩亦名解脱亦名十二因縁亦名声聞辟支仏亦名地獄餓鬼畜生人天亦名過去現在未来是名一義説無量名善男子如来世尊為衆生故広中説略略中説広第一義諦説為世諦説世諦法為第一義諦。抄出
【読方】如来世尊、国土のためのゆえに、時節のためのゆえに、他語のためのゆえに、人のためのゆえに、衆根のためのゆえに、一法の中において二種の説を作す。一名の法に於いて無量の名を説く。一義の中に於いて無量名を説く。無量の義に於いて、無量の名を説く。云何が、一名に無量の名を説くや、猶し涅槃の如し。亦涅槃と名づく。亦無生と名づく。また無出と名づく。亦無作と名づく。また無為となづく。亦帰依と名づく。亦窟宅と名づく。亦解脱となづく。また光明となづく。また灯明となづく。また彼岸となづく。また無畏と名づく。また無退となづく。また安処となづく。また寂静となづく。また無相となづく。また無二となづく。また一行となづく。また清涼となづく。また無闇となづく。また無碍となづく。また無量となづく。また無濁となづく。また広大となづく。また甘露となづく。また吉祥となづく。これを一名に無量の名をつくるとなづく。いかんが一義に無量の名をとくや。なおし帝釈のごとし。(乃至)いかんが無量の義において無量の名をとくやと、仏如来のごとし。名づけて如来となす。義異名異とす。また阿羅訶となづく。義異名異なり。また三藐三仏陀となづく。義異名異なり。船師となづく。また導師となづく。また正覚となづく。また明行足となづく。また大師子王となづく。また沙門となづく。また婆羅門となづく。また寂静となづく。また施主となづく。また到彼岸となづく。また大医王となづく。また大象王となづく。また大龍王となづく。また施眼となづく。また大力士となづく。また大無畏となづく。また宝聚となづく。また商主となづく。また得解脱となづく。また大丈夫となづく。また天人師となづく。また大分陀利となづく。また独無等侶となづく。また大福田となづく。また大智海となづく。また無相となづく。また具足八智となづく。かくのごとき一切義異名異なり。善男子、これを無量義の中に無量の名をとくとなづく。また一義に無量の名をとくことあり。いわゆる陰のごとし。また名づけて陰とす。また顛倒となづく。またなづけて諦とす。またなづけて四念処とす。また四食となづく。また四識住処となづく。また名づけて有とす。またなづけて道とす。またなづけて時とす。またなづけて衆生とす。またなづけて世とす。また第一義となづく。また三修となづく。いわく身戒心なり。また因果となづく。また煩悩となづく。また解脱となづく。また十二因縁となづく。また声聞辟支仏となづく。仏をまた地獄、餓鬼、畜生、人天となづく。また過去現在未来となづく。これを一義に無量の名をとくとなづく。善男子、如来世尊、衆生のためのゆえに。広のなかに略をとく。略のなかに広をとく。第一義諦をときて世諦とす。世諦の法をときて第一義諦とす。 抄出
【字解】一。阿羅訶 梵語アルハット(Arhat)の音訳。阿羅漢に同じ。応供、殺賊等と訳す。仏十号の一。
二。沙門 又は桑門、沙門那、室[ラ02]摩孥、梵音シュラマナ(Sramana)。勤息、止息などと訳す。善法の勤め、悪法の止息するものの意。出家の道を修むる人を指す。
三。婆羅門 梵音ブラフマナ(Brahmana)、浄行浄裔と訳す。印度四姓中の最高位に位する種族の名。但しここにては、真理の体得者という程の意味で、仏の異名である。
四。施眼 仏の異名。仏因位の菩薩でいらせられた時、尸毘国に生まれて、普く布施を行じ、遂に肉身を施さんことを決し。之を試さんとして化れる帝釈の盲目婆羅門に肉眼を与えられた。之によりて施眼を仏名としたことと思われる。「ジャータカマーラー」(『菩薩本生鬘論』原本の異本)に出づ。或は亦仏が吾等に智慧の眼を与え下さるという意味に於いての名か。
五。大分陀利 大いなる芬陀利華ということ。梵音プンダリーカ(Pundarika)白蓮華と訳す。ここでは仏の異名。
六。具足八智 八智を具足する人の意。仏の異名。八智とは見道位にて得る苦法智、苦類智等の八種の無漏智にて、八恩に対するものであるが、ここにては、如来の無漏の智慧を意味す。
七。陰 五陰。色受想行識。吾等の心身を分称す。善法を陰蓋する五陰の意。
八。四念処 四念住ともいう。三賢位のうち念処位に於いて修する観法である。吾人は常に身、受(感覚)、心、法(事物等)の四法に於いて、浄、楽、常、我の四顛倒の妄見を起しておる。この妄見を破らんが為に、智慧をもって、身は不浄、受は苦、心は無常、法は無我と観ずるものである。是を四念住という。そして別相念住位にては、四法を別々に観じ、総相念住位にては、すべて同時に観ず。
九。十二因縁 十二因生、十二有支、十二縁起ともいう。三界の迷いの因果を十二に分ちて、衆生輪回のさまを示したるもの。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死。
無明(痴煩悩)、行(業作)は過去世の二因、之によりて、識(結生の位)、名色(入胎中の五位)、六処(入胎中、眼等の根の生ずる位)、触(出胎後二三才の間、感覚だけの生活)、受(五六才以後、境遇の刺激を受け込む)の現在の五果あり。又愛(十五才以後、愛欲の盛んなる時)、取(中年の貪煩悩の盛んなる時)、有(前の煩悩によりて起こしたる行業)は現在の三因。生(果報を結ぶ位)、老死(受生以後)は未来の二果に分かつのである。是を三世両重の因果の十二因縁という。この外、刹那の十二因縁説、二世一重の十二因縁説あり。
【文科】迦葉品第二文によりて涅槃の名義を広説し給う一段。
【講義】此の故に如来世尊は法を説くに当りても、決定〈きま〉っている型をもってすることはない。即ち国にありては其の国の風俗習慣に応ずる為、又時と場合に相応する為に、又は其の人の根性や履歴や習慣に応ずる為に、又は衆生の根機に応ずる為に、一法の中に名と義の二つを説くのである。
さて此の名義に就いて凡そ三門あり、第一は一名をもっている法に就いて無量の名を説くこと。第二は一義に就いて無量の名を説くこと。第三は無量の義に就いて無量の名を説くことである。
第一の一名に無量の名を説くことは、一例を挙げれば「涅槃」である。是は涅槃にして亦無生と名づける。迷いの生を受けない義を表わす。亦無出と名づける。迷いの巷に再び出ることはないということ。亦無作と名づける。自然の活動であって故意に業作をしないこと。亦無為と名づける。迷いの努力を超えて無為自然なると。亦帰依と名づける。畢竟の帰依所であるからである。亦窟宅と名づく。窟〈いわや〉の住家のような堅固にして静かなること。亦解脱と名づける。煩悩から解脱るからである。亦光明と名づける。智慧明らかなるが故である。亦灯明と名づける。自ら闇を破り他の闇を破るからである。亦彼岸と名づける。生死の此岸を超えているからである。亦無畏と名づける。心に畏るる所がないからである。亦無退と名づく。再び生死界に退転することはないから。亦安処と名づく。老病死等の憂いなく畢竟の安穏処であるから。亦寂静と名づく。煩悩の擾閙〈さわぎ〉を離れておるから。亦無相と名づく。是という執すべき相状をもっておらないから。亦無二と名づける。対比すべき何物もないから。亦一行と名づく。唯一の業作であるから。亦清涼と名づける。煩悩の熱を離れたる清涼の天地であるから。亦無闇と名づける。愚痴の闇がないから。亦無碍と名づける。何物にも碍げられぬ無障碍の境であるから。亦無諍と名づける。涅槃を外にして一切の生活は諍いの生活であるが、是は諍いなき生活であるから。亦無濁と名づける。少しも煩悩悪業の濁りがないから。亦広大と名づける。竪に永劫の三世を摂め、横に全法界を尽くす程の広大の天地であるから。亦甘露と名づける。法味は津々として甘露の如く微妙の味をもっておるから。亦吉祥と名づく。世にこれ程の祝福すべきものはないから。之を一名に就いて無量の名を作るというのである。
第二に、一義に就いて無量の名を説くというのは、帝釈の如き是である。経によれば帝釈を[キョウ02]尸迦、婆蹉婆(女厳飾と訳す)富蘭陀羅(調伏諸根明と訳す)摩[キャ02]婆(無勝と訳す)因陀羅(光明と訳す)千眼、舍脂夫(舍脂は阿修羅の娘、帝釈を聟にせんと思うた。故に舍脂の夫という)金剛(金剛力士を有する故に)宝頂(須彌宝山の頂に住する故に)宝憧等と説いてある。これは帝釈という一義にいろいろの名を付して其の一義の内容を表わしたものである。
第三に、無量義に就いて無量の名を説くというは仏如来の如き是である。これには無量の義がある。そして又無量の名がある。第一に如来と云えば、上の仏如来とは、義も名も異なっている。仏如来は覚者如来の意にして、単に如来と云えば、真如より来れる者の意。亦阿羅訶と名づける。是は阿羅漢と同じ音訳で、応供と訳す。供養を受くべき徳者の意味である。矢張り、義も名も異なっている。亦三藐三仏陀と名づける。是は無上正真道の梵語であるこの上もない正真道を体得せる者という意、義も名も異なっている。亦船師と名づける。生死の流れを渡す方であるから。亦導師と名づける。衆生を導いて生死を出でしむる師匠であるから。亦正覚と名づける。正しい覚者でいらせられるから。亦明行足と名づける。明は智慧である。即ち智慧の目〈まなこ〉と行の足を具えた方、智行円備にてましますから。亦大師子王と名づける。獅子の百獣に王たる如く、如来は一切有情の王にてましますから。亦沙門と名づける。沙門は梵語、勤息、止息と訳す。善を勤め悪を息める意である。亦婆羅門と名づける。婆羅門とは浄行の意。如来は浄行の権化にてましますから、亦寂静と名づける。亦施主と名づける。一切衆生に功徳の宝を施し給う故に。亦倒彼岸と名づける。迷いの此岸より証りの彼岸に到り給う方であるから。亦大医王と名づける。一切衆生の煩悩の病を治し給う方であるから。亦大象王と名づける。大象が威重をもって群獣の中を行くが如き威徳を具え給う故に。亦大龍王と名づく。神変不可思議の威徳あることを龍王に譬えたものである。亦施眼と名づける。智慧の眼を施し給うから。亦大力士と名づける。仏の十力を具えたる真の意味の力士にてましますから。亦大無畏と名づける。四無畏の徳を具え給う故に。亦宝聚と名づける。功徳の宝を聚めたる方であるから。亦商主と名づける。亦得解脱と名づける。生死輪廻の囹圄〈とらわれ〉より解脱した方であるから。亦大丈夫と名づける。勇敢に正道に直進する大丈夫であるから。亦天人師と名づける。人間天上の大導師にてましますから。亦大分陀利と名づく。煩悩の淤泥に汚さるることはないから。亦独無等侶と名づける。如来は天上天下に等侶なき独尊にてましますから。亦大福田と名づける。人天の供養に応じて福を生ずること大福田のようであるから。亦大智福と名づける。智慧海の如くにてまします故に。亦無相と名づける。虚空が諸の相を離れて而も一切に遍満して碍えられることのないように、如来も亦無相にてまします。亦具足八智と名づける。
上にあげた例の如きは、一切の義異なり、名も亦異なるものである。善男子よ、是を無量義の中に無量の名を説くというのである。
また上にあげた第二の一義に無量の名を説くという例を挙げれば、所謂陰がそれである。陰を亦顛倒と名づける。五陰は真理に比べれば全く倒であるから、亦諦とも名づける。即ち有漏の五陰の法は苦諦集諦であり、無漏の五陰は道諦であるからである。亦四念処とも名づけ、亦四食とも名づけ、四識住とも名づける。亦有とも名づける。五陰は三有、又は二十五有に摂められるものであるから。亦道と名づける。五陰は六道の摂であるから。亦時と名づける。因果因果引き続く時間に束縛せられるものであるから。亦衆生と名づける。衆生の心身を組み立てているものであるから。亦世と名づける。世間とはこの五陰を抽象的に一般化したものであるから。亦第一義と名づける。五陰の相は世間に属するものであるが、其の体は第一義諦であるということ。亦三修と名づける。五陰の中、第一の色は身戒と名づけ、後の受想行識の四は心と名づける。亦因果と名づける。煩悩の因によりてこの五陰の果を得、因果は離すことが出来ないから五陰を因果と名づける。又解脱と名づける。煩悩を離れたる無漏の五陰のこと。又十二因縁と名づける。この五陰は三世に亘りて輪回する。そして其の形式は十二因縁によりて示される。これによりて五陰を十二因縁と名づける。又声聞、辟支仏、地獄、餓鬼、畜生、人天と名づける。是等を五陰仮和合の上に其の性質によりて命名したものである。五陰の名というのである。亦過去現在未来と名づける。五陰が三世に移り異〈かわ〉る方面に就いて名づく。
是を一義に無量の名と説くというのである。善男子よ、如来世尊は衆生の根機に随いて広の中に略を説き、略の中に広を説き、或は又第一義諦を説いて、是を実際世間のこととなし。又は現実のことを説いて、それを其の儘第一義諦とする。即ち現実を離れて第一義諦を説けば空想となり、第一義諦を離れて現実を談ずれば、点睛なき龍の如く無意味なものとなる。如来の智慧力は此の間の消息を自由に伝えることが出来るのである。 略出
第七科 梵行品の文(3-093)
又言迦葉復言世尊第一義諦亦名為道亦名菩提亦名涅槃 乃至
【読方】又のたまわく、迦葉またもうさく、世尊、第一義諦を名づけて道とす。また菩提となづく。また涅槃となづく。乃至
【文科】梵行品の文によりて、智慧即ち涅槃を明かし給う。
【講義】又曰く、迦葉重ねて申すよう、世尊よ、第一義諦を名づけて、道即ち真実の智慧と名づけ、亦梵語にては菩提(道と訳す)と云い、又は涅槃と名づけます。
第八科 迦葉品の文
(3-093)
又言善男子我於経中説如来身凡有二種一者生身二者法身言生身者即方便応化之身如是身者可得言是生老病死長短黒白是此彼是学無学我諸弟子聞是説已不解我意唱言如来定説仏身是有為法法身即是常楽我浄永離一切生老病死非白非黒非長非短非此非彼非学非無学若仏出世及不出世常住不動無有変易善男子我諸弟子聞是説已不解我意唱言如来定説仏身是無為法
【読方】又のたまわく、善男子、われ経のなかに於いて如来の身をとくに、おおよそ二種あり。一には生身、二には法身なり。生身というは即ちこれ方便応化の身なり。是のごとき身はこれ生老病死長短黒白是此是彼是学無学と言うことを得べし。我がもろもろの弟子、この説を聞きおわりてわが意をさとらざれば、唱えていわく、如来さだめて仏身はこれ有為の法なりと説かんと、法身はすなわちこれ常楽我浄なり。ながく一切生老病死、非白、非黒、非長、非短、非此、非彼、非学、非無学を離れたまえり。もし仏の出世および不出世に、つねに動せずして変易あることなけん。善男子、我がもろもろの弟子、この説を聞きおわりて、我が意をさとらざれば唱えていわく、如来さだめて仏身はこれ無為の法なりと説きたまえりと。
【講義】又曰く、善男子よ、我経の中に如来の身に凡そ二種あることを説いた。一は生身、二は法身である。生身というのは、他を化益せんが為に方便して示現したもので、是を方便応化身と名づける。この応化身の如きは、生老病死に移され、長短黒白等の相を示し、彼此れ差別し、是はまだ修道位にあるとか、彼はもう学ぶことを要せぬ完成した無学果の人であるというように批判せられる仏である。故に如来の意を了解することの出来ない我が弟子は此の説を聞いて、「如来ははっきりと仏身は是れ因果に縛らるる有為法であると説かれた」と云うであろう。是は仏身の一面を知って他面を知らぬ言い分である。
次に法身は常住にして真楽、絶対真我、絶対清浄である。永〈とこしな〉えに一切の老病死を離れておる。白でもなく、黒でもなく、長にあらず、短にあらず、彼此の別ちなく、学、無学等の知識人格の差別はない。そして又仏の出世と不出世に関せず。常に変動することなく変易〈かわ〉ることはない。善男子よ、然も此の説を聞いて其の真意に触れることの出来ない我が弟子は「如来ははっきりと仏身は無為自然の活動しない法である」というであろう。是も仏身の一面を固執しているのである。
即ち生身法身の二つは離すことは出来ないのである。
(3-095)
又言如我所説十二部経或随自意説或随他意説或随自他意説 乃至 善男子如我所説十住菩薩少見仏性是名随他意説何故名少見十住菩薩得首楞厳等三味三千法門是故了了自知当得阿耨多羅三藐三菩提不見一切衆生定得阿耨多羅三藐三菩提是故我説十住菩薩少分見仏性善男子我常宣説一切衆生悉有仏性是名随自意説一切衆生不断不滅乃至得阿耨多羅三藐三菩提是名随自意説一切衆生悉有仏性煩悩覆故不能得見我説如是汝説亦爾是名随自他意説善男子如来或時為一法故説無量法 抄出
【読方】またいわく、わが所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。乃至 善男子、わが所説のごとき、十住の菩薩すこしく仏性をみる、これを随他意説となづく。何を以てのゆえに少見となづくるやと、十住の菩薩は首楞厳等の三昧、三千の法門を得たり。このゆえに了々にみずから知りて、まさに阿耨多羅三藐三菩提をうべくとも、一切衆生さだめて阿耨多羅三藐三菩提をえんことをみず。この故に我十住の菩薩、少分仏性をみるととく。善男子、我つねに一切衆生悉有仏性と宣説する。これを随自意説となづく。一切衆生は不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提をうる、これを随自意説となづく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩おおえるが故に見ることを得ること能わずと。我が説かくのごとし。なんじが説またしかりなり。これを随自他意説となづく。善男子、如来あるときは一法のためのゆえに無量の法をとくと。 抄出
【字解】一。十住菩薩 『瓔珞経』『華厳経』等の所説によれば十住菩薩は、菩薩五十二位のうち、第十一位より第二十位までの菩薩をさすのであるが、『涅槃経』には菩薩の階級を五十位とし、この十住は五十位中の第四十一位より五十位まで即ち十地の菩薩をいう。その中にも今は十地の菩薩全体を指すのではなく、第十地の菩薩をいうので、等覚の菩薩を指すのである。
二。首楞厳三昧 梵音シューラムガマ、サマードヒ(Suram-Gama-Samadhi)勇健定、健相定等と訳す。菩薩この三昧をうれば、諸の煩悩魔及び魔人も破壊することが出来ないという。
三。三千法門 三千とは全法界の総称である。即ち地獄等の十界の各に十界を具えておるから、合わせて百界、この百界の一々は、凡ての事理に含まれてある十種の普遍性たる十如是(如是相、如是性等)を具えておるから千如となる。これに三世間(五陰世間、衆生世間、国土世間)を乗じて三千となる。故に三千の法門とは、一切法界の法門、即ち一切の法門ということ。
【文科】迦葉品の第二文によりて、悉有仏性の意義を明し給う。
【講義】又曰く、我が説く所の十二部経の如きは、或は自らの意のままに説いた随自意の説もあり、或は他人の意に随いて説いた随他意の説もあり、或は又この二つを合わせた随自他意の説もある。乃至
善男子よ、我嘗て経中に「十住の菩薩は少しく仏性を見る」と説いたのは、是は随他意の説である。ここに何故に「少しく仏性を見る」と説いたかというに、十住の菩薩は首楞厳等の三昧、三千の法門を心に会得しておる。それであるから自ら無上正真道を得ることが出来るということは了々として火を視るより明らかなのである。併し自分に就いては左様に証りを得るの確信を得ているけれども、一切衆生が定めて自分と同じように無上正真道を得るということを智見することは出来ない。是でも自分だけの解決であって他を摂めることは出来ないから、我「十住の菩薩は少分に仏性を見る」というたのである。是随他意方便説たる所以である。
善男子よ、我常に「一切衆生は悉く仏性を有っておる」と説いた。是を随自意説と名づける。我知見をもってすれば、一切衆生は断えることなく滅することなく、乃至必ず無上正真道を得るのである。是は我自らの知見に随って説いたものである。
然るに一切の衆生は悉く仏性はあるが、煩悩に覆い隠されておるから能く仏性を知見することは出来ない。我が説もこの通りであるが、汝の説もこの通りであると云うのが、随自他意の説で、自分も是でよく、他人も納得することが出来るから此の名がある。
善男子よ、如来は或る時には一法を説きあかさんが為に、無量の法を説くことがある。抄出
【余義】一。茲に十住の菩薩というは、【字解】にも出づる通り等覚の菩薩のことである。普通十住の菩薩といえば十信位、十住位、十行位の十住のことであるが、『涅槃経』では十地の菩薩を十住の菩薩と呼んでいる。『十住毘婆沙論』、『十住断結経』の十住と同じというのである。それで十住の菩薩というと、十地の菩薩のことである。又この処の用語上、総じて十地を指すのでなく第十地の菩薩を指すのである。処が『涅槃経』では別に等覚位というものを立てず、第十地の菩薩、等覚後身の菩薩としてあるから、今茲に単に十住の菩薩とあるのも、第十地等覚の菩薩を指したものである。『北本涅槃』三十四、『南本涅槃』三十二に、「後身菩薩仏性有六。一常、二浄、三真、四実、五善、六少見」とあり、等覚最後身の菩薩は自身成仏のことは明了に知るけれども、一切衆生悉く仏性を具することを知ることは出来ない。故に少見仏性というのである。それで『北本涅槃』二十七、『南本涅槃』二十五には「十住菩薩所見仏性如夜見色、如来所見如昼見色(十住菩薩所見の仏性は夜に色を見るが如し、如来の所見は昼に色を見るが如し)」とあるのである。
今我が聖人は、茲にこの経文を引用して他力摂取の行者は、この世に於いて、完全に仏身の内容を知る能わず、又自分の証悟を円〈まろ〉やかに開くことは出来ないが、他力本願力の回向に依って、肉体の囹圄〈ひとや〉を脱して、安楽浄土に生ずる時、完全に仏性を開顕することを示し給うのである。それで我が聖人は私釈に入って、この巻の終わりに今一度この経語を引用し給うてある。
第九科 獅子九品の文(3-100)
又言一切覚者名為仏性十住菩薩不得名為一切覚故是故雖見而不明了善男子見有二種一者眼見二者聞見諸仏世尊眼見仏性如於掌中観阿摩勒菓十住菩薩聞見仏性故不了了十住菩薩雖能自知定得阿耨多羅三藐三菩提而不能知一切衆生悉有仏性善男子復有眼見諸仏如来十住菩薩眼見仏性復有聞見一切衆生乃至九地聞見仏性菩薩若聞一切衆生悉有仏性心不生信不名聞見 乃至 獅子吼菩薩摩訶薩言世尊一切衆生不能得知如来心相当云何観而得知耶善男子一切衆生実不能知如来心相若欲観察而得知者有二因縁一者眼見二者聞見若見如来所有身業当知是則為如来也是名眼見若覚如来所有口業当知是則為如来也是名聞見若見色貌一切衆生無与等者当知是則為如来也是名眼見若聞音声微妙最勝不同衆生所有音声当知是則為如来也是名聞見若見如来所作神通為為衆生為為利養若為衆生不為利養当知是則為如来也是名眼見若観如来以他心智観衆生時為利養説為衆生説若為衆生不為利養当知是則為如来也是名聞見 略出
【読方】又いわく一切覚者をなづけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるが故に、この故に見るといえども明了ならず。善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。諸仏世尊はまなこに仏性をみそなわすこと、掌の中において阿摩勒菓をみるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、ことさらに了々ならず。十住の菩薩ただよく自らさだめて阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生ことごとく仏性ありと知ることあたわず。善男子、また眼見あり。諸仏如来と十住の菩薩とは仏性を眼見す。また聞見することあり。一切衆生乃至九地までは仏性を聞見す。菩薩もし一切衆生ことごとく仏性ありときけども心に信を生ぜざれば聞見となづけずと。(乃至)獅子吼菩薩摩訶薩もうさく。世尊、一切衆生は如来の心相をしることを得ることあたわず。まさにいかんが観じて知ることを得べきや。善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたわず。もし観察して知ることを得んとおもわば二つの因縁あり。一には眼見、二には聞見なり。もし如来所有の身業をみたてまつらんは、当に知るべし、是すなわち如来とす。これを眼見となづく。もし如来所有の口業を観ぜん。まさに知るべし、これすなわち如来とす。これを聞見となづく。もし色貌をみること、一切衆生のともに等しきものなけん。まさに知るべし。これすなわち如来とす。これを眼見となづく。もし音声をきくに微妙最勝にして、衆生所有の音声にはおなじからじ。まさに知るべし、これすなわち如来とす。これを聞見となづく。もし如来所有の神通みたてまつらんに、衆生の為とやせん、利養の為とやせん、もし衆生の為にして利養のためにせず。まさに知るべし。これすなわち如来とす。これを眼見となづく。もし如来を観ずるは、他心智をもって衆生を観ずとき、利養の為にとき、衆生の為に説かん。もし衆生の為にして利養の為にせざらん。まさに知るべし、これすなわち如来とす。これを聞見となづく。略出
【字解】一。阿摩勒菓 梵音アーマラカ(Amalaka) 宝瓶と訳す。阿摩勒樹の果実の称。余目子と訳す。マンゴーともいう。味の美なること。世界の果実中の最上と称せらる。
【文科】獅子吼品の文によりて、仏性を知見することを述べ給う一段である。
【講義】又曰く、真に仏性を知見した人を一切覚者と名づける。だから一切覚者を仏性と名づけるのである。然るに十住の菩薩は一切覚者とは名づけることは出来ない。すなわち十住の菩薩は仏性を知見しても明了ではない。善男子よ、「見る」ということに就いて二種ある。一は眼見、二は聞見である。諸仏世尊は眼に仏性を見そなわすこと、例えば掌中に阿摩勒菓を見るようなものであるが、十住の菩薩は仏性を直ちに知見することは出来ず、唯聞見するのみであるから、了々分明に見ることは出来ない。その内容を云えば、十住の菩薩は唯自身の無上正真道を得ることに就いては決定心をもっているが、一切衆生悉く仏性を具えていると云うことは知見することは出来ない。かように一切衆生の有仏性を知ることの出来ないのは、裏から云えば自身の仏性の明了に知見することが出来ないことを示しているのである。
善男子よ、復眼見に就いて云えば、諸仏如来も十住の菩薩も共に仏性を眼見する。復聞見に就いて云えば、一切衆生から、泝って九地の菩薩までは仏性を聞見する。但し「一切衆生悉く仏性あり」ということを聞いても、心に信知することがなければ聞見とは名づけない。乃至
獅子吼菩薩摩訶薩、世尊に申し上げるよう、一切衆生は如来の御心も其の相好と共に知見し奉ることは出来ない。いかように観察したならば其の心相を知見することが出来るでありましょう。
仏答えて、善男子よ、誠に一切の衆生は如来の智慧、相好を知見することが出来ずにおる。若し観察の方法によりて知りたいと願うならば、此処に二つの方法がある。一は眼見、二には聞見である。若し如来の具え給う身業の功徳を見たてまつるならば、それが則ち如来を見奉ったものである。是を眼見と名づける。眼では身業を見奉ったからである。次に如来の具え給う口業の功徳を観ずるならば、それが即ち如来を見奉ったのである。是を聞見と名づける。耳で如来の御声を聞き奉ったからである。
如来の色貌を見奉るに、一切衆生の色貌の何れも及び難い殊妙の相好を観ずるならば、それは即ち如来にていらせられる。是を眼見と名づける。若し又如来の音声の微妙に最勝〈すぐれ〉てましますを聞き、一切衆生の音声の能く及ぶ所でないことを知るならば、それが則ち如来にていらせられる。是を聞見と名づける。
若し又如来の現じ給う神通を見奉るに、之は衆生の為にし給う所であろうか、又は御自身の利養の為にし給う所であろうかを考え、若し衆生化益の大慈悲心からであって、決して利養の為なぞではないということを信ずるならば、それが即ち如来である。如来を見奉ったのである。是を眼見と名づける。即ち眼で神通を見るとともに其の神通の真意義たる如来心に徹したからである。若し如来の御心を観じ奉るに、如来が他心智をもって衆生を観〈みそなわ〉わして、そして其の機に応じて法を説き給うことを知りて、それは如来御自身の利養の為か、又は衆生を化益する為かということを考え、若し衆生の為にして、決して如来自身の利養の為ではないということを信ずるならば、是が則ち如来である。如来心を知見し、如来心に触れ奉ったのである。是を聞見と名づける。
第三節 論文証
第一項 『浄土論』の文
(3-105)
【大意】以上経文証了りて『浄土論』の文を引用し給う。初めに天親菩薩の自督の文をあげて仏身を示し、次に其の帰依の対象たる仏土の相を説く。以下の釈文は全く此の文の註脚として、其の内容を闡明するに過ぎない。
浄土論曰世尊我一心帰命尽十方無碍光如来願生安楽国観彼世界相勝過三界道究竟如虚空広大無辺際 已上
【読方】浄土論にいわく、世尊、われ、一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。かの世界の相をみそなわすに三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし。広大にして辺際なしとのたまえり。已上
【字解】一。三界
┌地獄界
├餓鬼界 ┌四王天(持国天王、広目天王、多聞天王、増長天王)
├畜生界 ├[トウ01]利天(又は三十三天ともいう)
┌─欲界──┼修羅界 ├夜摩天
│ ├人間界 ├兜率天(又は覩史多天)
│ └六欲天─┼化楽天(又は楽変化天)
│ └他化自在天
│ ┌初禅天(梵衆天、梵輔天、大梵天)
三界┤ ├二禅天(小光天、無量光天、光音天)
├─色界──┼三禅天(少浄天、無量浄天、遍浄天)
│(十八天)└四禅天(無雲天、福生天、広果天、無想天、無煩天、無熱天、善見天、
│ 善現天、色究竟天)
│ ┌空無辺処天
└─無色界─┼識無辺処天
├無所有処天
└悲想非々想処天
欲界 この界の衆生は地獄より天界まで、有情多く食欲、色欲、眠欲等の諸欲に耽る故にこの名あり。
色界 この界の衆生は穢らわしい欲を離れ、清浄の色質を有し、男女の別なく、衣自然にいたり、光明を食とし、言語としている故にこの名あり。
無色界 この界は総て形色なく、唯、識だけがある。故に此の名あり。色界が色身に縛られて、自由を得ることを得ないのを厭〈いと〉うて此の世界に進み入るのである。
【文科】『浄土論』の文によりて仏身仏土を顕示し給う一段。
【講義】『浄土論』に天親菩薩宣給わく、釈迦牟尼世尊よ、我は一心一向に尽十方無碍光如来を念じ奉り、その御国たる安楽浄土に生まれんことを願うておることであります。彼の安楽世界の相を観たてまつるに、迷いの巷たる三界遥かに超え勝れ、全法界の際〈はじ〉を究めて宛然〈さながら〉大虚空のよう、其の広遠にして雄大なること無限絶対にして辺際がありません。
【余義】一。茲に『浄土論』から二個の文が引かれてある。初めは所謂建章の四句で、三念門の偈である。後は器世間十七種荘厳の中、荘厳清浄功徳成就と、荘厳量功徳成就との文である。建章の四句は仏身を示し、二種荘厳の文は仏土を示す文である。
二。この仏身を示す建章の四句について一言せねばならぬ。この四句は天親菩薩が自督の信仰を告白し給う偈であって、我が聖人の最も愛好尊崇し給う語の一つである。「信巻」序には一心の華文と讃し、「証巻」には広大無碍の一心とたたえられてある。他力信仰の最も充実した直裁な告白である。しかしてこの文は見様に依っては、仏身を証示する文ともなり、行を示すものとなり、信を証明するものともなるのであるから、我が聖人は文々を引き給わぬけれども、「行巻」には、『論註』の三念門の釈文に依って、この文を解し「信巻」には、この文中一心の語に依って有名なる三一問答を引き起こし給うてある。『略本』は行中摂信の明かし方の書であるが、その中(四丁左)には、行不離の信の証文として引用し給うてある。又『愚禿鈔』上十二丁にもこの文全体を引用なされてあるが、これは信の証文、行の証文という様に片寄ったのでなく、云わばこの三義すべての証文としてであろう。今茲にこの三念門の偈を引き給うは前にもいう通り、仏身の証文であって、我等の帰崇すべきは本仏、信仰の対境を具体的に挙示して下されたのである。聖人は、お手紙にて慶信房に教え給う中(『末灯鈔』三十六丁)に、
南無阿弥陀仏をとなえてのうえに、無碍光如来ともうすはあしきことなりと候なること、きわまれるひがことときこえ候え。帰命は南無なり。無碍光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたちをしらせたまわねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまいらせんとて、世親菩薩御ちからをつくしてあらわしたまえるなり。
と宣うてあるので、聖人の御思召は充分に伺われるのである。この外『唯信抄文意』十八丁、『一念多念証文』十一丁、『末灯鈔』六丁、みな天親菩薩が我等の如来を無碍光如来と示し給えることを挙げて感謝なされてある。
三。常識的にいえば、帰命尽十方無碍光如来の帰命は梵語南無の訳語で能帰、尽十方無碍光如来は正しく所帰の仏体で十字が二つに分かれるものであることは申すまでもないが、我が聖人は、その宗教的実践からして、この十字共に弥陀の尊号となされたことは平常いう通りである。能帰の力も全く仏徳仏力だという理由に依るのである。こういう風に力を二つに分けないのが他力教の妙味で、また宗教的なところである。幾つにも分析して事を複雑にするのは非宗教的なので、宗教は一にして全なる力を見出すことである。十字全体が尊号であるという所に、いうべからざる宗教的妙味が躍動し来るのである。それで聖人は当巻の終り私釈の中に「言真仏者、・・・・・論曰帰命尽十方無碍光如来也」と宣うていらせられる。
第四節 釈文証(3-110)
【大意】上に論文を引きしにより、是より以下は釈文である。初めに曇鸞大師の『論註』と『讃阿弥陀偈』の文である。『論註』の六文は浄土の無為涅槃界の諸徳を顕わし、『讃阿弥陀偈』の三文は、龍樹菩薩の讃嘆等あれども、総じて仏身を証成せらる。
次に善導大師の釈文を挙ぐ、「玄義分」「序分義」「定善義」『法事讃』の四文であるが、要するに弥陀の法身報土を顕示するにある。
終りに憬興師の『述文讃』であるが、矢張り法身報土を助成する文として引用せらる。
第一項 曇鸞大師の釈文
第一科 『論註』の文
(3-110)
註論曰荘厳清浄功徳成就者偈言観彼世界相勝過三界道故此云何不思議有凡夫人煩悩成就亦得生彼浄土三界繋業畢竟不牽則是不断煩悩得涅槃分焉可思議
【読方】註論にいわく、荘厳清浄功徳成就は、偈に観彼世界相、勝過三界道とのたまえるが故に。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることをうるに、三界の繋業、畢竟して牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分をう。いづくんぞ思議すべきや。
【文科】『論註』清浄功徳の文によりて、上の論文の内容を表わし給う。
【講義】曇鸞大師の『浄土論註』に曰く。『浄土論』に明かす所の依報十七種荘厳の総相たる荘厳清浄功徳成就とは如何なるものかと云うに、論の偈文に「観彼世界相 勝過三界道(かの世界の相を観ずるに、三界道に勝過して)」というてある。この浄土の荘厳が何故に不思議の徳を具えているというのかと云えば凡そ阿弥陀仏の本願を信ずる凡夫が、その煩悩を欠目なく具えておりながら、彼の安楽世界へ生ずるに、三界に繋属〈つなぎつ〉けるその悪業が全く力を失うて生死界へ牽きつけることはない。是が則ち煩悩を断ち切ることなくして、涅槃証果の分斉を得るというのである。かようなことは通常の見解をもってはどうしても考えることの出来ない不可思議のことでないか。
【余義】一。これから、曇鸞大師の釈文が引用してある。『論註』から六文、『讃阿弥陀仏偈』から三文、『論註』の六文はすべて仏土を証成し、『讃阿弥陀仏偈』の三文は仏身を証成するのである。
二。『論註』の六文というは、一、清浄功徳の釈、二、性功徳釈、三、大義門功徳釈、四、不思議釈、五、自利々他釈、六、不虚作住持釈である。この六文の証成する各の意味については古来多数の異説があるが、六文を一連にしてその証成の意味を探って見ると、次の様なことになると思われる。
即ち、安楽浄土は清浄無為の涅槃界であって(清浄功徳の釈)この涅槃界は法性に随順し、法本に乖〈そむ〉かず、法蔵菩薩の大願大行の因力から積集せられ、平等一味にして(性功徳の釈)女人根欠二乗のものも報土に往生すれば直ちに皆清浄無為法身を証得し(大義門功徳の釈)誠に不思議中の不可思議なる報土である(不思議力の釈)。これは弥陀如来の自利利他円満の徳の顕現であって、無量の徳があるからである(自利々他の釈)。かくの如きは実にその源を探ぬれば、如来の大悲本願力の住持し給うに依るのである(不虚作住持の釈)。
更に約言すれば、弥陀の浄土は清浄なる報土であると一括し、進んでこの不可思議の報土は法性に随順するといい、遂に願力成就の報土であることを証成し給うたのである。それで、当巻の終り、私釈に入って、「由選択本願之正因成就真仏土(選択本願の正因により真仏土を成就す)」と宣うたのである。『入出二門偈』の初めに「此中仏土不思議、・・・大願業力所成就(この中の仏土不思議に、・・・大願業力の成就するところなり)」とあるはこれと同じ説き明かし方である。
三。清浄功徳の釈を先に「証巻」会本六の十丁に引かれてある(第二巻七二五頁)。あそこでは、上の諸文を総括〈すべくく〉って最後に置かれて、極楽へ往生する人は清浄にして煩悩を断ぜずして涅槃を得ると、人に就いて清浄を示してあるのである。今茲では『論註』引用の六文の総文として最初に引いたのであるが、「証巻」に引用せられた場合と異なり、浄土の土体の清浄なすがたを証成せられたのである。
四。不虚作住持の釈文も、「行巻」会本三十一丁に引用せられてあるが(第一巻七一七頁)、其処では一乗海の釈に備え、名号の利益の証文として引いてあるのである。今は仏本願力の四字が要用であるので、前にいう通り、本願力の成就報土であることを示すのである。
『讃弥陀偈』の引用文のことは、其の下の余義に於いて更にいうであろう。
(3-113)
又言正道大慈悲出世善根生此二句名荘厳性功徳成就 乃至 性是本義言此浄土随順法性不乖法本事同華厳経宝王如来性起義又言積習成性指法蔵菩薩集諸波羅密積習所成亦言性者是聖種性序法蔵菩薩於世自在王仏所悟無生忍爾時位名聖種性於是性中発四十八大願修起此土即曰安楽浄土是彼因所得果中説因故名為性又言性者是必然義不改義如海性一味衆流入者必為一味海味不随彼改也又如人身性不浄故種種妙好色香美味入身皆為不浄安楽浄土諸往生者無不浄色無不浄心畢竟皆得清浄平等無為法身以安楽国土清浄性成就故正道大慈悲出世善根生者平等大道也平等道所以名為正道者平等是諸法体相以諸法平等故発心等発心等故道等道等故大慈悲等大慈悲是仏道正因故言正道大慈悲慈悲有三縁一者衆生縁是小悲二者法縁是中悲三者無縁是大悲大悲即是出世善也安楽浄土従此大悲生故故謂此大悲為浄土之根故曰出世善根生。
【読方】又、正道の大慈悲は出世の善根より生ずといえり。此の二句は荘厳性功徳成就と名づく。乃至 性はこれ本の義なり。いうこころはこの浄土は法性に随順して法本にそむかず。事華厳経の宝王如来の性起の義におなじ。またいうこころは積習して性をなす。法蔵菩薩をさす。諸波羅密をあつめて積習して成ぜるところなり。また性というはこれ聖種性なり。はじめて法蔵菩薩、世自在王仏のみもとにして無生忍をさとる。爾時のくらいを聖種性となづく。この性の中にして四十八の大願をおこして、この土を修起したまえり。すなわち安楽浄土という。これかの因の所得なり。果のなかに因をとく。かるがゆえになづけて性とす。また性というはこれ必然の義なり。不改の義なり。海の性一味にして、衆流入るものかならず一味となりて、海の味わい彼にしたがいて改まらざるがごとし。また人身の性不浄なるがゆえに、種々の妙好色香美味、身にいりぬればみな不浄となるがごとし。安楽浄土はもろもろの往生の者、不浄の色なし。不浄の心なし。畢竟してみな清浄平等無為法身をえしむ。安楽国土清浄の性成就したまえるをもっての故なり。正道の大慈悲は出世の善根より生ずというは、平等の大道なり。平等の道をなづけて正道とするゆえは、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるを以ての故に発心ひとし。発心ひとしきがゆえに道ひとし。道ひとしきがゆえに大慈悲ひとし。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに。正道大慈悲といえり。慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三には無縁、是大悲なり。大悲はすなわちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるが故なればなり。故にこの大悲をいいて浄土の根とす。かるがゆえに出世善根性というなり。
【字解】一。法性 諸法の体性。真如のこと。
二。法本 諸法の根本。
三。『華厳経』宝王如来生起義 旧訳『華厳経』第三十四巻に宝王如来性起品あり。一切万象の性起を説いてある。「宝」は摩尼宝珠、宝を出すこと自在であるから「王」の字を添える。「王」字に自在の義があるからである。万有が性より顕われるのもこのようであるから「宝王」をとって喩としたのである。「性」と「如」とは真理、「起」と「来」とはその用である。故に如来と性起と全く同一である。弥陀の浄土の性起の義は之と同じであるというのである。
四。諸波羅密 布施、持戒等の六波羅蜜等の功徳行をいう。
五。聖種性 菩薩十地の位を指すのであるが、今は十地中の初地を云う。即ち修道位の方面からこの性を釈したのである。
【文科】『論註』性功徳の文によりて安楽浄土の性功徳を顕示し給う。
【講義】又曰く「正道の大慈悲は、出世の善根より生ず」という此の二句は荘厳性功徳成就と名づける。乃至
この中「性」とは根本という義である。安楽浄土は真如法性の理に随順し、法の根本に乖かない。即ち諸法の玄底に触れて自ずと性起した仏土である。『華厳経』第三十四巻(旧訳)に説かれたる宝王如来性起の義と同じいのである。彼処には万有の性起が説かれてある、宝の王たる如来宝珠が自然に一切に宝を生むが如く真理の玄底から万有の性起することを明かすその性起が即ち如来である。これ法の自性たる真理の活躍する光景であるからである。今安楽浄土はこの法性から性起したことを表わして性功徳成就というたのである。
又性というは積習の義である。それは法蔵菩薩を指す。菩薩は諸の因行の功徳たる六波羅蜜を集めて、この浄土を建立せられた。この意味に於いて性は修行によりて積みたる功徳の謂いとなる。
性は法性性起の義とは法の不変絶対なる先天性に就いて表わし、今の積習の義とは努力によりて起った後天的の功徳力を指す。但し是は両面より述べたるもので一体の両面とも云うべく、離すことは出来ない。
又性というは聖種性のことである。即ち菩薩初地の位を指す。これは法蔵菩薩が最初、世自在王仏の所にありて無生忍の証を得たが、それは初地の位であった。この初地の聖種性の中に四十八の大願を発して、此の安楽浄土を修行によりて建立せられたのであるから、この浄土は実に彼の因位の聖種性の生んだ結果である。今この建立せられた浄土という果から眺めて見ると、この聖種性は因である。それ故にその因を性と名づけたのである。
又性は必然の義である。不改の義である。例えて云えば海の性としてどれ程沢山な河が注いでも、一度海に入れば皆一味鹹水となって仕舞う。かように海水が自然に衆流を呑んで一味となし、決して衆流によって其の性を変えないという所が性の性たる特質である。又人身の性はもと不浄なものであるから、どれ程妙好に香ばしい種々の美味でも、一度人体の中に入ると皆不浄となるようなものである。
これと同様に安楽世界は、諸の往生する人達はいかなる不浄な人でも、一度往生すれば不浄の身もなく、不浄の心もない。すっかり清浄にして平等なる無為法身を成就せしむる。安楽国土が清浄の性を成就しておるというのは、是をいうのである。
「正道の大慈悲は、出世の善根より生ず」というのは、平等の大道ということである。平等の道を正道と名づくる所以は、この平等ということは単に差別を離れているという意味ではなく、是は一切諸法の本体の相を言い表したのである。諸法の表面は千差万別であるが、その根本に探り入ると普通平等の一味の相を知見することが出来るのである。如来は実にこの諸法の根本たる平等に順じて大願を起こされたものであるから、其の発願は亦平等である。この因位の発願が平等であるから、それによりて得たる菩薩の智慧も亦平等である。この智慧が平等であるからそれから起る大慈悲心も亦無縁平等の大慈悲である。そして此の大慈悲は仏道に至るの正因である。それ故に正道の大慈悲と云われたのである。
そもそも慈悲に三縁の慈悲がある。一には衆生縁、これは衆生を縁じて起こす慈悲で、凡夫及び有学の二乗(声聞、縁覚)の人達が起こす小悲である。二は法縁、是は無学果の二乗、及び初地の位に入らぬ菩薩の起こす慈悲で、衆生という仮名の上ではなく、その衆生を組み立てている心身たる五薀(色、受、想、行、識)を縁じて起こすので、是を中悲と名づける。三は無縁、是は地上の菩薩が空理を観じて起こす慈悲である。更に仏の自然に現ずる大慈悲を指す。是を大悲と名づける。この大悲が迷いの世界を超越する善根である。安楽浄土は如来の大慈悲心より生まれたものであるから、此の大悲を指して浄土の根本となすのである。故に偈に「出生善根生」というたのである。
(3-119)
又云問曰尋法蔵菩薩本願力及龍樹菩薩所讃皆似以彼国声聞衆多為奇此有何義答曰声聞以実際為証計不応更能生仏道根芽而仏以本願不可思議神力摂令生彼必当復以神力生其無上道心譬如鴆鳥入水魚蚌咸死犀牛触之死者皆活如此不応生而生所以可奇然五不可思議中仏法最不可思議仏能使声聞復生無上道心真不可思議之至也
【読方】またいわく問うていわく、法蔵菩薩の本願力および龍樹菩薩の所讃をたずぬるに、皆かの国に声聞は衆多なるをもって奇とするににたり。これなんの義がある。答えていわく、声聞は実際をもって証とす。計るにさらによく仏道の根芽を生ずべからず。しかるを仏本願の不可思議の神力をもって、摂してかしこに生ぜしむるに、必ずまさにまた神力をもって、それをして無上道心を生ぜしむべし。たとえば鴆鳥水にいれば、魚蚌ことごとく死す。犀牛これにふるれば、死するもの皆よみがえるがごとし。此の如く生ずべからずして生ぜしむ。このゆえに奇とす。しかれば五不可思議のなかに、仏法もっとも不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまう。まことに不可思議のいたりなり。
【字解】一。龍樹菩薩 梵語ナーガルジュナ(Nagarjuna) 龍猛とも意訳す。紀元二世紀に南印度に生まれ、大いに大乗仏教を宣揚し、『大智度論』百巻、『十住毘婆娑論』十七巻、『中論』四巻等を著わし、又『十二礼』『易行品』等に弥陀本願を宣べられた。(『第二巻』七五三頁に委し。)
二。鴆鳥 一種の毒鳥。蛇を食するという。この鳥の羽をもって酒に浸せば毒酒となる。
【文科】『論註』大義門功徳の文によりて如来の威神功徳を顕わし給う。
【講義】又曰く、問う、法蔵菩薩の本願力即ち声聞無数の願と及び龍樹菩薩の易行品に讃嘆せらるる所によりて調べて見るに、彼の安楽国土には声聞の数が甚だ多いのは奇態な現象と云わねばならぬ。此にはどういう義があるのであるか。
答う。誠に声聞は自利一方の灰身滅智の証りに堕して、再び自利利他満足の仏道を生むことはないのであるが、阿弥陀仏は不可思議の威神力を現わして彼等声聞を摂め取りて、極楽に生ぜしめ、そしてまた神力をもって無上菩提心を起しめ下さるのである。例えば鴆という毒鳥が水の中へ入ると、魚や蚌等が悉くその毒に中〈あた〉りて死ぬが、犀牛がそれに触れると、死んだものが皆活き返るようなものである。かような大乗涅槃界の極楽へはどうしても生まれることの出来ない声聞を生まれしめるのは、実に浄土の奇特相である。所が五つの不思議の中に、仏法が最も不思議である。それであるから、阿弥陀仏が声聞をして大菩提心を起さしむるので、真に不可思議の至極である。
【余義】一。「仏以本願不可思議神力摂令生彼、必当復以神力生其無上道心(仏、本願の不可思議の神力をもって、摂してかしこに生ぜしむるに、必ずまさに復神力をもって、それをして無上道心を生ぜしむべし)」の文について、二つの解釈がある
一は、初めの「本願不可思議神力」というを第十九願にとり、「令生彼」の彼を方便化土となし後の「神力」を第十八願にするので、先ず第十九の願力を以て方便化土に生ぜしめて、然る後に第十八の願力を以て無上道心を起さしめて報土に引用せしめるというのである。
二は、初めの「本願不可思議」の神力も後の「神力」も第十八願にとり、「令生彼」の彼を報土となし、第十八の願力を以て真実報土に往生せしめ給う。その報土に往生せしめ給うについては、必ず現生に於いて、横超他力の菩提心を獲さしめ給うと解するのである。この時の「復」は願力を以て報土に往生せしめ給うが、その上のまた往生の正因たる信心まで他力回向と与えて下されるのであるというのである。
この二解の中、後の解の正しいことはいうまでもない。何故なら曇鸞大師の所謂大義門功徳というは、真実報土の功徳であるからである。その上に我が聖人はこの文の御点を「摂して彼に生ぜしむるに必ず」となし給うてあるからである。
(3-122)
又云不可思議力者総指彼仏国土十七種荘厳功徳力不可得思議也諸経説言有五種不可思議一者衆生多少不可思議二者業力不可思議三者龍力不可思議四者禅定力不可思議五者仏法力不可思議此中仏土不可思議有二種力一者業力謂法蔵菩薩出世善根大願業力所成二者正覚阿弥陀法王善住持力所摂
【読方】またいわく、不可思議力というは、すべてかの仏国土の十七種荘厳功徳不可得思議なることをさす。諸経にときてのたまわく、五種の不可思議あり。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には龍力不可思議、四には禅定力不可思議、五には仏法力不可思議なり。このなかに仏土不可思議に二種の力あり。一には業力、いわく法蔵菩薩の出世の善根と大願業力の所成なり。二には正覚の阿弥陀法王のよく住持力をもって摂したまう所なり。
【文科】『論註』不思議力の文によりて浄土の不思議力を釈成し給う一段。
【講義】又曰く、不可思議力とは、総じて彼の安楽浄土の依法十七種荘厳の功徳力が、思慮分別を超えていることを指すのである。この不思議について『華厳経』等の経中に五種の不可思議を説いてある。一は衆生多少不可思議、衆生無辺にして成仏するも成仏せずとも増減なきとの不可思議をいう。二は業力不可思議、衆生の複雑多様なるは皆業力の然らしむる所で、不可思議であるということ。三は龍力不可思議、龍が一滴の水をもって四天下に雨ふらすことの不可思議なること。四は禅定不可思議、禅定により数百年も肉身を維持し又は神通を現ずる等の不可思議なること。五は仏法力不可思議、諸仏の証りの境界智慧、徳相の深遠広大なるその不可思議なること。
この第五の不可思議の中の仏土の不可思議に二種の力がある。一は業力、是は法蔵菩薩が因位に起こしたる無漏の功徳善根、即ち四十八の大願業力によりて成就〈できあが〉った仏土であること。二は其の願成就して正覚を得た阿弥陀法王の神力によりてよく住持〈たも〉ち給う力の摂むる仏土であるということ。即ち安楽浄土は分けて云えば因果二力、合わせて云えば如来の大威神力によりて住持せらるる仏土であるというのである。
(3-124)
又云示現自利利他者略説彼阿弥陀仏国土十七種荘厳功徳成就示現如来自身利益大功徳力成就利益他功徳成就故言略者彰彼浄土功徳無量非唯十七種也夫須弥之入芥子毛孔之納大海豈山海之神乎毛芥之力乎能神者神之耳
【読方】またいわく、自利利他を示現すというは、略してかの阿弥陀仏の国土の十七種の荘厳功徳成就をときて、如来の自身利益大功徳力成就と、利益他功徳成就とを示現したまえるがゆえにとのたまえり。略というは、かの浄土の功徳無量にしてただ十七種のみに非らざることをあらわす。それ須弥を芥子にいれ毛孔に大海をおさむ。あに山海の神ならんや。毛芥のちからならんや。能神の者〈ひと〉の神ならくのみと。
【文科】『論註』自利々他の文によりて、如来の自利々他の意義を顕示し給う。
【講義】又曰く、阿弥陀如来が自利と利他の相を示現すということに就いて、彼の安楽国浄土の依報十七種荘厳の功徳が成就せられてあることが説かれてある。是は阿弥陀如来御自身を利する所の所謂自利の功徳力が成就せられてあることと、衆生化益の利他の功徳力が成就せられてあることが示されてあるからである。即ち此の依報十七種荘厳は、如来の自利々他の表現である。故にこの荘厳の意義を知るということは、如来の自利々他を知ることである。
ここに「略」というたのは、浄土の功徳無量にして決して十七種だけではないということを彰わすのである。併し之を裏から云えば、この略して挙げた十七種荘厳の中に、あらゆる浄土の荘厳が摂められてあることを意味するのである。あの経文に説かれてある大須弥山が芥子粒の中に入るとか、毛孔の中に大海を納めるということがそれで、あれは山や海に左様な神力があるのでもなければ、又は毛や芥子粒に力用があるのでもない。全く威神不可思議境に通達したる仏菩薩の威神解脱力のいたす所である。かように、無量の浄土の功徳荘厳は十七種荘厳に摂まり、十七種荘厳は如来の自利々他の徳に結帰するのである。
(3-126)
又云何者荘厳不虚作住持功徳成就偈言観仏本願力遇無空過者能令速満足功徳大宝海故不虚作住持功徳成就者蓋是阿弥陀如来本願力也 乃至 所言不虚作住持者依本法蔵菩薩四十八願今日阿弥陀如来自在神力願以成力力以就願願不徒然力不虚設力願相符畢竟不差故曰成就 抄出
【読方】また云わく、なにものか荘厳不虚作住持功徳成就、偈に仏の本願力を観〈みそな〉わすに、遇〈もうお〉うてむなしくすぎるものなし。よく功徳大宝海を満足せしむるがゆえにとのたまえり。不虚作住持功徳成就というは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。(乃至)いうところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによりてなり。願もって力を成ず。力をもって願につく。願徒然ならず。力虚設ならず。力願あいかなうて畢竟してたがわず。かるがゆえに成就という。抄出
【文科】『論註』不虚作住持功徳の文によりて、如来の願力の虚しからざることを釈成し給う。
【講義】又云わく、不虚作住持功徳成就という荘厳はどういうものであるか、それは『浄土論』の偈文に、「仏の本願力を見奉れば、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむるが故に」というてある。弥陀如来が不虚作住持の功徳を成就せられたということは是の意味である。即ち虚作〈むだごと〉ならず、金剛の堅さをもってしっかりと吾々を懐き取って下さるということは、阿弥陀如来の本願力を指すのである。
いう所の虚作〈むだごと〉ではなく、確乎〈しっかり〉と大地のように我々を住持して下さることは、弥陀如来の因位に於ける四十八の誓願と、今日その願円〈まどか〉に成就した無碍自在の威神力とに依るのである。我々を救済〈たす〉けずばおかぬという因位の誓願によりて、果上の大威神力が成就〈できあが〉り、果上の威神力によりて又因位の誓願の空しからぬことが表われるのである。故に其の誓願を徒然〈いたずらごと〉でない、其の威神力も虚設〈むだごと〉でない。果上の威神力と因位の誓願とは、まるで割符を合わせたようにピタリと相応して少しも差〈ちが〉うことはない。本願の広大なることを知れば、果上の威神力の不可思議なることが理解〈わか〉り、その威神力の広大なることによりて、因位の誓願の不可思議なることが知らるるのである。この力は二にして一つ、一にして而も二、両々相俟って如来の威神力が表現〈あら〉われる。因と果が円現せられてあるから成就というのである。抄出
第二科 『讃阿弥陀偈』の文
(3-127)
讃阿弥陀仏偈曰 曇鸞和尚造 南無阿弥陀仏 釈名無量寿傍経奉讃亦曰安養 成仏已来歴十劫寿命方将無有量法身光輪遍法界照世盲冥故頂礼智慧光明不可量故仏又号無量光有量諸相蒙光暁是故稽首真実明解脱光輪無限斉故仏又号無辺光蒙光触者離有無是故稽首平等覚光雲無碍如虚空故仏又号無碍光一切有碍蒙光沢是故礼難思議清浄光明無有対故仏又号無対光遇斯光者業繋除是故稽首畢竟依仏光照耀最第一故仏又号光炎王三塗黒闇蒙光啓是故頂礼大応供道光明朗色超絶故仏又号清浄光一蒙光照罪垢除皆得解脱故頂礼慈光遐被施安楽故仏又号歓喜光光所至処得法喜稽首頂礼大安慰仏光能破無明闇故仏又号智慧光一切諸仏三乗衆咸共嘆誉故稽首光明一切時普照故仏又号不断光聞光力故心不断皆得往生故頂礼其光除仏莫能測故仏又号難思光十方諸仏嘆往生称其功徳故稽首神光離相不可名故仏又号無称光因光成仏光赫然諸仏所嘆故頂礼光明照曜過日月故仏号超日月光釈迦仏嘆尚不尽故我稽首無等等 乃至
【読方】讃阿弥陀仏偈にいわく(曇鸞和尚の造) 南無阿弥陀仏(釈して無量寿と名づく。経に傍てほめたてまつりて亦安養という)。成仏よりこのかた十劫をへたまえり。寿命まさにはかりあることなけん。法身の光輪法界に遍して、世の盲冥をてらす。かるがゆえに頂礼したてまつる。智慧の光明はかるべからず。かるがゆえに仏をまた無量光と号す。有量の諸相光暁をこうむる。このゆえに真実明を稽首したてまつる。解脱の光輪限斉なし。かるがゆえに仏をまた無辺光と号す。光触をこうむるもの有無をはなる。このゆえに平等覚を稽首したてまつる。光雲のごとくにして、無碍なること虚空のごとし。かるがゆえに仏をまた無碍光と号す。一切の有碍、光沢をこうむる。このゆえに難思議を頂礼したてまつる。清浄光明対あることなし。かるがゆえに仏をまた無対光と号す。この光に遇うものは業繋のぞこる。このゆえに畢竟依を稽首したてまつる。仏光照耀して最大一なり。仏をまた光炎王と号す。三塗の黒闇、光啓をこうむる。このゆえに大応供を頂礼したてまつる。道光明朗にして色超絶したまえり。かるがゆえに仏をまた清浄光と号す。ひとたび光照をこうむるに罪垢のぞこり、みな解脱をえしむ。かるがゆえに頂礼したてまつる。慈光はるかにかぶらしめ、安楽を施す。かるがゆえに仏を歓喜光と号す。光の至る所の処に法喜をえしむ。大安慰を稽首頂礼したてまつる。仏光よく無明の闇を破す。かるがゆえに仏をまた智慧光と号す。一切諸仏三乗衆ことごとくともに嘆誉す。かるがゆえに稽首したてまつる。光明一切のとき普くてらす。かるがゆえに仏をまた不断光と号す。聞光力のゆえに心不断にてみな往生をえしむ。かるがゆえに頂礼したてまつる。その光、仏をのぞきてはよく測ることなけん。かるがゆえに仏をまた難思光と号す。十方諸仏往生を嘆じ、その功徳を称ぜしむ。かるがゆえに稽首したてまつる。神光は相をはなれたること名づくべからず。かるがゆえに仏をまた無称光と号す。光によりて成仏したまう。光赫然として諸仏の嘆じたまうことあり。かるがゆえに頂礼したてまつる。光明照耀して日月にすぎたり。かるがゆえに仏を超日月光と号す。釈迦仏嘆じたまうことなおつきず。かるがゆえに無等等を稽首したてまつる。乃至
【字解】一。讃阿弥陀仏偈 梁の曇鸞大師の著、『大無量寿経』によりて、弥陀の浄土の依正二報、並びに主伴荘厳を讃詠す。凡て百五十五行。光彩迸〈ほとばし〉り、流麗流るるが如き宗教的讃歌である。
二。安養 極楽、安楽、楽有、等みな須摩提の訳である。弥陀の浄土をいう。
三。三塗 火塗(地獄)、血塗(畜生)、刀塗(餓鬼)の称。三悪趣に同じ。
【文科】『讃阿弥陀仏偈』の文によりて如来の威神光明を讃嘆し給う。
【講義】曇鸞和尚の作たる『讃阿弥陀仏偈』に曰く、南無阿弥陀仏(此の書を『無量寿傍経』と名づける。それは『大無量寿経』に傍う所の云わば副経ともいう意。又浄土の荘厳を讃じたのであるから『安養偈』ともいう)。
阿弥陀如来成仏し給いしよりこのかた十劫の久しきに及び給う。そのおん寿命は限りない。法身の光輪は全法界に普く行き亘りていたらぬ隈もなく、心の盲たる人々を照らし給うこの故に彼の如来を頂礼し奉る。
如来の智慧光は無限にてまします。故に無量光仏とも名づけ奉る。あらゆる有情も一切万象も、皆如来の光暁を蒙って居る。故に我、真実明〈みほとけ〉に稽首〈ぬかづ〉き奉る。
迷妄を離れた解脱の光輪はきわみない。故に又この如来を無辺光仏と号づけ奉る。この光明に触るる人々は自ずと迷いの計らいたる有(徒なる肯定)無(徒なる否定)の邪見を離れることが出来る。故に我が平等覚に稽首〈ぬかづ〉き奉る。
み光りは暁の雲の如く輝き、何物にも碍えられぬことは大虚空のようである。ゆえに無碍光仏と号づけ奉る。有情非情の別ちなく、一切の有碍みな光りの恩沢に浴し奉る。是故に我が難思議を頂礼し奉る。
清浄の光明は世に対比するものはない。故に無対光仏と号づけ奉る。この光明に遇う者は、あらゆる悪行の繋が除かれる。是故に畢竟依(おんづまりの帰依所たる如来)に稽首し奉る。
如来の光明の照輝は最尊第一にまします故に光炎王仏と号づけ奉る。三塗苦悩の黒闇も破れて、光啓は朗らかに輝き給う。この故に我が大応供(仏十号の一、人々の供養を得るに値する有徳者の意)を頂礼し奉る。
菩提の光、明朗〈ほがらか〉にして其の色一切に超絶〈こえすぐ〉れ給う。故に又清浄光仏と号づけ奉る。一度光照にあずかれば、罪も垢も自然に除かれて、皆罪業の因から解脱せられる。故に頂礼し奉る。
慈光はるかに十方の国々にこうむらしめて、大安楽を与え給う、故にこの仏を歓喜光仏と号づけ奉る。御光りの至る処には、人々みな法の喜びを得て、心身の踴躍を覚える。故に我が大安慰を稽首し奉る。
弥陀の光明は能く衆生のあらゆる疑惑無明の闇を破り給う故に、智慧光仏と名づけ奉る。十方の一切諸仏菩薩、声聞、縁覚の方々は、咸く共に弥陀の光明を嘆誉〈ほめたた〉え給う。故に我稽首し奉る。
その光明は亦一切の時に亘りて休みなく照らし給う故に、不断光仏と号づけ奉る。如来の智慧光の力に触れる者は、その聞信の一念同時に、即得往生の身に定められる。故に我頂礼し奉る。
その光明は如来を外にしては、能く測り知ることは出来ぬ。故に弥陀仏を又難思光仏と号づけ奉る。十方の諸仏は、その光明威神力によりて然らしむる衆生の往生を歎え、弥陀の功徳を称讃し給う。故に稽首し奉る。
威神不可思議の光明は、差別の相を離れておるから、説示することは許さぬ、故に又無称光仏と号づけ奉る。光明無量の本願によりて成仏し給いしことであれば、その光明は赫然として十方を照輝し、一切諸仏の歎称し給う所である。故に頂礼し奉る。
熾んに照らし給う光明は、日月の光りにも超え勝るるをもって超日月光仏と号づけ奉る。釈尊之を称歎して百千万劫を経ても説き尽くすことは出来ぬと仰せらるる故に我等しきものなき御仏を稽首し奉る。
【余義】一。茲に『讃阿弥陀仏偈』の三ヶ所の文が引いてある。一は題釈の十九字、二は『同偈』初丁以下三丁にいたる文、三は十五丁龍樹菩薩を讃し、自身の安心を告白なされる文である。三文総じて仏身を証成なされるための御引用であることは前にも曰った通りである。然し茲ではもう少し委しく説明して置かねばならなぬことがある。
第一の題釈の十九字の前に曇鸞和尚造の五文字があるが、これは聖人自ら書き入れ給うたものか、或は後人の竄入したものか、一寸解からない。たしかに『御草本』では前の『論註』の文の「畢竟不差」から「亦曰安養」というまでが虫食みの為に不明になっている筈である。皆往院師はこの五文字は後人の置く所とはっきり言っておられるが強ちにばかりも曰われまいと思う、現に『和讃』には「讃阿弥陀仏偈曰」としてその下に『曇鸞御造』としてある。それでもしこの五文字が聖人の自ら置き給うたものとすれば、茲にそれだけの特別の意味がなければならぬが、これは、一は讃偈として古くは『十二礼』あり、近くは『住生礼讃』等あり、それらに簡んで曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』なることを示し、一は、古来この『讃阿弥陀仏偈』について、偽作云々の説があるから聖人は自身真選なることを信ずる旨を、この五文字に寄せて顕わし給うたものであるまいか。
二。次に題釈の十九字と次の讃頌は一連にしてみるべきものである。南無阿弥陀仏の六字は所讃の体を挙げたもの、換言すれば、『讃阿弥陀仏偈』の阿弥陀仏とは、南無阿弥陀仏であると断ったのである。以下はこの如来の仏身の徳を讃嘆したものである。
割注の十三字は解釈に甚だ困難する。一体『讃阿弥陀仏偈』そのものからすれば、「釈して無量寿と名づく。経に傍えて讃し奉る。亦安養と曰う」と読むが至当であろうと思う。『安楽集』下十九丁「是故曇鸞法師正意帰西故傍大経奉讃云々(是の故に曇鸞法師の正意、西に帰するが故に大経に傍えて奉讃したてまつる云々)」の指南から見るとどうしてもこうなければならぬ。「亦曰安養」の四文字は『六要鈔』鈔主の云わるる如く、有無、諸本に依って異なるとすれば、寧ろ茲にあるべき文字ではない。一体もとへもどしていうと「釈名無量寿」は阿弥陀の傍註であり、「傍経奉讃」は偈の傍註、「亦曰安養」は安楽国の傍註であったのを後世誤ってまとめて南無阿弥陀仏の下へ書き入れて仕舞ったのである。或る先輩は、これを「釈して無量寿傍経奉讃と名づく。亦安養(偈)と曰う」と読んで居られるが、矢張り無理である。
釈の字が邪魔になったり、異名ならば、南無阿弥陀仏の上にあるべきことと思われるのである。それで『讃阿弥陀仏偈』そのものの上について云えば、矢張り『安楽集』の御指南に従うが当然であると思う。然し我が聖人は所謂随宜転用で、いか様にも読方を書いて自分の思う様に意味までも御改めになるのだから、今茲では聖人の改め給うた様にして味おうて行かねばならぬことは勿論である。
それでは聖人はこれを如何に改め給うたか。前にもいう様に不幸にして『御草本』のこの個所が不明になっているのだから甚だ進退に窮する。ただ『唯信鈔文意』十九丁に「曇鸞大師はほめたてまつりて、安養ともうすとのたまえり」とあるから、ここの御点も或は現行本の如く「釈して無量寿傍経と名づく。讃め奉りて亦安養と曰う」となされたかもしれぬ。然し『御和讃』の御点は「釈名無量寿傍経奉讃亦曰安養(釈して無量寿と名づく。経に傍て奉讃したてまつり、また安養という)」とあるから、どうもどちらとも断定がつかない。茲に暫く欠疑に付して、現行の点読の様にして解して行くより道はない。
それで、「釈して無量寿傍経と名づく」と曰うは『讃阿弥陀仏偈』の異名を挙げたこととなる。讃め奉りて亦安養と曰うというは、我が祖の御心持ちでは『唯信抄文意』にもある通り「讃めて安養と曰う」という語がうれしく感せられたのではなかろうか。当巻は「真仏土巻」である。この真土を奉讃して安養と云うのである。こういう具合に証誠されたものと思う。勿論この『讃弥陀偈』の引用文全体は仏身の証文であるが、其処は所謂依正不二で、仏身の証文の中に依報讃嘆の語の加わってある所に妙味があるのである。
三。正しく偈頌の中、初めの四句は総句である。寿命無量光明無量を讃美し、後の全句は別句であって十二光を挙げて、光明の徳を嘆美なされるのである。
四。『讃阿弥陀仏偈』の引用文中、別讃龍樹の文は次へ至って余義に更に説明することとする。
(3-136)
本師龍樹摩訶薩誕形像始理頽綱関閉邪扇開正轍是閻浮提一切眼伏承尊語歓喜地帰阿弥陀生安楽我従無始循三界為虚妄輪所回転一念一時所造業足繋六道滞三塗唯願慈光護念我令我不失菩提心我讃仏慧功徳音願聞十方諸有縁欲得往生安楽者普皆如意無障碍所有功徳若大小回施一切共往生南無不可思議光一心帰命稽首礼十方三世無量慧同乗一如号正覚二智円満道平等摂化随縁故若干我帰阿弥陀浄土即是帰命諸仏国我以一心讃一仏願遍十方無碍人如是十方無量仏咸各至心頭面礼 已上抄出
【読方】本師龍樹摩訶薩、形を像始に誕ず。頽綱を理〈おさ〉め、邪扇を関閉し、正轍をひらく。これ閻浮堤の一切の眼なり。尊語を伏承し、歓喜地にして阿弥陀に帰し安楽に生ず。われ無始より三界にめぐりて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業足六道につながれ、三塗にとどまる。ややねがわくは慈光護念して、我をして菩提心を失せざらしめたまえ。われ仏慧功徳のこえを讃ず。ねがわくは十方のもろもろの有縁にきかしめて、安楽に往生することを得んと欲わんもの、普く皆意のごとくして障碍なからしめん。あらゆる功徳、もしは大小一切に回施して、ともに往生せしめん。不可思議光に南無し一心に帰命し、稽首し礼したてまつる。十方三世の無量慧、おなじく一如に乗じて正覚と号す。二智円満して道平等なり。摂化すること縁にしたがう。まことに若干〈そこばく〉ならん。われ阿弥陀の浄土に帰するは、すなわちこれ諸仏の国に帰命するなり。われ一心をもって一仏を讃す。ねがわくは十方無碍人に遍ぜん。かくのごとき十方無量仏、ことごとくおのおのの心をいたして頭面に礼したてまつるなりと。 已上抄出
【字解】一。閻浮堤 梵音ヂャンブ、ドヰーパ(jambudvipa)、穢州、勝全州等と訳す。須弥四州の一。須弥山の南方に突出して北広く南狭し。古代印度人が、雪山を理想化して須弥山とし、印度を廓大して南閻浮堤として吾等の住む世界としたのである。
二。六道 六趣に同じ。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。「趣」は業によりて趣き住む処の意にて結果について名を立て、「道」は其処へゆくべき道という意にて原因について名をたてたのである。
【文科】『讃阿弥陀仏偈』の文によりて龍樹菩薩を讃じ鸞師の自督をあげ給う一段。
【講義】本師龍樹大菩薩は形像を像法の始めに示現してさながら頽〈くず〉――は音徒回の反し、タイ。訓は崩れる、破(波は破と同音の故に)れる、落ちる、纏わる――れかかって纏わり乱れた仏法の綱要〈かなめ〉を正し理〈おさ〉め、邪教の扇を塞ぎ閉じて之を征服し、正法輪の進むべき軌徹――徹は音直刹の反し、テツ。訓は通ること、車跡の意――を開いた。是によりて大法は水の流れるように四方に宣伝せらるるに至った。この菩薩こそ実に閻浮提(全世界)に於ける一切の人々の眼というべきである。釈尊が『楞伽経』に懸記せられた予言の御言葉を承り奉りて、自ら歓喜地の位を証り、阿弥陀如来に帰命して、安楽浄土に往生せられた。
我曇鸞は、無始曠劫の古から三界生死の巷を経循り、車に運ばるるように虚妄の業力に回転せられ、念々に造る所の業によりて、心の足は六道に繋がれ、三塗の闇に釘うたる。誠に悲痛の極みである。唯願わくば慈光長しえに我を護念りて、我が胸奥より湧き上がる無上菩提の心を失わざらしめ給え。
我、弥陀如来の智慧と功徳の音声たる名号の謂れを讃嘆へ、普く十方の諸の有縁の人々に聞かしめたいと願うことである。この名号の謂れを聞いて安楽浄土に往生せんと欲う者は、皆意のままにして些〈すこ〉しの障碍もないであろう、如来回向のあらゆる大小の功徳は、凡て是を一切の衆生に回施し与えて、諸共に不可思議光仏を念じ、一身一向に帰命し、稽首し奉る。
十方三世の一切諸仏は、同じく皆真如の理に乗じて正覚を開かれた。根本、後得の二智円に備わりておるから、その智慧徳相は平等にして変わることはない。そして又縁に随いて衆生を化益することも平等にして不可思議である。
故に我弥陀の浄土に生まれんと願うことは、即ちその証りを一にし、智慧を一にせる諸仏に帰命し奉ると同じことである。又我が一心に弥陀一仏を讃嘆えることは、十方一切の無碍人、即ち遍く諸仏を讃め奉ることとなる。それであるから是の弥陀如来と証りを一つにせる十方の数限りなき諸仏に対いて、咸く心を一つにして稽首〈ぬかづ〉き礼し奉ります。
【余義】一。先ず『讃阿弥陀仏偈』に、龍樹菩薩を讃嘆してあることから解釈して進もう『讃阿弥陀仏偈』には、ひとり龍樹菩薩のことをのみ讃嘆してあるが、これは曇鸞大師にとってはいかなる意味を持っているのであろうか。この理由を推考してみるとほぼ下の二つになるようである。
一には、龍樹菩薩が、浄土教の始祖であるから、茲にその相承を示し、鸞師の時代には涅槃宗、三論宗、地論宗などの聖道の教宗が盛んに行われている時で鸞師はこの中にあって他力浄土教を唱道せられたものであるから、随分四方から功難を受けられたが、然し考えてみれば、龍樹菩薩は八宗の祖師と仰がれる人で、身は歓喜地の高位にいながら、猶自力のたのむ可からざるを知って西方を願生しておいでなされる。してみれば、像法初期の聖者でさえ、猶且つ然りとせば、今日の我々が、自力の無効を知って本願他力に帰するは自然の理ではないか、徒らに自分の智解にのみ拘って、根本の出離問題を忘れてはならぬ、自分は遠く龍樹菩薩の化導を仰ぎ、その人格と行持に服して、他力教を信仰するのであるということを示されるのである。鸞師はこういう理由から常に龍樹菩薩を讃仰していられるのである。『論註』に『浄土論』を注釈するに当たって、「謹按龍樹菩薩云々」と書き出してあるのにも、この気持ちは充分に伺われるのである。
二には、この『讃阿弥陀仏偈』は龍樹菩薩の『十二礼』にならったもので、讃偈の体裁を龍樹菩薩に取られたものであるから、その事を示すために、別して龍樹菩薩を讃嘆なされたものである。
二。さて然らば、この文全体は何を証誠せんが為に茲に引用せられたものであろうか。
この文全体の主眼点からいうと、南無不可思議光の七字である。この七字は巻頭の「仏者則是不可思議光如来」の略標に応じ、茲に上の十二光讃を結び、当巻に説き明かさんとする我等の如来を一言にて最も具体的に示し給うのある。十字の尊号と共に我が聖人の最も尊崇し給う九字の尊号は茲に拠るのである。
然らば別讃龍樹の文と、続いて曇鸞大師が自ら信仰を告白し給う文とはいかなる引用の必要があるか、南無不可思議光の文字が必要ならば、その文字若しくば、その附近の文だけ引き給うべきではないか。
云わく別讃龍樹の文はどうも、これという特別の引用の御覚召があるように思われない。「生安楽」と結んであるから、安楽という真土の別名が必要なのかも知れない。又、歓喜地の聖者も転迷開悟のためには、自力を離れて、安楽に生ずる外はないということを示す御覚召かも知れない。多分『和讃』に「像法のときの智人も、自力の諸教をさしおきて、時機相応の法なれば、念仏門にぞいりたまう」とある御心を示すのであろう。
曇鸞大師が信仰を告白し給う文は、その儘が必要なのであろう、即ち茲に便に依って曇鸞大師の信仰を示し給う御覚召であろう。
第二項 善導大師の釈文
第一科 「玄義分」の文
(3-142)
光明寺和尚云問曰弥陀浄国為当是報是化也答曰是報非化云何得知如大乗同性経説西方安楽阿弥陀仏是報仏報土又無量寿経云法蔵比丘在世饒王仏所行菩薩道時発四十八願一一願言若我得仏十方衆生称我名号願生我国下至十念若不生者不取正覚今既成仏即是酬因之身也又観経中上輩三人臨命終時皆言阿弥陀仏及与化仏来迎此人然法身兼化共来授手故名為与以此文証故知是報
【読方】光明寺の和尚ののたまわく、問うていわく、弥陀浄国ははたこれ報なりやこれ化なりとやせん。答えていわく、これ報にして化にあらず。いかんが知ることをうる。大乗同性経にとくがごとし。四方の安楽阿弥陀仏はこれ報仏報土なりと。また無量寿経にのたまわく、法蔵比丘、世饒王仏のみもとにましまして、菩薩の道を行じたまいしとき、四十八願をおこして、一一の願に若しわれ仏をえたらんに、十方の衆生、わが名号を称して我国に生ぜんと願ぜん。しも十念にいたるまで、もし生ぜずば正覚をとらじと。今すでに成仏したまえり。すなわちこれ酬因の身なり、また観経のなかに、上輩三人臨命終時に、みな阿弥陀仏および化仏ともにこの人を来迎すと。しかるに法身、化を兼ねてともに来りて手をさずく。故になづけて与とす。この文証をもってのゆえに知んぬ、これ報なりと。
【字解】一。光明寺和尚 善導大師のこと。師が生涯の多くを長安(陝西省西安府)の西南なる光明寺に過ごされしにより此の名あり。
二。大乗同性経 二巻。又『一切仏行入智毘盧遮那蔵説経』ともいう。周宇文氏天竺三蔵闍那耶舎訳。
三。世饒王仏 梵名ローケーシュワラ、ラーヂャ(lokesvara-raja)の訳。世自在王、世間自在王とも訳せらる。略して世王、饒王ともいう。一切法に於いて自在を得、また世間に利益を施し、衆を饒〈めぐ〉むこと自在なる故に是等の名あり。阿弥陀仏の因位たる法蔵比丘の師仏である。
四。上輩三人 『観経』十六観中の第十四観、即ち上品の三機を指す。上品上生、上品中生、上品下生の三種人をいうのである。
【文科】「玄義分」の文を引いて弥陀の浄土の報化を論定したまう。
【講義】光明寺の和尚、善導大師の云わく。問う、弥陀如来の浄土は、報土であるか、又は化土であるか、報土ならば法性の理に契うた究竟真実の境地であるが、化土ならば未だ真理の玄底に到り届かぬ方便の化城に過ぎない。これは大問題である。
答う、弥陀の浄土は報土であって化土ではない。それがどうして知れるかと云えば、先ず是を経文の上に求むれば、『大乗同性経』に説く「西方の安楽浄土は報土である。即ち其の主仏たる阿弥陀如来は報身仏である」と。又『大無量寿経』には、弥陀如来の因位たる法蔵比丘が、世饒王仏の所へ在して菩薩の修行に取りかかろうとせらるる時に、四十八の大願を発されたが、その一々の願を摂め尽す所の第十八願には「若し我仏となるであろう時、十方のあらゆる衆生が、我が名号を称えて、我が浄土に往生したいと願い、下十声乃至一声でも称えるならば必ず往生することが出来るであろう。若し往生することが出来ないならば、我は証りを開かぬであろう。」この誓願により成仏せられた弥陀如来であるから、実に因位の本願に報い表われた報身如来であることは明らかである。即ち一切衆生の成仏を御自身に引き受けて、自己と同一視せられた誓願は、誠に全法界の底を叩いておるのである。かような大願を満たして成仏せられた如来であるから決して方便化身である筈がない。
更に他の証文を求むれば、『観無量寿経』である。本経の散善三観中、其の上輩(上品上生、上品中生、上品下生)の三人が臨終の時一様に「阿弥陀仏、及与化仏来迎此人(阿弥陀仏および化仏と、此の人を来迎したまう)」というてある。是は明らかに阿弥陀仏が化仏を伴いて来迎し行者に手を授けるという文であるから「与」字があそこに用いられたのである。即ち其の化仏を伴う阿弥陀仏は報仏にてましますことは言を俟たぬことである。
【余義】一。これから、善導大師の文が引かれる。「玄義分」と「序分義」と「定善義」と『法事讃』の文である。「玄義分」の引文には三番の問答があり、法事讃の中からは短いけれども三文引用してある。
この中、「玄義分」の三番の問答は、弥陀如来が報身仏たることを証成し、「序分義」と「定善義」と『法事讃』の始めの二文は西方浄土の真報土たることを証成し、『法事讃』の第三文は報身報土共に弥陀の果徳にして、茲に正しく報身土たる意味を顕わすことを示し給うのである。
二。茲に引用せられている「玄義分」の文は、所謂古今楷定の妙判と称せられるもので弥陀の浄土を是報非化と判定し、凡夫もその儘この報土に往生することを得る義を成立し給うたのである。
今日からすると、我等の欣求する浄土が報土であるとかないとかいうことは、そう大した心霊上の問題にならぬようであるが、善導大師当時にあっては、実に重大な問題であったのである。このことが非常に劇しく論義せられたのである。浄土が応土となったり、又よし報土であっても、凡夫の往生を許されない様な義理が立っては、茲に他力教の成立は不可能に終り、救済を要求する一般民衆の帰嚮点は全然失われて仕舞わねばならない。こういうことは今日教権の弛廃した、自主的精神の高い我々からは予想以上の点があったのである。私共は、聖道の諸教の盛大な、そして教権の極度に緊張していた当時にあって、血の垂るような思いをなしつつ、奮闘の結果、他力浄土教を独立せしめ自立せしめ給うた善導大師に対して無限の尊崇と感謝を払わねばならぬのである。
おおよそ他力の一門においては、釈迦一代の説教いまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議というは、凡夫の報土に生まるるを以てなり『改邪鈔』
この『改邪鈔』の御語のように、もとより浄土教の法相は全然聖道門のそれとは異なり、聖道門の教権に服する必要は少しもないのであるが、然し実際上は高飛車にも出られないから、聖道の諸師に対して、その教権に依って、義を立て、理を推し、遂に古今を階定する妙判をなされたまでの困難と苦心は一方ならぬものであったのである。
聖道門の諸師は多く弥陀如来の身土を応身応土としている。諸師の見る所に依れば、弥陀の浄土は『大経』の所説に依ってみても、凡聖同居士たることは明白であるから、もしこれを報身報土とすれば、凡夫は往生すること能わず、従って凡聖同居という事実が破れることになり、凡聖同居の事実ある以上は応身応土とせねばならぬというのである。浄影大師、天台大師など、当時の教界にあって第一流の人がこの様に判定しているのだから、一寸動かすべからざる勢力となっていたのである。嘉祥大師は本迹二門をたてて迹門から論ずれば酬因でないものはないから報土であり本門からいえば応現の土であると判せられたが、後に至っては応化土と定められてある。独り慈恩大師は報身報土と判定せられたけれども、その代わりに、凡夫はその土に往生することは出来ないときっぱりと断られている。このような具合で、凡夫の往生を許す人は応身応土となし報真報土とする人は、凡夫の往生を許さないということになり、結果は同じいように、他力浄土教の成立を見ることが出来なんだのである。これらの諸師はもとより、その学殖に於いて、又識見に於いて、当時のみならぬ、仏教史上に卓越した位置を有している人であるが、いかんせん、先入見が主となって、自在な霊の眼が開き得ないために、他力教の真髄を捕えることが出来なんだのである。
この時に当って猛然として立って獅子吼せられたのが善導大師である。大師は遠くは三経の聖旨を得、龍樹天親曇鸞の祖意を受け、近くは西河道綽の義を相承して、卓然として是報非化、凡夫入報土の宣言をなされたのである。茲に浄土教の綱格は成立して、民衆の帰嚮点は不動の位置を得たのである。『拾遺古徳伝』にこの大師の功を下の様に叙してある。
浄土宗を立てるこころは、凡夫の報土に生ずることをあらわさんが為なり。その故は天台の教相に依らば、凡夫の往生をゆるすと雖も、身土を判すること至ってあさし。若し法相によらば身土を判することふかしと雖も、凡夫の往生をゆるさず。諸宗の所談まことにたくみなりといえども、すべて凡夫の報土に生ずることを許さず、若し善導和尚の釈義によりて、浄土をたつる時、わずかに一世を念仏によりて、界内麁浅の凡夫たちまちに報土に生ずる義ここにあきらけし。
(3-149)
然報応二身者眼目之異名前翻報作応後翻応作報凡言報者因行不虚定招来果以果応因故名為報又三大僧祇所修万行必定応得菩提今既道成即是応身斯乃過現諸仏弁立三身除斯已外更無別体縦使無窮八相名号塵沙尅体而論衆帰化摂今彼弥陀現是報也
【読方】しかるに報応二身は眼目の異名なり。さきには報を翻じて応となす。のちには応を翻じて報となす。おおよそ報というは因行むなしからず、さだめて来果をまねく。果をもって因に応ず。かるがゆえに名づけて報とす。また三大僧祇所修の万行、必定して菩提をうべし。今すでに道成せり。すなわちこれ応身なり。これすなわち過現の諸仏、三身を弁立す。斯を除きて已外はさらに別の体ましまさず。たとい無窮の八相、名号塵沙なりとも、体を尅して論ぜば、すべて化に帰して摂す。いまかの弥陀、現にこれ報なり。
【字解】一。三大僧祇 三大阿僧祇。三無数劫のこと。菩薩が仏果をうるまでに経る所の修行の年時。
┌─十信 ┐
│ 十住 │
│ 十行 ├──────第一無数劫──七万五千仏を供養す。
五十二位┤ 十回向┘
│ 十地 ┬─初地┐
│ 等覚 │ 乃至├──第二無数劫──七万六千仏を供養す。
└─妙覚 │ 七地┘
│ 八地┐
│ 九地├──第三無数劫──七万七千仏を供養す。
└─十地┘
この三無数劫の修行において仏果をうる因行を成就するのである。これを三祇の修行とも略称す。
二。八相 仏及び菩薩がこの世界に出現して、一生の間に示し給う八種の相をいう。これに大凡そ五説あり。(一)降兜率、託胎、降生、出家、降魔、成道、説法、涅槃。(二)受胎、降生、処宮、出家、成仏、降魔、説法、涅槃。(三)在天、処胎、初生、出家、座道場、成道、転法輪、入涅槃。(四)生天、処兜率天、下天託胎、出胎、出家、降魔、転法輪、入涅槃。(五)住胎、嬰孩、愛欲、楽苦行、降魔、成道、転法輪、入滅。大同小異である。
【文科】「玄義分」の文によりて報応の翻訳の相違等を論じて弥陀の浄土を報土と決したまう。
【講義】然るに或る経文の中に仏身の三身を真身、応身、化身と説いてあるのを、釈家の中には応身という文字に囚えられて、法報二身を真身に摂め、観経の阿弥陀仏はこの応身である、八相成道の応身仏であるなぞと判釈しているが、そは文字に固執する偏見の致す所である。応身といっても、或る場合には報身と同意義である。即ち眼と目は文字は違っていても、体は全く一であるようなもので、前には報身のことを応身と訳し、後にはその意味の応身を訳して報身とした。これは全く翻訳の相違で体は全く報身である。
全体この「報」の意義は、因位の行が虚ならず、定めて来るべき果報を招くということで、之を逆に云えば、果をもって因に応ずること、即ち結果に相応する原因があって、両々相応ずるということである。之を報という。又応ということは、三大阿僧祇の長い間に修めた所の万行の因が、きっと相違なく正覚を得べし(応)という確信の下に修行したのが今既に満足して正覚が得られた。是が即ち応身という意味である。この意味に於いて報と応とは全く同じである。
過去現在の諸仏が、仏身を弁別して建立せらるるに三身門をもってせられたのは全くこの意味である。この三身の外に決して別の仏体はましまさぬ。たとい八相成道に無限の様式があり、そして其の仏名は塵沙の如く限りないにしても、其れを体に結帰して論ずれば、皆化身に摂まるのである。然るに今弥陀如来はこの世に八相成道せられた仏ではない。正しく因位の大願に酬い表われた仏であるから報身仏にてましますのである。
【余義】一。この「報応は眼目の異名」という下は、浄影大師が弥陀如来を応身とせらるるを破したものだる。そして報応が一の異名だというのも翻訳に対する議論であって三身門の応身が報身と一つだというのではない。
『浄影大師観経疏』末に、
次時去時、見仏不同、仏具三身、一者真身、謂法与報、二者応身、八相現成、三者化身、随機現起、依如大経上品之人見仏応身而来迎接、中品見化、下品夢覩、不弁化応真身常寂無迎接相(次時去る時、仏を見たてまつること同じからず、仏は三身を具す、一には真身、謂く法と報となり、二には応身、八相現成なり、三には化身、機に随いて現起す、大経の如きに依れば上品の人は仏の応身来たりて迎接せるを見る、中品は化を見る、下品は夢に覩たてまつり、化応を弁ぜず真身常寂にして迎接の相なし)。
とあり、『観経』上三品の来迎の文中、阿弥陀仏を応身とし、化仏を化身と判し、その応身というは八相成道の仏であると定めたのである。ところがこの浄影大師の三身判の拠処となるは『金光明経』と『梁摂論』であって、『金光明経』の「三身品」には「一切如来有三種一者化身、二者応身、三者法身(一切如来に三種あり、一には化身、二には応身、三には法身)」とあり、『梁摂論』には、自性、応身、化身の判が出でている、尤も下巻には自性、受用、変化の三身判もあるのである。一応表面を見れば、応身というは法報応三身判の応身のように見えるが、更にこれを翻訳の比較から見ると、この応身というは法身のことで、浄影大師の誤謬なることが知れるというのである。
翻訳の比較というは、『摂論』には、後魏の仏陀扇多の二巻訳と、梁の真諦三蔵の三巻訳と、隋の笈多訳の天親の釈論十巻とあり、『魏の摂論』には、真身、法身、応身と列ね、『梁の摂論』には先にいうたように、自性、応身、化身となし、隋訳には、自性、受用、化身と訳出している。それで今この善導大師の文中、前翻後翻というは、どういう対望になるのか、一寸解らない。魏梁対望と見る人と、梁隋対望と見る人と両説に分かれている。魏梁対望でこの文を解する時は、前翻の報を(後翻では)応と為し、後翻の応を(前翻では)報となすとなるのである。然し穏やかな見方は梁隋対望で、梁訳は応と訳出し、隋訳は受用(勿論報身のことである)と訳出し、同一の原語を違って訳出したので、この法応化三身判の時は、応身というは報身のことなり、『金光明経』の応身とあるも、報身と解させねばならぬというのが、善導大師の御意である。
(3-154)
問曰既言報者報身常住永無生滅何故観音授記経説阿弥陀仏亦有入涅槃時此之一義若為通釈答曰入不入義者唯是諸仏境界尚非三乗浅智所窺豈況小凡輙能知也雖然必欲知者敢引仏経以為明証何者如大品経涅槃非化品中説云仏告須菩提於汝意云何若有化人作化人是化頗有実事不空者不須菩提言不也世尊仏告須菩提色即是化受想行識即是化乃至一切種智即是化須菩提白仏言世尊若世間法是化出世間法亦是化所謂四念処四正勤四如意足五根五力七覚分八聖道分三解脱門仏十力四無所畏四無碍智十八不共法并諸法果及賢聖人所謂須陀[オン01]斯陀含阿那含阿羅漢辟支仏菩薩摩訶薩諸仏世尊是法亦是化不
仏告須菩提一切法皆是化於是法中有声聞法変化有辟支仏法変化有菩薩法変化有諸仏法変化有煩悩法変化有業因縁法変化以是因縁故須菩提一切法皆是化須菩提白仏言世尊是諸煩悩断所謂須陀[オン01]果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支仏道断諸煩悩習皆是変化不
仏告須菩提若有法生滅相者皆是変化須菩提言世尊何等法非変化仏言若法無生無滅是非変化須菩提言何等是不生不滅非変化仏言無誑相涅槃是法非変化世尊如仏自説諸法平等非声聞作非辟支仏作非諸菩薩摩訶薩作非諸仏作有仏無仏諸法性常空性空即是涅槃云何涅槃一法非如化仏告須菩提如是如是諸法平等非声聞所作乃至性空即是涅槃若新発意菩薩聞是一切法界畢竟性空乃至涅槃亦皆如化者心則驚怖為是新発意菩薩故分別生滅者如化不生不滅者不如化耶今既以斯聖教験知弥陀定是報也縦使後入涅槃其義無妨諸有智者応知
【読方】問うていわく、すでに報というは法身常住にしてながく生滅なし。なにがゆえぞ観音授記経にとかく、阿弥陀仏または入涅槃の時ありと、この一義いかんが通釈せんや。答えていわく、入不入の義はただこれ諸仏の境界なり。なお三乗浅智のうかがうところにあらず。あにいわんや小凡たやすく能く知らんや。然りといえども、必ず知らんとおもわば、あえて仏経をひきてもって明証とせん。いかんとならば、大品経の涅槃非化品の中に説きていうがごとし。仏、須菩提につげたまわく、汝が意においていかん、もし化人ありて化人をなす。この化すこぶる実事なりやいなや。空しきものなりやいなや。須菩提もうさく、不なり、世尊、仏、須菩提につげたまわく、色すなわちこれ化なり。受想行識すなわちこれ化なり。乃至一切種智すなわちこれ化なり。須菩提、仏にもうしてもうさく、世尊、もし世間の法これ化なりや。出世間の法またこれ化なりや。いわゆる四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分、三解脱門、仏十力、四無所畏、四無碍智、十八不共法、ならびに諸法の果および賢聖人、いわゆる須陀[オン01]、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、菩薩摩訶薩、諸仏世尊、この法またこれ化なりやいなや。
仏、須菩提につげたまわく、一切の法はみなこれ化なり。この法の中において声聞法の変化あり。辟支仏法の変化あり。菩薩法の変化あり。諸仏法の変化あり。煩悩法の変化あり。業因縁法の変化あり。この因縁をもってのゆえに、須菩提、一切の法みなこれ化なりとのたまえり。須菩提、仏にもうしてもうさく、世尊、このもろもろの煩悩断はいわゆる須陀[オン01]果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道はもろもろの煩悩の習を断ず。みなこれ変化なりやいなや。
仏、須菩提につげたまわく、もし法の生滅の相あるはみなこれ変化なりとのたまえり。須菩提もうさく、世尊なんらの法か変化にあらざると。仏のたまわく、もし法の無生無滅なる、これ変化にあらずと。須菩提もうさく、なんらかこれ不生不滅にして変化にあらざると。仏のたまわく、誑相なき涅槃この法変化にあらずと。世尊仏みづからときたまうがごとく諸法は平等にして声聞の作にあらず、辟支仏の作にあらず、諸菩薩摩訶薩の作にあらず、諸仏の作にあらず。有仏無仏諸法の性つねに空なり。性空なるすなわちこれ涅槃なり。いかんぞ、涅槃の一法化のごとくにあらざると。仏、須菩提につげたまわく、是のごとし是のごとし。諸法は平等にして声聞の所作にあらず、乃至性空なればすなわちこれ涅槃なり。もし新発意の菩薩、この一切の法みな畢竟して性空なり。乃至涅槃もまたみな化のごとしときかば、心すなわち驚怖しなん。この心発意の菩薩のために、ことさらに生滅のものは化のごとし。不生不滅のものは化のごとくにあらずと分別するをや。今すでにこの聖教をもって験かにしんぬ。弥陀はさだめてこれ報なり。たとえ後に涅槃にいらんも、其の義さまたげなし。もろもろの有智のひとしるべし。
【字解】一。『観音授記経』 『観世音菩薩授記経』の略。一巻。宗の曇無竭の訳。釋尊、華徳蔵菩薩に対せられ、観世音菩薩、及び得大勢至菩薩の過去現在未来を説き、阿弥陀仏の滅後、観世音成仏し、観世音の滅後、得大勢至成仏すべし等と説かれた経典である。
二。『大品経』 『大品般若経』の略。具には『大般若波羅蜜多経』という。六百巻。唐の玄奘三蔵訳。諸法皆空の理と、是を見るの智慧(般若)を広説す。教誡教授、般若行相、讃大乗、讃般若等の諸品乃至真如品、無辺際品、般若波羅蜜多品等の諸品あり。
三。須菩提 梵音スブフーチ(Subhuti)蘇部底、薮浮帝、須扶提等みな音訳である。善現、善吉、又は仁性と訳せられた。舎衛国の長者の子にして、釈尊の弟子となり、解空第一と称せらる。
四。四念処 上八六頁を見よ。
五。四正勤 四善根位のうち、煖位にて修する行。四正断ともいう。已生悪法為除断、未生悪法不令生、未生善法為令生、已生善法為増長、の四事を一心に勤め修めること。
六。四如意足 四善根位の頂位において修むる行。欲如意足(切に楽い欲すること)。念如意足(一心に専注すること)。精神如意足(絶間なく精進すること)。思惟如意足(他へ心を散らさず、専ら思考えること)。この四事をもって、意の如く所願を満たす故に如意足という。
七。五根 三十七道品のうち、信根、精進根、念根、定根、慧根の称。
八。五力 上の五根に同じであるが、今は之をもって悪を排し去る意味に用いて五力という。
九。七覚分 七覚支、七菩提分、七覚分、略して七覚ともいう。皆同じ。道を修むる時、その真偽善悪を観察覚了するを覚支と名づく。択法覚支、精進覚支、喜覚支、除覚支、捨覚支、定覚支、念覚支の称。
十。八聖道分 八正道、八正道支みな同じ。中正にして理に契い、涅槃に至る道なる故に正道、又は聖道という。八種に分かれておるから支という。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の称。
十一。三解脱門 解脱をうる三種の方法。空解脱門(万有の皆空なるを観ずること)。無相解脱門(万有に差別のすがたなしと観ずること)、無作解脱門(前の二門を根底として其の上に欲求の思いを離るること)の称。
十二。十力 如来の十力をいう。是処非処智力、過現未来業報智力、諸善解脱三昧智力、諸根勝劣智力、種々解智力、種々界智力、一切至処道智力、天眼無碍智力、宿命無漏智力、永断習気智力の称。
十三。四無所畏 仏説法のとき怖畏の相なきこと。正等覚無畏(証を得ておるから畏れはない)、漏永尽無所畏(煩悩を断っているから畏れはない)、説障法無所畏(証りを妨げる法をとくに畏れはない)、説出苦道無所畏(苦しみを出づる道をとくに畏れはない)の称。
十四。四無碍智 四無碍弁ともいう。如来の四種の解智。法無碍弁(一切の法の名字に通達すること)、義無碍弁(一切の法の義理に通達すること)、詞無碍弁(一切の言語に通達すること)、楽説無碍弁(衆生の欲する所に随いて法を説くに自在なること)。
十五。十八不共法 如来の有したまう十八種の独特の法。身無失、口無失、念無失、無異想、無不定心、無不知已捨、欲無減、精進無減、念無減、慧無減、解脱無減、解脱智具無減、一切身業随智慧行、智慧知過去世無碍、智慧知未来世無碍、智慧知現在世無碍の称である。
十六。須陀[オン01] 声聞四果の一、初果である。梵語スローターパンナ(Srotapanna)。預流、入流、逆流と訳す。三界の見惑を断じ尽くして、初めて聖者の流類に預り入りし位をいう。見道十五心の後、即ち第十六心にして修道位に入った位である。
十七。斯陀含 声聞四果の二果。サクリダーガーミン(Sakrdagamin)。一来果と訳す。欲界修惑の九品の中、上六品を断じたる聖者をいう。余の下三品の惑力によりて、人天の各一生を感得する。故に人中に此の果をうれば、必ず天上に往き、更に再び人界に生じて涅槃に入り、又若し天上に此の果をうれば、先ず人中に生じ、再び天上に還生して涅槃する。かように必ず天上と人間に一往来する果であるから一往来果という。一来果は略称である。
十八。阿那含 声聞四果の第三果、梵語アナーガーミン(Anagamin)。阿那伽迷、阿那伽弥みな音訳である。不還不来と訳す。欲界修惑の九品を断尽したる聖者をいう。再び欲界に生を受くることがないから不還果という。五種不還、七種不還、九種不還等の別あり。
十九。阿羅漢 声聞四果の第四果。上三八頁を見よ。
二十。辟支仏 独覚のこと。上二八頁「縁覚」の下を見よ。
二十一。新発意菩薩 二菩薩の一。新たに発心したる修道者のこと。初発心であるから、ややもすれば邪見に奔りて、上菩提を求むることが出来ず、下衆生を度することが出来ない恐れある菩薩である。
【文科】「玄義分」の文によって、弥陀の報身報土を問答決着したまう一段である。
【講義】問う、もし阿弥陀仏が報身であるというならば、報身は常住に不変絶対にして生滅の境を超えておるのである。然るに『観音授記経』に阿弥陀仏にも亦入涅槃の時があるということを判然と説いてあるのは如何なる訳であるか、この一義をどうして通釈するか。
答う、諸仏の境界に於いて、涅槃に入るとか入らぬとかいうことは、実の処絶対界に属することで、声聞、縁覚、菩薩の三乗の人達の浅い智慧では窺い知ることが出来ないのである。いわんや小さな凡夫の智慧では、蛍火をもって太陽の光を測ろうとするにも増して愚な仕業である。それであるから一概に一経の文面をもって正しい規矩とする訳にはゆかぬ。大体経典は仏が機に応じて説かれたものであるから、吾々は之に対して、厳密なる批判を下さなければならぬ。そは経典そのものを客観的に批判するのではなく、ややもすれば経典の文字のままを固執せんとする浅薄な思想を打破することが重要なのである。
けれども兎に角一経の文面に弥陀の入涅槃が説いてあるのであるから、是に就いては尚一歩進んで知らなければならぬことがある。そこで他の経典を引いて明確なる証拠とするであろう。それは『大品般若経』涅槃非化品の文である。
仏、尊者須菩提に告げ給うよう、須菩提よ、若し幻化〈まぼろし〉の人が幻化人を作る場合には、其の作られた幻化は実在のものと思うか、但しは空しいものと思うか、卿はそれを正しく考えるか、須菩提答えて、世尊よ、それは実でもなければ、空でもありませぬ。
仏、須菩提に告げ給うよう。色(物質)は化幻〈まぼろし〉である。受想行識の四法も亦化幻である。即ち我々を組み立てている五蘊の法は皆化幻である。是は凡夫のみに限らず、声聞、縁覚、菩薩の三乗の聖者達の五薀も、進んでは、一切諸仏の法に通じ、一切衆生の因種を知る所の仏の五薀も亦化幻である。
須菩提、仏に申し上げて曰く、世尊よ、世間の一切の法は皆化幻でありまするか。そしてそれのみならず出世間の法も矢張り化幻ありまするか。出世間の法とは、所謂証りに至るまでの様々の教え、様々の智慧、様々の威徳、果位等のことであります。即ち四念処、四正勤、四如意、五根、五力、七覚分、八聖道分等より進んでは三解脱門、仏の徳である所の十力、四無畏、四無碍智、十八不共法、並びに修行によりて獲る所の果位、及び預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の声聞、辟支仏、大菩薩、諸仏世尊も亦化幻でありまするか。
仏、須菩提に告げ給うよう、一切の法は皆化幻である。是等の法の中に、声聞に属する変化の法あり、縁覚に属する変化の法あり、菩薩の変化法、諸仏の変化法がある。以上は無漏清浄の法であるが、更に有漏の煩悩の変化法、業力の因縁によりて生ずる化幻の法がある。是等の諸法は有漏無漏等様々の差別があるが、要するに因縁和合によりて生ずる化幻の法である。須菩提よ、其れ故に我は一切諸法をあげて因縁生の化幻であると説いたのである。
須菩提、仏に申して曰く、世尊よ、業煩悩等の法が化幻であることは会得することが出来まするが、是等の煩悩を断つ所の智慧、即ち預流、一来、不還、阿羅漢等の四果並びに縁覚の果をうる所の智慧は、よく諸の煩悩の繋を断ち切るのである。然るに此の智慧をも変化と仰せられるのでありまするか。
仏、須菩提に告げ給うよう、その法が智慧であろうと果位であろうと、苟しくも生滅の相のあるものならば、皆是変化と云わねばならぬ。
須菩提申すよう、世尊よ、然らば如何なる法が変化でないのでありまするか。仏答えて、それは生ずることもなく、滅することもない堪然常住の法がそれである。
須菩提、重ねて、然らば如何なる法が不生不滅の常住なる非変化法でありまするか、仏答えて、それは誑〈いつわり〉の相を離れた実相常住の涅槃、一法だけである。これは不生不滅の法であるから変化のものではない。
須菩提曰く、世尊は先に諸法の平等なることを御説きになって、一切諸法の自性は凡夫の見ているような千差万別のものではない。その自性は堪然として平等不変のものである。是は声聞の作ったのでもなく、縁覚の作ったものでもなく、諸大菩薩、諸仏の作ったものでもない。如来出世の時も、如来の出世せられぬ時でも、諸法の本性は常に空不可得である。その本来の性空が即ち涅槃である。世尊はかように諸法平等の理を説き給いながら、何故に涅槃の一法だけを変化のないと説いて、他の一切法を変化と仰せられるのでありまするか。
仏、須菩提に告げ給うよう、誠に汝の云う通りである。一切諸法は平等なもので、後天的に声聞等の作ったものではない。それは先天的に常住の性空である。即ち一切法の性が涅槃である。けれどもかような深遠微妙の法は、初めて道に志した修道者が、一切法はその根底を叩けば本性空である、涅槃も亦空であると聞いたならば、その弱い心は驚きと怖れに噛まれて、道を修めることが出来ないようになるであろう。それ故にこの新発意の修道者の為に、殊更に教えを下して、生滅の相を具える法は化幻で、不生不滅の法は幻化の法でない、それのみが真実であると説いたのである。故に若し此の教説を聞いて教えの如く涅槃に住するならば、期せずして諸法平等の真理を見ることができるのである。
今上に引いた此れ等の聖教の指示によりて考えて見るに、弥陀如来の浄土は、明らかに真実報土であることが知れる。即ち『大品経』に説く如くに仏には新発智の菩薩の為に方便を説くと云われてあるから『観音授記経』の中に縦仮弥陀の入涅槃を説いてあっても、弥陀の浄土が真報土であるということに差し支えはないのである。道に忠実なる学者達は、能くこの理を会得することと信じる。
(3-165)
問曰彼仏及土既言報者報法高妙小聖難階垢障凡夫云何得入答曰若論衆生垢障実難欣趣正由託仏願以作強縁致使五乗斉入
【読方】問うていわく、かの仏および土、すでに報といわば、報法高妙にして小聖かないがたし。垢障の凡夫いかんが入ることをえんや。答えていわく、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。まさしく仏願に託してもって強縁となるによりて、五乗をして斉く入らしむることを致す。
【字解】一。垢障凡夫 煩悩の垢、罪の障りある凡夫。
【文科】「玄義分」の文によりて五乗斉入の浄土を明かす一段である。
【講義】問うて曰く、彼の阿弥陀如来は報身仏にして、其の極楽浄土は報身土とするならば、絶妙不可思議の報身土の自然の法則として、あまりに高遠至妙なるが為に、小乗の聖者達でも其の土に入ることは出来ない、いわんや煩悩の垢と障りに縛らるる凡夫の如きは、どうして往生することが出来ようぞ。答う、問いのように菩提を妨げる所の衆生の煩悩のみに眼を注ぐならば、極楽に往生するということは欣趣〈ねが〉い難いことである。併しながら今は弥陀如来の本願力に乗託するので、是が実に不可思議の強縁である。この誓願力によりて人間、天上、声聞、縁覚、菩薩等のあらゆる十方衆生をして、一様に同一の資格で極楽へ往生することが出来るのである。
第二科 「序分義」の文
(3-166)
又云従我今楽生弥陀已下正明夫人別選所求此明弥陀本国四十八願願願皆発増上勝因依因起於勝行依行感於勝果依果感成勝報依報感成極楽依楽顕通悲化依於悲化顕開智慧之門然悲心無尽智亦無窮悲智双行即広開甘露因茲法潤普摂群生也諸余経典勧処弥多衆聖斉心皆同指讃有此因縁致使如来密遣夫人別選也
【読方】又いわく、我今楽生弥陀より已下は、まさしく夫人別して所求をえらぶことをあかす。これ弥陀の本国は四十八願なり。願々みな増上の勝因を発す。因によりて勝行をおこす。行によりて勝果を感ず。果によりて勝報を感成す。報によりて極楽を感成す。楽によりて非化を顕通す。非化によりて智慧の門を顕開す。しかるに悲心無尽なり。智また無窮なり。悲智双行してすなわちひろく甘露をひらく。これによりて法潤あまねく群生を摂す。諸余の経典、勧処ひろくおおし。衆聖、心を斉しくして、みなおなじく指讃す。この因縁ありて如来ひそかに夫人をして別して選ばしむることを致すことをあかす。
【字解】甘露 甘露の法の略。甘露は梵語アムリタ(Amrta)。不死とも訳す。即ち甘露は、不死の霊薬に喩う。ここに甘露法とは、釈尊が『観経』に説かれた教法を指す。
【文科】「序分義」の文によりて浄土と本願の関係等を顕示し給う。
【講義】又曰く『観経』の序分に説かれてある「我今極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと願う」より以下は、正しく韋提夫人がこの平凡な人生にのみ注いだ眼を転じて道を求め多くの仏土中、特別に弥陀の浄土を選び求めたことを説示すのである。此れは抑も何を意味するのであるかと云えば、一言にして云えば、弥陀如来の本国たる極楽浄土は、四十八願其の物であるというのである。説明して云えば極楽とは弥陀の根本精神たる四十八願の円現したもの、四十八願の具体的表現であるというのである。この四十八願の一々は皆仏果に至り届かずにおかぬという殊勝な因力を開発しているのである。この因力によりて殊勝な修行を起し、修行によりて証りの智果を感得し、智果によりて涅槃の理果を感得し涅槃の果報によりて厳浄の極楽浄土を感成せられたのである。素より勝果、勝報、極楽という三の果報は決して時間的因果として感得せられたのではないが、只弥陀の報土の内容を表わさん為にかように記述したのである。
この証りの極果たる浄土を感成することから、所謂「大悲西化を隠して、驚いて火宅の門に入る」という如来の大悲摂化の活動が開始せられるのである。そして此の利他大悲の摂化から、下三品の悪人の為に往生の道を開き給う弥陀の智慧門が開かれたのである。
この弥陀如来の慈悲智慧は、その儘釈尊と表われて、不尽の大悲心、無窮智慧の二つが双び行われて、提婆、阿闍世の逆害、韋提求道を因縁として、甘露の法たる涅槃の真因が宣説せらるるに至ったのである。是が為に弥陀如来の大法は、あたかも水の大地に潜沈して自由に行きわたるように、普く一切衆生の乾き切った無功徳の心を潤すことである。
更に浄土の三経のみならず、広く一代諸経の上に眼を放っても、所謂「諸経讃ずる所、多く弥陀に在り」で、多くの経典に西方極楽の往生を勧め、十方諸仏を初め多くの聖者達も、心を斉しゅうして一様に西方を指し示して凡夫往生の大道を讃嘆しておられる。
是等の深い因縁がある為に、釈迦如来が秘密に韋提夫人をして、弥陀の浄土を選ばしめ給うたのである。この「密」にという所に無限の妙趣がある、韋提自らとしては自身で弥陀の浄土を選び求めたいと思うておるのであるが、それは如来真実の智慧が感応して韋提別選の智慧となったというのである。
第三科 「定善義」の文
(3-169)
又云西方寂静無為楽畢竟逍遥離有無大悲薫心遊法界分身利物等無殊帰去来魔郷不可停昿劫来流転六道尽皆径到処無余楽唯聞愁嘆声畢此生平後入彼涅槃城
【読方】またいわく、西方寂静無為の楽は、畢竟逍遥して有無をはなれたり。大悲、心に薫じて法界にあそぶ。分身利物ひとしくして殊なることなし。いざいなん魔郷にはとどまるべからず。昿劫よりこのかた流転して、六道ことごとくみなへたり。いたるところに余の楽なし。ただ愁嘆の声をきく。この生平を畢えて後、かの涅槃の城にいらんと。
【字解】一。無為楽 無為は無為造作を離れたること。凡夫の不自然な計らい離れた極楽。
二。逍遥 差別を越えた悠々として[バク01]〈はる〉かなる形容。
三。有無 有は有見、万物の常住なるを執する見解、無は無見、万物の空無を執する見解。是等は単に法の一面だけを見たる偏頗の邪見である。従ってこの有無の二見は、あらゆる凡夫の迷妄の見解を指す。
四。生平 生涯の意。今生一生ということ。
【文科】「定善義」により西方浄土の相を讃詠し給う。
【講義】又宣うよう、西方極楽浄土は、寂静にして為作造作を離れた無為自然の浄国である。そこは第一義諦微妙の境界であるから、際もなく辺もない、中道実相の月円にして浅はかな有(肯定)、無(否定)の偏見を離れておる。この国に生まるる衆生は、自ずと大慈悲心に薫じ附けられて、十方法界に遊び、一時に諸方に顕われて、いろいろの身相を示し、衆生を利益すること皆一様である。それであるから、いざいなん、娑婆世界、悪魔の栖家は長く停まっておる所ではない。吾等は久遠劫の昔から、六道をへめぐって、何処でも生まれない処はないが、何処も楽しみのある処はない、行く処として愁嘆の声の聞えない所はないのである。願わくばこの一声を畢わった後には、彼の安楽浄土の涅槃の境界へ行きたいものである。
第四科 『法事讃』の文
(3-171)
又云極楽無為涅槃界随縁雑善恐難生故使如来選要法教念弥陀専復専
又云従仏逍遥帰自然自然即是弥陀国無漏無生還即真行来進止常随仏証得無為法性身
又云弥陀妙果号曰無上涅槃 已上抄出
【読方】またいわく、極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。かるがゆえに如来、要法を選びておしえて念ぜしむること専らにしてまた専らならしむ。
またいわく、仏にしたがい逍遥して自然に帰す。自然はすなわちこれ弥陀国なり。無漏無生かえりてすなわち真なり。行来進止につねに仏にしたごうて、無為法性真を証得すと。
またいわく弥陀の、妙果をば号して無上涅槃という。已上抄出
【字解】一。無漏 煩悩のなきこと。清浄なること。上六七頁をみよ。
二。無生 再び迷いの生を受けないこと。涅槃の義訳。
【文科】『法事讃』の文によりて無為自然の他力の因果を示し給う。
【講義】又宣うよう、西方極楽浄土は凡夫の意志や努力を離れた無為自然の世界である。それであるから、其の浄国に生まれるには、其の時々の外界の刺激等の外縁に随って修めるような雑り気のある善根功徳をもっては、恐らく往生することは出来ないのである。之が為に釈迦如来は、弥陀回向の他力念仏の要法を選んで、其の意義を説示し、専ら二心なく一向一心に弥陀如来を念じ奉れと、懇ろに教えて下されたのである。
又宣給うよう、大悲の弥陀如来の仰せに随い奉りて、計度の念を離れ、靉靆として岫を出づる白雲のように、大自然界たる極楽浄土に帰向するであろう。この自然とは即ち極楽をいうのである。それは無為自然の涅槃常楽の世界である。
誠に浄土は煩悩を離れた真無漏の国である。復と三界生死の生を受くることのない真無生の国である。相似でない、部分の証でない、その儘純真な証りである。行くも帰るも、進むも止まるも、一挙手一投足、常に如来大自然の力に随うて少しも逆らうことはない、自然に無為法性身を証るのである。
又宣給うよう、弥陀如来の不可思議の果報をば、この上ない大涅槃と号〈な〉づけ奉るのである。
第三項 憬興師の釈文
(3-173)
憬興師云無量光仏 非算数故 無辺光仏 無縁不照故 無碍光仏 無有人法而能障故 無対光仏 非諸菩薩之所及故 光炎王仏 光明自在更無為上故 清浄光仏 従無貪善根而現故亦除衆生貪濁之心也無貪濁之心故云清浄 歓喜光仏 従無瞋善根而生故能除衆生瞋恚盛心故 智慧光仏 従無痴善根心起復除衆生無明品心故 不断光仏 仏之常光恒為照益故 難思光仏 非諸二乗所測度故 無称光仏 亦非余乗等所堪説故 超日月光仏 日応恒照不周娑婆一耀之光故 皆是蒙光触身者身心柔軟願之所致也 已上抄出
【読方】憬興師のいわく無量光仏(算数にあらざるがゆえに)、無辺光仏(縁としててらさざることなきがゆえに)、無碍光仏(人法としてよくさうることあることなきがゆえに)、無対光仏(諸菩薩のおよぶところにあらざるがゆえに)、光炎王仏(光明自在にしてさらにうえにするものなきがゆえに)、清浄光仏(無貪の善根よりして現ずるがゆえに。また衆生の貪濁の心をのぞく。貪濁の心なきが故に清浄という)、歓喜光仏(無瞋の善根よりして生ずるがゆえに。衆生の瞋恚盛心を除くがゆえに)、智慧光仏(無痴の善根心よりおこる。また衆生の無明品心をのぞくがゆえに)、不断光仏(仏の常光つねに照益をなすがゆえに)、難思光仏(もろもろの二乗測度するところにあらざるがゆえに)、無称光仏(また余乗等、とくにたうるところにあらざるがゆえに)、超日月光仏(日はつねにてらすことあまねからざるべし娑婆一耀のひかりなるがゆえに)、みなこれ光触を身にこうむる者は、身心柔軟の願のいたすところなり。已上抄出
【字解】一。憬興 新羅熊川に生る。十八才出家して三蔵を究め、神文王元年(西暦六八一年)国老にあげれる。寂年不詳。『大涅槃経疏』十四巻。『法華経疏』十六巻。『瑜伽記』三十六巻。『無量寿経連義述文讃』三巻等述作甚だ多し。
【文科】『述文讃』によりて十二光を讃嘆し給う。
【講義】憬興師は其の著『述文讃』中巻に『大経』の十二光を解釈して云われたるは、無量光仏――弥陀の光明を数量的の方面から表わしたので、それが相対有限界に於ける数学的知識を超えていることを示すのである。無辺光仏――縁ある機類ならば何処にありても照らさぬことはないから。無碍光仏――弥陀の光明は無碍の大道であって、煩悩、悪業(人)も、其の他一切万法(法)も碍げることはできないから。無対光仏――その効用に於いて、其の徳相に於いて、諸菩薩の光明の及ぶ所でないから。光炎王仏――自在に照らす光明の威徳の熾んなること、王者に比べて此の名あり。清浄光仏――弥陀の光明は、欲貪を離れた善根から現れている。そしてその効用として衆生の濁れと貪愛の心を除く。かように穢い貪欲心がないから清浄と名づけられたのである。歓喜光仏――弥陀の光明は瞋恚を離れた善根から現れている。故にその光明の威徳として衆生の盛んなる瞋恚の煩悩を除く。そこに歓喜の念が溢れている。それが即ち歓喜光である。智慧光仏――愚痴の煩悩を離れた心から現れた光明であるから、よく衆生の愚痴無明の品類に属する心を除く故に此の名あり。不断光仏――弥陀の光明は常に長えに一切衆生を照らして利益を与え給う故に。難思光仏――諸の声聞、縁覚等の二乗の聖者達の測度〈はか〉り知ることの出来ない智慧、徳相を備え給う方であるから。無称光仏――弥陀の教え以外の教(余業)などの能く説示することの出来ない仏でいらせられるから。即ち説くことが出来ないというのは、知ることが出来ないということである。取りつめて云えば、言説の能く及ぶ所でないと同時に心で思い称〈はか〉ることの出来ないこと。超日月光仏――太陽は世を照らせどもこの娑婆の外部だけの一方面しか照らし得ない。然るに弥陀の光明は深く一切諸法の根底に潜り入りて、その効用を示し給う故に。
是等の光触に逢い奉る者は、皆夫々利益を戴くことが出来るのであるが、それは源を尋ぬれば、四十八願中身心柔軟の願の致す所である。
【余義】一。今茲に憬興師の『述文讃』を引用し給うは、当時の諸師がみな、弥陀如来及び浄土を応身応土と判するに反し、憬興師はひとり報身報土と定められ、この十二光の釈も、この儘、報身仏の相であるから、茲に諸師の中から特に憬興師を引き出して引用し給うたのである。我が聖人の『述文讃』を常に愛好なされたことは、「教巻」五徳現瑞の下「行巻」会本三初丁已下十文、「化身土巻」会本八の十八丁及び当処にこのように引用なされたことで知ることが出来る。
第五節 結釈
(3-176)
【大意】上来広く真仏土の証文として経論釈を引かれしにより、ここに例によりて結釈を施し給う。
第一項真実報土を結成し、第二項に得証の意義を対弁し、進んで第三項真偽分別をなし、真仏、真土往生を説き、更に仮の仏土を示して次の化身土巻を起こすいとぐちを開き給う。終わりに第四項に於いて結釈し勧信し給う。
第一項 真実報土の結釈
(3-176)
爾者如来真説宗師釈義明知顕安養浄刹真報土
【読方】しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることをあらわす。
【文科】真実報土の結釈。
【講義】上に引用した釈迦如来の真説たる経典に依りて見ても、又天親、曇鸞、善導等諸師の解釈に照らして考えて見ても、安養極楽国は明らかに真実報土であることが知られて来る。
【余義】一。我が聖人は、上来、仏経と論釈とを引用して、真仏真土の義を証成し、茲に愈々私釈に入り、先ず弥陀の浄土の真実報土なることを結び止め給うのである。聖人の信仰は、「悟りは彼岸」である。謙抑と恭譲との中に一味の法楽を得給うた聖人は、その力の感得を他力と表現なされた。而してこの他力の妙用の全現するは、彼岸である。彼岸は報土である。報土に入って、一切有情は初めて真の開覚を得るのである。この開覚の境地は弥陀如来の涅槃境であって、同時に十方同生者の涅槃境である。『唯信鈔文意』十七丁に
涅槃とは滅度という。無為という。安楽という。常楽という。実相という。法身という。法性という。真如という。一如という。仏性という。仏性すなわち如来なり。
とあり。この涅槃境は未だ種々にいい顕わすことが出来るのである。
「涅槃は仏性という、仏性すなわち如来なり」。我が親鸞聖人の仏性観はこれに尽きているといえる。聖人が『涅槃経』の文を御覧なされたのもこの見方である。仏性といえばとて、決して聖道門にいうが如き自性住仏性とか正因仏性とかいうものではない。他力回向と御与え下された信心の、彼岸に到って果実を結んだ相である。先に長々と引用せられた『涅槃経』の文、及びこの私釈中の『涅槃経』の用語を見る上に、この注意を忘れてはならぬ。猶、仏性のことについては第二巻三二四頁を参照せられたい。
第三項 得証弁
第一科 正明
(3-178)
惑染衆生於此不能見性所覆煩悩故経言我説十住菩薩少分見仏性故知到安楽仏国即必顕仏性由本願力回向故亦経言衆生未来具足荘厳清浄之身而得見仏性
【読方】惑染の衆生ここにして性をみることあたわず。煩悩に覆わるるがゆえに。経に、われ十住の菩薩、少分仏性をみると説くとのたまえり。かるがゆえに知んぬ。安楽仏国にいたれば、即ちかならず仏性をあらわす。本願力の回向によるがゆえに。また経には衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得とのたまえり。
【文科】正しく得証の意義を示し給う。
【講義】吾等のような疑惑の雲に鎖〈とざ〉され、濁悪の煩悩に穢されておるものは、此の娑婆世界に於いては、真実に仏性を見ることは出来ない。それは一言にして云えば煩悩が覆われているからである。
上に引いた『涅槃経』には、「我(釈尊御自身を指す)、十住位の菩薩は小分の仏性を見ると説いた」と云うてある。それは修行によりてあれだけの位に昇った菩薩でさえ小分の仏性だけしか見ることが出来ないのであるから、況や凡夫の浅い智慧では、到底此の世界では仏性を見ることは及びもつかないと云うことを示しておるのである。それであるから安楽仏国に往生するならば、その往生の一念同時に仏性を顕開して証りを開くのである。これは自分の小さい力ではない。如来の本願力の回向の然らしむる所である。だから上に引用した『涅槃経』には「衆生は今は仏性を開発しておらないけれども、来世には無垢清浄に荘厳したる報身を具足〈そな〉えて、仏性を見ることが出来る」と説いてあるのである。
第二科 『起信論』の文
(3-180)
起信論曰若知雖説無有能説可説雖念亦無能念可念名為随順若離於念名為得入
得入者真如三昧也況乎無念之位在於妙覚蓋以了心初生之相也而言知初相者所謂無念非菩薩十地所知而今之人尚未階十信即不依馬鳴大士従説入無説従念入於無念 略抄
【読方】起信論にいわく、若し説くといえども、能説の説くべきあることなく、また能念の念ずべきもなしと知るをなづけて、随順とす。もし念を離るるをなづけて得入とす。
得入というは真如三昧なり。いかにいわんや、無念の位は妙覚にあり。蓋しもって了心は初生の相なり。しかも初相を知るというは、いわゆる無念は菩薩十地の知る所にあらず。而るに今の人なお未だ十信にかなわず。すなわち馬鳴大士の説より無説にいり、念より無念にいるとのたまうに依らざらんや。 略抄
【字解】一。『起信論』 梵語(Mahayana-Sraddhotpada-Sastra)『大乗起信論』という。馬鳴菩薩造、真諦訳、一巻。実叉難陀訳、二巻。『起信論』は略称である。一心(衆生心)の上に、真如門と生滅門の二面を開き、真如門には心の本体的方面たる真如を説き、生滅門には心の現象的方面たる真如縁起を述べ、一心の義理を弁別して、体大、相大、用大の三大をとく。次に実践的方面に及び、真如と三宝を信ずる四信と、布施、持戒、忍辱、精進、止観の五行を実修することを教ゆ。之を一心、二門、三大、四信、五行という。
二。馬鳴 梵語アシュワゴーシャ(Asvaghosa)、紀元一世紀に西印度に生まる。博識、智弁、詩才、一世を覆う。北印度に行きて迦湿弥羅の国王、迦膩色迦王の保護を受け、大乗仏教を宣揚す。『大乗起信論』『大荘厳論経』『仏所行讃』等の著みな有名である。かって『頼[タ04]愁羅』の戯曲を作りて、自ら楽人とともに之を華氏城中に歌い、五百の王子を出家せしめ、遂に戯曲の禁止を見るに至ったという。
【文科】得証を証する為に『起信論』の文を引用し給う。
【講義】『起信論』に曰く、真如というものは言を離れ、考えを超越しているものであるから、之はいかに説いても説き得るということはないこと、又此の真如は説くことが出来ないばかりでない、念〈おも〉い知るということも決して出来ないと知るのを随順と名づける。即ち随順とは真如を観ずる方便観である。かように真如というものは、能説、所説、能念、所念というような対立関係の形式を離れておるということを知るのが、真如観の第一歩である。されどここまで来ても、尚ある主観(念)を離れることは出来悪〈できにく〉い。若し一歩進んで其の念慮を一切打ち棄てる時に正しく真如を観ずることが出来る。それを得入と名づける。即ち真如に入ること、真如と渾融した所である。それが正観である。
上の『起信』の文を飛錫禅師は、其の著『念仏三昧宝王論』に釈して曰く、得入というは真如三昧のことである。それは真如に証入し得たことをいう。即ちこの得入とは、「念を離れた」所というてあるが、其の言説の根本たる念慮を離れるというのは、所念の境を絶し、能念の心を棄てることで、その無念の位というものは妙覚果満を指すのである。それが即ち真如三昧である。
更に他の方面よりこの真如に証入する模様を観察すれば、了心ということである。この了心とは、心が初めて生じた相、即ち無始無明の初起をいうので、三細の中の第一の業相である。忽然として業無明の起こったその一念の相を突き止めることである。この心初起の相を知るのは、麁雑な能動的な念慮を離れた無念の智慧でなければならぬ。これは十地の菩薩などの知ることの出来ない天地である。修道の位満ちて方便の行満足し、最後の一念相応する所にて証に入るので、仏果を得る時の刹那の心である。然るに今の一般の人達は未だ十信の位にも相応してはおらぬ。即ち馬鳴大士の云われたように、有説の法門を信ずることから、遂に無説の真如界に入り、有念の教説によりて、無念無想の極楽無為涅槃界を証することに従うということが、一番適切な教えではあるまいか。
【余義】一。茲に『起信論』に曰くとしてあるが、実は『起信論』の文そのままではなくて、飛錫の『念仏三昧宝王論』中に有念の念仏から入らねばならぬという下に証文として引用された『起信論』の文を『宝王論』の文に連ねて引用なされたものである。それで「若地雖説」から「名為得入」までは『起信論』の文であるが、「得入者」以下は『宝王論』の文である。
然らば、何故『宝王論』に曰くとしないで、『起信論』の名を出されたかというに、『宝王論』の釈は『起信論』の正意を得、全体を『起信論』の文というても差し支えないから、「得入者」以下の釈文は『起信論』の文に連ね、『起信論』の名を出されたのである。『宝王論』の文は「行巻」会本三 十四丁にも引用してあるけれども、『起信論』は大乗通申論と称し、幾多の論釈の中にも殊に有名なる書であり、また浄土傍依の書であるから殊にその名を揚げられたものであろう。
それであるから、この文は、先ず初めに『起信論』の意で解し、次に『宝王論』に引用せられた意味を知り、更に進んで我が聖人御引用の御覚召を伺わねばならぬ。
『起信論』にありては、この文は、離言真如を解釈する中に、妨難を通釈する文である。『起信論義記』中本をみると能くそのことが知れる。
真如と言えば、亦相あることなし。謂く言説の極、言に因って言を遣る。この真如の体遣る可き無し。一切の法悉く真なるを以ての故に。亦立すべき無し。一切の法皆同じく如なるを以ての故に。当に知るべし。一切の法説く可からず、念ずべからず、故に名づけて真如と為す。問うて曰く。若し是の如き義ならば、諸の衆生等、云何が随順して得入せん。
答えて曰く、若し一切の法、説くと雖も、能説可説あることなし。念ずと雖も亦能念可念あることなしと知らば是を随順と名づく。若し念を離るれば名づけて得入と為す。真如は言説を離れ、説く可からず、念ず可からざるものである。もし不可説不可念のものならば、どうして真如に随順し、証入することが出来ようかという問いである。
これに対する答は、真如は勿論不可説不可念のものであるが、これに証入するには順序がある。説いても能説所説なく、念じても能念所念もないと知了する境地、この境地は絶対に念を離るることが出来ないから、これを随順(方便)と名づける。この方便の境地を過ぎて一歩を進むれば、絶対に念を離れることが出来る。これを得入(正観)と名づけるのである。この有念無念の順序で、真如に証入することが出来るというのが『起信論』の文の意である。この無念の境というは下に出づる心の初相を知る位である。
二。飛錫師は事理双修の念仏ということを唱え、口称の事相の念仏即ち有念の念仏から進んで無念の理の念仏に入らねばならぬということを云われる人である。それで、茲に有念の念仏から無念の念仏に進む証文として『起信論』を引用し、つづいてその文を解釈せられたのである。随順は有念の念仏である、得入は無念の念仏である。得入の念仏の境に至るは真の目的であるが、この無念の境地は所謂心の初生之相を了する位で、妙覚位に至らねば得ることの出来るものではない。十地の菩薩でも至り得ない境地である。さればこの無念の念仏に至るは真の目的であるけれども、今日の我等は馬鳴大士にならい、説より無説へ、有念より無念に至るようにせねばならぬという意味である。
心の初生之相を了すというは、『起信論』の思想を知らねばわからぬことであるが、『起信論』は誰も知る如く、根底的実在を一心真如となし、これから万法が縁起して来るというのである。この縁起の具合はどうかというに、波のない処に忽然として波が起るように、一心真如の上に忽然として念起り(業相)これを無明と名づける。この無明が、一心真如に影響して、次第に主観(転相)客観(現相)の両境界を作り出すというのである。これを三細というのである。この三細から六麁が現われる。これを流転門といい、諸法縁起の相と称するのである。それであるから『起信論』の教理からいえば、迷妄を源還すれば、一念の念である。この一念の念のなくなったところが大悟境である。而してこの一念の念は風なきに風を起し浪なき浪を起こす実体なき妄念であるから、この妄念を突きつむれば、念はなくなる。無い念が顕われた処が心の初生の相である。心の初生の相を知れば心の初相の実体なきことが知れ、細微の念をも遠離して明朗の心性を見ることが出来るというのである。以上が『起信論』、及び『宝王論』の文意である。
三。我が聖人は、この文全体を随宜転用して、有念を此土の願生に当て、無念の報土の証果に当て給うたものである。仏性の開覚はこの土に於いてなしうるものではない。他力本願の回向に依って、この土に於いて、願生の信心を与えしめ給い、浄土に於いて真証を開覚せしめ給うという意味に用いなされたのである。
第三項 真仮分判
第一科 報土の総釈
(3-187)
夫按報者由如来願海酬報果成土故曰報也
【読方】それ報を按ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。かるがゆえに報という。
【文科】真実報土を総釈し給う一段。
【講義】今よくよく「報」という意義を考えて見るに、之は如来の因位誓願力によりて恰も蒔いた種が芽を吹いて遂に実を結ぶように、果の浄土が必然的に酬報〈むく〉い表われたことを報というのである。
第二科 報土の別釈
(3-187)
然就願海有真有仮是以復就仏土有真有仮由選択本願之正因成就真仏土
言真仏者大経言無辺光仏無碍光仏又言諸仏中之王也光明中之極尊也 已上 論曰帰命尽十方無碍光如来也
言真土者大経言無量光明土或言諸智土 已上 論曰究竟如虚空広大無辺際也
言往生者大経言皆受自然虚無之身無極之体 已上 論曰如来浄華衆正覚華化生又云同一念仏無別道故 已上 又云難思議往生是也
【読方】しかるに願海について真あり仮あり。ここをもってまた仏土について真あり仮あり。選択本願の正因によりて真仏土を成就せり。
真仏というは大経には無辺光仏無碍光仏とのたまえり。また諸仏のなかの王なり。光明のなかの極尊なりとのたまえり。已上 論には帰命尽十方無碍光如来といえり。
真土というは、大経には無量光明土とのたまえり。あるいは諸智土とのたまえり。已上 論には究竟如虚空、広大無辺際という。
往生というは、大経には皆受自然虚無之身無極之体とのたまえり。已上 論には如来浄華衆、正覚華化生といえり。また同一念仏無別道故といえり。已上 また難思議往生というこれなり。
【文科】真実報土を別釈して真仏、真土、往生を示し給う一段である。
【講義】然るに此の果報土の原因たる如来の本願の中に真実と権化方便の二つがある。是によりて其の果報の浄土に真実と方便があるのである。即ち選択本願中の第十二寿命無量願、第十三願光明無量願の正因によりて、弥陀の真仏真土が成就ったのである。即ち真仏とは『大無量寿経』には無辺光仏、無碍光仏と説いてあり、又十方諸仏中の王である。あらゆる光明という光明中の尤も尊い主体であるとも説かれてある。 已上
又天親菩薩の『浄土論』には、帰命尽十方無碍光如来と称え奉ってある。是が即ち真宗の本尊にていらせられる。因果の大法に随って、功徳の主となり、力という力の統率者となり、大慈悲と大智慧をもって、十方世界に遍満して、救済の大能を垂れ給う無碍の極尊にてましますのである。
又弥陀如来の真土というは、『大経』には限りなき智慧光の照耀する極土、即ち無量光明土と説き、或は又あらゆる大智慧を集めたという意味にて諸智土と説いてある。已上 『浄土論』には弥陀の浄土は、全法界を窮め尽して無障碍〈さわりなき〉こと虚空の如く、其の広さは悠遠にして辺際がないと称讃〈ほめたた〉えてある。
往生ということに就いては、『大経』には、浄土に生るる人は、誰も一様に業報因果の束縛を離れた無為自然にして、虚空の如く滞りなき身、一切に遍満する無限絶対の身を得ると説いてある。 已上
『浄土論』には、浄土に生れる人々は、皆弥陀如来の正覚の華より化生する、それ故に如来の浄華衆と名づけらるるのである。即ち如来の証悟〈さとり〉そのものから生れるのを、華をもって象徴して華化生といい、浄華衆と名づけたのである。
更に又この極楽に於ける平等の化生に対する同一の因を述べて、『同論』には、極楽に生るる者は、信念仏の一因であって、之より外には道がないから、極楽も同一化生であるというてある。
又『法事讃』には、極楽の往生は、実に吾等の思議〈おもいはか〉ることの出来ない絶妙不可思議であるというので、難思議往生というてある
第三科 仮土を示す
(3-190)
仮之仏土者在下応知既以真仮皆是酬報大悲願海故知報仏土也良仮仏土業因千差土復応千差是名方便化身化土由不知真仮迷失如来広大恩徳
【読方】仮の仏土というは、下にありて知るべし。既にもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。かるがゆえに知んぬ、報仏土なりということを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土また千差なるべし。これを方便化身化土となづく。真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す。
【文科】仮仏土を示して真仏土を明了ならしめ更に「化巻」を起こし給う。
【講義】仮之仏土、即ち方便化身土に就いては、下の「化身土巻」に委しく説示してあるから、そこで知って頂きたい。
かように真実、権仮の二つに頒かれているけれども、共に弥陀如来の大悲の誓願たる第十八願、又方便の願たる第十九、第二十の本願に酬報表〈むくいあら〉われたものである。かように酬報の土であるから、真土も化土も皆報身の土にして、化土は即ち報中の化土と呼ばれるものである。良に此の仮の仏土は真土の一因一果と異なり、化土に生まるる機類は自力が加わるのであるから、其の修むる業因に千差万別の相違がある。因がかくの如く差別しておるから、果も亦千差万別である。之を方便化身土と名づけるのである。是等の真実と方便の深い旨趣を知らない為に、迷妄に覆われて、如来の広大なる恩徳を失って仕舞うのである。
【余義】一。この私釈は正しく「真巻」の結文であって、前を結んで、真仏真土の体を出し、真仮分別をして下の「化身土巻」を引き起こし給うものである。而してこの結文に就いて注意すべきことが一つある。
一には、真仮分別は我が聖人己証の法門であって浄土真宗開闢の祖意は、この真仮を分判して、如来広大の恩徳を知らしめるためであること。
二には、茲に化仏化土というは、普通にいう三身門の化仏化土とは異なり、報中に真化を分かったもので、三身門でいえば、同じく大悲の願行に酬報した法身報土であるということである。
第四項 結釈勧信
(3-192)
因茲今顕真仏真土斯乃真宗之正意也経家論家之正説浄土宗師之解義仰可敬信特可奉持也可知
【読方】これによりていま真仏真土をあらわす。これ乃ち真宗の正意なり。経家論家の正説、浄土宗師の解義、あおいで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。しるべし。
【文科】正しく本巻を結びて信を勧め給う。
【講義】是等の深い訳合いがあるによりて、今茲に真仏真土の因果を顕開したことである。この如来回向の一因によりて一果の往生を得るというのが、真宗の正意とする所である。釈尊(経家)及び龍樹、天親の二菩薩(論家)の真実なる説示、曇鸞、善導等の浄土教の宗師達の懇篤なる解釈に対し、仰いで敬い信じ、特に心を一つにして謹んで其の真意を持たねばならぬことであります。