教行信証講義/信巻 三心一心
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(2-254)
第四章 三心一心問答
【大意】これより進んで問答体にて、三心一心の関係を設示せらる。第一節は聞いである。第二節の答えが四項に分かれ、第一項は略して答え、第二項には字訓釈を施し、第三項には三心の字訓を一々融会配当し、第四項には結訳したまう。
第一節 問
問如来本願已発至心信楽欲生誓何以故論主言一心一也
【読方】問、如来の本願すでに至心、信楽、欲生の誓いをおこしたまえり。何をもての故に論主一心というや。
【文科】第一番問答の間いである。
【講義】問うて曰わく、阿弥陀如来の第十八願には、至心信楽欲生の三信が立ててある。然るに天親菩薩は三信と曰わず、一心と宣うはいかなる何以があろうか。
第二節 答
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第一項 略 答
答愚鈍衆生解了為令易弥陀如来雖発三心涅槃真因唯以信心是故論主合三為一歟
【読方】答、愚鈍の衆生をして解了易からしめんがために、弥陀如来三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもてす。このゆえに論主、三を合して一とせるか。
【文科】略して三心を一心とする所以を述べたまう。
【講義】答えて曰わく。一口にいえば愚かな衆生の合点の行き易いためにそうなされたのである。阿弥陀如来は本願に於ては三心と分けて御誓いなされてあるけれども、涅槃の妙果〈さとり〉を得る真実の因は、ただ信心一つである。それであるから、天親菩薩は三信を合して、手短かに一心となされたのであろう。
【余義】一。三一問答は信巻の至要である。上来引用せられた三経師祖の論釈を画竜とすれば、三一問答はその点晴と云わねばならぬ。故に聖人は当巻別序に於いて「諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲す、広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文
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を開く。且〈しばら〉く疑問を至して、遂に明証を出す」と仰せられた。此の「且く疑問を至すというは、今の三一問答である。そして信巻一部の弁明の順序は、全くこの序文の通りである。
信巻には二番の問答であるが、『略本』は三問答を掲げておる。『略本』の第一の問答は、信巻の第一問答と等しい。そして信巻の第二問答は、略本には略してあるが、其の三心釈の内容から云えば、単に問答丈を略した丈で、実賢に於いては信巻と異る所はない。そして『略本』の後の二番の問答は、『化巻』に広説せられてある。
当巻二番問答の第一は、第十八の本願の上に明かに三心と誓うてあるのに、何故に天親論主は一心と仰せられたのであるか、と云うのである。そして此の答えは、やがて今迄明瞭に発表せられなかった聖人の真意を露出〈あらわ〉すのである。上の引文の次第を見ても、聖人は明かに論主の一心帰命に随喜しておられたことが知れるのである。最初に第十八願を引き、次に『論註』の三不三信を引いて鸞師の口を籍〈か〉りて「是故に論主、建〈はじ〉めに我一心と言まえり」と云い、次に善導大師の三心釈を引いて、深心一心を結文としておられる。凡〈すべ〉てが引文であって、御自身の直接の御言葉はないけれども、之を一連として読み来れば。聖人の真精神は、一句一言の端々〈はしはし〉にも生動〈うご〉いて、温かい血汐が波打っている。この意味に於いて聖人は、唯師祖の
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言葉を借りて自身の生命を発表せられたのである。否寧〈むし〉ろ師祖の真髄を我腸〈わがはらわた〉として、本願の旨趣〈いわれ〉を説示されたのである。そして其の主要の点は、この三心一心の関係であった。今や引文は一応終りを告げたから、ここに覆われたる幕を引き払いて、堂々と根本問題の解決を発表せられたのが、此の三一問答である。
二。答えは甚だ簡明である。如来は三心と仰せられたが、愚鈍の衆生をして、容易〈たやす〉く会得せしめんが為に、論主がそれを一心とせられたと云うのである。夫も論主が化他の為に勝手にせられたのではない。涅槃の真因は唯信心一つであるからであるというのである。この一句が答えの主眼である。そして信巻の主要である。そして同時に聖人の信仰そのものである。
顧〈おも〉うに聖人のこの信念は、決して経典に対する単なる解釈ではなくして、御自身の深い信仰経験と、師祖の信念を咀嚼せられた最後に到着せられた立場であると思う。既に上にも長々と善導大師の三心釈を引かれて、吾等の心には、至誠心も、深心も、回向発願心もない。唯濁悪の念ばかりであると仰せられたが、今本願の三心は観経の三心と根底に於いて全く等しいものであるから、如来が三心を以て往生を願えと仰せられても、其の三心は吾
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等の起こすことの出来ないことは明かである。然らば如何にして其の三心を発すか。是が至要の問題である。我聖人は最後の一道として、天親菩薩の一心帰命に依られた。
論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには
煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまう。
ここに至って吾等の起こさねばならぬ本願の三心は、此の煩悩具足の吾等の起こす他力信心の外はない。即ち涅槃の真因は、唯信心一つであると云うのである。『銘文』初めに
信楽というは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて、うたがわざれば信楽ともうすなり。
されど此の二心なく信ずる心は、凡夫の起こす所でないと云うことを知らせらる為に、其の次の文に
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしと、すすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。
如来の誓願が我等の胸に生れて、二心なく信ずる心となる。夫が信心である。涅槃の真因である。我等愚鈍の身は是より外はない。そして是より外に行くべき道がないと云う押し
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詰った意味があるのである。
箇様に深い根底の上に立ちながらも、謙虚なる聖人は、尚お「論主、三を合して一と為せる歟」と、態〈わざ〉と断定を避けられた。かくて他の方面より、更に態度を変えて、上の説を証せんと努力せられたのが次の字訓釈である。
第二項 字訓
私闚三心字訓三即合一其意何者言至心者至者即是真也実也誠也心者即是種也実也言信楽者信者即是真也実也誠也満也極也成也用也重也審也験也宣也忠也楽者即是欲也願也愛也悦也歓也喜也賀也慶也言欲生者欲者即是勝也楽也覚也知也生者即是成也作也為也興也
【読方】私に三心の字訓を闚〈うかが〉うに、三すなわち一なるべし。その意〈こころ〉いかんとならば、至心というは、至というは即ちこれ真なり、実なり、誠なり。心というは即ちこれ種なり、実なり。信楽というは信というは、即ちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。
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楽というは即ちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。欲生というは、欲というは即ちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。生というは、即ちこれ成なり、作なり、為なり、興なり。
【文科】三心の一々に字訓を施したまう一段である。
【講義】それで今茲に、この覚召しを三心の字訓から伺うて見ようと思うのであるが、私如きものが鳴滸〈おこ〉がましい次第ではあるけれども、ひそかに三心の字訓を窺〈うかご〉うて見ると、この三心を一心に合した理由が明かになるのである。どういう所以〈わけ〉かというに、先ず至心の至には、真〈まこと〉という意味がある。従って実〈まこと〉、誠〈まこと〉という意味も出て来る。それから心には種〈たね〉という意味がある。種は実〈み〉であるから、又実〈み〉という意味もあることになる。
次に信楽の信には、真〈まこと〉、実〈まこと〉、誠〈まこと〉、満〈みつる〉、極〈きわまり〉、成〈なる〉、用〈もちいる〉、重〈おもんずる〉、審〈つまびらか〉、験〈かんがえみる〉、宣〈あきらか〉、忠〈ふたごころのない〉、の意味がある。楽の字には、欲〈ねがう〉、願〈ねがう〉、愛〈めでねがう〉、悦〈よろこぶ〉、歓〈よろこぶ〉、喜〈よろこぶ〉、賀〈よろこぶ〉、慶〈よろこぶ〉、の意味がある。
次に欲生の欲には、願〈ねがう〉、楽〈ねがう〉、覚〈さとる〉、知〈しる〉の意味がある。生〈しょう〉には成〈なる〉、作〈なす〉(この作の字は則羅の反切サ、則落の反切サク、蔵落の反切サクで、為〈なす〉、起〈たつ〉、行〈おこなう〉、始〈はじめる〉、役〈つかう〉、生〈うむ〉の意味がある)、為〈なす〉、興〈おこす〉の意味がある。
【余義】一。『行巻』より以来聖人は、屡〈しばしば〉この字訓釈を須〈もち〉いられた。されど三心の字訓釈
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は最も詳細を極めている。聖人は何故〈なぜ〉に精神上の問題を解決するに、区々たる文字の穿整をこととせられたのであるか。吾等は字訓釈に行く前に、この点を考えて見ねばならぬ。
西派の東陽閣円月師は其の著『本典仰信録』に「俗典浅近の字訓に寄せて、以て三心即一心の深義を顕わす也」と云われた。所謂、寄顕〈きけん〉の説であると云う。字訓と云う動かすべからざる基礎に立ちて、三信即一の義を論定し証明すると云う意味ではなくして、只三信の一々の文字に親密の意味ある文字を集めて、夫によりて他力信心の内容をふくゆかに発表せんが為である。即ち文字其のものには生命がないが、聖人の信仰の息を吹き入れることによりて、力ある生命あるものとなるのである。云わば大理石には生命はないけれども、芸術家が自己の芸術心を表現するに都合よき材料であるから、夫を須いて美人像を彫刻すれば、その生命なき大理石は芸術家の魂が宿る為に、或る意味に於いて活きた人間よりも、吾等の心に意義と感銘を与えるようなものである。此の場合、大理石は美人像に対して何も論理上の基礎をなしてはおらぬ。唯その性賢が肌理〈きめ〉細かなために、芸術家の美的思想を表わすに便宜を与える丈である。聖人の字訓は之と酷似しているように思われる。漢字という細かな意義を有し、近似った多くの文字あるを幸いとして、聖人は複雑な細かな、深い信仰上の味わいを、
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之に寄せて表現せられたのであると思う。そこには論理や思弁を主とした証明はないけれども、眼前に大理石の美人像を見るような感興に撲〈う〉たれざるを得ない。この意味に於ては字訓釈は、須いた材料は俗典浅近な漢字に過ぎないけれども、それに即して表現せられた三心釈には、富麗〈ふくゆか〉な緻密〈こまか〉な、そして深い聖人の信仰そのものが表徴〈あらわ〉されてあるのである。
二。初めに至心の字訓である。至に真、実、誠の三訓を出された。『略本』はこの中「実」を略す。初めの真は、上の『散善義』の至誠心の釈に依られた。彼処〈かしこ〉には「至とは真なり。誠とは実なり」とある。この訓は義訓と云うて、至誠心の「誠」字に誠実の義があるから、其の誠字と熟する「至」の字に真という義訓を施されたのである。聖人は此の釈を承けて、「至」は「真也」とせられた。次に「実」というは、転訓である。即ち「真」字は『玉篇』に「不虚仮也(虚仮ならざるなり)」とある故、「真」は転じて「実」となる。更に其の「実」字は『広韻』に、実は誠也とある。即ち第三訓の「誠」字が挙げられた。
次に「心」には種、実をあぐ。「種」の訓は、『玄義分』二十一丁に『浄土論』の二乗種不生の種を釈して、「凡そ種と言うは即ち是其の心也」と云うてある。この義訓に依られたらしい。種は種子の義にて、ものの因〈たね〉である。心にも此の意義を有している故に此の訓を挙げられた。「実」
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の訓は、「種」から来たものである。種は物のの実〈み〉で、秋の実はやがて来ん年〈ことし〉の種となるからである。
三。信楽の信に十二訓を挙げられた。初めに「真」、「実」である。『広韻』に「信は忠信なり」とあり。『増修礼部韻』には此の「忠信」を註して「誠信懿実なり」と云う。懿実〈いじつ〉は朴実〈すなお〉のこと。「実」の訓はこれから来た。「真」は上の至心の下〈もと〉に、「至とは即ち是真也実也」とありて、「真」から実の訓が出ており、又今の信にも実の訓がある。それから関係して信に「真」の訓を挙げられた。上の至心の所にも此の真、実の二訓は出ているが、彼処には「まこと」と云う意味に須い、此処は忠信という訓から来ているので、私を交えず二心ないまことと云う意味である。
「誠」の訓は『広韻』の忠信という註の次に、験、極、用、重、誠の五訓を挙げてある中の第五訓である。実は誠実の義であるから、実の次に此の「誠」を出されたと見ゆる。「満」は『広韻』に実の訓としてある。実は物の満ちてある貌〈かたち〉であるからである。即ち信の直接の訓ではないけれども、実から転じて信の訓とせられたのである。「極」は極成の意味であろうと云われておる。極成とは夫に相違ないと決定とする因明の述語である。或いはそうかも知れ
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ぬ。信は一面決定の意味をもっているからである。次に「成」をいだされた。此の訓は信の字訓にはないが、誠の同音であるから転じて信の訓とせられたらしい。この例は『楽邦文類』三の延広寺浄土院記にあり。「用」は信用の義、「重」は尊重、又は敬重の義、この二訓の出処は上に挙げてある。
「審」は信の訓ではないが、『広韻』に誠の訓として出す。故に之も転訓である。審はつまぴらかに決定する義。「験」は上にあげた『広韻』の五訓の一、明かに考えること。二訓ともに疑わずに信ずるという信の意義を示しておる。「宣」は『小補韻会』に用也とある。即ち用字より転じて信の訓とせられた、ここでは明かと云う義である。最後に「忠」は信の本訓であって、忠信の意味、二心なくまことなること。
次に「楽〈ぎょう〉」の字訓は、欲、願以下八訓を挙げてある。欲は『玉篇』に「魚教切、欲也」に依りてあぐ。願は『玉篇』に欲字の註として出す。転じて楽の訓とする。二訓ともに願いのぞむと云う楽の意義を示している。「愛」は『増修礼部韻』に欲字の註として出す。矢張り転訓である。歓喜愛楽と熟しているから「楽」には親しい文字である。「悦」は『玉篇』に其の訓として「楽〈らく〉」を出し、「歓」も『玉篇』に其の訓として同じく「楽〈らく〉」を出す。この二訓を初め、以下の訓は
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皆楽〈らく〉音の場合である。かように悦歓の二字は、共に楽〈らく〉の訓を有しておるから、此の字を楽〈ぎょう〉の字訓とせられたのである。「喜」は「玉篇』に楽字の註に喜楽〈きらく〉をあげてあるから、転じて楽〈ぎょう〉の訓とせられた。「賀」「慶」の二訓の中、「慶」は「喜」の義訓であり、「賀」は亦「慶」字の訓である。『玉篇』に慶の註として「行賀也(賀を行ずるなり)」とあるに依る。
かくの如く「楽」に八訓ある中、上の三訓は「ぎょう」音の訓、後の五訓は「らく」音の訓である。さりながら矢張り楽の訓として出されたので、信楽の内容には.信心歓喜とある如く、身も心も歓喜に溢るる味わいがあるからである。我聖人ば字訓に依りながら字訓に拘泥せられず、擅〈ほしいまま〉に信念を発表せられたのである。
四。欲生の「欲」字に願、楽、覚、知の四訓を挙ぐ。「願」は『玉篇』に、「欲願也(欲は願なり)」とあるに依る。故に正訓である。「楽」は『広韻』に「楽欲也(楽は欲なり)」とあるから、転用して欲は楽なりとせられた。即ち欲生の欲は浄土へ生れたいと願い楽〈ねが〉うの意である。次に覚、知の二訓は、『広韻』に「知覚也欲也(知は覚なり、欲なり)」とあるに依る。即ち転用して、知、覚の二字を「欲」の訓とせられた。『略本』には、本文の「愚鈍の衆生をして解了易〈わかりやす〉からしめんが為に」の解了を覚知とせられてある。即ち覚知は了解の意味である。
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「生」字に、成、作、為、真の四訓を挙げてある。此の中「成」訓は字典にはない。『仁王経』の「諸法従因成(諸法、因より成)」を、良賁疏に釈して「諸法因より成ずとは、諸の有為は、必ず因を籍〈か〉りて生ずと示す。此〈ここ〉に成と云うは、是生成なり」と云う此の意に依れば、成とは生じ成るの謂いである。之を転用すれば、生ずると云う中に、成就〈できあが〉ると云う意味が含んでいると見られる。そこで「生」に「成」の訓を出されたのである。次に「作」は転訓である。『広韻』によりて此の字の下に反切と六訓を挙げられた。夫は「生」に「作」の訓があるという意味を知らせんが為である。初めに則羅の反は音、佐〈さ〉であり。則落の反は音鑿〈さく〉である。蔵落の反は矢張り音鑿〈さく〉である。次に字訓に就いて、「為」は「なす、なる」と訓む時は、作〈さ〉と同じに用いられる。「起」は起居と熟する時の意味で、座しておったが起〈た〉って事を作すという意である。「行」は行うの意、作の意味を含む。「始」は物を始めること。始めるとは、事を作〈な〉し始めること。「役〈えき〉」は使役の意、使いて作〈な〉す。使われて作す意味である。終りに「生」は六訓の中尤も必用な訓である。即ち欲生の「生」字には「作」の訓はないけれども、「作」字に生の訓があるから、転用して「生」に作の訓を挙げられた。そしてその次の「為」訓も、「生」字の訓ではないが、上の作字の訓に「為」があるから、転用して「生」の訓とせられた。是等の道程を示さんが為
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に、作と為の間に作字の六訓を挿入せられたのであろうと思う。最後に「興」は『増修礼部韻』に「興ハ作也」としてあるにより、転用して「生」の訓とせられた。興は興起の義にて、興〈おこ〉ること。浄土に生れると云うことは、本願力より興起〈おこ〉ると云うこと、又は浄土へ往生して還相の大悲を興すという意味を暗示している。
かように綿密なる注意と熟慮によりて、出来る限り三心の文字に関係ある端々〈はしばし〉の文字まで蒐集〈あつ〉めて、細密〈こまかに〉なる字訓を施された。実に一刀一刀に力を籠めて彫刻するような苦心鏤刻〈るこく〉の痕が歴々と見ることが出来るのである。吾等は其の煩鎖を思ふ前に、聖人の胸中に湧ける欝勃たる信仰味に驚かねばならぬ。夫を表現せん為に費やされたる労苦の跡が此の字訓である。吾等は進んで之が合釈に急がねばならぬ。
第三項 字訓融会
明和至心即是真実誠種之心故疑蓋無雑也信楽即是真実誠満之心極成用重之心審験宣忠之心欲願愛悦之心歓喜賀慶之心故疑蓋無雑也欲生即是願楽覚知之心成作為与之心大
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悲回向之心故疑蓋無雑也
【読方】あきらかに知りぬ、至心は即ちこれ真実誠種の心なるがゆえに疑義まじわることなきなり。信楽は即ちこれ眞実誠満の心なり。極成用重の心なり。審験宣忠の心なり。欲願愛悦の心なり。歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋まじわることなきなり。欲生は即ちこれ願楽覚知の心なり。成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆえに、疑義まじわることなきなり。
【文科】上に施した字訓を引きまとめてその意義を一つに融会したまう一段。
【講義】以上挙げ来った字訓で、明かに知れることであるが、至心というは真実誠種の心で、いずれもまことということである。手短かにいえば真実の心ということである。毛筋程も疑いの交〈まじ〉わらない心である。信楽は信に真実誠満の心、極成用重の心、又審験宣忠の心があり、楽に欲願愛悦の心、歓喜賀慶の心がある。即ちまことの心と、審〈つまび〉らかに決定する心と、喜びの心である。尚お切りつめて云えば、矢張り毛筋程も疑いの交わらぬ心一つである。欲生は亦願楽覚知の心、成作為興の心、大悲回向の心である。即ち往生をねがい、大悲を起す心で、矢張り如来の誓願を信じて、毛筋ほども疑いの交わらぬ心である。
【余義】一。三心の一々の字訓を了〈おわ〉り、此処には夫等の材料によりて、信の内容を明かに
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す。字訓の要とする所は三心は一信心に結帰することを闡明〈あき〉らにすることである。故に聖人は三心の各の字訓を、疑蓋無雑の四字に結ばれた。疑なく信ずる一つであると云うのである。
即ち至心は字訓によれば、真実誠種の心である。虚偽〈いつわり〉を離れた真実心の謂いである。吾等に取って、此の真実心とは、疑いなく信ずる心を云う。折り返して云えば疑いなく信ずる心とは、真実誠種の心である。虚偽を離れ、二心を雑〈まじ〉えぬ、仏果に至る種子は、此の疑いなく信ずる心であると云うのである。かくて聖人は、「まこと」と云うことは「信ずる」ことであると見られた。蓮如上人は之を承けて『御文』一条目第十五通に
さればその信心というは、いかようなることぞと云えば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく、弥陀を信ずるばかりなり。乃至
信心といえる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにて、たすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。
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と仰せられた。即ち如来の他力回向のまこと心とは、二心なく如来を信ずることであると云うのである。この意味に於いて至心の誠は、信ずる心の内容に外ならぬこととなる。故に聖人は「疑蓋無雑」を至心の真意義とせられたのである。
二。次に信楽の二十訓を四字ずつ五句に摂〈おさ〉められた。第三句までは「信」、第四、第五は「楽」を釈された。そして第一句の真実誠満の心は、上の至心を摂め、第四第五の欲願愛悦等の二句は、下の欲生を摂めるように思われる。そして第二第三の極重用重等の二句は、正しく信楽そのものを、正面に解釈せられたと見るべきであろう。
初めに真実誠満之心とは、忠臣の君后に帰するように、余〈よそ〉へ心を散らさず、一向に二心なく真実に満ちた心で如来に向かい奉ることである。この二心なく信ずる所に、虚偽諂偽を離れた至心の誠が籠っているのである。『唯信文意』初めに
信はうたがうこころなきなり。すなわちこれ真実の信心なり。虚仮をはなれたるこころなり。虚はむなしという。仮はかりなりという。虚は実ならぬをいう。仮は真ならぬをいうなり。本願力をたのみて、自力をすつるをいうなり。
初めに信の字義を解して、「うたがうこころなきなり」と云い、次に「真実の信心なり」と
(2-271)
結びて、この疑わず信ずる心が真実の心である、虚仮不実を離れた心であると仰せらるる、ここに至心が含まれてあるのである。
次に第二句「極成用重之心」とは、極成は因明に云う述語で、問答をなす双方で、互に相許すことである。今は本願の謂〈いわれ〉を聞いて、道理至極と信ずることである。用重は、信用し敬重することで、道理極成せる本願を信用して、敬い重んずることである。第三句「審験宣忠之心」は、審〈つまび〉らかににそして確実に、又明了に二心なく衷心より本願を信ずることである。此の二句は尤も適切に信の意義を明かにしてある。信〈まこと〉の心を深く細かに味おうた人でなければ、かように豊麗に、具体的に表わすことは出来ない。
第四句「欲願愛悦之心」は、他力本願の尊さを歓喜愛楽する心である。二心なく審らかに信じ敬う心には、この如来の大慈悲に溶〈とろ〉け込みたいの欲願と、同時に夫が満たされた愛悦〈よろこび〉の念が湧く。『正信偈』に「能く一念喜愛の心を発せば、煩悩を断ぜずして涅槃を得」と云い「慶喜一念相応の後、韋提と等しく三忍を獲」と仰せられたのは、之を指すのである。第五句「歓喜賀慶之心」もこの信の一念の歓喜を重ねて申された。そしてこの二句の中に、自ずと往生を願う欲生の心を学んでいる。信の一念には、純粋なる願往生の心がある。楽しみを貧るよ
(2-272)
うな穢わしい念ではなしに、真実に親心〈おやごころ〉の尊さを感じた子が、自ずと親の膝下〈ひざもと〉に行かんと願うような意味に於いて、往生を願うのである。
上の如き八方に開いた豊麗な牡丹花のような信の心も、摂〈おさ〉めて云えば疑蓋無雑の萼である。深く本願を信じて疑いなき心が、是等の様々なる心を籠めていると云うのである。
因みに蓮如上人が『御文』に屡〈しばしば〉用いらるる「後生たすけたまえとたのむ」は、信楽のこころを打ち出されたのであるが、是に就いて大凡〈おおよそ〉二通りの解釈がある。
(一)はたすけたまえは発願、たのむは帰命であるという。一心に弥陀をたのむ信に具わる願が、たすけたまえである。上の信楽の字訓釈にも、審〈つまび〉らかに信ずるとともに、欲願愛悦の心があると云われたことに依りても知られる。ここにはたのむ所に生命があるという。『御一代記聞書』にも、
極楽は、たのしむと聞いて、参らんと願いのぞむ人は、仏にならず。弥陀をたのむ人は、仏になると仰せられ候。
とあり。楽しみをうる為に往生を願うは、信なき自力我慢の願である。此の意味に於いて信楽を本〈もと〉とせない欲生は無意義と云わねばならぬ。唯〈ただ〉信のある所には自ずとと欲生心が具わる
(2-273)
『執持鈔』の終りに
そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願心なり。
とある。帰命は信心である。この信に具わる願(往生の証果を願う希望の心)を表わして「往生の為なれば、亦これ発願なり」と云われたのである。
(二)は、たすけたまえに二義ありて、一は弥陀の勅命を真受〈まう〉けにして頼む有様〈ありさま〉を示されたという。即ち仰せの通りにたのまねばならぬものであるが、そのたのみ具合はどうかと云えば、たすけたまえとたのめと教えられたというのである。二は、自分の力ではとても助かられぬ後生の一大事を、如来にまかせ奉るすがたを教えられたという。即ち助かられぬ身と自覚する時、その助かれぬものを助ける、と仰せらるる如来に、まかせる所が、此のたすけたまえであるという。此の二義は裏表から云うた丈で衝突することはない。つまり此の説は上のたすけたまえとたのむを願と信とに配当したるに対して、二者を一語として、一つの意味に取ったのである。従ってたすけたまえと云へえば、たのむは自ずから含まれてあり、たのむと云えばたすけたまえは自ずと籠っているのである。故に何れも帰命であり信である。従ってその中には願の含んであることは申す迄もない。
(2-274)
以上二説の何〈いず〉れも道理のある説であるが、信仰の実際味わいから云えば、後説の方が適切であるように思われる。願と信とに配当するは説明としては、面白いが、実際には疎いようである。
三。欲生の八訓は二句となり、更に字訓にない「大悲回向」の一句を添えられた。初めの「願楽覚知、成作為興」等の二句は、一連にして解する方がよいようである。即ち往生を願楽〈ねが〉いて仏となることは、本願他力より興ると覚知するの意である。覚知は了解の義であるから矢張り信である。此の意味に於いて欲生は希望の信である。信は現在の一念にありながら限りない希望の未来を懐いておるのである。『帖外和讃』の
超世の悲願ききしより 我等は生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど 心は浄土にすみあそぶ。
の信味は此の欲生の心としても味わわれることと思う。或いは「成作」の成仏に対して、「為興」を還相の大悲を興すと解してもよい。『和讃』に
願土に至ればすみやかに 無上涅槃を証してぞ
すなわち大悲をおこすなり これを回向となづけたり。
(2-275)
がそれである。何れも希望の信たるに於いては変りはない。終りに「大悲回向」を加えられたのは、欲生の心は、楽しみを貪る吾等の自力の欲願でない。全く他力の回向たることを示さんが為である。かく信一つに摂まる故に上の二心と同じく「疑蓋無雑」の一句を以て結ばれた。
四。かように一筋の糸にて数ある珠数玉を繋ぐように、三心の字訓を唯「疑蓋無雑」の一句に貫かれ、次に「今三心の字訓を案ずるに」と冒頭〈まえおき〉して、真実心の至心と、正直心の欲生をあげて、「虚仮雑わることなく」「邪義雑わることがない」から信楽と名づくと、至心欲生の二心を其の儘信楽であるとせられ、そしてこれが一心である、真実心である、論主の一心は是であると、大河の決するように、竹を破るように、些〈すこし〉の滞る所もなく、三心即一の義を証せられた。痛快極りない。
第四項 結釈
今按三心字訓真実心而虚仮無雑正直心而邪偽無雑真知疑蓋無間雑故是名信楽信楽即是一心也一心即是真実信心是
(2-276)
故論主建言一心也応知
【読方】今三心の字訓を按ずるに、真実の心にして虚仮まじわることなし。正直の心にして邪偽まじわることなし。真〈まこと〉に知んぬ、疑蓋間雑なきが故に、これを信楽となづく。信楽すなわちこれ一心なり。一心すなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主はじめ一心といえるか。しるべし。
【文科】上来広く釈せられた字訓を結びたまう一段である。
【講義】 今三心の字訓を按〈しら〉べて見るに、至心は真実心であって虚仮の雑わらない心であり、欲生は亦正直に往生を願う心で、邪偽の雑わらない心である。これによりて見れば、真〈まこと〉に毛筋程も疑いもなく本願を信ずる心が信楽であることが解る。至心欲生の二心はこの信楽に摂〈おさま〉るのである。信楽は天親菩薩の一心である。此の一心は即ち如来回向の真実信心である。この故に天親論主が、『浄土論』の初めに「一心」と仰せられたことである。
【余義】この下の余義は、次上の二七五頁の釈を見られよ。
(2-277)
第五章 三心別相問答
【大意】上には三心を一心にせられた理由を問答したのであるが、これよりは進んで、裏から然らば何故に如来は一心と誓いたまわずして、特に三心と誓われたのであるかという問いを起したのである。
この答えは、どうしても三心の各の内容を広説せなければならぬ。即ち三心の各に体相と経釈の文証と、結釈とを施し給う。
第一節は問、第二節は至心釈、第三節信楽釈、第四節欲生釈である。各釈毎に項と科を分かつ、委しいことは以下順序を追うて見ていただきたい。
第一節 問
又同如字訓論主意以三為一義其理雖可然為愚悪衆生、阿弥陀如来已発三心願云何思念也
【読方】また問う、字訓のごとき、論主のこころ三をもて一とせる義その理しかるべしといえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願をおこしたまえり。云何が思念せんや。
【文科】如来の三心をたて給う所以を問う文である。
(2-278)
【講義】問うて曰く、三心の字訓に依って見れば、天親菩薩が、本願の三心を合して一心と宣うた義理合〈わけあい〉は明かに知れるのである。処が阿弥陀如来は、こういう愚かな徒〈いたず〉らな衆生を対手〈あいて〉にして簡単に一心を誓わず、何故に複雑にも三心の願を立て給うたのであろうか。このことはいかに考うべきことであろうか。
【余義】一。二番問答の中、初めは如来の三心を何故に論主は一心とせられたのであるか、と云う問いに答えたのであったが、第二の問いは、然らば一心丈誓われたらよさそうなものであるのに、如来は何故に三心を起こされたのであるかと云うのである。此の問いは、信仰の本質に関する疑問である。従って其の答えは、信仰の本質たる三信の意義と、其の発生の動機と、及び三信相互の関係でなければならぬ。当巻に於ける尤も主要なる問題に進んだのである。
問題に入るに先立ち、第一に考えねばならぬ事項は、一括して三信とは何であるか、と云うことである。三信の一々の釈義を聞く前に、先ず其の根本の意義を明かにして置く必要があるのである。
曰わく三信とは如来の心である。即ち如来の大慈悲である。如来は因位に於いて第十八願
(2-279)
に、三信と十念を誓われた。三信は信、十念の行である。如来はこの信行を成就することによりて成仏せられた。即ち因位の理想たる三信が、実現せられて、如来とならせられた。そして其の成就せられた三信は、全く吾等を救済せんが為に外ならぬ。言葉を換えて云えば、黒暗〈まっくら〉なる私共をして、御自身と等しき大証果を獲せしめんが為である。
大凡〈およそ〉人間同志の間柄〈あいだがら〉に於いても、尤も快心なることは、二人の間に於ける真の精神的感応である。一人の心は他の心に入り他の心は此の人の心に入ると云う、人格の障壁の除き去られる程快心なことはない。そして又是程困難なことはない。親子、兄弟、夫妻、朋友は、皆此の超ゆべからざる人格の壁に衝〈ぶつか〉りて苦んでいるのである。如来はこの最大難事を果さんと試み、そして其の願望を果すべき力と、確信と獲られた。それが即ち三信の成就である。巧〈たくみ〉なる猟師にあっては、一度覘〈ねら〉いを定める時に、掛金を引かない中に、もう鳥は撲〈う〉たれたも同様であると云う。弾丸〈たま〉の当った時に当ったのでない。覘〈ねら〉われた時当っている。否彼が覘〈ねら〉う前に姿勢を定め心を落ち著けた其の時に当ったのであると云わねばならぬ。如来の三心は即ち此の心の落ち著いた時とでも譬うべきである。此の意味に於いて、救済の弾丸〈たま〉の当る前に、その弾丸を当るべき根本の三心の心は決定せられたのである。即ち三信と
(2-280)
は、我等を救済せんとする如来の精神である。
然るに此の三心は亦、機と法の各の上に見、機法関係の上に味わわねばならぬ。言う迄もなく信仰上のことは、骨董品を品隲〈ひんちょく〉するように、単に客観的にのみ論議することは出来ぬ。どうしても吾等の主観の上に求めねばならぬ。されど亦純粋に主観の産物とも思うことは出来ない。矢張り法の上に其の根拠を求めねばならぬ。或いは寧〈むし〉ろ主観客観という概念を離れた所に三心の真面目があるのである。是等の問題を研究し発表することは頗る至難の事業である。さりながら若し真実なる信仰の経験を有する人、又は真面目に信仰を求める人に取りては、よしや其の説明は不完全であっても、此の三心を体得することは決して困難のことではない。吾等は先ず一応古来の説に従いて、三心の諸問題を研覈〈しら〉べねばならぬ。
二。前に三心は如来の御心であると申したが、如来の御心は大慈悲心であるから、其の御心の全幅は吾等凡夫の心と離れることは出来ぬ。故に此の下の聖人の至心釈には、吾等の心に塵ばかりの真実心がない為に、如来は永劫の修行に於いて、清浄の真心を成就して、吾等に回施し給うと云い、信楽釈には、吾等の心に信ずる心がない為に、如来は広大なる信念を成就して吾等に与え給うと云い、更に欲生釈には、吾等の心に清浄の回向心が
(2-281)
ない為に、如来は大悲の回向心を成就して、吾等に回施し給うと仰せられた。かくの如く如来は、吾等の迷妄の心の為に、清浄にして円満なる心を成就せられたのが此の三心である。裏から云えば我等の心を外にしては、如来の三心は起る咎なく、従って我等の心の上に此の如来の三心を経験することがなければ、真〈まこと〉にこの三心を知ることは出来ないのである。けれども亦一方から云えば、我等の心を知るは容易のことではない。此の心相を自覚するには、どうしても如来の三心を聞かねばならぬ。如来の三心を聞いて我心を知る、此一念同時に真〈まこと〉に両者の心を知る。即ち仏凡一体の境に達するのである。此の意味に於いて先ず吾等は如来の三心を知らねばならぬ。
第一に至心は、如来の真実心である。如来は永劫の間に吾等を救済する真実心を成就せんが為に、一念一刹那も虚仮を雑えることなく、よく円満広大なる真実心を成就せられた。之と同時に如来は第二に信楽を成就せられた。此の心は上の真実心から自ずら流出する心である。即ち如来の決心である。飽迄〈あくまで〉も吾等を信じてかかる心である。吾等が疑謗を擅〈ほしいまま〉にすればする程、如来の信力は益〈ますます〉吾等に加わるのである。第三の欲生心は、上の真心を籠めた信念を以て、直接吾等の心に接せんとする心である。即ち大悲招喚の救命である。此の場合
(2-282)
如来の心は、そのまま如来の言葉である。上の二心が言葉となって活躍した所が、この欲生心である。斯の如く欲生は信楽を体とし、信楽は至心を体とする。
更に法の上に此の三心相互の関係を見るに、三心互いに融通相摂して滞る所はない。至心は体、信楽は相、欲生は用である。今至心の体に就いて考うるに、疑いなく助けるという決定心の信楽も、我国に生れよと喚ぶ欲生心にも、至心の真実は宿って居る。かように相と用とは、常に結帰することが出来る。故に『略本』十二丁には「三心皆共に真実」と仰せ
られた、更に信楽の相に就いて考うるに、利他真実の至心にも、勅命の欲生心にも、疑いなく助けるという決定心は行き亘っている。かように体と用とは、相の信楽に結帰するのである。此の下の至心、欲生釈の終りに何れも「疑蓋無雑」の句を以って結ばれ、『略本』十二丁にも「三心皆共に真実にして疑心無し」と云うは此の意〈こころ〉である。次に欲生の用に就いて云えば、如来が至心を成就せんが為に永劫の間、菩薩の行を行ぜらたのは、皆吾等に回施し回向せられたのであった。そして疑いなく助けるという信楽には、そこに具わっている無辺の功徳を吾等に回施する心が潜んでいる。故に『略本』十四丁には「三心皆是れ大悲回向心なるが故に」云々と仰せられた。かように、体と相とは用の欲生心に結帰する
(2-283)
のである。
斯の如く如来の三心は、体に摂むれば至心となり、相に摂むれば信楽となり、用に摂むれば欲生となる。もと一つ御心を三方面から見たので、人間の精神を智情意に分かったように、決して別々に分かつことは出来ない。各の精神活動には、必ず他の二つが伴うように、如来の三心も、互に融通相摂して滞る所はない。
三。更に進んで、此の三心が吾等の上に表われる模様を考えて見るに、吾等の自覚する所は、唯疑いなく信ずる心丈であるが、併し此の信念は、名号の謂われを聞信して起ったのである。即ち本願の名号が、吾等の諂偽なる機に印現した所が「利他の真心」である。「不可称不可説の至徳」である。これが信楽の体たる至心である。されど吾等はこの体を自覚することは出来ぬ。若しこの至心を真に経験することが出来るならば、広大円満の証りを開いたのである。それは現実の吾等に取りては不可能のことである。故に吾等は唯その相を自覚する。相は即ち疑いなく信ずる信楽である。『最要抄』初めに
この信心をば、まとのこころとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり
この仏心を凡夫にさずけたまうとき、信心といわるるなり。
(2-284)
これ広大の仏心が、吾等の心に表われて、疑蓋無雑の信楽となることを示されたのである。
次に欲生は、信楽の上に自ずと具〈そな〉わる用である。信心決定の同時に、往生の証果に就いて決定の信を起こす、これを善導大師は「得生の想いを作〈な〉す」と仰せられたのである。
上に述べた所を、試みに図示すれば左の通りである。
挿図(yakk2-284.gif)
かくの如く三心の本末関係を論ずれば、この下の三心釈に仰せられし如く、欲生は信楽を体とし、信楽は至心を体とし、至心は至徳の尊号を体とするのである。この意味に於いて吾等の信仰は、如来の御名より生まれたものと云わねばならぬ。願力回向、他力回向の妙趣
(2-285)
はここに伏在するのである。
四。三信本末関係を見た吾等は、なお適切にこの三信を実際上、吾等の胸に経験する状態を思考せねばならぬ。所謂行者機受の相を明了にせねばならぬ。是が甚だ重要の問題である。
この本願の三心を受くる相は、大経下巻成就之文がそれである。「その名号を聞いて、信心歓喜せんこと乃至一念せん、至心に回向し給えり。」即ち名号の謂われを聞信する一念が、如来の三心を頂いた所である。聖人はこれを此の下の信楽釈に
真に知んぬ、疑蓋間雑すること無きが故に、是を信楽と名づく。信楽は即ち是れ一心也。一心は即ち是れ真実信心なり。是の故に論主建〈はじめ〉に、一心と言える也。
と仰せられた。名号の謂われを聞信する丈でよい。それが信心である。一心帰命である。本願の三心は此の信心となって吾等の上に表われたのであると云うのである。これを成就の文に照して図示すれば
(2-286)
挿図(yakk2-286.gif)
名号の謂われを聞いて信心歓喜するは、疑いなく信ずることである。それは至心回向を頂いた時である。これが一念同時であるから「乃至一念」と仰せられた。『執持抄』の終りに
この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行、果地の万徳、ことごと名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、阿弥陀仏即是其行と釈し
とある。能帰の心と、所帰の仏智と相応した所は、疑いなく本願を信じた一念である。此の時万善万行は吾等の心中に回施せられる。信楽は、吾等にありては唯疑蓋無雑の心なれ
(2-287)
ど、この心は「如来の満足大悲、円融無碍の信心海」である。此の信心は至心を摂め欲生を孕んだ往生の正因である。
ここに於いて、更に上図の意味を明かにすれば、仏より云えば、至心、欲生の二心を以て、衆生の信楽を開発したこととなり、衆生より云えば、信楽の一心を以て、仏の二心を摂めたこととなる。かくて仏と衆生は、心と心を以て一となり、本願の三心は吾等のものとなり、吾等の三心は、如来の三心となる。仏凡一体にして不即不離である。
五。更に此の三心の中、如来の欲生心が、吾等の至心信楽の二心を成就する味わいがある、『銘文』初めに
至心は真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御誓いの真実なるを、至心ともうすなり。乃至
信楽というは、如来の本願真実をましますを、ふたごころなく深く信じてうたがわざれば信楽ともうすなり。
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしと、すすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。
(2-288)
欲生我国というは、他力の至心信楽をもて、安楽浄土へうまれんと思えとなり。此の時は、初めに至心信楽の謂われを解釈し、最後に欲生心に於いて、此の二心を含めたる如来の勅命とせられた。故に三心の中、正しく吾等に向いて、働く心は此の欲生心である。此の心は「如来が、諸有の群生を招喚し給う勅命」である。即ち大悲回向の心である。至心の真実〈まこと〉も、信楽の決定心も、正しく吾等の心に注ぐ時には、此の大悲回向の心よりするのである。母が幼児〈おさなご〉を呼んで乳を与えるのが欲生心である。母の真実も、飽迄〈あくまで〉も子を信ずる心も正しく子に向う時には、慈愛の言葉となり、乳となりて流れ出るのである。これが大悲回向の心である。此の大悲回向の勅命が、吾等の心に入りて、至心信楽の心となる。
挿図(yakk2-288.gif)
(2-289)
古人が「仰せ丈で安心せよ」と云われたのは是れである。「仰せ」は欲生心の勅命である。その勅命に安んじた所が、至心信楽である。『略本』十四丁に、二河喩の願往生心を釈して
能生清浄願心は、是れ凡夫自力の心に非ず。大悲回向の心なり。故に清浄願心と言えり。
即ち吾等の起す信心(『愚禿鈔』下二十丁に清浄願往生心は、無上の信心、如来回向の信楽であると仰せられてある。)は、如来の大悲回向心である。至心信楽をこめたる欲生心の表われであると仰せらるるのである。
六。三一問答は、我聖人の信仰の具体的表現であるとともに、亦高遠なる神秘哲学である。之を講述することは決して容易のことではない。理路を辿り、情趣に訴え、深く聖人の信念に沈緬せねばならぬ。我等は上来各方面より、他力信念の奥旨を観察し、色味したが、ここに生きた三一問答の註解として、故清沢満之師の「我信念」の一節を掲げることとする。
私の信念とは、申す迄もなく、私が如来を信ずる心の有様〈ありさま〉を申すのであるが、其れに就いて、信ずるということと、如来と云うことと二つの事柄があります。此の二つの事柄は、
(2-290)
丸で別々のことの様にもありますが、私にありてはそうではなくして、二つの事柄が、全く一つのことであります。
私の信念とは、どんなことであるか、如来を信ずることである。私のいう所の如来とは、どんなものであるか、私の信ずる所の本体である。
信ずる信念と、信ぜらるる如来、分けて云えば能信と所信、機と法であるが、是れが実際の上では一つなのである。この一つの味いを、発表する時には、二つの形式に表わした迄である。
私が種々の刺戟やら、事情やらの為に、煩悶苦悩する場合に、此の信念が心に現われ来る時は、私は忽〈たちまち〉にして安楽と平穏とを得る様になる。その模様はどうかと云えば、私の信念が現われ来る時は、其の信念が心一ぱいになりて、他の妄想妄念の立場を失わしむることである。如何なる刺戟や事情が侵して来ても、信念が現在して居る時には、其の刺戟や事情が、ちっとも煩悶苦悩を惹起することを得ないのである。
聖人が、信楽の字訓に「欲願愛悦之心」「歓喜賀慶之心」を挙げられたのは、此の実際生活に於ける信仰の功能を申されたのである。
(2-291)
私は、何が善だやら、何が悪だやら、何が真理だやら、何が非真理だやら、何が幸福だやら、何が不幸だやら、何も知り分かる能力のない私、随って善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だのと云うことのある世界には、左へも右へも、前へも後へもどちらへでも.身動き一寸することを得ぬ私、此の私をして、虚心平気に此の世界に生死することを得せしむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。私は此の如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んでゆくことも出来ぬ。私は此の如来を信ぜずしては居られない、此の如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である。
二河白道は、人生に処して、切っぱつまった此の絶対絶命の境地を象徴したのである。善悪、苦楽、真非真という、人生の航路に於ける舵が壊れて、何とも手も足もでないようになった所で、如来は、私共の生命の本となりて、私の心の中へ入って下さる。疑蓋無雑の信楽とは、この力を指すのである。
無限大悲の如来は、如何にして私に、此の平安を得せしめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には毫も障りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの
(2-292)
必要はない。何事でも、私は只自分の気の向かう所、心の欲する所に順従〈したご〉うて、之を行うて差支はない、其の行いが過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は私の一切の行為に就いて、責任を負うて下さることである。私は只此の如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。
如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に遍満してある。如来の能力は、十方に亙りて自由自在、無障無碍に活動したまう。私は此の如来の威神力に寄托して、大安楽と大平隠とを得ることである。私は、私の死生の大事を此の如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、此の天と命との根本本体である。
実に滔々〈とうとう〉たる自覚の文字、他力信念の赤裸々に活躍した発表である。常に吾等を強迫する死生の大事に囚〈とら〉えられず、能く是れを制馭〈せいぎょ〉し、濁浪界中に、無碍の大天地を開きて、大平穏と大安楽を獲ることは、決して凡夫自力の心でない。我聖人が、貶竄〈へんざん〉の時も、流離漂浪の悲しい時にも、生死の窮厄裏にありても常に此の大安楽と、大平穏を得られたのは、他力信念の力であった。そして聖人と先師との心霊の共鳴は、「勿来満足大悲円融無碍の信心」
(2-293)
「無碍広大の浄信」の致す所である。『和讃』に
信心よろこぶその人を 如来と等しとのべたまう
大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり。
「行信能所、機法是一」、如来の三心が私共に宿るとは、如来が私共の心に入って下さることである。三一問答は、我聖人の信念の奥旨を叩いた響である。この響は、一切の人々の胸奥に眠れる真我を呼び醒して、絃々〈げんげん〉共鳴の霊楽を奏でしむるであろう。
第二節 至心
【大意】 答の第一に至心をいだしたまう。第一項には至心の体相を出し、第二項には経文証として『大無量寿経』と『如来会』の文を引き、第三項には釈文証として『散善義』の文を引き、第四項に結釈を施し、『涅般経』の文を引いて真実を釈せられた。
第一項 至心の体相
答仏意難測雖然竊推斯心一切群生海自従無始已来乃至今
(2-294)
日至今時穢悪汚染無清浄心虚仮諂偽無真実心是以如来悲憫一切苦悩衆生海於不可思議兆載永劫行菩薩行時三業所修一念一別那無不清浄無不真心如来以清浄真心成就円融無碍不可思議不可称不可説至徳以如来至心回施諸有一切煩悩悪業邪智群生海則是彰利他真心故疑蓋無雑斯至心則是至徳尊号為其体也
【読方】答、仏意測りがたし。しかりと雖ども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし。真心ならざることなし。如来清浄の真心をもて、円融、無碍、不可思議、不可称、不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもて諸有の一切煩悩、悪業、邪智の群生海に回施したまえり。すなわち是れ利他の真心をあらわす。かるがゆえに疑蓋まじわることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
【字解】一。群生海 一切衆生のこと。あらゆる有情〈いきもの〉は、一所に群りて生活しているからである。
二。穢悪汚染 煩悩罪悪にけがされていること。
(2-295)
三。虚仮諂偽 いつわり、へつらいのこと。
四。衆生海 一切衆生のこと。有情の多いことは大海のように広遠であるから、海の字を用ゆ。
五。兆載永劫 永遠の時間。支那の二十三数(一、乃至十、百、千、万、億、兆、京、垓、柿、依、講、澗、正、載)の兆と載とを重ねたる永劫の時間であるから、非常に長い時をいう。
六。円融 一切の功徳と智慧が円〈まどか〉に融け込んで渾然として一つになっていること。そしてその円融の徳が、吾等、聞信の一念に、円〈まどか〉に融通し円備するをいう。
七。無碍 煩悩悪業に障えられず、壊〈やぶ〉られざること。
八。不可思議 功徳殊勝にして、思い量るのことの出来ないこと。
九。不可称 功徳勝〈すぐ〉れて称讃〈ほめたた〉えるに言葉もないこと。
一〇。不可説 功徳広大にして説き示すことが出来ないこと。
一一。至徳尊号 南無阿弥陀仏の六字のこと。この名号の六字の中に、一切の功徳が摂在せられてあるから。
【文科】 如来の三心の誓に対する問に就いて、第一に至心の体相を示したまう一段である。
【講義】答えて曰わく。如来の覚召しは深遠であるから、凡夫の分斉で測り知ることの出来るものではないけれども、少しく其の覚召しを伺うて見ると、恐れ乍ら左の如き理由であろうと思う。あらゆる衆生は過去久遠の昔から今日ただ今まで、穢れ汚れて、少しも清らか
(2-296)
な心を持って居らない。又うそ偽り諂〈へつら〉いの心ばかりで真実〈まこと〉の心というものは微塵もない。それであるから、如来は、このあらゆる苦しみ悩める衆生を憐れに覚召して、計り知ることの出来ない兆載永劫の昔、因位の法蔵比丘として、菩薩の大行を修行して下された時、身口意の三業になし給う所、ほんの少しの間でも、清浄にして、汚れを離れ、真実心を以てなし給うたのである。かくして如来は清らかな真実心から、あらゆる功徳という功徳、智慧といふ智慧を悉く円かに具えて、而もそれを一時に衆生の方へ手渡しすることの出来る融通自在な、口にも筆にも、何ともいうことの出来ない、ただ不可思議というより外ない六字の名号を御成就下されて、この如来の至心即ち真実心を、あらゆる煩悩悪業に満ち満ちて自力我慢の邪〈よこしま〉の智慧を振りまわして居る衆生にすっかり御与え下されるのである。この如来の至心が、衆生の方に顕われて、他力の信心と云われるのである。それであるから、疑い深い凡夫なれども、疑わず危ぶまず、弥陀如来を憑み奉るようになったのである。斯の至心というは、とりも直さず、六字の名号である。体を押えて云えば、南無阿弥陀仏の御名である。
(2-297)
第二項 経文証
第一科 『大無量寿経』の文
是以大経言不生欲覚瞋覚害覚不起欲想瞋想害想不著色声香味之法忍力成就不計衆苦少欲知足無染恚痴三昧常寂智慧無碍無有虚偽諂曲之心和顔愛語先意承問勇猛精進志願無倦専求清自之法以恵利群生恭敬三宝奉事師長以大荘厳具足衆行令諸衆生功徳成就 已上
【読方】ここをもて大経にのたまわく、欲覚、瞋覚、害覚を生ぜず、欲想、瞋想、害想を生ぜず、色声香味の法に著せず、忍力成就して衆苦をはからず、少欲知足にして染恚痴なし。三昧常寂にして智慧無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にしてこころをさきにして承問す。勇猛精進にして志願ものうきことなし。もはら清白の法をもとめて、もて群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事し、大荘厳をもて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまえり。
【字解】一。欲覚瞋覚害覚 貪欲と瞋恚と、並びに瞋恚から起る害心のこと。覚は思覚の意で、しかとした
(2-298)
思想をいう。
二。欲想瞋想害想 貪欲、瞋恚、害心の因となる気分をいう。想像又は想念、ぼんやりと起る是れ等の心をいう。
三。忍力 忍耐の力。
四。三昧 定〈じょう〉のこと。梵語 Samadhi 三摩地。等持又は正心行処ともいう。心を一境に安住する故に云う。
五。清白之法 清浄潔白なる法〈ものがら〉。
六。大荘厳 大いなる功徳のこと。即ち福徳と智慧のこと。功徳は最も美わしく身を厳〈かざ〉るものであるから此の名あり。
【文科】『大経』によりて如来因位の至心を示したまう。
【講義】それであるから『大無量寿経』には左の如くいうてある。貪欲、瞋恚、悩害の覚〈かんがえ〉も想〈おもい〉も起し給わず、色声香味触の外法に執著し給わず、堪え忍ぶ御力が強く在して、どんな苦痛にも心を動かし給わず、欲少なくして、常に満足の思いに住し給い、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒の煩悩は少しも在まさず、身は常に禅定の床を離れず、寂静の波澄み、慧の日冴え渡らせられた。虚偽〈いつわり〉諂曲〈へつらい〉の心は微塵も有〈も〉ち給わず、御慈悲の御心から御顔を
(2-299)
和らげ、語〈ことば〉を柔らげ、衆生の心を能く能く汲みとりて、求めない前に、何事をも与えて下される。かような長い御修行の間、勇猛精進して、少しも倦ませ給うことなく、専ら清らかな白法〈よきこと〉を求めて、一切衆生に恵み施し給う。仏法僧の三宝を敬うては、身に福徳を得、師匠や先輩に事〈つか〉えては心に智慧を得させられた。この福徳智慧の二つの荘厳によって、種々の修行をつとめ、其れ等の全体を挙げて、一切衆生に回向して、大功徳を成就させて下されるのである。
【余義】此の下、経釈を引いて至心の内容を説示せらる。第一に、『大経』勝行段の文を引いて、弥陀如来が因位に於いて、至心の真実一つで、勇猛精進の行を修め、吾等衆生をして、功徳を成就せしめ給う有様を明かされた。第二は『如来会』の文で、上の『大経』の文意を助成して、文意を豊富ならしめた。次の『散善義』の文は、上の如来の真実を、吾等が実際に頂く有様を、懇切に指導せられた有力な文字であるから、経文の後に直ちに引用せられた。更に私釈に移りて、真実の意義を説かれた『涅槃経』(北本十三 南本十二)の文を引いて、直裁簡明に真実は如来であると示された。「実諦者、一道清浄にして二あることなき也」の文は『行巻』一乗海の下にも引用せられてある。「実諦」は経の当文としては仏性を指すのであるが
(2-300)
ここは本願真実の意味にて引用せらる。次の「真実者即是如来」の文は同品異処の文である。終りの『涅槃経』(北本三十八・南本三十四)の文は、如来の本願は、機の善悪、凡聖を簡ぶことはないとというふ証拠に引用せられたのである。
第二科 『無量寿如来会』の文
無量寿如来会言仏告阿難彼法処比於世間自在王如来及諸天人魔梵沙門婆羅門等前広発如是大弘誓皆已成就世間希有発是願已如実安住種種功徳具足荘厳威徳広大清浄仏土修習如是菩薩行時経於無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫内初未曾起貪瞋及痴欲害恚想不起色声香味触想於諸衆生常楽愛敬猶如親属 乃至 其性調順無有暴悪於諸有情常懐慈忍心不詐諂亦無懈怠善言策進求諸白法普為群生勇猛無退利益世間大願円満 略出
【読方】無量寿如来会にいわく。仏、阿難につげたまわく、かの法処比丘、世間自在王如来及び諸の
(2-301)
天人、魔、梵、沙門、婆羅門等のまえにして、ひろく是の如きの大弘警をおこして、みなすでに成就したまえり。世間に希有なり。この願を発しおわりて、実のごとく安住す。種々の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳せり。かくのごときの菩薩の行を修習せるとき、無量、無数、不可思議、無有等々、億那由多、百千劫をふる内に、初より未だかつて食瞋および痴欲害恚の想をおこさず。色声音味触の想をおこさず。諸の衆生において、つねに愛敬をねがうと、なおし親属のごとし。乃至 その性、調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情においてつぬに慈忍の心をいだきて詐諂せず。また懈怠なし。善言策進して、もろもろの白法をもとめしむ。あまねく群生の為に勇猛にして退することなく、世間を利益する大願円満したまえり。略出
【字解】一。法虚比丘 魏訳の法蔵比丘のこと。
二。世間自在王如来 魏訳の世自在王如来のこと。梵語ローカ(世、又は世間)エーシュワラ(自在)ラーヂャ(王〕(Lokesvaraja)の訳名。世饒王仏、世王仏、饒王仏と略称せらる。一切法に於いて自在を得、また世間に利益を施すこと自在なるが故にこの名あり。
三。魔 大魔王。六欲天におる魔王のこと。欲界の天主である。
四。梵 大梵天王。色界初禅天の主である。身長一由旬半、寿命一劫半。
五。沙門 梵語シュラマナ(Sramana)の音訳。桑門、沙門那等ともいう。勤息、止息と訳す。仏教によりて出家したる人を指す。即ち諸の善を勤め、悪を止める意味である。
(2-302)
六。婆羅門 梵語ブラフマナ(Brahmana)の音訳。浄行と訳す。印度四姓の最高位に位する種族。僧侶の階級。
七。大弘誓 大誓願、大いなるちかい。
八。不可思議 思い量ることの出来ない程の長い時間。
九。無有等々 比較することの出来ない程の長い時間。
一〇。那由他 梵語ナユタ(nayuta)、萬億、千億、又は数千万と訳す。
一一。調順 すなおなること。諸根よく調い、心の柔順なること。
一二。白法 善法のこと。清白の法に同じ。
【文科】異訳『如来会』によりて正依の経文を助顕したまう。
【講義】『無量寿如来会』に言わく。釈迦如来、阿難に告げ給うよう。法処比丘(法蔵比丘)は、世間自在王如来(世白在王如来)の御許〈おんもと〉で、い並ぶ数多の天人、第六天の魔王、梵天、沙門、婆羅門などの面前に於いて期くの如き、四十八の大誓願を発し給うたが、この四十八の大願の中に、願という願は悉く具わって居るのである。斯のような大誓願は三世の諸仏も発し給わず、恒沙の薩埵も立て給わぬ世間に殆んどたぐいない大願である。法処比丘は、この大願を起し給うて、益々願心堅固に修行し、種々の数限りもない功徳を積み
(2-303)
集め、威神功徳の広大なる無漏清浄〈きよらか〉の仏土を荘厳し給うた。この間、菩薩の大行を修行し給う時間は、数にも数えられぬ、量りにも量られぬ無量無数百千万劫の間であった。菩薩は、この長〈なが〉の間は貪慾、瞋恚、愚痴の三毒の想〈おも〉いは、少しも起し給わず、色声香味触の外境には微塵も執着をかけ給わず、一切の衆生に対して、宛〈さなが〉ら、自分の親属〈みうちのもの〉の様に愛敬の思を垂れ給うた。御心持ちは常に平〈たいらか〉で、柔ぎて、少しも手暴〈てあら〉なことはなく、慈悲と忍辱の心を以て衆生を憐れみ、それも真実心〈まことごころ〉から可愛がり給うのであるから、その中に詐り諂〈へつら〉御心は少しもない。且つ永劫の間、衆生のためを覚召して、少しも倦み疲れて怠り給うことはない。又衆生を勧め、励まして、善根を修めしめ、一切の衆生のために、勇猛精進にして、少しも退転なく修行して、遂に大願を成就し給うたのである。
第三項 釈文語
第一科 『散善義』の文
光明寺和尚云欲回此雑毒之行求生彼仏浄土者此必不可也
何以故正由彼阿弥陀仏因中行菩薩行時乃至一念一刹那三
(2-304)
業所修皆是真実心中作凡所施為趣求亦皆真実又真実有ニ種一者自利真実二者利他真実 乃至 不善三業必須真実心中捨又若起善三業者必須真実心中作不簡内外明闇皆須真実故名至誠心 抄要
【読方】光明寺の和尚ののたまわく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲〈おも〉うは、これかならず不可なり。何を以ての故に、まさしくかの阿弥陀仏、国中に菩薩の行を行したまいしとき、乃至一念、一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心のなかに作したまえるに由りてなり。凡そ施したまうところ、趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。 乃至 不善の三業をばかならず真実心の中に捨たまえるを須いよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心の中に作したまえるを須いて、内外明闇をえらばず、みな真実を須いるがゆえに至誠心となづく。 要を抄す
【字解】一、雑毒之行 毒の雑〈まじ〉った行。自力我慢の毒心をもって修めた行業。
【文科】再び『散善義』の此の文を出だして、如来の至心を示したまう一段である。
【講義】光明寺の善導和尚は『散善義』に左の如く宣うた。この毒の雑〈まじ〉って居る汚れた善根を回向〈さしむ〉けて、その力で弥陀如来の浄土へ生れたいと思うても、それは出来ないことである。何故かというに、彼の阿弥陀如来は、因位永劫の昔、菩薩の修行をなされた時には、
(2-305)
ほんの一念一刹那の間でも、身口意の三業になし給うものは悉く真実心を以てなし給うたからである。
それで、弥陀如来の方で出来上〈あが〉らせられた真実をその儘衆生に回施〈おあた〉え下される。その回向〈おあたえ〉が顕われて衆生の方にも、浄土に生れたいという願生の思いがおこるので、この願生の思いは、如来の真実が、その儘顕われて下されたのであるから、これも亦真実である。
また真実というに二通りの種類が分かれる。一は自利の真実、即ち自力の真実である。他の一つは利他の真実、即ち他力の真実である。
久遠の凡夫たる私共は、いか程励んでみても、真から不善の三業を捨〈す〉たる奴ではない故、自力の廃悪は止めて、仏願にすがって、如来の真実心に捨てて下された御手柄をそのまま貰い受けるより外はない。また私共は、浄かな善の三業を到底修めることの出来ない奴である故、如来の因位に真実心を以て修行して下された善根功徳をその儘頂くより外はない。それであるから、聖者でも凡夫でも、智者でも愚者でも、それに拘わりはない、みな如来の真実〈おまこと〉を貰い受けるから、至誠心と名づけるのである。
(2-306)
第四項 結釈
第一科 正結
爾者大聖真言宗師釈義信知斯心則是不可思議不可称不可説一乗大智願海回向利益他之真実心是名至心
【読方】しかれば大聖の真言、宗師の釈義まことにしんぬ、この心すなわちこれ不可思議、不可称、不可説、一乗、大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心となづく。
【字解】一。大聖 大聖釈尊。
二。宗師 善導大師。
【文科】正しく至心を結釈したまう一段である。
【講義】扨て以上に依って知らるる通り、釈迦如来の御説法から頂いても、善導大師の釈文を伺うても斯の至心というは、実に思い議〈はか〉ることも、称〈ほ〉め讃〈たた〉えることも出来ぬ一乗畢竟の弥陀の本願から、回向して下される他力の真実心である。これを至心と名づけるのである。
(2-307)
第二科 釈文
既言真実言真実者涅槃経言実諦者一道清浄無有二也言真実一者即是如来如来者即是真実真実者即是虚空虚空者即是真実真実者即是仏性仏性者即是真実 已上
【読方】すでに真実といえり。真実というは涅槃経にいわく、実諦というは一道清浄にして、二あることなきなり。真実というはすなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。真実は即ち是れ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ仏性なり。仏性は即ちこれ真実なり。已上
【字解】一。『涅槃経』具に『大般涅槃経』梵語マハー、パリニルワーナ、スートラ(Maha-parivana-sutra)。釈尊の入涅槃、並びにその際に説かれたる説法を記載す。これに二本あり、一は北本、四十巻。北涼の曇無讖の訳。二は南本、三十六巻。劉宋の慧覩、慧厳、謝霊運の三人が、法顕訳の小乗の『涅槃経』を参酌して、北本を再治校合したものである。
二。実諦 仏性のこと。今は如来の真実本願を指す。
三。虚空 真如の常住不変の方面をいう。虚空は体常住にして変化することがないから譬えたのである。因にありては仏性、果にあらわれては如来であるが、真如は湛然として増減する所がない。それを虚空という文字
(2-308)
に象徴したのである。
【文科】結釈文の中、初めに『涅槃経』によりて真実を釈せらるる一段である。
【講義】上に幾度も、真実という語を出したが、真実というは、いかなることかというに、『涅槃経』にいうてある。虚妄〈うそいつわり〉ならぬ真実という意味の実諦は一仏道即ち本願一実の大道ばかりである。この本願の一道は独り清浄にして、涅槃に至る道はこれより外にはない。真実というは何を指していうかというに如来のことである。如来の至心のことである。如来の至心は真実である。又真実は、至心が如来の御手許にあっても、衆生の手に渡っても、変りのない処をいうのである。この如来にあっても、衆生にあっても変りのない処が真実である。虚空というはどちらにあっても変りのないことをいう。又真実というは、如来の至心が衆生の方に顕われて信心となった所、信心即ち仏性と顕われた所をいうのである。即ち衆生の信心を指して真実というのである。
釈云不簡内外明闇内外者内者即是出世外者即是世間明闇者明者即是出世闇者即是世間又復明者即智明闇者即無明
(2-309)
也涅槃経言闇即世間明即出世闇即無明明即智明 已上
【読方】釈に不簡内外明闇といえり。内外というは、内はすなわちこれ出世なり。外はすなわちこれ世間なり。明闇というは、明はすなわちこれ出世なり。闇はすなわちこれ世間なり。また明はすなわち智明なり。闇はすなわち無明なり。涅槃経にいわく、闇はすなわち世間なり。明はすなわち出世なり。闇はすなわち無明なり。明はすなわち智明なり。已上
【字解】一。出世 迷いの世間を超脱せる人。聖者のこと。
二。世間 流転遷流の迷いの世に住する人。凡夫のこと。
【文科】釈文の中、内外明闇を釈して至心を釈成したまう一段である。
【講義】前に引用した善導大師の釈文に、内外明闇を簡ばずという御言葉があったが、その中、内外の内というのは出世間のことである。出世間というは、初地以上の聖者のことである。外というは世間のことで、世間というは初他の位に登らない、それ以下の凡夫のことである。次に明闇とはいかなることかというに、これに二つの解釈があるが、第一の解釈に依れば、明というは出世間のことであり、闇というは世間のことで、前の内外ということと同じことになる。第二の解釈に依れば、明は智慧の明らかなことで、智者を指し、闇は智慧の明かりのない愚者のことである。それで、内外明闇を簡ばずというは、聖者
(2-310)
凡夫のわかちなく、智者愚者の簡〈えら〉びなくということである。『涅槃経』に、闇は即ち世間、明は即ち出世、闇は即ち無明、明は即ち智明と宣〈のたま〉うは、明闇の二つの解釈を出し給うたものである。これによりて如何なる人も、絶対の真実を獲ることのできることが知られるのである。
第三節 信楽
【大意】答の第二に信楽をいだしたまう。第一項には信楽の体相をいだし、第二項には経文証として『大経』『如来会』『涅槃経』『華厳経』の文を引き、第三項には釈文証として『論註』の文を引きたまう。
第一項 信楽の体相
次言信楽者則是如来満足大悲円融無碍信心海是故疑蓋無有間雑故名信楽即以利他回向之至心為信楽体也然従無始已来一切群生海流転無明海沈迷諸有輪繋縛衆苦輪無清浄信楽法爾無真実信楽是以無上功徳難叵値遇最勝浄信難叵獲得一切凡小一切時中貪愛之心常能汚善心瞋憎之心常能
(2-311)
焼法財急作急修如払頭燃衆名雑毒雑修之善亦名虚仮諂偽之行不名真実業也以此虚仮雑毒之善欲生無量光明土此必不可也何以故正由如来行菩薩行時三業所修乃至一念一刹那疑蓋無雑斯心者即如来大悲心故必成報土正定之因如来悲憐苦悩群生海以無碍広大浄信回施諸有海是名利他真実信心
【読方】次に信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし。かるがゆえに信楽となづく。すなわち利他回向の至心をもって信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、請有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上の功徳値遇しがたく最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時中に貪愛の心、つねによく善心をけがし、瞋憎の心、つねによく法財をやく。急作急修して、頭燃をはらうがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善となづく。また虚仮諂偽の行となづく、真実の業となづけざるなり。この虚仮雑毒の善をもって、無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもっての故に、まさしく如来菩薩の行を行したまいしとき.三業の所修、乃至一念一利那も疑蓋まじわることなきに由りてなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、かならず報土の正定の因となる。如来苦悩の群
(2-312)
生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを利他真実の信心となづく。
【字解】一。疑蓋 疑いの心。疑心は常に、吾等の本心を蓋い隠すからである。
二。群生海 群生は衆生に同じ。衆生海、有性海みな同じ、有情は群がり生ずる故に、この名あり。又群萌とも名づけらる。
三。無明海 生死海に同じ。迷いの海、迷いの巷の意。吾等は無明の因によりて、生死に流転す。今は因に就いて、無明海という。
四。諸有輪 二十五有、須弥四州(四有)、四悪越(四有)、六欲天(六有)、梵天(一有)、無想天(一有).五那含天(一有)、四禅天(四有)、四空処天(四有)の迷いの世界のこと。生死海に同じ。但し迷界に沈むものは、車輪の回るように、際限がない。今はその方面に就いて、諸有輪という。
五。衆苦輪 苦しみの巷。生死の海に同じ。但し迷界は衆苦に襲われる処、そして車輪の回るような、打ち止めというものがない。今はその方面に就いて、衆苦輪の名を挙ぐ。
六。法爾 無始以来、先天的に、という意。
七。法財 功徳法のこと。功徳の尊きを財宝に譬えて、法財という。
八。雑毒之善 毒の雑〈まじ〉った善。自力我慢の毒をもって修めた善業をいう。
九。無量光明土 弥陀如来の極楽浄土のこと。光明は智慧の相である。弥陀の浄土は、無量の智慧光の輝く国であるというので此の名あり。『真仏土巻』の巻首に此の名を標せらる。
(2-313)
【文科】如来の真実信楽の体相を示さるる一段である。
【講義】今までの処で、三信の中、至心の意味合はあらまし説き了わったから、これからは信楽の意味合〈いみあい〉を味おうて進もう、信楽というは、一口に申せば、阿弥陀如来の大悲の至極であって、功徳という功徳は悉く具え、その功徳を衆生に与えて下されて、無碍自在の利益を得させて下さる如来の信心のことである。この如来の信心は、いよいよ衆生を助けるに間違ないと信じ給うので、この信心には、もしや助けられまいかという疑は、卯の毛の先程も雑ってないので、それを信楽と名づける。猶、手短かに申せば、阿弥陀如来が、底の底まで、私共を信じ切って下さる大悲心のことである。この如来の信楽は、他力回向を、衆生に御与え下さるるかの至心を以て体として居る。語を砕いていえば、衆生を助けるに間違ないという疑のない大悲心は、兆載永劫の間一念一利那の間も清浄真実に在〈ましま〉さぬことのなかった真実心〈まことごころ〉の至心から起こったものである。然るに衆生の方をいえば、無始久遠の昔から今日まで、無明の黒闇の世界をさ迷い来り、二十五有の間を車の輪のめぐるが如くに迷い歩いて、四苦八苦につながれて、暫くも苦みの止む時がない。こういう有様であるから久遠の昔から、清らかな信楽を起こしたことはなく、先天的に真実の信楽というものはない
(2-314)
のである。それであるから、この上ない功徳のまします六字の名号に御遇いすることは出来ず、最も勝れた御信心は甚だ得難いのである。すべて凡夫というものは、ささやかな善心を起こすことはあったけれども終始むらがり起こる貪欲愛着の煩悩を以てその善心を汚して仕舞い、いささかな功徳は積むことはあるけれども、瞋〈いか〉り腹立つ煩悩で、その功徳を焼き尽くして仕舞うのである。こういう具合であるから、いかに髪の毛に火のついた様にあせり回って善根を積んでも、修行をしても、衆〈すべ〉て毒の雑じった善と云われ、うそいつわりの行といわれるのである。この様な毒の雑じったいつわりの善根を回向〈さしむ〉けて御浄土に往生したいと思うてもそれは出来ないことである。何故なれば、阿弥陀如来が、因位に於いて、菩薩の行を修め給うた時には、身口意の三業に、すこしも疑いなく、いよいよ一切衆生を助くるに相違ないという決定の大悲心から御成就なされた浄土であるからである、この信楽は、如来の助けずば置くまいという大悲心であるから、これを戴けば必ず浄土へ生れる正因となるのである。今阿弥陀如来は、現に苦しみ悩んでいる私共衆生を憐れみ給うて、この功徳という功徳を具え、融通無碍にまします威徳広大の信楽を私共の貪瞋煩悩の胸の中へ御与え下されるのである。それであるから、これを他力の真実信心というのである。
(2-315)
第二項 経文証
第一科 『大無量寿経』 の文
本願信心願成就文経言諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念 已上
【読方】本願信心の願成就の文、経にのたまわく、あらゆる衆生その名号をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。已上
【文科】信楽釈の引文として初め『大経』成就の文を引きて、聞信一念の本拠を示したまう一段である。
【講義】第十八願の成就の御文には、十方一切の衆生が、諸仏讃嘆の名号の謂われをきいて、信心を起こし、身にもよろこび、心にもよろこんで、せめて一念でも阿弥陀仏をたのむ心を起こすであろう………。というてある。
第二科 『無量寿如来会』の文
又言他方仏国所有有情聞無量寿如来名号能発一念浄信歓
(2-316)
喜 已上
【読方】またいわく、他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号をききてよく一念の浄信をおこして歓喜せん。已上
【文科】『如来会』の「一念浄信」の文を引いて、上に引いた正依の「乃至一念」の一念が、行の一念ではなく信の一念であることを証せられた一段である。
【講義】又『無量寿如来会』の願成就の文には、他方仏国のありとあらゆる衆生が、阿弥陀如来の名号の御謂われをききひらいて、一念の清浄なる信心を起こし、身の仕合わせを歓喜〈よろこ〉ぶであろう……というてある。
第三科 『涅槃経』の文
涅槃経言善男子大慈大悲名為仏性何以故大慈大悲常随菩薩如影随形一切衆生畢定当得大慈大悲是故説言一切衆生悉有仏性大慈大悲者名為仏性仏性者名為如来大喜大捨名為仏性何以故菩薩摩訶薩若不能捨二十五有則不能得阿耨多羅三藐三菩提以諸衆生畢当得故是故説言一切衆生悉有
(2-317)
仏性大喜大捨者即是仏性仏性者即是如来仏性者名大信心何以故以信心故以菩薩摩訶薩則能具足檀波羅蜜乃至般若波羅蜜一切衆生畢定当得大信心故是故説言一切衆生悉有仏性大信心者帰是仏性仏性者即是如来仏性者名一子地何以故以一子地因縁故菩薩則於一切衆生得平等心一切衆生畢定当得一子地故是故説言一切衆生悉有仏性一子他者即是仏性仏性者即是如来。 已上
【読方】涅槃経にいわく、善男子、大慈大悲をなづけて仏性とす。何を以てのゆえに、大慈大悲はつぬに菩薩にしたがうこと、影の形に随うがごとし。一切衆生、ついにさだめてまさに大慈大悲をうべし。このゆえにときて、一切衆生悉有仏性というなり。大慈大悲はなづけて仏性とす。仏性はなづげて如来とす。大喜大捨をなづけて仏性とす。何を以てのゆえに、菩薩摩訶薩はもし二十五有を捨つること能わずば即ち阿耨多羅三藐三菩提をうること能わず。もろもろの衆生、畢〈つい〉にまさに得べきをもってのゆえなり。このゆえにときて一切衆生悉有仏性といえるなり。大喜大捨はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は大信心となづく。何をもっての故に、信心をもってのゆえに、菩薩摩訶薩は、すなわちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生はついに定めてまさに大信心をうべきがゆえに。このゆえにときて一切衆
(2-318)
生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は一子地となづく。何をもっての故に、一子地の因縁をもってのゆえに。菩薩はすなわち一切衆生において平等心をえたり。一切衆生はついに定めてまさに一子地を得べきがゆえに。このゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。一子地はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。已上
【字解】一。菩薩摩訶薩 梵語ボードヒサツトワ、マハーサツトワ(Bodhisattva Mahasattva)覚有情、大有情と訳す。二つの語なれど集まりて同一語の意味をなす。大心を起こして道を修むる人の称。
二。阿耨多羅三藐三菩提 梵語アヌツタラ、サムヤク、サンボ―ドヒ(Anuttara-samyak-sambodhi)無上正等覚と訳す。仏智見のこと。
三。檀波羅蜜 梵語ダーナ、パーラミター(Dana-paramita)六度の一。梵漢並ぴあげて施波羅密とも云う。布施の行のこと。
四。般若波羅密 梵語プラヂニヤーナ、パーラミター(Pranana-paramita)六度の一。梵漢並べて智波羅密ともいう。智慧の行のこと。
五。一子地 一切衆生を、一人子のような愍れむ心を起こす位。初地の菩薩、又は仏果にも名づく。
【文科】『涅槃経』によりて信楽を証する中、四無量心、大信心、一子地をつげて信心即仏性の義を示したまう一段である。
【講義】『涅槃経』に宣わく。善男子よ、四無量心のうち、大慈大悲を仏性と名づける。大
(2-319)
慈は衆生に楽を与え給ふ心、大悲は衆生の苦を抜いて下さる心である。今その理由をいえば、大慈大悲は菩薩の生命ともいうべき大切のもので、菩薩は常に形の影を従えるように、この大慈大悲の心に住し、この大慈悲心を以て、終に、本有の仏性を開覚〈さとりあら〉わし給うからである。(この菩薩とは、即ち法蔵菩薩でなければならぬ。)すべての衆生は、一度という一度はこの法蔵菩薩によりて皆大慈大悲の仏性(名号)を得べきものであるから、この意味で一切衆生は悉く仏性を有するというのである。而して、この仏性は涅槃の異名であって因位にあるを仏性といい、果上にあるを如来というのであるから、仏性はとりもなおさず如来である。
又四無量心の余〈ほか〉の二つ、即ち大喜大捨も仏性と名づける。大喜というは衆生の楽しみ喜ぶをみて随喜し給う心、大捨は愛憎の心を捨て、一切の怨親に対して平等の思いになり給うた心である。此の大喜大捨を仏性と名づける理由は、(法蔵)菩薩はこの大喜大捨の心を以て、一切の煩悩をすて、二十五有の生死を離れ、無上菩提の仏果〈さとり〉を得給うのであるから、前と同じくこの大喜大捨を以て本有の仏性を開覚〈さとりあら〉わし給う辺で、仏性と名づけるのである。すべての衆生は、一度は必ず(法蔵)菩薩によりて、この大喜大捨の心を得るであろうから、
(2-320)
この意味で、一切衆生悉有仏性というのである。大喜大捨は仏性である。仏性はとりもなおさず如来である。
又、大信心は仏性と云われる、何故ならば、いかなる菩薩も、この信心がもとで、布施持戒等の六度の修行を満足し給うので、押していえば、この信心を以て、仏性を開覚〈さとりあら〉わすのであるから、この意味で、信心を仏性というのである。すべての衆生は、一度は必ず、この六度万行の功徳をこめた信心を頂くべきものであるから、この意味から、一切衆生悉有仏性というのである。大信心は仏性である。仏性は如来である。
又、一切衆生をすべて一人子のように愍む心の起る一子地の位を仏性と名づける。菩薩一度この位に入れば、いかなる衆生に対しても、一人子のように思われて、怨親平等の念に住し、従って、この位に入れば、再び退転することなく、間違なく仏果を開き、仏性を開覚することが出来るから、一子地を仏性と名づけるのである。いかなる衆生でも、一度という一度は、必ず、極楽浄土に往生してこの一子地の位に昇るであろうから、それで、この意味にて、一切衆生悉有仏性というのである。一子地は仏性である。仏性はとりもなおさず如来である。
(2-321)
【余義】一。『涅槃経』師子吼品の文を引いて、他力信心の徳を示す。此の文は三段に分かれる。即ち四無量心と、大信心と、一子地の文である。
初めに四無量心は、通常の解釈から云えば、菩薩利他の大慈悲心である。菩薩はこの四無量心によりて仏果を獲るのであるから、果を因に含めて、此の四無量心を仏性という。そして此の心は、苟〈いやしく〉も道を修める者ならば、誰でも起こすことが出来るから、一切衆生悉く仏性あり、というのである。
然るに我聖人は、これと全く見解を異にせられた。此の大慈大悲等の四無量心は、吾等凡夫の起こす心でない。弥陀如来が、因位に於いて起こされたものである。そして此の仏性を生むべき此の心は、如来御自身の為ではなくして、実に我等一切衆生の為である。故に一切衆生は、此の意味に於いて、大慈大悲を得るに相違ないと経文に説かれたのである。即ち如来の四無量心は、我等をして仏性を獲得せしむるものであるから、「一切衆生悉有仏性」と仰せられたと云うのである。
次の大信心の文も、通常の解釈によれば、三宝を信ずることである。此の信心が第一歩となりて、六度の行を成就し遂には仏性を開顕するというので、此の信心の徳を讃えて、仏性
(2-322)
と名づけたのである。そして一切衆生は、皆この信心を起こすことが出来るから「一切衆生悉有仏性」と説かれた、と云うのである。
我聖人は、そうではない。仏性とは.如来回向の大信心のことである。此の信心の中に、六度万行の功徳利益は具〈そな〉わっている。故に此の信心を獲れば、必ず仏性を開顕する故に、此の信心は仏性である。そして、あらゆる有情〈いきもの〉は、弥陀の誓願の如く、必ず大信心を獲るに相違ないから、この意味に於いて「一切衆生悉有仏性」と説かれたと云うのである。『和讃』に
信心よろこぶそのひとを 如来とひしとときたまう。
大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり。
とあるは、この意である。
次の一子地の文も、通常の解釈に従えば、一子地とは菩薩の初地の位である。菩薩がこの位に入ると、一切衆生に対して、怨親平等の心をもつようになる。此の位に入る者は、必ず仏性を開顕する故に一子地を仏性を名づける。そして一切衆生は、後必ずこの位に入ることが出来るから、「一切衆生悉有仏性」と説かれたという。
我聖人は、これと見解を異にせられた。一子地は浄土に於ける位である。吾等は浄土に生
(2-323)
れて、此の位を獲、一切衆生を平等に視〈みそな〉わす心を起こすのである。即ち一切衆生は、必ず浄土に往生して、此の一子地の位に入ることが出来るものであるから、「一切衆生悉有仏性」と説かれたと仰せらるる。『和讃』に
平等心をうるときを 一子地となづけたり。
一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし。
とあるは、此の意である。
故に此の三文の中、初めの四無量心は、如来の慈悲心、次の大信心は、その如来の慈悲心を頂いた吾等の信念であり、後の一子地の文は、此の信心によりて獲得すべき当果を挙げられた。そして此の三者は、共に私共の仏性である。如来の慈悲とは何であるかと云えば、私の仏性開発の為である。是を外にしては、如来の四無量心は無意味である。そして其の四無量心を我等が自覚した所が信心である。是が即ち私の仏性である。後の一子地は私の仏性が正しく開顕せられた所である。
(2-324)
挿図(yakk2-324.gif)
┌──────┐
如来四無量心 ↓
吾等の大信心
吾等の一子地 │
↑ │
└──────┘
時間的に云えば、我等の仏性は、如来の四無量心に始りて、吾等の大信心となり、次いで一子地を開発するのであるが、正しく行者機受の上から云えば、信心一つである。吾等は此の信心を獲得することによりて、如来の四無量心を知り、当来の一子地を知ることが出来るのである。聖人が当巻に於いて、力説せらるる所は、正しく此の信心一つであることを忘れてはならぬ。故に次下の『涅槃経』にも「是の菩提の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば則ち已に摂尽しぬ」と仰せられたのである。
(2-325)
二。仏性に就いては、従来聖道門に於いて、様々に論ぜられてある。即ち他力教に於いて問題となる点は、吾等凡夫に本来法爾として具足すると称せらる、自性住仏性、正因仏性という理仏性があると許すやと云う問題である。これに関する他力教の立場は極めて明晰である。曰わく左様のことは問題とならぬと云うのである。併し理仏性なるものが、吾等にありとするも妨げはない。要するにそれは、経典の文字通りを固執する教権派や、空漠なる理想派の所論に過ぎない。ありと云うも、無しとするも、実際の吾等には、何の関係も影響もないのである。故に我聖人は、上の如き意味に於いて、仏性を談ぜらるる外は、此の種の理想論を余り問題にせられなかった。第一理仏性というようなことは、それが実際上私共の信仰的経験に影響のない限りは無意味なことである。自力教の人達は、此の仏性を標的として、智慧を磨き、功徳を積んで、此の仏性を開発せんと努力するのであるが、是れ等の後天的の努力によりて表わるる仏性を、三因仏性で云えば、正因仏性の理仏性に対して了因仏性、縁因仏性と称せらるるのである。然るに我聖人は、仏性に対する是の種の見解を根本的に廃棄せられたのである。即ち三因仏性は、如来に於いて円〈まどか〉に開発せられた。吾等は深く現実の自己の能力を反省して、唯此の如来の仏性を信ずるばかりである。その信の一
(2-326)
念に三因仏性は、まさに開顕すべき種子となりて、私共に備わる。是より外に、仏性という宗教的意義はないと仰せらるる。『唯信鈔文意』十七丁に
仏性すなわち如来なり。この如来微塵世界にみちみちたまえり。すなわち一切群生海の心にみちたまえるこころなり。草木国土ことごと成仏すととけり。この一切有情の心に、方便法身の誓願を信楽するが故に、この信心すなわち仏性なり。
故に他力の信心を離れては、仏性ということは、私共とは、何の関係もない空論たるに過ぎぬ。この信の上にのみ、仏性の意義が解せられる。上の我聖人の仏性論がそれである。
又言或説阿耨多羅三藐三菩提信心為因是菩提因雖復無量若説信心則已摂尽 已上 又言信復有二種一従聞生二従思生是人信心従聞而生不従思生是故名為信不具足復有二種一信有道二信得者是人信心唯信有道都不信有得道之人是名為信不具足 已上抄出
【読方】また言わく、あるいは阿耨多羅三藐三菩提をとくに信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといえ
(2-327)
ども、もこ信心を説けば、すなわちすでに摂尽しぬ。 已上 またいわく、信にまた二種あり。一には聞より生ず。二には思より生ず。この人の信心は、聞よりしてしかも生じて思より生ぜず。この故になづけて信不具足とす。また二種あり。一には道ありと信ず。二には得者を信ず。この人の信心はただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜず。これを名づて信不具足とす。已上抄出
【文科】更に『涅槃経』の「迦葉品」の二文を引いて、信心為因と信不具足を示したまう一段である。
【講義】又『涅槃経』にいうてある。無上菩提の仏果は信心を因とすと説いてあるが、菩提の因は独り信心計りでなく六度万行等数限りもなくあるけれども、信心一つを出だせば、その中に無量の因は皆こもって居るのであるから、信心一つを因とするというたのである。
又『涅槃経』にいうてある。信心というても二種類ある。一は大ようにきいてあっさりと信ずる信である。二には、我が身の上を思いつめて、きいた謂われをきき開いて深く信ずる信である。信不具足の人の信心は、身を入れずに大ようにきいてあっさり信じて居るので、我が身を思いつめて、深くきき開いて信ずるのでないから信不具足というのである。
又信心というに二種類ある。一には本願一実の大道のあることを信ずる信心。二にはこの本願の大道に依って救われる人のあることを信ずる信心である。信不具足の人の信心は
(2-328)
本願の一道のあることは信じて居るけれども、その本願の御力一つで凡夫が往生するということを疑うて居るのである。法の手許〈てもと〉は疑わないけれども、我が身が余り浅間布くてといい、そして他の信者まで疑うて居るのである。それで此の信心は信不具足と呼ばれる。
【余義】この下『涅槃経』の信心為因の文は、信心正因を説き、信不具足の文は、反面より信心の内容を表わす文である、聞くに限ると云えば、大様に聞いて、心に深く感銘しない。即ち「聞より生じて、思より生じないのである」。是れは信不具足と云わねばならぬ。或いは又仰せ丈で安心せよ、教の通り信ぜよと云えば、徒〈いたずら〉に教権に流れて、経典の文字や、教理、教義にのみ拘泥して、その教えを体得している人の云うことを信じない。是れも信不具足である。真実の信心は是れ等を皆円〈まどか〉に信ずるのである。教を聞いて善く心に味わい、法を信ずるとともに、僧(宗教的人格)なる善知識を信ずる。是れ等の細な教えは、真面目な信仰経験の上でなければ頂けぬ。
第四科 『華厳経』の文
華厳経言聞此法歓喜信心無疑者速成無上道与諸如来等又
(2-329)
言如来能永断一切衆生疑随其心所楽普皆令満足。
【読方】『華厳経』にいわく、この法をききて信心を歓喜して疑いなきものは、すみやかに無上道をなさん。もろもろの如来と等しと。またいわく、如来よくながく一切衆生の疑いをたたしむ。その心の所楽にしたがいて、あまねくみな満足せしむ。
【字解】一。『華厳経』具〈つぶさ〉には『大方広仏華厳経』、釈尊成道第二七日に文殊普賢等の大士のために、自内証のありのままを説きたもうた経典であって、これに三訳ある。(一)東晋の仏駄跋陀羅の訳、六十巻、七処八会三十四品ある。『六十華厳経』、『旧華厳経』『晋経』というて居る。(二)唐の世、実叉難陀の訳、八十巻.七処九会三十九品ある。『八十華厳経』、『新華厳経』、『唐経』という。(三)唐の世.般若三蔵の『華厳経』中の普賢行願晶だけを訳したものである。新旧二経の入法界品に当る『四十華厳経』、『貞元経』というて居る。
【文科】『華厳経』三文を引く中、ここには「入法界品」の二文をあげて他力の行者は諸仏と等しいこと並に仏力断疑を示したまう一段である。
【講義】『華厳経』にいうてある。この念仏の御謂われをきいて、信心を起し、身も心も歓喜〈よろこ〉び、少しも疑いのないものは、速やかに浄土に往生して、無上の仏果〈さとり〉を開き、娑婆にいながら諸仏如来と等しい身の上にさして項くであろう。
(2-330)
阿弥陀如来は、御自ら信心を御成就下されて、それを衆生に与え、衆生の疑いの根を断ち切り、そして衆生の願の通りに、何事でもすべて満足させて下さる。娑婆にいながら往生の志願を満たさせ、往生の刹那には一切の願楽をすべて満足させて下さるのである。
【余義】この下『華厳経』 六十華厳第六十巻 の文に就いては、此の下の『六要』に簡明に釈せられた。
今の経文の意、粗〈ほぼ〉歓喜信楽の説に会し、又無疑無慮の信に順ず。此の故に歓喜信楽、深信の義を助けんが為に、これを引かるる乎。
この釈の如く、此の『華厳経』の文は、全く他力信心の徳を広説せられた文である。法味津々として限りがない。
そして信楽釈引文の終わりとして、『論註』を引いて、「如実修行相応は、信心一つにさだめたり」の本拠を示された。
又言信為道元功徳母長養一切諸善法断除疑網出愛流開示涅槃無上道信無垢濁心清浄滅除驕慢恭敬本亦為法蔵第一財為清浄手受衆行信能恵施心無悋信能歓喜入仏法信能増
(2-331)
長智功徳信能必到如来地信令諸根浄明利信力堅固無能壊信能永滅煩悩本信能専向仏功徳信於境界無所著遠離諸難得無難信能超出衆魔路示現無上解脱道見為功徳不壊種信能生長菩薩樹能増益最勝智信能示現一切仏是故依行説次第一信楽最勝甚難得 乃至 若常信奉於諸仏則能興集大供養若能興集大供養彼人信仏不思議若常信奉於尊法則聞仏法無厭足若聞仏法無厭足彼人信法不思議若常信奉清浄僧則得信心不退転若得信心不退転彼人信力無能動若得信力無能動則得諸根浄明利若得諸根浄明利則得親近善知識若能親近善知識則能修習広大善若能修習広大善彼人成就大因力若人成就大因力則得殊勝決定解若得殊勝決定解則為諸仏所護念若為諸仏所護念則能発起菩提心若能発起菩提心則能勤修仏功徳若能勤修仏功徳則得生在如来家若得生在如来家則善修行巧方便若善修行巧方便則得信楽心清浄若得
(2-332)
信楽心清浄則得増上最勝心若得増上最勝心則常修習波羅蜜若常修習波羅蜜則能具足摩訶衍若能具足摩訶衍則能如法供養仏若能如法供養仏則能念仏心不勒若能念仏心不動則常覩見無量仏若常覩見無量仏則見如来体常住若見如来体常住別能知法永不滅若能知法永不滅則得得弁才無障碍若得弁才無障碍則能開演無辺法若能開演無辺法則能慈愍度衆生若能慈愍度衆生則得堅固大悲心若得堅固大悲心別能愛楽甚深法若能愛楽甚深法則能捨離有為過昔能捨離有為過則離驕慢及放逸若離驕慢及放逸則能兼利一切衆若能兼利一切衆則処生死無疲厭 略抄
【読方】またいわく、信は道のもととす、功徳の母なり、一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除し、愛流をいでて、涅槃無上の道を開示せしむ。信は垢濁なし。心清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。また法蔵第一の財〈たから〉とす。清浄の手として衆行をうく。信はよく恵施して心におしむことなし。信はよく歓喜して仏法にいる。信はよく智功徳を増長す。信はよく必ず如来地にいたる。信は諸根をして浄明利ならし
(2-333)
む。信力堅固にしてよく壊することなし。信は能くながく煩悩の本を滅し、信はよくもっぱら仏の功徳にむかわしむ。信は境界において所著なし。諸難を遠離して無難をえしむ。信はよく衆魔のみちを超出し、無上解脱道を示現せん。信は功徳不壊の種となる。信はよく菩提樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せん。この故に行によりて吹第をとく。信楽最勝にして甚〈はなはだ〉うることかたし。乃至もしつねに諸仏を信奉すれば、すなわちよく大供養を興集す。もしよく大供養を興集すれば、かの人仏の不思議を信ず。もしつねに尊法に信奉すれば、すなわち仏法をきくに厭足なし。もし仏法をきくに厭足なければ、かの人法の不思議を信ず。もしつねに清浄僧に信奉すれば、すなわち信心退転せざることをう。もし信心退転せざるとをうれば、かの人の信力よく動くことなし。もし信力よく動くことなきををうれば、すなわち諸根浄明利なることをう。もし諸根浄明利なることをうれば、すなわち善知識に親近することをう。すなわち善知識に親近することをうれば、すなわちよく広大の善を修集す、もしよく広大の善を修集すれば、かのひと大因力を成就す、もし人大因力を成就すれば、すなわち殊勝決定の解をう。もし殊勝決定の解をうれば、すなわち諸仏のために護念せらる。もし諸仏のために護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなわち能くうまれて如来の家にあり。もし生まれて、如来の家にあることをうれば、すなわち善く巧力便を修行す。もし善く巧方便を修行すれば、すなわち信楽の心清浄なることをう。もし信楽の心清浄なることをうれば、すなわち増上の最勝心をう。もし増上の最勝心をうれば、すなわち常に波羅密を修習す。もしつねに波羅密を
(2-334)
修習すれば、すなわちよく摩訶衍を具足す。もしよく摩訶衍を具足すれば、すなわちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく法のごとく仏を供養すれば、すなわちよく念仏の心動せず。もしよく念仏の心動ぜざれば、すなわち常に無量仏を観見す。もしつねに無量仏を覩見すれば、すなわち如来の体常住をみる。もし如来の体常住をみれば、すなわちよく法ながく不滅なることをしる。もしよく法ながく不滅なることをしれば、弁才無障碍をうることをう。もし弁才無障碍をうれば、すなわちよく無辺の法を開演す。もしよく無辺の法を開演すればすなわちよく慈愍して衆生を度す。もしよく慈愍して衆生を度すればすなわち堅固の大悲心をう。もし堅固の大悲心をうればすなわちよく甚深の法を愛楽す。もしよく甚探の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過〈とが〉を捨離す。もしよく有為の過を捨離すればすなわちよく驕慢および放逸をはなる。もし驕慢および放逸をはなるれば、すなわちよく一切衆を兼利す。もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけん。抄略
【字解】一。疑網 自力疑心のこと。疑いは網のように我々を覆うい縛るからである。
二。愛流 煩悩のこと。この煩悩は烈しく我々を迷いの海に押し流すにより、愛流という。又は愛河ともいふ。
三。法蔵第一宝 法は功徳法のこと。信心は功徳の法蔵の中で、第一の宝であるということ。
四。諸根 感官をいう。今は眼、耳、鼻、舌、身、意の六根を指す。
五。大供養 五正行の中の讃嘆供養のこと。他力の念仏行者のなす供養は、みな如来の回向によりて作す所であるから、凡夫の小供養にあらずして大供養である。
(2-335)
六。尊法 尊いみ法〈のり〉。六字の名号の事。
七。厭足 厭き足ること。これで充分ということ。
八。大因力 無上の仏果をうる因力をいう。
九。殊勝決定解 動かない立派な見解。決定心。動揺せぬ信仰のこと。
一〇。巧方便 巧妙なる利他の方便。
一一。増上最勝心 弥陀如来を増上縁として力を頂く勝〈すぐ〉れた心。
十二。波羅密 具には波羅密多、梵語パーラミタ(Paramita)度、到彼岸、事究竟と訳せらる。生死の此岸を渡りて涅槃の彼岸へ到るの意味である。凡て菩薩の修する行をいう。今は十波羅密を指す。布施持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅密の中、終わりの智慧より、方便、願、力、智の四波羅密を開いて十波羅密とす。
十三。摩訶衍 大乗のこと。梵語マハーヤーナ(Mahayana)の音訳。大なる乗物の意。又乗は運載の義、小乗の小さな乗り物に対して、大乗の教えは、人をして大苦、大迷の海を渡りて大涅槃に至らしむるゆえにいう。
一四。弁才無障碍 教法を演〈の〉べる才能の少しも滞りなきこと。
一五。有為過 ここに有為というは、意識的に動作するほどの意。即ち意志を須いずに、任運無作に動作する「無為」に対す。意志を須〈もち〉いて動作する所には、真の力なき証拠であるから、必ず過失と欠点がある。それ故に有為の過という。
一六。驕悔 驕〈たかぶ〉りたかぶる心。
(2-336)
一七。放逸 我儘、気ままの心。
【文科】『華厳経』「賢首品」を引いて信徳の広大なるを説く一段である。
【講義】信仰というものは、無上菩提の仏果〈さとり〉の因であり、一切の功徳を生む母である。この信仰は一切の功徳善根を養い育て、すべての疑いの網を断ち切って、生死の迷いを離れ、無上菩提の仏果〈さとり〉を開かせるものである。信仰には疑いの濁りはないから、心は自然に清らかになり、驕〈たか〉ぶる思いも自ずとなくなって、法を敬う心になる。又、信仰は功徳善根の宝の中では第一の尊い財宝であって、この信心の清らかな手によって、種々〈いろいろ〉の修行が受け入れられるのである。信仰がもととなって、種々の行いが出来て行くのである。
信仰によりて、浮世の儚〈はかな〉い夢に日醒めて来れば、この世の財宝の価値も知れて来るから、惜しむ思いもなく、適当な処へ施しをするようになる。信仰があれば、身も心も歓喜〈よろこ〉びにあふれ、益々仏の御教えを奉ずるようになる。信仰があれば、ものの道理も明らかになるから、智慧も増し、善い行為〈おこない〉も出来て行くから、功徳も増す。即ち所謂福智二荘厳を得ることになる。この信仰があれば、前にいう如く福智二荘厳を自然に得ることになるから、
(2-337)
仏果にいたることはいうまでもない。信仰は信勤念定慧の五根のうち信を除いた余の四根を益々活溌に働かせるようになる(即ち信後相続の行いが活々〈いきいき〉と出来るようになる)。如来より回向して下された信仰は金剛堅固であるから、誰も能くこれを壊わすものはない。他力の信仰は煩悩の根を断ち切って仕舞うから、三毒の煩悩はしばしば起こっても来世の悪果を招くことはない。他力の信心は専ら仏の功徳即ち名号を称えしめて下さる。信仰は浮世に対する眼を醒して呉れるから外境に執着することはない。三途八難の路は願力の不思議で閉じて下され、未来は浄土の無難の処へ生まれさせて下さる。信仰はこの娑婆の魔境を出でて無上菩提に至る因である。他力の信心は未来浄土に於いて頂く大功徳の種であるから壊われることはない。信仰は能く無上菩提〈このうえないさとり〉という樹を生長させるはたらきがある。信仰は無上菩提の智慧を増さしむる功能〈はたらき〉がある。他力の信心を得れば、阿弥柁仏始め十方一切の諸仏方の護念を受ける。以上二十句を以て信心を称〈ほ〉め讃〈たた〉えたが、この信心は浄土の起行作業の根本であって、最も勝れて、又最も得難いものである。
もし常に十七願に酬い顕われた名号を讃嘆し給う十方諸仏の御語〈みことば〉を信じ敬えば、自然に五種の正行の中の讃嘆供養を行うことになる。而してこの人は常に弥陀の不思議を信じ
(2-338)
又弘願一乗の法を信じ敬う人は、常に仏法をきいても厭き足るということがない。常に本願の御謂われをきいてもきいても聞き厭きるということがない故、弘願の不思議を信ずる人となる。
又本願の謂われを説いて聞かせて下さる善知識を信じ敬えば、信心はたじろぐことはない。信心がたじろがぬから、信仰の力も常に溌溂として動いて止まない。
信仰の力が常に活溌に動いていれば、他の精神力も活溌に働いて、信後の相続も生き生きと出来る。精神がはっきりして、信後の相続が生き生きと出来れば、自分の往生の同行善知識にも愈々近づくようになる。同行善知識に近づき交われば、信後の五種の正行を益々励み修めることが出来る。然れば益々往生の大因力を成就し、従って今度こそは往生疑いないという決定〈けつじょう〉の思いにすわることが出来る。この決定の信心が堅くなればなる程、諸仏如来は喜んで護念して下される。諸仏如来の護念をうければ、他力金剛の信心はいよいよその色を鮮かにする。信心の色が鮮かになれば、功徳という功徳を集めた名号は自ずと称えられる。信心の上の称名が自ずと称えらるれば、如来となるべき身に定まる。こ
(2-339)
の位に入れば、人の身の上を憐んで、教人信の方便もめぐらすことが出来る。従って若存若亡の濁りはなくなって仕舞う。この若存若亡の濁りのない信心は本願力の増上縁に依って頂いた他力の最も勝れた信心である。この信心を得れば、常に到彼岸の大行即ち念仏を称える。この念仏の大行の中には、大乗のあらゆる行が悉くこもっている。そしてこの大乗のあらゆる行を一身に具足することになれば、自然に如実に如来を讃嘆供養する。如実に如来を讃嘆供養すれば、一向に余へ心を散らさず念仏するようになる。かくの如く常に念仏すれば、眼には如来を見奉ることは出来ないけれども、心の世界に於いては常に如来(諸仏を全うし給う弥陀如来)に遇い奉ることが出来る。心の世界に於いて常に如来に遇い奉れば如来の無量寿に存〈ましま〉すことも知れ、如来の無量寿に在すことを知れば、本願の一法〈みのり〉の常住に世間を利益し給うことが知れる。本願の一法の常住に在すことを知れば、自らも碍りのない達弁を得て、無量の法を説くことになる。(教人信の生活〈ひぐらし〉に於いて、僅か一人二人の人を教化しても、仏の方からいえば、一切衆生を済度する位になるのである。これが利益衆生は極〈きわ〉もなしの意味である)。かく無量の法を説くも、勝他名聞のためではない、衆生を愍んで助けたいと思うからである。かく衆生を愍んで助けたいと思うから、いかなる苦みに
(2-340)
遇うても厭わない堅固の大悲心を得る。これはもとより、衆生が起こすのではない。如来より御与え下されたのである。この大悲心は同時に衆生の信心である。この信心を得れば、
名号の謂われに対して、歓喜愛楽の思いが湧く、この歓喜愛楽の思いが起これば、不如実の過〈とが〉を離れる。不如実の過を離るれば、驕慢〈たかぶる〉のおもい放逸〈なおざり〉の心が止む。驕慢、放逸の心がなくなれば、この上の教人信に真実の力が湧いて、すべての人々を救うことが出来る。こうして教人信を以て人々を救い上げる聖行にいそしめば、娑婆に居っても厭い嫌う心はなく、楽しく日々の生活〈ひぐらし〉をつづけることが出来るのである。
第三項 釈文証
第一科 曇鸞大師の釈文
論註曰名如実修行相応是故論主建言我一心 已上 又言経始称如是彰信為能入 已上
【読方】論註にいわく、如実修行相応となづく。このゆえに論主はじめ我一心とのたまえり。已上 またいわく。経のはじめに如是と称す、信をあらわして能入とす。已上
(2-341)
【文科】『論註』の二文を引いて、一心の信心を明したまう一段。
【講義】曇鸞大師の『浄土論註』にいうてある。『浄土論』に如実修行相応というは、こういう意味合いである。それであるから、天親菩薩は、『浄土論』に世尊我れ一心にと、自督の安心を一心として顕わし給うたのである。
又『浄土論註』に言わく、仏経の始めに如是我聞等とあるが、この如是という語は、阿難尊者自ら是くの如しと信じてみせて、末代の衆生に信をとらせ給うので、つまり仏法には信心がなければ入られないということを示し給うのである。
第四節 欲 生
【大意】答の第三に欲生をいだしたまう。第一項には欲生の体相をいだし、第二項には経文証として『大経』と『如来会』の二文を引き、第三項には釈文証として曇鸞、善導二師の文を引き、第四項には更に助釈として、私釈を施し、善導の三文をあげて欲生釈を結びたまう。
第一項 欲生の体相
(2-342)
次言欲生者則是如来招喚諸有群生之勅命即以真実信楽為欲生体也誡是非大小凡聖定散自力之回向故名不回向也然微塵界有情流転煩悩海漂没生死海無実真回向心無清浄回向心是故如来矜哀一切苦悩群生海行菩薩行時三業所修乃至一念一利那回向心為首得成就大悲心故以利他真実欲生心回施諸有海欲生即是回向心斯則大悲心故疑蓋無雑
【読方】次に欲生というは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまう勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。まことにこれ大小、凡聖、定散、自力の回向にあらず。かるがゆえに不回向となづくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし。清浄の回向心なし。このゆえに如来一切菩薩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行したまいしとき、三業の所修乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することをえたまえるがゆえに、利他真実の欲生心をもって、諸有海に回施したまえり。欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋
まじわることなし。
【字解】一。諸有 二十五有界のこと。上三一二頁 諸有輪に同じ。
二。大小 大乗、小乗。
(2-343)
三。凡聖 凡夫、聖者。
四。定散 定善、散善。
五。微塵界 微細なる塵ほど多い世界。無数の世界。
【文科】はじめに如来の欲生心を示したまう一段である。
【講義】扨て上来、三信の中、至心と信楽の意味合いを説き来ったが、これからは欲生について味わわねばならぬ。
欲生というは、阿弥陀如来が、あらゆる衆生に、我が国へ生まれんと思えと招き寄せ給う御喚声〈おんよびごえ〉である。而して先に信楽は至心を体としたが、今この欲生は、真実の信楽を体としている。何故ならば、信楽というは前にもいう通り、衆生を助けたい、助けずには置かぬという如来の大悲心のことで、この大悲心から、如来は一善積んでも衆生のため、一行励んでも衆生のためと功徳善根を悉く衆生に御与え下さるので、如来の回向は大悲心から起こっているから、欲生の体は信楽ぢゃというのである。後へ出て来るが、欲生はこの如来の回向心のことである。回向心のあらわれが、我が国へ生れんと思えという招喚の勅命となるのである。これで欲生の体が信楽ぢゃという意味は知れるのである。
(2-344)
扨て、欲生は如来の回向心であるが、丸々如来の御回向であって大乗小乗の凡夫や聖者、定機、散機の自力の人達の回向ではないから、衆生の方からは不回向というのである。
然るに十方の微塵の数程多い世界の生あるものは、皆八万四千の一煩悩の海に漂い、二十五有の生死の海に溺れて、真実の回向心、清浄の回向心というものはない。大小凡聖の自力の回向というはあるはあるけれども、それはみな虚仮の毒の雑った回向心である。この有様であるから、阿弥陀如来は、因位法蔵比丘の昔、菩薩の修行をなし給うた時、苦しみ悩めるすべての衆生を見るに見兼ねて、身口意の三業に修め給うものを、一念一刹那も、怠り給わず、悉くこれも衆生のため、あれも衆生のためと回向して、その御修行に依って大悲の願心を満足し給うたのである。その如来の回向心が、衆生に顕われて浄土に生れたいという願生の思いとなる。一寸見れば願生の思いは自分で起したものの様なれども、再応〈よくよく〉心を止めて伺えば、これこそ如来のやるせない回向心の我が胸に顕われて下されたので他力回向の欲生心である。如来はこの欲生心を衆生に御与え下されるのである。それであるから、欲生心は、相来の方にあっては回向心である。この回向心はもともと衆生を助けたい、助けずには置かぬという大悲心から起ったものであるから、もとへもどせば疑いの微
(2-345)
塵もない信楽である。
第二項 経文語
第一科 『大無量寿経』の文
是以本願欲生心成就文経言至心回向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法 已上
【読方】ここをもって本願の欲生心成就の文、経にのたまわく、至心に回向したまえり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなわち往生をえ、不退転に住す。ただし五逆と誹謗正法とをばのぞく 已上
【字解】一。不退転 再び迷界に退く憂いのない地位。他力回向の信心を獲れば、現生に正定聚の位に入る。之を不退の位という。
【文科】『大経』によりて、欲生の根拠を示さるる一段。
【講義】それであるから、第十八願の欲生心成就の文には、「如来は至心を以て、衆生に回向して下された。その御回向が、行者の胸に顕われて、御浄土へ参りたいという願いが起これば、時をへだてず日をへだてず、現在直ちに阿弥陀如来の光明に摂め取られて、往生す
(2-346)
べき利益を得て、不退転の位に入るのである。ただ五逆罪を犯したものと正法を誹謗したものはこの限りではないというてある。
【余義】一 欲生心の下の引文は、初めは『大経』成就文である。『至心回向』は、吾等自力の回向でないことを表わして、「至心に回向したまえり」と訓点を施された。「願生彼国」は如来の御言葉とすれば、「我国に生れんと願ぜよ」という勅命であるが、今はその勅命が吾等の胸に表われて「彼国に生れんと願ずれば」となるのである。「唯除五逆謗謗正法」は、『銘文』本、三丁に
五逆のつみひとをきらい、謗法のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみの、おもきことをしめして、十方一切の衆生、みなもれず往生すべしと、しらせんとなり。
と解釈せられた。即ちここでは、大悲回向の正所被の機類を示されたのである。聖人のこの釈は、実に大悲の幽意を開闡せられ名釈である。
次の「如来会」の文は、「諸有の善根、回向したまえるを、歓喜愛楽して」が主要の文字である。即ち正しく如来の回向に預る時、歓喜愛楽の念があることを示されるのである。
(2-347)
次の『論註』の文は、例の如く本文の『浄土論』の名に於いて引用せられた。これ『論註』は『浄土論』の註釈書であるけれども、能く『論』の真意を得ておるというので、態〈わざ〉と『浄土論』と名づけられるのである。是に三文あり、初文は、如来の欲生心とは、大悲回向の心であるということ、そして吾等に回向したまうものがらに往還二種の回向あることを示す。次の浄入願心の文は、その中往相回向が、全く弥陀の願力回向であると云うことを表わし、次の出第五門の文は、還相回向の他力たることを述ぶ。
終りの『散善義』の文は、私共の起こす所の往生一定の欲生心は、全く如来が真実心中に回向したまいし所であるということと、そして此の欲生心は、「此の心深く信ずること、金剛の若くなるに由って」等と、全く第二の深心に結帰することを示されたのである。
上来の経釈によりて、欲生心の内容が豊かになると共に、亦明晰に知られて来た。
第二科 『無量寿如来会』の文
又言愛楽所有善根回向願生無量寿国者随願皆生得不退転乃至無上正等菩提除五無間誹謗正法及謗聖者 已上
(2-348)
【読方】またのたまわく、所有の善根、回向したまえるを歓喜愛楽して、無量寿国に生まれんと願ずれば、願にしたがいて、みな生じて不退転乃至無上正等菩提をう。五無間誹謗正法および謗聖者をのぞく 已上
【字解】一。五無間 五無間業。五逆罪のこと。
【文科】異訳の成就文をあげて正依の文を助顕せらるる一段。
【講義】又『如来会』には、如来の方から回向して下されたあらゆる善根功徳を歓喜〈よろこ〉び愛好〈いつくし〉み、無量寿仏の国に生まれたいと願うならば、すべてみなその願いの通りに直〈すぐ〉に、往生の利益を得ることに定まるであろう。その衆生は娑婆に居ながら、不退転の位に入り、命終れば、直〈す〉ぐ様この上ない仏の果証〈さとり〉を開かして貰うであろう。ただし、五無間業を作るものと正法と仏菩薩聖者を誹謗〈そし〉るものは、この中から除かれるというてある。
第三項 釈文証
第一科 曇鸞大師の釈文
浄土論曰云何回向不捨一切苦悩衆生心常作願回向為首得成就大悲心故回向有二種相一者往相二者還相往相者以己
(2-349)
功徳回施一切衆生作願共往生彼阿弥陀如来安楽浄土還相者生彼土已得奢摩他毘婆舎那方便力成就回入生死稠林教化一切衆生共向仏道若住若還皆為抜衆生渡生死海是故言回向為音得成就大悲心故 已上
又云浄入願心者論曰又向説観察荘厳仏土功徳成就荘厳仏功徳成就荘厳菩薩功徳成就此三種成就願心荘厳応知応知者応知此三種荘厳成就由本四十八願等清浄願心之所荘厳因浄故果浄非無因他因有也 已上
又論曰出第五門者以大慈悲観察一切苦悩衆生示応化身回入生死園煩悩林中遊戯神通至教化地以本願力回向故是名出第五門 已上
【読方】浄土論にいわく、いかんが回向せる。一切苦悩の衆生をすてずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。回向に二種の相あり、一には往相、二には還相なり。往相というは、おのれが功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願してともに、かの阿弥陀如来の安楽
(2-350)
浄土に往生せしめたまうなり。還相というは、かの土に生じおわりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することをえて、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道にむかえしめたまうなり。もしは往、もしは還、みな衆生をぬきて生死海を度せんがためにしたまえり。このゆえに回向為首得成就大悲心故とのたまえり。已上
またいわく、浄入願心というは、論にいわく、またさきに観察荘厳仏土功徳成就と、荘廃仏功徳成就と、荘厳菩薩功徳成就とをときつ。この三種の成就は願心荘厳したまえるなり。しるべし。応知というは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄願心の荘厳したまう所なるによりてなり。因、浄なるがゆえに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらざるなり。已上
また論にいわく、出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身をしめして、生死の薗、煩悩の林のなかに廻入して、神通に遊戯し、教化地にいたる。本願力の回向をもってのゆえに、これを出第五門となづくとのたまえり。已上
【字解】一。奢摩他 梵語シャマトハ(Samatha)。止、止息、寂静、能調等と訳す。禅定のこと。外境の刺撃の為に、心を動かさず、乱想を止めて静寂なること。
二。毘婆舎郡 梵語ヰパシュヤナー(Vipasyana)。覩、観察、正見と訳す。明らかに又細かに諸法を観察すること。
三。生死稠林 迷界のこと。生死の世界は、恰も稠密なる林の如く、一度迷い込めば、何処をみても、
(2-351)
陰森として、涯〈はて〉しがない。故にこの名あり。
四。浄入願心 「浄、願心に入る」ということ。浄とは、清浄のこと。『浄土論』に明かす所の浄土の依報の荘厳と、正報の荘厳の清浄なることをいう。願心とは阿弥陀如来の因位の選択の願心のこと。即ち浄土の園林楼閣等の外境の清浄なることも、仏菩薩の荘厳の清浄なることも、みな如来選択の願心に摂〈おさ〉まるということ。
五。出第五門 果の五功徳門の中の第五の園林遊戯地門のこと。
六。応化身 三身の一。報身仏が、衆生済度の為に、機に応じて相好を示し給いたるもの。釈尊の如き是〈これ〉なり。
七。教化地 利他教化の位地。園林遊戯地門のこと。
【文科】『論註』によりて回向の意義を明かしたまう。
【講義】『浄土論』実は『浄土論註』に曰わく。阿弥陀如来は、いかように回向し給うのであるか。苦しみ悩めるすべての衆生を捨て給わずして、常に、衆生を助けたい救いたいという大悲の願心を起こし詰〈づめ〉にして下され、何事についても最先〈まっさき〉に回向を立て、これも衆生のため、あれも衆生のためと計りて、大悲の願心を満足し給うたのである。凡〈すべ〉て回向というに二つの種類がある。一には往相回向、二には還相回向である。往相の回向というは、
(2-352)
阿弥陀如来御自身の功徳善根を、悉く一切衆生に御与え下されて、浄土へ生れさせたいという御願いを立てられ、御自身の御浄土へ往生させて下さることをいうのである。還相回向というは、彼の浄土へ生れて、奢摩他(ここでは浄土へ往生して今までの煩悩が悉く滅びて証〈さとり〉を開くことをいう)、毘婆舎那(ここでは、浄土へ往生して二十九種の荘厳を見て、思いのままに涅槃の楽しみを得るをいう)を得、衆生済度の方便力を成就して、生死の園、煩悩の林へ立ち返って、すべての衆生を教え導き、もろともに仏道に向かわしめる力を全体与えて下さることをいうのである。この往相回向も、還相回向もみな、衆生を苦しみの世界から救い出して、生死の海を渡らせたいが為である。それであるから『浄土論』には、回向を首として大悲心を成就することを得給えるが故にと宣うたのである。
又同じき『浄土論註』に曰わく。浄入願心ということについて、『浄土論』には、先きに「観行体相章」に於いて、仏土荘厳と、仏荘厳と菩薩荘厳の三種荘厳の功徳成就を観察することを説いたが、この三種の荘厳は阿弥陀如来の因位の本願力に依って厳〈かざ〉り立て給うたものである。応に知るべしというてある、応に知るべしというのは、この三種の荘厳の出来上ったのは、因位の四十八の無漏清浄の願心から、厳り立て給うたので、因位の願心が
(2-353)
無漏清浄の願心であるから、その結果である三種の荘厳も無漏清浄の荘厳である。この三種の荘厳は願心の結果であるから、決して因無くして出来上ったものでもなければ、又、他人の因から出来たものでもない。
又『浄土論』に曰はく、果の五功徳門の第五、園林遊戯地門は、衆生済度の利他門であるから前の入の四門に対して出の第五門と称せられるのであろが、これは大慈悲心を以て、すべての苦しみ悩める衆生をながめて、済度のために応化身を示現〈あら〉わし、生死の世界に立ち入って、神通を顕わし宛然〈さながら〉遊び戯むるるが如く自由自在に衆生済度するのである。これは、弥陀如来の因位の第二十二願から起こるので、みな本願他力の回向である。これが、出の第五門園林遊戯地門のすがたである。
第二科 善導大師の釈文
光明寺和尚云又回向発願生者必須決定真実心中回向願作得生想此心深信由若金剛不為一切異見異学別解別行人等之所勒乱破壊唯是決定一心捉正直進不得聞彼人語即有
(2-354)
進退心生怯弱回顧落道即失往生之大益也 已上
【読方】光明寺の和尚ののたまわく、また回向発願してうまるるものは、かならず決定真実心のうちに回向したまえる願をもちいて、得生の想をなせ。この心ふかく信ずること、金剛のごとくなるによりて、一切の異見、異学、別解、別行人等のために、動乱破壊せられず、ただこれ決定して一心にとりて正直にすすんで、かの人の語〈ことば〉を聞くことをえざれ。すなわち進退の心ありて、怯弱を生じ回顧すれば、道におちてすなわち往生の大益を失するなり。已上
【字解】一。怯弱 弱いおじけ心。憶病の心。
【文科】『散善義』の文によりて回向発願心を明かさるる一段である。
【講義】光明寺善導和尚は『散善義』に示し給うよう。扨て安楽浄土へ思いを向けて往生を遂げたいと願うものは、阿弥陀如来が、真実心を以て、これも衆生のため、あれも衆生のためと、善根功徳を悉く衆生に回向して、浄土へ往生させたいと思召す大悲の願心を頂いて、往生疑いないという決定心を得るがよい。この決定心の堅いことは恰も金剛の如く、学問見解を異にしている外道や聖道門の人達や、信仰修養を異にしている人達のために信仰を乱されたり、壊られたりするようなことはないのである。それであるから押し切って一心に、願力に打ち任せ、傍目〈わきめ〉を振らず、正直に極楽浄土へと進んで、彼の異
(2-355)
学異見別解別行の人達の語を耳に入れてはならぬ。もし信ずるが如く信ぜざるが如く、進んだり退いたりして、願力にとりすがることが出来ず、もぢもぢして、傍見をして、道から落ちるようなことがあれば、往生の大利益を失うて仕舞うのである。
第四項 助釈
第一科 私釈
真知二河譬喩中言白道四五寸者白道者白之言対黒也白者即是選択摂取之白業住相回向之浄業也黒者即是無明煩悩之黒業二乗人天之雑善也道之言対路道者則是本願一実之直道大般涅槃無上之大道也路者則是二乗三乗万善諸行之小路也言四五寸者喩衆生四大五陰也言能生清浄願心者獲得金剛真心也本願力回向大信心海故不可破壊喩之如金剛也
【読方】まことに知んぬ、二川の譬喩のなかに、白道四五寸というは、白道は、白の言は黒に対するなり。白はすなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗人
(2-356)
天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなわちこれ二乗、三乗万善諸行の小路なり。四五寸というは、衆生の四大五陰にたとうるなり。能生清浄願心というは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを金剛のごとしとたとうるなり。
【字解】一。白業 善業のこと。
二。黒業 悪業のこと。
二。二乗人天 人乗、天乗の二乗をいう。乗は運載の義。人間教、天上教のこと。これらの教に運載せられて、人間、天上の果報を獲る故に此の名あり。
四。本願一実直道 本願は第十八願。一実は唯一真実の義。人天三乗等の教えにあらずして、唯一絶対の一乗教ということ。直通はスグ道、捷径〈ちかみち〉。一乗真実の本願の捷径〈ちかみち〉といふ意。
五。大般涅槃 梵語マハ-、パリニルワーナ(Maha-Parinirvana)。大滅度と訳す。大乗の証果をいう。小乗の灰身滅智の消極的の証〈さと〉りに対して、積極的、活動的の証果をいう。
六。三乗 声聞、縁覚、菩薩の三乗教をいう。乗は上の義に同じ。
七。四大 ここには身体という程の意。上二一八頁をみよ。
八。五陰 新訳には五蘊。色(物質)、受(感覚)、想(事物を一々見分けてその名称等を想い浮べる精神)、行(四十六心所の中、上の受、想の二心所を除いたる他の四十四心所の総称)、識(六識心王)。吾等の肉体精神を指す。
(2-357)
蘊は積聚の義、吾等の個人格は、是れ等の五つの仮に因縁によりて和合したものであることを示す。
【文科】助釈として二河喩を解釈したまうのである。
【講義】扨て段々と他力の御覚召しが明了〈かきらか〉になって来たが、善導大師の二河喩の中の、白道四五寸というはいかなることであろうか。少しく開陳せねばならぬ。白道の白は黒に対する語で、法蔵菩薩因位の御修行の時、万行万善の中から選び取り給うたこの上ない善業、即ち往生の正因として衆生に御回向下される清浄業たる南無阿弥陀仏の名号を白というのである。この白に対する黒というは、無明煩悩を根本とする一切の煩悩、その外十悪五逆等のあらゆる悪業と、声聞縁覚人天の修得する煩悩の毒雑りの善業を指していうのである。白道の道は路に対する語で、第十八願の横超他力の直道〈すぐみち〉、大槃涅槃を証〈さと〉るこの上ない大道、即ち真実信心のことである。道に対する路というは、人天や、声聞縁覚菩薩の自力修行の小路のことである。この白道に四五寸という語のあるは、衆生の四大五陰に喩えていうたので、本願一実の大道が、この四大五陰の私共の胸の中に宿って下さることを示したのである。
又能生清浄願往生心という語があったが、これは、私共凡夫が、他力金剛の信心を
(2-358)
得奉ることを示されたのである。阿弥陀如来の本願力に依って御回向下される大信心であるから、何物にも破壊〈こわ〉れるということはない。それで、その堅固なことを金剛の如しと喩えたのである。
【余義】一。此の下の白道釈は『愚禿鈔』下十八丁の白道釈と比較するに、多少の相違がある。併し相違というよりも、『禿鈔』は晩年の御作であるから、此の下の足らざる所を補われたと見る方が適当であると思う。
此の下に「白」を釈して「選択摂取の白業」等といいて弘願他力の浄業としてあるが、『禿鈔』には、六度万行等の自力の小善路としてある。これはこの下に白道に対して、白路の釈がないから、『禿鈔』に補われたのである。今両書の白道釈を総合して考えるに、三つの場合がある。
一、白道。白は選択摂取の白業、道は本願一実の大道(当巻)
二、黒道。黒は無明煩悩の黒業これは因に就いて云う(当巻)。道は六趣四生等の黒悪道をいふ。これは果に就いていう。(禿鈔)
三、白路。白は、六度万行等の自力の小善珞(禿鈔)、路は、二乗三乗万善諸行の小路(当
(2-359)
巻)。只白と路を別々に釈したので、そのものがらは自力諸善である。
この外、四五寸を四大五陰に譬えられたこと、能生清浄願往心が、金剛堅固の信心を獲得することである等のことは、上の二河白道喩の下(二二九頁)を看られよ。
観経義云道俗時衆等各発無上心生死甚難厭仏法復難欣共発金剛志横超断四流正受金剛心相応一念後果得涅槃者 抄要
又云真心徹到厭苦娑婆欣楽無為永帰常楽但無為之境不可軽爾即階苦悩娑婆無由輙然得離自非発金剛之志永絶生死之元若不親従慈尊阿能免斯長歎
又云言金剛者即是無漏之体也 已上
【読方】観経義に、道俗時衆等おのおの無上心をおこせども、生死はなはだ厭いがたく、仏法また欣〈ねが〉いがたし。共に金剛の志〈こころ〉をおこして、横〈よこさま〉に四流を超断せよ。まさしく金剛の心をうけて、一念に相応してのち、果、涅槃をえん者といえり(要を鈔す)。またいわく、真心徹到して苦の裟婆をいとい、楽の無為をねがいて、ながく常楽に帰すべし。ただし無為のさかい、軽爾としてすなわち階〈かな〉うべからず。苦悩の娑婆轍然として離
(2-360)
るることをうるに由〈よし〉なし。金剛の志を発っすにあらずよりは、ながく生死の元をたたんや。もし親〈まのあたり〉り慈尊にたのみたてまつらずば、何ぞよくこの長き歎きをまぬかれん。またいわく、金剛というはこれすなわちこれ無漏の体なり 已上
【字解】一。無上心 無上菩提心。ここでは自力の発心の事。
二。金剛志 金剛心。他力回向の信心。
三。横〈よこさま〉に 他力不思議の御力に依ってという事。
四。四流 四暴流。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流、この四煩悩は吾等の善根を押し流すこと暴流のようであるからこの名あり。
五。涅槃 梵語ニルワ―ナ(Nirvana)。滅度、円寂等と訳す。迷妄を断ちて、寂滅無為の理を窮め、法身の証〈さとり〉を開く事。
六。娑婆 娑婆世界のこと。梵語サハ(Saha)娑婆、娑訶等と音訳し、勘忍土、忍土等と訳す。外界にありては、寒暑、天変地異の難に堪え、内には煩悩悪業の苦みを忍ばねばならぬ処という意味にて、此の世を忍土という。
七。無為 為作造作を離れたる寂静境。
八。軽爾 爾は助字。軽々しくの意。
九。輙然 忽ち、又は立ちどころにの意。
(2-361)
一〇。慈尊 慈悲ある世尊。今は阿弥陀如来を指す。
一一。無漏 漏は煩悩の義。煩悩の汚れなき事。
【文科】善導大師の三文を引いて求道心を勧発したまう一段である。
【講義】善導大師の『玄義分』に示し給うよう。今の時の僧侶方も在家の人達も暫く我が語〈ことば〉に耳を借して下さい。無上菩提心の結構なことはいうまでもなければ、銘々が励んでこの大心を起こすはよいけれども、然しこの自力の菩提心では出離は出来ないのである。何故ならば、生死の厭うべきこと、仏果菩提の願うべきことは、もとより知れ切ったことで、誰も否みはせぬけれども、扨て実際となると、この厭欣が仲々容易に出来るものではない。仏法の第一歩たる厭欣が出来ない位であるから、自力の菩提心で出離の出来よう咎はないのである。それであるから、どうぞもろともに、他力金剛の真心を頂いて、他力不思議の御力で、生死の流れを飛び超えさして頂こうではないか。他力金剛の信心を頂き、一念の信心にして仏の本願に相応すれば、浄土に往生して大涅槃の仏果を得る身分に定めて下さるのである。
又『序分義』に宣うよう。他力回向の真心が一度〈ひとたび〉我が胸にいたりとどいて下さるれば、自
(2-362)
然に苦悩〈くるしみ〉の娑婆を厭い、常楽の浄土を願う心になり、永く身心の悩みを離れて、涅槃の常楽を得ることが出来るのである。然し、この無為の都たる真実報土は、軽々しくのぼることの出来るものではない。仏法の通途からいえば、八地以上の菩薩でなければ参ることの出来ない処である。苦悩の娑婆も、一足飛びに離れることの出来るものではない。一善を積まず、一業を断ぜざる私共は、他力金剛の信心を頂くでなければ、どうしてこの生死の本源を断じて出離することが出来ようぞ。親しく弥陀の願力に依るでなければ、どうしてこの生死の数を離れることが出来ようぞ。
又『定善義』に宣うよう。他力金剛の信心は、如来の御手許で御成就なされたものであるから、煩悩の雑り気のない無漏清浄のものである。それであるから、決して破壊〈こわれ〉るということはないのである。
【余義】一。初めの「各発無上心」の無上心に就いて両説あり。一は、他力の菩提心であるという。この時は「各〈おのおの〉無上心を発せ」と訓〈よ〉む。二は自力の菩提心であるという。この時は「各〈おのおの〉無上心を発せども」と訓む。御延書には、この訓点になっている。どちらでも、意味は通ずるが、後説の方が味わいが深いように思われる。
(2-363)
次に玄義分の本文には、「横超断四流」と「正受金剛心」の間に十七句ある。今は乃至という断り書きもされずに全く略して、一連の文とせられた。従って「正受金剛心」の意味も通常の解釈とは異っている。即ち「正受」とは、等覚の菩薩が、正しく微細の妄染心を断ちて、真如を覚る所の定を指す。即ち金剛喩定のことである。その定心の堅固なること、全剛のようであると云うので、正受金剛心というのである。「相応一念後」は、能観の智慧が、所観の真理と一念冥含したのちと云う意味である。
然るに聖人は、この所の文意を『正信偈』に「行者、正しく金剛心を受けしめ、慶喜一念相応の後、韋提と等しく三悪を獲、即ち法性の常楽を証せしむ」と仰せられた。金剛心は他力回向の信心である。相応一念は、能帰の我等が心と、所帰の如来の心と冥合する一念をいう。所謂信心歓喜の一念、慶喜の一念、「前念命終、後念即生」の一念である。ここに「後」と云われたのは、時間の前後を示されたのではなく、只相応せない前に対して、後と云われたので、一念同時の意味である。「果得涅槃者」は、この金剛の信心を獲たる人は、当来必ず涅槃の果を得る者であるということで、上に引いた『正信偈』の文には、この意味が明瞭に表されておる。
(2-364)
第六章 問答結帰
【大意】上来、三心一心問答の次に三心別相問答を出して三信の一々に亘りて細説したから、今や再び三心を一心信楽に結帰したまうのである。
全体四節に分かれ、第一節には三心を一信楽に結帰し、第二節には菩提心に就いて二双四重の判を施して横超他力の信楽を釈し、その下、曇鸞大師以下他師の釈文を引き、第三節には囚願の三心を成就文の一念に結帰し、『大経』『涅槃経』善導の釈文を引いて之を証し、更に私釈、転釈を施し、第四節には正しく三心一心を総結したまう。
第一節 信楽結帰釈
第一項 三信を会す
信知至心信楽欲生其言雖異其意唯一何以故三心已疑蓋無雑故真実一心是名金剛真心金剛真心是名真実信心
【読方】信〈まこと〉に知んぬ。至心信楽欲生そのことば異りといへども、その意これひとつなり。何をもって
(2-365)
の故に、三心すでに疑蓋まじわることなし。かるがゆえに真実の一心、これを金剛の真心となづく。金剛の真心これを真実の信心となづく。
【文科】因願の三心を一心の信心に結帰したまうのである。
【講義】今まで三信について、いろいろ味おうて来たが、以上述べ来った処で、至心信楽欲生と三心に分かれて、名は変っているけれども、その真実の意味合いは全く同一であるということが明了〈あきらか〉に知れたのである。何故かといえば、三心いずれを押さえて見ても、疑いは微塵も雑っで居らないと云うことになるからである。それであるから、三心合して見れば、真実の一心である。この真実の一心は金剛の真心である。金剛の真心は真実の信心である。
第二項 信心名号関係
真実信心必具名号名号必不具願力信心也是故論主建言我一心又言如彼名義欲如実修行相応故
【読方】真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主はじめに我一心とのたまえり。また如彼名義欲如実修行相応故とのたまえり。
【文科】信心と名号の交際を決着したまう重要なる一段である。
(2-366)
【講義】この真実の信心は、如来の御回向下される名号が衆生の胸に頂かれた時、信心と呼ばれるので、その頂いた名号が自ずと口に顕われて称名となるのであるから、真実の信心には必ず名号は具わって居るが、称名には、ただの自力称名もあるから、これに願力回向の信心が具っているとは云われないのである。それで、天親菩薩は、『浄土論』の始めに、我一心と宣い、かつ彼の名義の如く、如実修行相応せんと欲するが故にと宣うたのである。
【余義】一。上来広く三心を明かされたが、それを結んで疑蓋無雑の信心一つに結帰せられ、ここに其の真実信心に他力の大行が具わっていることを明かされるのである。
「真実信心には、必ず名号を具す」の一句に就いて、名号という言葉が、いろいろに考えられる。即ち所行と能行である。所行とは所信の行体を指すので、第十八願の乃至十念の行、第十七願成就の所信の行体がそれである。能行とは、口に称うる称名のことである。即わち此の名号を所信とすれば、信心獲得の時、この所信の大行は、同時に具足して、一体不離である。第十八願から云えば、三信十念の二つの誓いの中、上には広く三信を明かしたが、この三信即一の信心の所に、この乃至十念の行体が必ず具わる。願文には、信と行とに
(2-367)
分かれているけれど、全く一体不離であると、云うことを示されたと解するのである。次に能行として解すれば、信心には必ず称名が具わる。思い内にあれば、色ほかに現わるるように、聖人は、信と称名の関係を述べられたのであると、云うのである。
併し、上の両説は、所謂一体の両面であって、合糅〈いっしょ〉にすべきものであると思われる。第一名号と云うことは、称えることを離れては無意味である。この意味に於いて、名号と称名とは同一である。故に聖人は『行巻』の大行釈(第一巻二七七頁)には「大行とは、則ち無碍光如来の御名を称するなり」と仰せられた。この方両から云えば、信心には、称名が具わっていると云わねばならぬ。されど称名と云えば、必ず口に出して称えるということになる。所が、この「称える」と云うことを、煎じつめてみると、称える力である。即ち『嘆異鈔』の初めの文から云えば、「念仏申さんと思い立つ心」である。ここに称名の根がある。口に表われた称名は、それの表現である。この「念仏申さんと思いたつ心」は、疑いなく信ずる心と同時である。そして一体である。そしてそれが其の儘、所信の行であり、乃至十念であり、万徳円満の行体である。故に聖人は態〈わざ〉と称名と云われずして、名号の字を須〈もち〉いられた。単に称名と云えば、無意味の念仏のように解する恐れがあるから、万徳円具と
(2-368)
云われておる此の名号を出されたのである。
かようにして始めて、信心、名号の意味が円かに味わわれることである。信心と云えば、必ず名号が具わり、そして名号が、名号としての力用を吾等の上に顕わす時に信心と云われるのである。そして其の信心と一体たる名号は、口に溢れて称名となる。今は此の称名と同一なる意味に於いての名号を指して、「名号には必ずしも願力の信心を具せざるなり」と仰せられたのである。
二。これを要するに、上に述べた説の根底は、此の名号は所行能信の二つを一所にしたものであると云うのである。即ち名号は一方信の為の所信となるとともに、其の所信が機に表われて信心そのものとなり、同時に「念仏申さんと思い立つ心」となり、その儘口に表われて称名となる。故に「真実の信心には、必ず名号を具す」と仰せられる。『六要』の釈の如く行信随所機法是一であるから、信の当体に万徳円満の名号があることは勿論である。されど名号と云えば、口に称えることも含んでいるから、其の方両を簡びて、名号には必ずしも願力の信心を具せざるなりと念を押されたのである。これを論理的形式に示せば、寛狭の関係となる。
(2-369)
挿図(yakk2-369_01.gif)
名号 信心
即ち名号の意義を明瞭ならしむる為に、上に述べた所を図示すれば、左の通りである。
挿図(yakk2-369_02.gif)
所行 所信大行
名号 行之一念 万徳円満之行体
能行 口称念仏
所信の大行が、能信の信心と冥合した所、或いは寧ろ此の大行が行者の胸に表われて信心となった時に正定業の行体が宿る。これが直ちに口に表われて行の一念(一声)となる。そして此の行の一念が、その儘所信の大行である。万行円備の行体である。往生の行体である『執持鈔』に
この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行、果他の万徳ことごとく名号の中に摂在して、十方衆生の往生の行当となれば、阿弥陀仏即是其行と釈し
(2-370)
たまへり。
とはこの意である。故に所信の行体というても、信ずるということを離れては、宗教的実践の上には単なる概念、もしくは無意義の言葉としか受け取れぬ。信ずる時に、所信の大行が活躍するのである。無論教えの上では、信の前に大行が成立したことを説くことが出来るけれども、信を離れては、行の功能が表われない。ここに信心の絶対価があるのである。例せば汽車に乗る場合に、汽車の力があっても、乗る気にならなければ、私に対して汽車の力がないと同じである。所が乗る気になれば、汽車の力は私の力となって、数百里の道を行くことが出来る。大行とは、汽車の力である。往生の正業(まさしきはたらき)である。信心はこの乗る気である。即ち往生の正因である。信心は大行の功徳、力用を含み、大行は亦信心をして正因たらしめる。此の乗る気の一念が信の一念である。それと同時に其の人に対して汽車の力が加わる所が正定業の行である。かように二は離るることは出来ぬ。我聖人が常に行信不離を演〈の〉べ給いしは此の理由である。
名号の真意義は、かように奥深いものであるから、信心には名号を具すが、併し名号の口称の方面から云えば、必ずしも真実信心は具すとは云われぬ。第十九・第二十の自力念仏
(2-371)
の念仏もあると仰せられたのである。
三。尚此の信心と名号の関係については、上の就行立信の下(一八三頁)を熟読せられよ。
第三項 信徳讃嘆
凡按大信海者不簡貴賤緇素不謂男女老少不問造罪多少不論修行久近非行非善非頓非漸非定非散非正観非邪観非有念非無念非尋常非臨終非多念非一念唯是不可思議不可称不可説信楽也喩如阿伽陀薬能滅一切毒如来誓願薬能滅智愚毒也
【読方】おおよそ大信心海を按すれば、貴賤緇素をえらばず、男女老少をいわず、造罪の多少をとわず、修行の久近を論ぜず、行にあらず、善にあらず、頓にあらず、漸にあらず、定にあらず、散にあらず、正観にあらず、邪教にあらず、有念にあらず、無念にあらず、尋常にあらず、臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず、ただこれ不可思議、不可称、不可説の信楽なり。たとえば阿伽陀薬の、よく一切の毒を滅するがごとし、如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。
【字解】一。緇素 緇は黒、素は白。黒衣、白衣のこと。黒衣の人は僧侶、白衣の人は在俗者。
(2-372)
二。阿伽陀薬 梵語アガダ(Agada)無病薬等と訳す。此の薬のある所には病はないと云う意味。即ち一切の病を立〈たりどころ〉に治おす霊薬。
【文科】四不十四非をもってあらゆる概念の型を排し、神秘不可思議の信心を讃嘆〈たたえ〉給う。
【講義】凡そこの他力の信心のことを考えてみるに、この信心を頂く機類は、貴い人も賤い人も、在家、出家、男、女、老人、若人の区別はない。又罪の多い少いや、修行の時間の長短に依るのではない。いかなるものも皆平等に頂かれる信心である。
又この他力の信心は、全分自力のはからいを離れて居るもので、凡夫の方であれやこれやと計うて居るようなものではない。それであるから衆生の方からいえば、衆生のはからいにて行するものでなければ非行、衆生の計いにて修する善でなければ非善である。又衆生のかれこれ執するような頓でもなく漸でもない。そういう相対を離れた絶対の信心である。又、息慮凝心(おもいをやめ、こころをこらす)の定善でもなければ、廃悪修善(悪を廃し善を修す)の散善でもない。定散の二善を離れた本願不思議の信心である、又正観(教の通りの観法をすること)、邪教(教に離れた邪の観法)というような観法でもない。又常に意業の上にはっきりとたのむ思いがあるというような有念でもない。又何もかも阿弥陀如来に任せて仕舞うてこちらは何にも思わぬとい
(2-373)
うような無念でもない。又平生の時ただの一度弥陀に帰すれば、それでよいという尋常に偏ったものでもない。臨終の時までは決して安心がならぬという臨終正念に偏ったものでもない。又多念の念仏を称えねば助らぬということでもない。一念の称名さえあれば多念の称名は全く要らないということでもない。すべてかような凡夫持前〈もちまえ〉の角の立った計いで、あれやこれやと計うものではない。まことに、凡夫の計いを離れて、思い議〈はか〉ることも出来ぬ、心も語〈ことば〉も絶え果てた信心である。丁度、無病薬という薬があれば、すべての病毒を悉く消して仕舞うように、この弥陀如来の誓願力回向の信心は自力のさかしい智慧の毒も、十悪五逆の悪毒も、悉く滅して下さるのである。
【余義】一。此の下は各方面より、他力信仰の絶対義を嘆ぜられたものである。初めに貴賤、道俗、男女、老少の機類を簡ばずと、如何なる人も此の信仰に住することが出来ると宣べ給う『歎異鈔』初めに
弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべか
(2-374)
らず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと。云々
は、この一段の意である。即ち次には造罪多少修行の久近に関することはないと、機の真相を述べられ、進んで他力信心の何物たるかに及び、初めに「行にあらず、善にあらず」と仰せる。『嘆異鈔』の
念仏は、行者の為には、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にてもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと、云々
というはこれである。即ち凡夫自力のはからいを離れている絶対独善のものである。既に能修の力を加えることの出来ないものであるから、「頓にあらず、漸にあらず、定にあらず、散にあらず」等と仰せられた。この頓漸等は、自力聖道の人達がその修道の際に須〈もち〉いた思想の形式である。聖人の当時、信仰は心を沈め凝〈こ〉らすものであると思うた定心の人や、又は信仰は廃悪修善の性質のものであると思うた散心の人があったようである。絶対の信仰、即ち自分の生命そのものとなる信仰の第一義を忘れて、信仰の余徳に執する誤謬である。そしてこれ古〈いにしえ〉より今に至るまで、常に迷い込む邪路である。聖人はこれらの誤謬に対して、
(2-375)
『末灯鈔』『御消息集』等に、自力のはからいを捨てよと幾度も仰せられた。
次に有念、無念ということも、当時信者の間に八釜〈やかま〉しい問題の一つであったようである。『末灯鈔』初めに、
選択本願は、有念にあらず、無念にあらず。有念はすなわち、色形〈いろかたち〉をおもうにつきていうことなり。無念というは、形をこころにかけず、色をこころにおもわずして、念もなきをいうなり。これみな聖道のおしえなり。
とて、専らはからいを離れよと勧められた。
「尋常にあらず、臨終にあらず」は、尋常は平生のこと、平生の時の一念を骨張して、その一念の信心発得の上は、其の後はどうでも宜〈よ〉いと据り込むことである。矢張りここにも自力の計いがある。如来の念々不捨の大慈悲を、吾等の方でこういうものと、極め込むのは、如来の口真似〈くちまね〉をするのである。故に「尋常にあらず」と仰せられた。されど臨終正念を期することは、諸行往生の機類であるから「臨終にあらず」と宣給う。
「多念にあらず、一念にあらず」は『一念多念証文』に「一念をひがごととおもうまじきこと」。「多念をひがごととおもうまじきこと」の二項をあげて詳細に一念多念の関係を
(2-376)
述べられた。『御消息集』八丁の教忍坊に宛られたる文中に
弥陀の選択本願は、行者のはからいのそうらわねばこそ、ひとえに他力とはもうすことにてそうらえ。一念こそよけれ、多念こそよけれ、なんどもうすことも、ゆめゆめあるべからずそうろう。
とあるはこれである。
かように、否定的、消極的に他力信心の絶対なることを述べ了りて、恰も雲消えて太陽の輝くように、「不可思議、不可称、不可説の信楽也」と結ばれ、終りに「如来誓願の薬は、能く智愚の毒を滅するなり」と仰せられた。「智愚の毒」とは深刻の言葉である。吾等の自力我慢を、根本的に摧滅する鉄鎚である。愚毒を滅する丈にては、吾等の心はなお逃げ場があるが、「智毒」と指摘せられては、もう自力の宿る所はない。浅間しき者と知れと云えば、自分は浅間しいものと自覚したという驕傲〈おごり〉の智毒となる。この智愚の毒を滅する所に絶対他力教の真面目があるのである。
第二節 菩提心釈
(2-377)
第一項 二双四重の判釈
然就菩提心有二種一者竪二者横又就竪復有二種一者竪超二者竪出竪超竪出明権実顕密大小之教歴劫迂回之菩提心自力金剛心菩薩大心也亦就横復有二種一者横超二者横出横出者正雑定散他力中之自力菩提心也横超者斯乃願力回向之信楽是曰願作仏心願作仏心即是横大菩提心是名二横超金剛心一也
【読方】しかるに菩提心について二種あり。一には竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一には竪超、二には竪出なり。竪超竪出は権実顕密大小の教にあかす歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心たり。また横についてまた二種あり。一には横超、二には横出なり。横出というは正雑定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超というはこれすなわち願力回向の信楽、これを願作仏心という。願作仏心すなわちこれ横の大菩提心なり。これを構超の金剛心となづくるなり。
【字解】一。権実顕密大小 釈尊の一代の教えを内容より分類せる称。権は権教、実は真実教。顕は顕〈あらわ〉に説かれたる教え、密は秘宝に説かれたる教え。大は大乗教、小は小乗教
(2-378)
二。歴劫迂回之菩提心 自力聖道の菩提心のこと。自力の菩提心は、百千劫の間、迂回〈まわりくど〉い修行を積んで、証りに至る故に云う。
【文科】菩提心に就いて二双四重判を施し、願力回向の信楽を表顕〈あらわ〉したまう一段である。
【講義】菩提心について二通りの種類がある。一には自力(竪)の菩提心、二には他力(横)の菩提心である。この自力の菩提心が二つに分れる。一には自力頓教(竪超)の菩提心、二には自力漸教(竪出)の菩提心である。この自力頓教と自力漸教の中には聖道八万の教えが悉くこもって仕舞うので、権教、実教、顕教、密教、大乗教、小乗教、みなこの中に入るのである。自力漸教の菩提というは、三僧祗百大劫の長い間を経めぐって遠まわりをする教えの菩提心である。自力頓教の菩提心というは、頓極頓速即身成仏を教える自力の円頓教、菩薩の大菩提心のことである。又他力の菩提心が二道りに分かれる。一には弘願他力(横超)の菩提心、二には他力要門(横出)の菩提心である。他力要門の菩提心というのは、正行雑行の分別を知らず、定善散善の自力の善根に執着する要門の人々の菩提心のことである。即ち他力中の自力の信心である。他力弘願の菩提心というは、弥陀如来願力回向の信心のことである。この他力の信心は仏になりたいと願う心であるから、これは願作仏
(2-379)
心である。この仏になりたいと願う願作仏心が実に他力弘願の大菩提心である。これを横超他力の金剛心というのである。
【余義】一。上に他力信心の絶対価を述べられたから、次に相対的に他の一代諸教と比較して、他力信心の優秀なることを説示せらるる。既に自力の諸教と比較するには、共通の言葉を須いる必要があるので、菩提心を選ばれた。これは自力諸教にも通じ、又他力信心の替名〈かえな〉として、上に引いた『往生要集』(二四七頁)に出でている。即ち此の菩提心に就いて、一代諸教に亘って判釈せられたのである。此下のの『六要』にこの判釈を二双四重の釈と命名せられた。この釈は此の下のみならず、聖人は屡々須いられた。『信巻』末の初めは、教を基本として此の釈を施し、『化巻』第九、十一丁には、行に就いて『愚禿鈔』上の初めには、証に就いて、そして『末灯鈔』二十一丁には、宗(旨)に就いて、此の釈を加えられた。良〈まこと〉に周到綿密なる判釈である。
此の判釈の拠は、『大経』下巻の三毒段の文「必得超絶去往生安養国横截五悪趣悪趣自然閉」の文と、上に引かれた善導大師の『玄義分』の「横超断四流」の文であろうと云われておる。此の下の『六要』には『楽邦文類』第四に載せられてある択瑛法
(3-380)
師の横竪二出の釈を挙げて、此の釈の名目の根拠であるとしてある。『歎徳文』の中にも、存覚上人は此の説を述べられた。
かねてはまた択瑛法師の釈義について、横堅二出の名を模すといえども、宗家大師の祖意を探りて、たくみに横竪二超の差をたつ。彼此助成して、権実の教旨を標し、漸頓分別して長短の修行を弁ず。他人いまだこれを談ぜず、わが師ひとりこれを存す。
と此の判釈を讃〈たた〉えられた。択瑛法師の横竪二出は、近くは此の下の『六要』に本文を引いてある。
竪出とは、声聞は四諦を修し、縁覚は十二因縁を修し、菩薩は六度万行を修す。これ地位を渉〈わた〉るもの、譬えば及第するものは、須く自ら才学あるべきが如し。又歴任転官するものは、須く功効あるべきが如し。
横出とは、念仏して浄土に生ぜんことを求む。譬えば蔭叙(父祖の功績によりて位に叙せらるること)の功は、父祖の他力によりて、学業の有無を問わざるが如し。又恩を覃〈およ〉ぼすこと普博して、功は国主に由りて、歴任の浅深を論ぜざるが如し。
これによりて見るに、存覚師の云わるる如く、大体の框〈わく〉はこれに依り、更にこれを完成せられたように思はれる。
(3-381)
二。二双四重の判釈を図示すれば
挿図(yakk2-381.gif)
┏竪超 自力金剛心、菩薩大心
┃ 即身是仏即身成仏等之証果也
┃ 難行聖道之実教、
┏竪┫ 所謂仏心、真言、法華、華厳等之教也━━┓
┃ ┃ ┃
┃ ┗竪出 歴劫迂回之菩提心 ┃
┃ 聖道歴劫修行之証也 ┃
当巻━┫ 難行道、聖道権教、法相等、 ┣━頓教┓
┃ 歴劫修行之教也━━━━━━━━━━┓ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┣愚禿鈔
┃ ┏横超 願力回向之信楽乃至横大菩提心 ┃ ┃ ┃
┃ ┃ 選択本願真実報土即得往生也 ┃ ┃ ┃
┃ ┃ 易行道、浄土本願真実之教、 ┃ ┃ ┃
┗横┫ 大無量寿経等也━━━━━━━━━━━━┛ ┃
┃ ┃ ┃
┗横出 正雑定散他力中之自力菩提心 ┃ ┃
浄土胎宮辺地懈慢之往生也 ┣━━━漸教┛
易行道、浄土要門、 ┃
無量寿仏観経之意、定散三福九品之教也┛
此の中「竪」は自力、「横」は他力の義。又「超」は頓悟、頓証、「出」は漸悟漸証の義である。故に竪超は自力の金剛心・自力の頓証、教から云えば真言・禅宗等の大乗実教である。竪出は、自力の歴劫迂回の菩提心自力の漸証、教えから云えば法相宗等の大乗権教をいう。又横超は願力回向の信楽(横の大菩提心)他力の頓証(報土往生)、教から云
(2-382)
えば、浄土本願真実の教である。横出は、他力中自力の菩提心、他力の漸証(化土往生)、教から云えば、浄土要門教を指す。
かように自力他力相対し、聖浄、頓漸、相対して、平静に公明に、一代仏教における他力真宗の地位を明らかにせられた。
抑〈そもそ〉も菩提心は、従来仏教各宗に亘り極めて重要視せられたものであった。苛〈いやしく〉も道を修むる者は、まず此の菩提心を起こさねばならぬ。即ち発心修行の発心である。此の発菩提心は修道の第一歩にして又入証終局の心である。明慧上人は、法然聖人の『選択集』を繙いて、其の専修念仏の教旨は仏教の至要たる菩提心を撥無しているものであると断定し、『選択集』の十六過失の中、第一、菩提心を以て往生極楽の行とせざる過〈とが〉。第二、弥陀の本願の中に菩提心なしという過。第三、菩提心を有上小利とする過等を挙げ、これらは聖道門を無視するの大罪たるのみならず、浄土の祖釈にも違うている。既に天親菩薩の『浄土論』には、発菩提心は願作仏心、願作仏心は度衆生心と説いて、発菩提心を勧め、道綽禅師は『安楽集』に於いて、発菩提心に四番の解釈をなし、善導和尚は『観経疏』に「各発無上心」「同発菩提心」と勧めてある。然るに『選択集』の巻頭には「往生之業 念仏為先」と標
(2-383)
榜するは何事ぞと、浄土念仏に対して痛烈なる反駁を試みたことであった。そしてこれに対して法然聖人の門下よりも破斥の書を著わすあり、当時の聖浄二門対立の諍いは、実に此の菩提心を中心として回転したのである(第一巻一一〇頁参照)。
我聖人が此の下に於いて菩提心に就いて此の判釈を施されたことは、此の諍論の火中に投ぜられた大永塊であった。即ち浄土門に菩提心がないのではない。念仏の法を信ずる心がそれである。
横超とは、斯れ乃ち願力回向の信楽なり、これを願作仏心という。願作仏心は即ちこれ横の大菩提心なり、これを横超の金剛心と名づくる也。
とは、上の明慧上人の反論に対する解答とも見られることと思う。尚『和讃』には、此の菩提心に関する見解を披瀝せられた。
十方無量の諸仏の 証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の かなわぬ程はしりぬべし。
自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき
(2-384)
と自力聖道の菩提心の起こし難きを述べ、進んで
浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ
すなわち願作仏心を 度衆生心となづけたり。
度衆生心ということは 弥陀智願の回向なり。
回向の信楽うるひとは 大般涅槃をさとるなり。
と上に引いた本文と同意味を述べられ、浄土の大菩提心は、弥陀の大菩提心たる回向の信心がそれであると仰せられた。更に『和讃』天親菩薩の下には
願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ 利他信実の信心なり。
信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心
金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり。
と他力浄土の教に於ける菩提心の意義を闡明せられた。即ち法然聖人の廃せられた菩提心は、上の判釈に於ける竪超、竪出、横出の自力の菩提心であった。そして他力回向の横超の菩提心を勧められたのである。即ち我聖人は師聖人の幽意を発揮せられたのである。下
(2-385)
の『論註』の文以下五文は上に述べた意味を証明せんが為の引文である。
第二項 道俗勧誡
横竪菩提心其言一而其心雖異入真為正要真心為根本邪雑為錯疑情為失也欣求浄刹道俗深了知信不具足之金言永応離聞不具足之邪心也
【読方】横竪の菩提心、その言ひとつにしてその心ことなりと雖も、入真を正要とし、真心を根本とす。邪雑をあやまりとし、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、ふかく信不具足の金言を了知し、ながく聞不具足の邪心をはなるべきなり。
【字解】一。邪雑 邪〈よこしま〉なる自力の行。雑行雑修をいふ。
二。疑情 疑いの情〈こころ〉。
三。浄刹 浄〈きよ〉き刹〈くに〉。極楽浄土のこと。
四。信不具足 「聞より生じて、思より生ぜざる」をいう。只大様〈おおよう〉に教法〈おしえ〉を聞いて、深く思いつめて聴聞しないのを信不具足という。又「道あるを信じて、得道の人あるを信ぜぎる」をいう。即ち三宝の中、仏法を信じて、僧宝を信ぜない人を信不具足という。
(2-386)
五。聞不具足 如来の教法の半ばを信じて、全体を信じないのをいう。真に教法の中心に触れないこと。又は如来の教法全体を信じても、利養の為、勝他の為等に信ずるものをも聞不具足と称せらる。
【文科】実際の修道上より疑情を誡め、信を勧めたまうのである。
【講義】他力の菩提心と、自力の菩提心は、言〈ことば〉は一つであって意味は違うけれども、然しいずれにせよ、早く成仏する真門〈まことのおしえ〉に入るが肝要である。而してこの成仏の真門に入るには、他力の信心でなけばならぬから、この他力の信心がすべてのものの根本とならねばならぬ。いずれにせよ、雑行のかかわるは錯りである。疑いは失敗の本である。浄土へ往生したいと願う道俗の方々よ、どうぞ深く、如来の説き置き給うた信不具足の御言に鑑み、聞不具足のあやまりを離れるようにいたされたいものである。
第三項 横超菩提心の引文
第一科 『論註の文』
論註曰按王舎城所説無量寿経三輩生中雖行有優劣莫不発皆無上菩提心此無上菩提心即是願作仏心願作仏心即是度衆生心度衆生心即是摂取衆生生有仏国土心是故願生彼安
(2-387)
楽浄土者要発無上菩提心也若人不発無上菩提心但聞彼国土受楽無間為楽故願生亦当不得往生也是故言不求自身住持之楽欲抜一切衆生苦故住持楽者謂彼安楽浄土為阿弥陀如来本願力之所住持受楽無間也凡釈回向名義謂以己所集一切功徳施与一切衆生共向仏道 抄出
(※左訓 摂取衆生 オサメ ムカエトリタマウトナリ)
【読方】論註にいわく、王舎城所説の無量寿経を按ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心はすなわちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなわちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなわちこれ衆生を摂取して、有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。もし人無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間〈ひま〉なきをききて、楽の為のゆえに生ぜんと願ぜん。またまさに往生を得ざるべきなり。この故にいうこころは、自身住持の楽をもとめず、一切衆生の苦を抜かんと欲うがゆえに。住持の楽というは、いわく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて受楽ひまなきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもって一切衆生に施与したまいて、共に仏道にむかえしめたまうなり 抄出
【字解】一。王舎城 釈尊当時の中印度、摩竭陀国の首都の名。頻婆娑羅王、阿闇世王の居りし地。『大
(2-388)
無量義経』『観無量寿経』は此処に説かる。
二。三輩生 極楽浄土へ往生せんと願う三種の行者。即ち修行の内容の差別によりて、上輩、中輩、下輩の三種に頒〈わ〉かつ。『大無量寿経』下巻の初めを看よ。
【文科】『論註』の文を引いて横超の菩提心を示したまう。
【講義】『浄土論註』に曰わく。釈迦如来王舎城に於いて説き給うた『大無量寿経』を開いて見るに、機に三輩の差別があるだけ、修する行には優劣があるけれども、いずれも皆無上菩提心を起こして修行の根底としている。この無上菩提心は仏になりたいと願う願作仏心である。この願作仏心は余の衆生を助けたいという度衆生心を伴うて居る、度衆生心というは、衆生を摂取(済度する意味である)して、有仏の国土即ち安楽浄土に生まれさせたいという心である。それであるから、安楽浄土に生まれたいと思うものは必ず無上菩提心の信心を起こさねばならぬ。無上菩提心を起こさずして、但極楽浄土の楽しいことだけきいて生まれたいと思うても往生することはならぬ。それであるから『浄土論』には自身住持の楽を求める為ではない、すべての衆生の苦を抜き去ってやろうと欲うからだというてある。住持の楽というは、極楽浄土が、阿弥陀如来の本願力に住持〈たも〉たれて、いつでも楽しみに間〈ひま〉のな
(2-389)
いことをいうのである。
凡そ回向という二字の一意味合いはいかなることか、解釈してみると、阿弥陀如来が兆載永劫の御修行に於いて、積み集め給うた善根功徳を、悉くすべての衆生に与えて(回)衆生をすべて仏果に向かわせて下さることである(向)。
第二科 元照律師の釈文
元照律師云他不能為故甚難挙世末見故希有又云念仏法門不簡愚智豪賤不論久近善悪唯取決誓猛信臨終悪相十念往生此乃具縛凡愚屠沽下類刹那超越成仏之法可謂世間甚難信也又云於此悪世修行成仏為難也為諸衆生説此法門為二難也承前二難則彰諸仏所讃不虚意使衆生聞而信受 已上
【読方】元照律師のいわく、他の為すこと能わざるがゆえに甚難なり。世こぞりていまだ見たてまつらざるがゆえに稀有なりといえり。またいわく、念仏の法門は愚智豪賤をえらばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信をとれば、臨終悪相なれども十念に往生す。これをすなわち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成
(2-390)
仏の法なり。世間甚難信というべきなり。またいわく、この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門をとくを二の難とするなり。さきの二難をうけて、すなわち諸仏所讃の虚からざる意をあらわす。衆生ききてしかも信受せしめよとなり。已上
【字解】一。元照律師 律宗。支那余杭の人。姓は唐、字〈あざな〉は湛然。初め天台を学び、後宋の元符元年に四明開元寺に戒壇を創立した。晩年に及び、西湖霊芝の崇福寺に居ること三十年、衆徒三百余人を数う。後病に罹〈かか〉りて自力の微弱なるを痛感し、深く浄土門に帰依した。著す処『四分律行事抄資特記』『観無量寿経義疏』『阿弥陀経義疏』『芝園集』等。政和六年(西暦一一一六)九月寂。寿六十九。
二。豪賤 豪は豪富。媛は下賤。富貴の人と、貧賤の人の意。
三。決誓猛信 確〈しか〉と決定した猛烈な信仰。
四。具縛凡愚 縛は結縛、煩悩のこと。煩悩は心身を縛る故にいう。煩悩を具足せる愚痴の凡夫ということ。
五。屠沽 賤しい職業を営んでいる者。屠は獣を屠る者、沽は酒の小売りする者。
六。刹那 梵語クシャナ(Ksana)、最も短い時間のこと。一念の中に九十刹那あり、一弾指の間に六十刹那ありと云ふ。
【文科】元照の『弥陀経疏』によりて一念超越の信を述べたまう。
【講義】元照律師の『阿弥陀経疏』に於いて左の如く曰われて居る。『阿弥陀経』に甚難希
(2-391)
有という語があるが、甚難というのは、釈迦如来が此の悪世に於いて弥陀の弘願を説き給うたは他の諸仏のなし給うことの出来ない難事であるということ。希有というは、是の如きことは、十方世界何処を尋ねてみても、未だ曾てないことであるということ。
又左の如く云われて居る。他力念仏の法門は、智者だの愚者だの貴人だの賤民だのと区別は云わない。又善人でもよし、悪人でもよし、修行の時間の長い短いも云わぬ。いかなるものでも、確〈しか〉と決定した信心さえあれば、臨終はどんな狂乱した悪相を現わしても、信心に自ずと具する十念の念仏で、芽出度く往生さして頂くのである。こういう法であるから、この法〈みのり〉こそありとあらゆる煩悩を具足した賤しい浅間敷い私共の、一足飛びに修行の階段を飛び超えて、すぐさま仏にして頂く法である。
又云く、この五濁の盛んな悪世に於いて、難行苦行を修して仏となるも難事である。又この世の衆生のために、この信じ難い弥陀弘願の法を説くも難事である。釈迦如来は、自らなし給うたこの二つの難事を挙げて、諸仏如来が、釈尊御自身を讃嘆遊ばされたことの無理ならぬ覚召しを示し給うたのである。而してかく諸仏の御讃嘆の無理ならぬことを示し給うのも、畢竟、衆生がこのことをきいて信じて呉れる様にとの御意の外はない。
(2-392)
第三科 用欽師の釈文
律宗用欽云説法難中良以此法転凡成聖猶反掌乎大為容易故凡浅衆生多生疑惑即大本云易往而無人故知難信矣
【読方】律宗の用欽のいわく、法の難をとくなかに、まことにもってこの法、凡を転じて聖となすこと、なおし掌〈たなごころ〉を反〈かえ〉すがごとくなるをや。大きにこれ易すかるべきがゆえに、凡そ浅き衆生はおおく疑惑を生ぜん。すなわち大本に易往而無人といえり。かるがゆえにしんぬ、難信なりと。
【文科】用欽師の釈文を引いて難信をときたまう。
【講義】律宗の用欽律師は『超玄記』に左の如く云うて居られる。弥陀弘願の教えは極難信の法であるというが、まことにこの弘願の法は凡夫を一足飛びに仏にし給うこと、丁度、掌〈てのひら〉を反すが如く、余り造作もないために、却って智慧のない浅墓な凡夫は疑いを起こすことになる。それであるから『大経』には生れ易い浄土ではあるが、生れる人がないというてある。これで極難信であるということが知れる。
第四科 戒度師の釈文
(2-393)
聞持記云不簡愚智 性有利鈍 不択豪賤 報有強弱 不論久近 功有浅深 不選善悪 行有好醜 取決誓猛信臨終悪相 即観経下品中生地獄衆火一時倶至等 具縛凡愚 二惑全在故 屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠謂宰殺沽即沽売如此悪人止由十念便得超往豈非難信阿弥陀如来号真実明平等覚難思議畢竟依大応供大安慰無等等不可思議光 已上
【読方】聞持記にいわく、愚智を簡ばず、(性に利鈍あり)。豪賤を択ばず、(報に強弱あり)。久近を論ぜず、(功に浅深あり)。善悪を選ばず、(行に好醜あり)。決誓猛信を取れば臨終悪相なれどもは、(すなわち観経下品中生に地獄の衆火一時にともにいたると等いえり)。具縛の凡愚、(二惑まったくあるがゆえに)。屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法は、一切世間甚難信というべきなりは、(屠はいわく、殺を宰さどる。沽はすなわち沽売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなわち超往を得、あに難信にあらずや)。阿弥陀如来は真実明、平等覚、難思議、畢竟依、大応供、大安慰、無等等、不可思議光と号したてまつる。已上
【字解】一。『聞持記』具には『阿弥陀経聞持記』三巻。元照律師の弟子、律宗の戒度の著、但し戒度は本経、六方段まで解釈して、未完のままにて逝き、爾後大凡〈おおよそ〉四十年にして、石鼓の法久という人、其の後を解釈して、本書を完了した。今引く所の文は、法久の釈文である。
二。真実明 真実の智慧光、明らかに一切世界を照らし給う御方。真実心〈まことごころ〉で、吾等をみそなわし給う御方
(2-394)
と云うこと。
三。平等覚 一切衆生の邪見を催破して、平等の覚りを獲〈え〉せしめ給う御方。
四。難思議 あらゆるものに恩沢の光を施して碍えらるる事のない不可思議の御方。
五。畢竟依 光をもって業報の繋〈きづな〉を断ち切り、吾等の究竟〈おんづまり〉の帰依所となりたまえる御方。
六。大応供 供養に応じ給えべき徳ある御方。光をもって吾等の心中の三塗の闇を払い給う御方。
七。大安慰 光をもって吾等に法喜を与え給う御方。
八。無等々 日月の光にも起え給える並びなき光の御方。
九。不可思議光 自利々他の徳まどかに満ち給い吾等の心も言葉もたえたる光明の御方。
【文科】『聞持記』によりて元照師の釈文を助顕したまう。
【講義】『聞持記』に、上に引く元照師の語を註釈して左の如く言うてある。「愚智を簡〈えら〉ばず」の愚智というは、人間の性質に利根なものと鈍根〈おろか〉なものとあるをいうのである。「豪賤を択ばず」の豪賤というは、前世の善業で富貴に生まれたものもあり、悪業に依って貧賤に生れたものもあることをいうのである。「久近を論ぜず」の久近というは、修行の功〈てがら〉の深い浅いをいうのである。「善悪を選ばず」の善悪というは、その人々の行業に善い悪いのあるをいうのである。「決誓猛信をとれば臨終の悪相云々」とあるは、『観無量寿経』の下品中生
(2-395)
の所に、地獄の衆火が一時に寄せかけて来るなどという悪相が出でて居る。「愚縛の凡夫」というは、理に迷うて起こす見惑も、事に迷うて起こす思惑も皆持って居るもののことである。「屠沽の下類刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信と謂つべきなり」とある中の屠は獣を屠る商売のもの、沽は酒の小売をするもの。是の如き悪人ながら、十念の念仏に依りて、立〈たちどころ〉に仏の位まで飛び超えることが出来るというは、まことに信じ難いことではないか。
阿弥陀如来は、真実明、平等覚、難思議、畢竟依、大応供、大安慰、無等々、不可思議光と名づけ奉るのである。
第五科 善月師の釈文
楽邦文類後序曰修浄土者常多得其門而径造者無幾論浄土者常多得其要而直指者或寡矣曾未聞有以自障自蔽為説者因得以言之夫自障莫若愛自蔽莫若疑但使疑愛二心了無障碍則浄土一門未始間隔弥陀洪願常自摂持必然之理也 已上
(2-396)
【読方】楽邦文類の後序にいわく、浄土を修するものつねに多けれども、その門をえてしかも径〈みち〉に造〈いた〉るもの、幾ばくもなし。浄土を論ずるもの、常に多けれども、その要をえてしかも直ちに指〈おし〉うるもの、あるいは寡〈すくな〉し。曾ていまだ自障自蔽をもって説をなすものあるを聞かず、因ってもってこれをいうを得ん。それ自障は愛にしくはなし。自蔽は疑にしくはなし。ただし疑愛の二心、ついに障碍なからしむるは、すなわち浄土の一門なり。いまだはじめて間隔せず。弥陀の洪願つねにおのずから摂持したまうこと必然の理なり。已上
【字解】一。『楽邦文類』五巻。南宋、慶元六年、宗暁の撰。西方浄土に関する詩文を蒐集〈あつ〉めたる書。経(四六)、呪(一〇)、論(六}、序跋(三)、文(一三)讃(一七)、記碑(一九)、伝(一四)、雑文(三三)、賦銘(三)、偈(六)、頌(二〇)、詩(二二)、詞(七)に分類せる。詞藻精華、宗教的情操の美を汲むに足る。
二。洪願 洪は大、大願の意。
【文科】善月師の釈によりて弥陀の本願の殊妙なるを示したまう一段である。
【講義】『楽邦文類』に善月師は後序を書いてその中に左の如く云うてある。浄土門に入って往生浄土の行を修する人は多いけれども、弘願の一門を得て、後に仏となった人はいくらもない。浄土門のことをかれこれ説いてまわる人は多いけれども、その生粋を得て、肝要な処を直ちに指〈おし〉ゆる人は幾人もない。昔から浄土の法門に於いて、自障自蔽というに関して説を立てたものがないが、今私は自得する所があるから、自障自蔽に就いて言うて
(2-397)
みよう。
我が身の出離を我から障えるものは、貪愛が一番である。又仏法の正道を我から覆いかくすものは疑いが第一である、而もこの貪愛と疑いとこの二つの大煩悩があっても猶障りとならないのは浄土門の教えだけである。阿弥陀如来はこの貪愛と疑いを抱く衆生までも、少しも隔て給うことなく抱き取って下さるのである。阿弥陀如来の因位の大願力を以て、常に衆生をおさめとっていて下さるのは如来の大慈悲心の自然の発露〈あらわれ〉である。
第三節 成就の一念結帰釈
【大意】本願の三心を一心信楽に結帰するに就いて、前二章に於いて信楽結帰と菩摂心釈を終ったから、今や本節に於いて正しく願成就の一念に因願の三心を結帰せらる。即ち法の三心が、機に顕現する所、いわば宗教的実験の記載である。
これを本文に就いて云えば、これより下は『信巻』末巻であって上来、上巻には広く本願の三心を解釈し、二番の問答によりて、此の三心は疑蓋無雑の信楽であると決し、そして其の信楽は『浄土論』の一心であると申されたが、是より下巻には、其の因願の信楽を成就の文の「信心歓喜乃至一念」の一念に合して解釈し、一念の信心、一念の信楽、一念即一心の義を闡明せられた。
(2-398)
又上巻は主に法に寄せて三心を説き、下巻はその三心を実際上、行者が機に於いて実修実験することを述ぶ。即ち上巻に広説したる三心を正しく開巻第一に一念の信楽に合し、更に聞其名号の引文を挙げて、吾等が実際の上に本願を信受する有様を示し、進んで現生十益をあげて機の徳益を述べ、『論註』の文を引いて、仏凡一体を述べ、進んで金剛心の行人を真仏子と説き、終りに涅槃経を引いて阿闇世の謎害を叙し、詳細に吾等の機相を説示して本願の正機を述べられた。かように末巻一部は、行者機受の一心を広説せられたものである。本願醍醐の妙薬が、正しく逆悪の病者に服用せられて、不可思議の徳用をあらわすことを示された。更に云えば、聖人が悲喜の涙を振って、御自身の信仰の内容を表白せられた厳粛なる信仰告白である。即ち『行巻』には「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮ぷ」等と光風掃々の信仰味を表白せられた聖人は、本巻に於いては「悲哉愚禿鸞.愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑す」等と沈痛なる漸愧を表白せられた。吾等は本巻に来たりて、聖人が何の虚飾〈かざり〉もなく、赤裸々になりて、本願を信受せらるる相〈ありさま〉に接するのである。其の熾烈なる信念、痛切なる告白、厳烈なる批判、皆聖人 の胸底より迸〈ほとばし〉る実感の披瀝である。
苛〈いやしく〉も本巻を繙く人々は、深しく自身を省みて、自己全体をあげて、聖人の信念を色味せぬばならぬ。
更に翻って、科文に就いて云えば、第一項は信の一念を総標し、第二項には経文、釈文を引き、第三項は経釈文私釈、第四項は信の一念を細に転釈せらる。
(2-399)
第一項 総 標
夫按真実信楽信楽有一念一念者斯顕信楽開発時尅之極促彰広大難思慶心也
【読方】それ真実信楽を按ずるに、信楽に一念あり。一念というは、これ信楽開発の時尅の極促をあらわし、広大難思の慶心をあらわす。
『文科】信の一念の内容を述べたまう。
【講義】本願の三信が、一信楽に収まることは上来説き来った処である。それでこの真実の信楽を考えてみるに、この信楽に一念がある。即ち信の一念というがこれである。この一念というは、正面からは、信心をいただいて往生の定まる刹那の至極短い時間であるということを顕わし、それに加えてこの短い時間の中に、如来御回向の広大にして思い議〈はか〉ることの出来ない慶喜の心が躍〈おど〉っていることをあらわす語である。
【余義】一。『行巻』(第一巻 六三六頁)に「往相回向の行信に就いて、行に即ち一念あり、亦信に一念あり」と標し、其の行の一念は『行巻』に明かされたから、此処には正しく其の信一念を
(2-400)
解釈せらる。
上巻に於いて、詳細に本願の三心を疑蓋無雑の信楽に結帰せられたが、ここに真実信楽をあげ、其の信楽に一念ありと標して、「一念とは信楽開発の時尅の極促」等と仰せられた。信巻の総序には「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」と云い、ここには「信楽開発」と仰せられた。総序の方は、法より吾等の機に至る心持ちにて宣給い、此処には、吾等の胸中に若芽の吹くように、信念の生るる有様を示された。教えの方面にては如来より賜わると云うべきであるが、正しく吾等が信ずる最初は、実にこの「開発」の味わいである。故に聖人は『正信偈』には「能発一念喜愛心」と云い、『文類正信偈』には「信心開発即獲忍」と仰せられた。
二。然るに此の一念の証文として、次に『大経』成就文「聞其名号信心歓喜乃至一念」の文を出されてあるが、この成就の一念を、法然聖人は行の一念とせられてある。それにも係わらず我聖人は、師聖人の幽意を探りて、此の一念を信の一念と定められた。此処にも我聖人の深刻なる眼光を看ることが出来るのである。
上尽一形、下至十声の念仏は、更に成就の文によりて、乃至一声の念仏となった所が、即
(2-401)
ち行の一念である。然るにこの一声の称名は、更に約〈つづま〉りて、称えぬ先に「念仏申さんと思いたつ心」の信の一念とせられたのである。吾等の往生の業事成弁の所は、一声称える念仏の先に、心中に起こる信楽開発の一念である。そして此の一念の中に他力の大行は含まれてある。良〈まこと〉に往相回向の大行大信は、此の信楽開発の一念に獲得するのである、『末灯鈔』二十六丁に
信の一念、行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。乃至 信と行と二つときけども、行をひとこえするぞとききて、うたがわねば、行をはなれたる信はなしとききて候。乃至 行と信とは御ちかいを申すなり。」
と仰せられた。即ち本願を信受する一念に大行大信は具足せらるるのである) 法然聖人の行の一念の意義も是より外はないというのである。
三。さてこの信の一念に就いて、古来二義ありと称せらる。一は、この文にある時尅の極促とある時尅の方面である。二は、次下の文「一念というは、信心二心なきが故に一念という。是を一心と名づく云々」がそれである。即ち信相の方面である。かように信の一念は二方面から見られるが、共に信の一念の内容を云い表わしたもので、決して二つの異〈ちが〉った
(2-402)
意味をもっているのではない。第一の時尅というも、諸経論に云う処の百一生滅を一刹那、六十刹那を一念とするという、定った時間を意味するのではない。左様な客観的に仮定した時間にあて嵌〈は〉めて信の一念を談ずるのではない。『論註』上三十二丁に一念は時間の一念でないと云われたのは此の意である。唯吾々の概念にある時間の方面から云えば、最も短い時刻、即ち時刻の極りたる所であると云うに過ぎない。『一念多念証文』二丁に「一念というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり」というが是である。言葉を換えて云えば、時間という概念のつきた所、時間を超絶した心的転化を一念と名づけたのである。それであるから時間的に云えば、最短時なることは云うをまたないのである。故に時尅の極促という。更に第二の所謂信相の方面を云えば、この最短時の一念は、そのまま本願を信じて二心なき心であるというのである。『浄土真要鈔』本十八丁に
この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき、一念というは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなわち相好光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をききて、機教の分限をおもいさだむるくらいをさすなり。
(2-403)
とあり。よくこの一念の義理を闡明〈あきらか〉にしてある。かように時間の極りたるところと云えば二心なき意義を含み、二心なきところは、亦時間の至極を表わしている。両々相俟ちて、一念の内容を表明〈あら〉わすのである。
更にこの一念は、決して貧弱微力のものではない。実に「広大難思の慶心」である。時間の極促の一念は、過去久遠の罪障を滅し、更に現在未来に亘りて、吾等の不可思議の生命となり、遂に成仏の果を産む力となる。吾等はこの一念の信によりて、永遠の生命に生き返えるのである。
四。更に『略本』に就いて云えば、彼の文(五丁)に
乃至一念というは、これさらに観想功徳遍数等の一念をいうにあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について、乃至一念というなり。
とあり。明らかに称名の遍数を選びすて、往生の心行を獲得する一念としてある。能く此の下の隠れたる文意を発揮しておると思う。即ち「往生の心行」というは、注意すべき文字である。聞信一念の所に、往生の大信大行が具わることを明らかにせられたのである。信の一念より行の一念が流出せらるるとも釈せられてあるが、又信の一念そのままが大行である
(2-404)
から行の一念の根柢をなしておることが明らかにされてある。即ち口に表われた称名の遍数たる一声をも待たず、聞信の一念に他力の大行が備わることを示されたのである。
次に「延促」というに二つの解釈がある。一は『略文類』に延促というは、彼処には、「乃至一念」というてあるから、其の「乃至」を釈して「延」字を須いられたというのである。即ち一念をもって往生治定する所を「促」という、その上に命が延びゆきて、後念に亘ることを示して「延」と仰せられたという。二は「延促」も「極促」も同意であるという。即ち「延促」はかの一旦援急あればの急の如く、多少の少の如く、唯熟語として須いられたというのである。前義は文に近くして斧鑿の嫌いあり、今は意義の簡明〈あきらか〉に従うて第二義を取る。
第二項 経文証
第一科 『大本』の文
是以大経言諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生往不退転
(2-405)
又言他方仏国所有衆生聞無量寿如来名号能発一念浄信歓喜
又言其仏本願力聞名欲往生
又言聞仏聖徳名 已上
【読方】ここをもて大経にのたまわく、あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せん、至心に回向したまえり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生をえ、不退転に住せん。
またのたまわく、他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号をききて、よく一念の浄信をおこして、歓喜愛楽せん。
またのたまわく、その仏の本願力、名をききて往生せんとおもわん。
またのたまわく、仏の聖徳の名をきく。已上
【文科】『大経』の正依異訳の四文をあげて信の一念を証したまう一段。
【講義】それであるから『大無量寿経』には、あらゆる衆生が、諸仏の讃嘆し給うこの名号の謂われをきいて信心を起こし、身にも心にも歓喜〈よろこ〉んで、一念阿弥陀仏をたのむ心を起こすであろう。勿論これは、阿弥陀仏が真実心を以て名号を回向して下されて、その利益に依って起こして下さるのであるが、この心を起こして彼の安楽国に生れたいと願えば、立〈たちどころ〉に
(2-406)
往生すべき利益を得て不退転の位に入るであろうと説いてある。
又『無量寿如来会』には、他の諸仏の国々のすべての衆生が、諸仏の讃嘆し給う阿弥陀如来の名号〈みな〉の御謂われをきて、一念の信心を起こし、身心共に歓喜び、愛好〈いつくし〉むというてある。
又『大経』の「三十行偈」には、阿弥陀如来の因位の本願の御力で、名号の御謂われをきいて、彼の浄土へ往生したいと思うというてある。
又『如来会』には、上の『大経』の語に相当するところに、阿弥陀如来の無辺〈かぎりな〉い聖〈すぐ〉れた御徳を収めて居る名号の御謂われをきくというてある。
【余義】一。この下『如来会』の文は「能く一念の浄信を発す」と云う言葉によりて上の『大経』の一念の文を助顕す。即ち「乃至一念」の一念は、行の一念やら、信の一念やら判然しない。よってこの「一念浄信」の文によりて、その一念は信の一念であることが明瞭に知られるのである。
次の『大経』下巻の三十行の偈文は、聞名の外に信喜なきことを示さんが為に引く。『銘文』五丁に
聞名欲往生というは、聞というは、如来のちかいの御名を信ずともうすなり。欲往生
(2-407)
というは、安楽浄刹にうまれんとおもえとなり。
と明瞭に解釈せられた。
次の『如来会』の文は、次上の聞名の意味を助顕す。その名とは聖徳の名である。即ち無量甚深の功徳を具えたる南無阿弥陀仏の御名であるというのである。断簡零墨と雖も、皆重大なる役目を演じて、些〈すこし〉の緩みもない。
第二科 『涅槃経の』文
涅槃経言云何名為聞不具足如来所説十二部経唯信六部未信六部是故名為聞不具足雖復受持是六部経不能読誦為他解説無所利益是故名為聞不具足又復受是六部経已為論議故為勝他故為利養故為諸有故持読誦説是故名為聞不具足 已上
【読方】涅槃経にいわく、いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず。このゆえになづけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといえども読誦に能わずして、他のために解読するは利益するところなし。この故になづけて聞不具足とす。またこの六部の経を
(2-408)
うけおわりて、論義のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、請有のためのゆえに、持読誦説せん。この故になづけて聞不具足とす。已上
【字解】一。『涅槃経』具さには『大般涅槃経』。『南本』『北本』の二種に頒かる。上三〇七頁を看よ。
二。十二部経 仏の説法の体裁に十二通りある故に、経文を総称して十二部経という。(一)長行説、字数を定めず、長短随意に、法門義理を散文的に説いたもの。(二)重頌説、前の長行を更に字数を定めて、韻文的に説いたもの。(三)授記説、仏が聴衆のために.其の未来の得果を予言し給うこと。(四)孤起説、長行を重ねて頌説せず、単独に韻文を以て説法せらるること。即ち伽陀のこと。(五)無問自説、対手〈あいて〉の尋ねざるに説き給うこと。(六)因縁説、種々の因緑によりて法を説かれたるもの。(七)譬喩説、譬喩を以て法を説き給うこと。(八)本事説、因位の時の事を説き給うこと。(九)本生説、過去世の苦行などを説き給うこと。(一〇)方広説、義広く、理ゆたかに説き給うこと。(一一)未曾有説、未だ曾てあらざりし不思議のことを説き給うこと。(一二)論議説、義理を論議し問答し給うこと。
【文科】『涅槃経』によりて聞信の意義をしめしたまう。
【講義】『涅槃経』に言わく。信不具足、聞不具足ということがあるが、聞不具足というはいかなることかというに、如来の御説きなされた十二部経を、半分の六部を信じて、外の半分を信ぜないようなことを聞不具足というのである。即ちすべて半信半疑でいること
(2-409)
を聞不具足というのである。又たとい半分信じていても、それはほんの聞きとり分斉で、聖教を真実に読むことも出来ず、而も我が身知り顔の体に人々に説き聞かせて自身に信がなくて説くのであるから、その説法に何等の利益のないのを聞不具足と名づける。又聖教を覚えても、自身の一大事のために用いず、議論のために、他人に勝たんがために、名聞利養のために、その外すべて為にするところあって法を説くようなのは、すべて聞不具足というのである。
【余義】一。この『涅槃経』の文は、更に聞名の聞字の意義を示す。十二部経の中、六部を信じて、他の六部を信じないとある其の六部は何を指すやという問題があるが、今は唯如来の教法を円かに信ぜず、半可通の人は、聞不具足であるという意味である。名号の謂われを聞いても、半信半疑ならば聞即信の聞でないというのである。次の二重の聞不具足の文は解し易い。
第三科 善導大師の文
光明寺和尚云一心専念又云専心専念 已上
(2-410)
【読方】光明寺の和尚は、一心専念といい、また専心専念といえり。已上
【文科】『散善義』によりて、信の一念を示したまう。
【講義】光明寺の善導和尚は『散善義』に、他力回向の信心を一心専念といい、又専心専念と仰せられた。
【余義】一。「一心専念」の文は『散善義』の「一心専念弥陀名号」の始めの四字、次の「専心専念」の文は、同じく『散善義』の「専心念仏」と「専念専修」の各の始めの二字を引かれた。即ち一心と専心は信、専念は行である。二河喩の一心正念も是と等しい。
御引用の意は、矢張り聞名の意義を示すの外はない。信とは専念の行を離れぬ信である。行は亦一心に専念する信不離の行である。かように行信不離の文をもって、信の一念の内容を示すのである。
第三項 経釈文私釈
第一科 正釈
然経言聞者衆生聞仏願生起本末無有疑心是曰聞也言信心
(2-411)
者則本願力回向之信心也言歓喜者形身心悦予之貌也言乃至者摂多少之言也言一念者信心無二心故曰一念是名一心一心則清浄報土真因也
【読方】しかるに経に聞というは、衆生、仏願の生起本末をききて、疑心あることなし。これを聞というなり。信心というは、すなわち本願力回向の信心なり。歓喜というは、身心の悦予をあらわす貌〈かたち〉なり、乃至というは多少を摂することばなり。一念というは信心二心なきがゆえに一念という。これを一心となづく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。
【文科】経文を解釈して信の一念を述べたまう一段である。
【講義】然るに『大無量寿経下巻』に聞其名号信心歓喜乃至一念というてあるが、この聞という字は、あらゆる衆生が、阿弥陀如来の本願を起こして下された第一の原因が私共凡夫の流転の相〈すがた〉であったこと、私共の有様を見るに見兼ねて、救済の本願を起こし(生起)、其の本願の中に、第十八願の真実と(本)、第十九、第二十の方便の願(末)をお建て下された御思召しをよく聞き開いて、疑いの心の全くなくなったことを云うのである。
次に信心というは、弥陀如来の本願他力に依って私共に回向して下される信心のこと
(2-412)
である。
又歓喜というは、一念の信心の上に、身心のよろこびの躍る有様を形わすのである。歓は身をよろこばし、喜は心をよろこばしむることである。
乃至というは多少を摂めていう言で、今は一生の間申す念仏から、下は十声一声までの称名をすっかり収めて信の一念に対して乃至というのである。
又一念というは、一は二に対する語〈ことば〉で、二心のないことを一念というのであるから、他力の信心が、弥陀一仏にのみ対する信心で、余仏余菩薩に対して心をかけで居るのでないということを顕わすのである。これが善導大師の所謂一心である。この一心が浄土参りをさして頂く真実の因となるのである。
【余義】一。「聞」字の釈の中、仏願の生起と本末に就いて様々の説がある。
初に、生起に就いて、一義には『法華玄義』一の文「能生を生となし、所生を起となす」を引いて、逆悪の衆生を助けんと御思召したつ大悲心が能生、この大悲心より顕われた本願が所生である。即ち如来が一切苦悩の衆生を憐みて、超世無上の大願を発し給えることが仏願の生起であるという。他の一義は、言葉の拠〈よりどころ〉として『般舟讃』二丁の「浄土に入るの縁
(2-413)
起、娑婆を出づるの本末」を出だしていうには、生起は縁起又は興起の意味で、凡て物の起こりをいう。故に本願の生起とは、本願の起こる所以である。如来が苦悩の衆生を憐念〈あわれ〉みて、大悲の誓願を起こされたことを生起という。即ち法蔵菩薩が因位の本願を起こされた模様が仏願の生起である。
何れにしても意味に変りはないが、初義は、生起の文字に囚〈とら〉えられた痕跡〈あと〉が見える。今は後義に随うことをする。
本末に就いては、一説には、因位の四十八願、即ち仏願の生起は本、今日果上の自在神力は末であるという、即ち因位の誓願が本となりて、さながら樹木の根本から枝葉の末が栄えるように、光明遍照の神力を生ずるに至った。是が仏願の本末であるという。或いは又国十八願中の第十八願は本、他の四十七願は末であるともいう。但し今は大谷派の円乗院師の説に従い、第十八願は本、第十九、第二十の二願は末であることとする。
顧〈おも〉うに初めの説たる本末を仏願の因果に配することは、一応道理に契うようであるが、それは仏願の因果であって、仏願の本末ではない。仏願の本末とは仏の四十八願そのものの中に本末があるのである。即ち第十八願は誓願の根本であって、修諸功徳の機の為
(2-414)
の第十九願、植諸徳本の機の為の第二十願は方便枝末の願である。如来は真実根本の願の外に、更に方便枝末の本願を建てて一切衆生を網羅し、遂には根本の本願に引入〈ひきいら〉せんとし給う。吾等は仏願の生起を聞くと同時に、此の仏願の本末の分斉を知らねばならぬ。即ち方便枝末の願を離れて、真実根本の本願に入らねばならぬ。
今、聖人は聞の意義を解釈して、仏願の生起本末を聞いて、疑心を雑えざる心と仰せられたのは、全くこの意味合いを示されたものである。真に仏願の生起を知る人は、又仏願の本末を知る人である。されば聞というは、常の意味に於ける聞ではない。仏願の生起本末を聞いて、真心徹到することである。我が自力の立場のないことを自覚し、偏に願力に帰する心が聞である。かくして聞即信である。
二。『銘文』本三丁に「聞というは、如来の御ちかいのみなを信ずともうすなり」。又『一多証文』二丁には
聞其名号というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを聞というなり。また聞というは、信心をあらわす御のりなり。
(2-415)
とある。是等の聖人の御釈によりて見るも、聞とは信の替名〈かえな〉である。即ち上の引文に「またきくというは、信心をあらわす御のりなり」と、信心を表顕〈あら〉わす言葉であると仰せられてある。これを西派の道隠師は『略讃』に此の一句を解釈して、如来回向の大信心が、聞くことによりて行者の心中が開発し顕現するの意味であると云われた。深く考えて聞の意義を没脚せずに解せられたことは捨て難い説であるが、却って平凡に陥ったとも云われうる。即ち単に聞くことによりて信の生ずるということは、ここに特筆する必要がない。聖人の力説せらるる所は、聞其名号の聞は、決して単に耳に聴くことではない。疑いなく本願の生起本末を信ずるの謂いであるというのである。故に聞くというは、信心を表顕〈あら〉わす言葉と仰せられたのである。これでよいと思う。これ以上の斧鑿は要せぬことと思う。
云うまでもなく信心の開発は唯一念である。所謂法在一念、説必次第(いわゆる法は一念に在り、説けば必ず次第あり)で、成就の文に於いて、聞其名号も、信心歓喜も、願生彼国も、即得往生住不退転も、唯信ずる一念の同時に行者に具わるのである。進んで云えば、是等全体が信の一念の内容である。文章の上から云えば、名を聞きて信じ歓び、次に願生心を起こして不退転に住するように見えるけれども、それは唯、平面的〈ひらたく〉眺めた時のことで、いよいよ自分の上に色味する際には、全く一念同時
(2-416)
である。聞名は信喜、信喜は願生、願生のところに即得往生がある。故に『一多証文』二丁には「信心は、如来の御ちかいをききて、うたがうこころのなきなり」と聞と同様に解せられ、更に信と同時の歓喜を釈して「うべきことをえて、むずと、かねて、さきよりよろこぶこころなり」といい、進んで即得往生を釈して「すなわち、とき日をへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり」と仰せられしによりて、信の一念の内容が知られることである。
この文の外に、信心と歓喜と不退の同時なることを仰せられた文は、『正信偈』の「能く一念喜愛の心を発せば、煩悩を断ぜずして涅槃をう」及び「慶喜一念相応の後、韋提と等しく三忍をう」の文、『和讃』に「一念慶喜する人は、往生必ず定りぬ」が即ち是である。是等の文意は明瞭なるものである。なお信心と不退の同時を示したるは、『愚禿鈔』上九丁に「本願を信受するは、前念命終也。即待往生は、後念即生也」の文である。信の一念に迷いの命つき、その一念同時に往生の位に入る。即ち真生命の誕生が信の一念であり、この真生命がそのまま無量寿であることが、即得往生、住不退転である。
其の他、一念、一心等は次上の余義に譲りてここには再説を避ける。
(2-417)
第二科 獲信の利益
獲得金剛真心者横超五趣八難道必獲現生十種益何者為十一者冥衆護持益二者至徳具足益三者転悪成善益四者諸仏護念益五者諸仏称讃益六者心光常護益七者心多歓喜益八者知恩報徳益九者常行大悲益十者入正定聚益也
【読方】金剛の真心を獲得するものは、横に五趣八難の道をこえて、かならず現生に十種の益をう。何ものをか十とする。一には冥衆護持の益、二には至徳具足の益、三には転悪成善の益、四には諸仏護念の益、五には諸仏称讃の益、六には心光常護の益、七には心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九には常行大悲の益、十には正定聚に入るの益なり。
【字解】一。五趣 五道とも云う。衆生が業因によりて趣き住む処なるにより趣という。地獄、餓鬼、畜生、人間、天上。
二。八難 仏を見奉ることが出来ず、正法を聞くことの出来ないことに、八種あること。(一)在地獄の難、(二)在畜生の難、(三)在餓鬼の難、(以上の三処にある者は、苦み多くして、法を聞くことが出来ぬ)(四)
(2-418)
在長寿天の難、(五)在北鬱単越洲の難、(以上二処は楽み多き為に法を聞くことか出来ぬ)(六)、盲聾瘖唖の難、(七)世智弁聡の難(世智に長けたる者は、外に交わるのみにて、法を聞くことが出来ぬ)(八)仏出世の前後に生るるの難。
三。冥衆護持益 冥衆とは梵天、帝釈、四天王、龍神等の諸天神が凡夫の眼には見えぬけれども、常に念仏の行者を守護する利益。
【文科】獲信の人は現生に十益あることを示したまう一段である。
【講義】この他力金剛の信心を得さしていただく時には、一足飛びに五趣八難を飛び超えて、再び悪所難所に生まれない身の上にさして頂き、又現在のこの生活の上に、十通りの大利益を得ることになるのである。
十通りの利益とは何であるかというに、一には眼に見えぬ梵天帝釈四天王等の方々の御護〈まも〉りを受ける利益。二には一切の善本徳本たる御名の功徳利益をすべて一身に具足さして貰う利益。三には。私共凡夫の持って居る罪悪が、如来の御力で功徳善根と転じさして下さる利益。四には諸仏如来の御護りを受ける利益。五には諸仏如来から、広大勝解〈すぐれたちえ〉の者よ、人中の芬陀利華よと称め讃えて頂く利益。六には阿弥陀如来の摂取の心光〈おひかり〉の中に常に摂
(2-419)
めとられて護って頂く利益。七には如来を思い奉る時、心に常に歓喜の躍る利益。八には如来の大恩を思い、万分の一なりとも報じさせて頂きたいという思いの起こる利益。九には教人信の思いから、縁ある人々に自分の喜ぶ法を伝えて、如来善知識の御手伝をさせて頂く利益。十には、娑婆にいながら必ず仏になる身に定って、不退の位に入らして貰うた利益である。
【余義】一。上に一念の信心を解釈せられたから、ここには其の信心の徳益を挙ぐ。即ち信の一念の立ちどころに、五趣八難の悪道を横截し、この現生十益を獲るのである。
『略本』には「亦現生に無量の徳を獲」としてあるが、ここには其の所謂無量の徳を十種に総括して、其の大体の内容を示された。因みに此の十益の類例としては、慈雲法師の『往生西方略伝』序の文である。
若し能く暫しも三宝に帰し、一仏名を受持すれば、現世、当〈まさ〉に十種の勝利を獲べし。
一には、昼夜常に一切諸天大力の神将、恒沙の眷属の隠形の守護をう。
二には、常に二十五大菩薩、観世音等の如き及び一切菩薩の常随守護をう。
三には、常に諸仏の為に昼夜護念せられ、阿弥陀仏常に光明を放ちて、此の人を摂受す。
(2-420)
四には、一切の悪鬼、若しくは夜叉、若しくは羅刹、皆害する能わず、一切の毒蛇悪龍毒薬、中〈あた〉ること能わず。
五には、一切の火難水難、冤賊、刀箭、牢獄、枷鎖、横死、枉死、悉く皆受けず。
六には、先に作す所の罪皆悉く消滅す、殺す所の菟命〈かたき〉、彼解脱を蒙りて更に執対なし。
七には、夜の夢正直、或いは復夢に阿弥陀仏の勝妙色像を見たてまつる。
八には、心常に歓喜し、顔色光沢あり、気力充盛にして、作すところ吉利。
九には、常に一切世間人民の為に、恭敬供養せられ、歓喜礼拝せらるること、なお仏の敬せらるるが如し。
十には、命終の時、心に怖畏なし、正念歓喜し、現前に阿弥陀仏を見るを得、及び諸聖聚、金の蓮台を持ち、接引〈むかえひ〉きて西方浄土に往生せしめ、未来際を尽して勝妙楽を受く。
とあり臆の下の十益は其の体裁に於いて『略伝』の十益と一致している。聖人が此の十益を参酌して、諸経論の奥旨を味わい、ここに独特の十益を挙げられたことであろう。
二。今試みに此の十益の布列を図示すれば
(2-421)
第一、冥衆護持益━━━━━━━━━━外益┓
┃
第二、至徳具足益┓ ┃
┣具徳生善対┓ ┃
第三、転悪感善益┛ ┃ ┃
┃ ┃
第四、諸仏護念益┓ ┃ ┃
┣護念称讃対┫ ┃
第五、諸仏称讃益┛ ┃ ┃
┣別益┓ ┃
第六、心光常護益┓ ┃ ┃ ┃
┣光摂歓喜対┫ ┃ ┃
第七、心多歓喜益┛ ┃ ┣内益┛
┃ ┃
第八、知恩報徳益┓ ┃ ┃
┣自行化他対┛ ┃
第九、常行大悲益┛ ┃
┃
第十、入正定聚益━━━━━━━総益┛
第一の冥衆護持益は、もっとも通俗的なる信仰の利益である。即ち外的に信仰者を保護する趣きがある。故にこれを外益と名づけ、これに対して第二より第十の九は信仰の内的光景であるから内益と名づけ、其の中第十の入正定聚益は、正しく此の十益の主要にして又該括的の利益である。第一の利益も畢竟この第十の背景に過ぎない。故に第二、至徳具足より第九、常
(2-422)
行大悲までは、この入正定聚の利益の内容である。よって第十を総といい、他を別と名づけたのである。そして図の如く、第二第三、第四第五、第六第七、第八第九は、自ずら一対をなしている。
三。第一、冥衆護持益は、『往生要集』下本の念仏の七種の利益中、第二の冥得護持益、及び『観念法門』に引用せられたる『般舟三味経』の文「若し人専ら此の念弥陀仏三味を行ずれば、常に一切諸天及び四天大王龍神八部に随逐、影護、愛楽、相見せらるるを得」等に拠〈よ〉られしと見ゆ。『現世利益和讃』
南無阿弥陀仏をとなうれば 梵天帝釈帰敬す
諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり
等の七首は、全く此の利益を讃詠せられたものである。信の人は天地六合の枢軸である。一切の諳天諸神は、車輻のように集るのである。この自覚によりて、吾等は無碍人となり、神に媚びるような穢らわしい欲念より解脱することが出来る。そしてこの諸天善神の冥衆の護持は、そのまま諸の悪鬼神を恐れしむ。
願力不思議の信心は 大菩提心なりければ
(2-423)
天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり。
が是である。
更にこれを反面〈うら〉から云えば、かように冥衆護持益を喜ぶ吾等の心は、あさはかな迷信に囚〈とら〉えらるる強い傾向をもっていることに驚かぬばならぬ。自らの迷信的気分に驚く人にして、初めてこの利益を真に有難く喜ぶことが出来るのである。聖人が第一にこの益を挙げ給いしは、尤も卑俗ながら、亦実際生活に於いては尤も深く吾等の心を動かしていることを示されたものである。『現世利益和讃』十五首の中、八首までこの方面に費やされたことは、吾等の深く味わわねばならぬ点である。
第二、至徳具足益は、『大経』下巻流通の文「当に知るべし、此の人は大利を得るとなす。則ちこれ無上功徳を具足す」及び『浄土論』の「能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」の文に拠られしと見ゆ。『一多証文』二十三丁に
金剛心の人びとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝そのみにみちみつるがゆえに、大宝海とたとえたるなり。
が是である。『元照律師』の所謂「無辺の聖徳、識身に攬入す」る味わいである。『和讃』
(2-424)
五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり
というは、この利益である。これみな信を獲〈う〉る人の実験の声である。
第三、転悪成善益は、既に総序の文にも「悪を転じて徳をなす正智」と云い、『和讃』に
罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみず多し さわりおおきに徳おおし
等と仰せられた。上の至徳具足は、この転悪によりて具わることを示されたものである。この三世の業障一時に罪消えて正定聚不退の位に入る所が不可思議の信仰の利益である。かくて第二第三が内容的に一対をなしておることが知られる。
第四、諸仏護念益は、『阿弥陀経』に念仏の行者は、一切の諸仏に護念せらるることを説いてあるが、今は其れに拠られたものであろう。『選択集』末二十丁にも「六方の諸仏、念仏の行者を護念するの文」とあり、これと同意である。『和讃』に
諸仏の護念証誠は 悲願成就のゆえなれば
金剛心をえんひとは 弥陀の大恩報ずべし。
(2-425)
と仰せられ、諸仏護念の益を金剛心の益とし、更に弥陀の大恩に結んである。
第五、諸仏称讃益、『如来会』下に「是の如きの広大法門を、一切如来は称讃悦可す」とあり。この法門が人に彰はわれて、『大経』には「則ち我善き親友」『観経』には「これ人中の芬陀利華なり、観世音菩薩、大勢至菩薩、其の勝友となる」と説かれ、又『如来会』には「広大勝解の者〈ひと〉」と云われたのである。
そして此の第四、第五の諸仏護念称讃は亦一対をなしている。
第六、心光常護益は、『観経』の真身観の文「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の文に拠り、近くは『観念法門』十一丁「彼の仏の心光、常に是の人を照らし、摂護して捨てたまわず」に拠られしと見ゆ。如来の矜哀の念力は、念々不断に吾等の心を懐き給うのである。
第七、心多歓喜益は、『行巻』に引かれし龍樹の『十住論』の文「菩薩、初地を得て、其の心歓喜多し」の文に拠られしと見ゆ。相来の心光が吾等に表われて此の歓喜となる。吾一人いても、心の奥より歓喜を感ずるは信仰の徳である。
第八、知恩報徳益は、『論註』上三丁に行者の仏に帰する有様は、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰するように、動静己にあらざるを述べ、次に「恩を知り、徳に報ず、理宜
(2-426)
しく先ず啓すべし」とある。今は其れに拠られたらしい。良〈まこと〉に知恩報徳の念は、吾等の荒れ果てた心の沙漠に於ける美わしい花である。
第九、常行大悲益は、『安楽集』下十一丁に『大悲経』を引きて「もし能く展転して相勧めて念仏を行ずれば、当に知るべし此等は悉く大悲を行ずる人と名づくる也」とあり『礼讃』十五丁にはあの有名なる「自ら信じ、人をして信ぜしむるは、難中転た更に難し。大悲を伝えて普く化す、真に仏恩を報ずると成す」の文がある。ともに此の常行大悲の益を述べたものである。
第八の知恩等は自行、第九の常行大悲は化他とも云うべきである。是が一対をなしている。
第十、入正定聚益は、『論註』上初丁に「即入大乗正定之聚」とあるに拠られしと見ゆ。『易行品』の「即時入必定」、成就文の「即得往生、住不退転」が其である。
聞名信喜の一念に、不退の位に入る。これ他力信心の根本的の利益である。十益の最後にこの主要益を挙げて、上の九益を摂め給う御意〈みこころ〉であろう。
(2-427)
第三科 専念専心の釈文
宗師云専念即是一行云専心即是一心也
【読方】宗師の専念といえるは、すなわちこれ一行なり。専心といえるは、すなわちこれ一心なり。
【文科】善導大師の専念専心の文を解釈したまう。
【講義】善導大師の御言葉に、専念とあるは、阿弥陀如来の御名を二心なく専ら称うることである。専心とあるは、一念の信心のことである。
第四項 転釈
第一科 正転釈
然者願成就一念即是専心専心即是深心深心即是深信深信即是堅固深信堅固深信即是決定心決定心即是無上上心無上上心即是真心真心即是相続心相続心即是淳心淳心即是憶念憶念即是真実一心真実一心即是大慶喜心大慶喜心即
(2-428)
是真実信心真実信心即是金剛心金剛心即是願作仏心願作仏心即是度衆生心度衆生心即是摂取衆生生安楽浄土心是心即是大菩提心是心即是大慈悲心
【読方】しかれば願成就の一念は、すなわちこれ専心なり。専心はすなわちこれ深心なり。深心はすなわちこれ深信なり。深信はすなわちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなわちこれ決定心なり。決定心はすなわちこれ無上々心なり。無上々心はすなわちこれ真心なり。真心はすなわちこれ相続心なり。相続心はすなわちこれ淳心なり。淳心はすなわちこれ憶念なり。億念はすなわちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなわちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなわちこれ真実信心なり。真実信心はすなわちこれ金剛心なり。金剛心はすなわちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなわちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなわちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大菩提心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。
【文科】一念の信心を転釈してその広大円満なる信徳を示したまう一段である。
【講義】してみれば、願成就の一念は、善導大師の所謂専心である。専心というは『観無量寿経』の深心である。深心は、善導大師が深く信ずるの心と仰せられた深信である。又この深信は、弥陀の本願を疑わずあやぶまず金剛の如く堅固に信ずることで、『如来会』に出て来る堅固の深信である。この堅固の深信は我が心をかためることではない。如来の
(2-429)
誓願を決定して信ずることで、『散善義』に示された決定心である。この決定心はこの上ない上々の信心であるから無上上心である(善導大師)。この無上上心は即ち真心〈まことこころ〉である(善導大師)。又この真心〈まごころ〉は、昨日も今日もおもかわりせず、ひたすら如来を憶い奉る相続心である(『論註』『安楽集』)。此の相続心はあつく如来を信ずる淳心である(同上)。この淳心は『易行品』に示された憶念である。この憶念は『浄土論』の真実の一心である。真実の一心は、即ち『大無量寿経』の大慶喜心である、大慶喜心は、『往生礼讃』の真実信心である。この真実信心は、『玄義分』の金剛心である。この金剛心は、仏になりたいという願作仏心である(『論註』)。願作仏心は衆生済度の度衆生心である(同)。この度衆生心というは、すべての衆生を済度して安楽浄土へ生まれさせたいという心である。この度衆生心は実にこれ大菩提心である。又大慈悲心である。この大菩提心が浄土に往生する正しき因となるのである。何故ならば、この度衆生の大慈悲心は凡夫の自ら起こした心ではなく、阿弥陀如来のすべての衆生を助けずば置かぬという大慈悲心から生まれたものであるから。
【余義】一。此の下一念の信心を転釈して、深遠微妙なる大悲回向の仏心たることを示す。転釈に二十あり。信の一念の内容を豊富に表現〈あらわ〉してある。その形式は『行巻』(『第一巻』六四八頁)
(2-430)
に於いて行の一念を釈せられたことに相対〈あいたい〉している。彼処〈かしこ〉には「釈に専心といえるはすなわち一心なり。二心なきことをあらわすなり。専念といえるは、すなわち一行なり」等と細かに行の一念を転釈す。此処には「宗師の専念といえるは即ち是れ一行なり、専心と云えるは、即ち是れ一心なり」等といいて信の一念を転釈せられる。彼処には信の一念を始めにいだして、行の一念を詳釈し、此処には、行の一念を始めに出して、信の一念を詳釈す。全く同一の行き方である。即ち『行巻』には信不離の行を明かし、『信巻』には行不離の信を示されるものである。
二。二十の転釈中、初めより真実信心までの十五は『和讃』の「信心すなわち一心なり」の意、次に「真実信心即ち是れ金剛心」は「一心すなわち金剛心。」「金剛心即ち是れ」より「是の心即ち是れ大菩提心」までは、「金剛心は菩提心」の意、「是の心即ち是れ大慈悲心なり」より「無量光明慧によりて生ずるが故に」までは「この心すなわち他力なり」である。これにて転釈の大体の意義は明らかになったと思う。
次に各の文字に就いては、例の如く七祖の文に依られた。初めの方は善導、相続心以下は曇鸞に依られ、其の中、一心は天親に依られたことは申す迄もない。而も是等の文字は、聖
(2-431)
人の信仰の坩壷の中に溶和せられ、皆活々として信の一念そのものを円かに表現しているのである。
吾等は此の転釈によりて、古より須いられたる信仰上の文字は、凡て此の信の一念の註脚であり表現であることを知るとともに、一念の信心の広大にして、一切の徳を包蔵していることに驚かざるを得ぬ。即ち聖人は七祖の聖教に表われた主要の文字によりて一念の信心に裏書きせられたというよりは、寧ろ御自身の信仰そのものを心ゆくばかり表現〈あらわ〉さんが為に、広く敬信せる先輩の信境を討〈たず〉ね、そしてその生命を示している諸文字をもって、自身の信念を豊かに表白せられたのである。
この中、度衆生心の下「即ち是れ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり」は、度衆生心の細註である。尚この処は『和讃』の
尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには 願作仏心とのべたまえ。
願作仏の心なこれ 度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり。
(2-432)
を参照すべきである。
「この心即ちこれ無量光明慧によりて生ずるが故に」は、明らかに他力回向の信心たることを示す。吾等の胸中に産まるる一念の信心は、弥陀如来の智慧光より生まれたる回向の信心であると仰せらるる。この弥陀の智慧光の活用〈はたらき〉を示さんが為に「無量光明慧」という阿弥陀仏の異名をあげられた。即ち『和讃』の「利他真実の信心なり」「この心すなわち他力なり」の意である。
第二科 仏道正因釈
是心即是由無量光明慧生故願海平等故発心等発心等故道等道等故大慈悲等大慈悲者是仏道正因故
【読方】この心すなわちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆえに、願海平等なるがゆえに、発心ひとし、発心ひとしきがゆえに、道ひとし。道ひとしきがゆえに、大慈悲ひとし。大慈悲はこれ仏道の正因なり。
【字解】一。無量光明慧 無量の智慧光仏。弥陀如来のこと。
二。願海平等 弥陀の本願は、一切衆生を平等に一子の如く憐念し給う故に願海平等という。
三。発心等 ここでは如来因位の発菩提心の平等なること。
(2-433)
四。道等 仏道修行のこと。弥陀因位の修行が平等なること。
【文科】証〈さとり〉を開く正因を釈したまう一段である。
【講義】この大慈悲心の信心は、光寿無量の阿弥陀仏の御心から生まれたものである。この阿弥陀仏の本願は平等の本願である。平等の発心である。平等の修行である。平等の大慈悲である。即ちこの平等の大慈悲は仏果に至る正因であるのである。かような訳合〈わけあ〉いであるから、以上転釈し来った信心が浄土へ生まれる正因てあるというのである。
【余義】「願海平等」等の四平等の解釈に就いては、或説には、「願海平等」は如来の誓願、「発心」は行者の信心、「道」は信不離の念仏の行、「大慈悲」は願作仏心であるとし、既に本願が平等大悲の本願であるから、従って行者の信も行も、願作仏心も皆同一平等味であるというのである。曰わく、仏はこの四平等によりて浄土を建立せらる。今は念仏の行者も亦この四平等の具足することを明かすという。
されど此の説は余りに斧鑿に過ぎていると思う。「願海平等」等の四平等は、上の「無量光明慧に由りて生ずるが故に」の一句を広説したものである。もとこの四平等は『論註』に『浄土論』の「正道大慈悲、出世善根生」を釈して「諸法平等故に発心等し」等と四平等を
(2-434)
あげられたのである。即ち諸法平等の真理に契うて平等の大発心と大修行を起こし、同時に平等の大慈悲心をもって、浄土の三種荘厳を建立せられたことを示す文である。今はその文を回向の信心の方面に転用して、諸法の二字を願海の二字に替え、吾等の信心は、実にこの平等大悲の本願、平等の発菩提心、平等の修行、そして平等の大慈悲心より生ずることを示された。終りに「大慈悲等し」をうけて「大慈悲はこれ仏道の正因なるが故に」と云い、如来が吾等を救済せずばおかぬという大慈悲心こそ、吾等が仏道を開く正因であることを示された。即ち切りつめて云えば、吾等の信心は、実に此の如来の四平等心を具えた他力の一心であるというのである。
かように文面の上では、吾等の信心は、如来の四平等をこめた無量光明慧より起こることを示すけれども、その四平等心も無量光明慧も、遠い法の上にあるのではなく、近く信の一念の内容である。故に『略本』には、
真実信心すなわちこれ願作仏心、願作仏心すなわちこれ度衆生心 乃至 この心すなわちこれ畢竟平等心、この心すなわちこれ大悲心、この心作仏す、この心これ仏なり。
等と仰せられた。「畢竟平等心」「大悲心」をもって『広本』の「無量光明慧に由りて生ず」
(2-435)
以下の四平等心を摂めているのである。この「畢竟平等心」を開けば、四平等心等の如来の大悲心がでてくる。されどその如来の平等心は、そのまま吾等の信心であるから、『略本』には直ちに「この心作仏す」等と云う。そしてこれがやがて次の仏凡一体を暗示しているのである。
論註曰願生彼安楽浄土者要発無上菩提心也又云是心作仏者言心能作仏也是心是仏者心外無仏也譬如火従木出火不得離木也以不離木故則能焼木木為火焼木即為火也
【読方】かるがゆえに『論註』にいわく、かの安楽浄土にうまれんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。またいわく、是心作仏というは、いうこころは心よく仏になるなり。是心是仏というは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとえば火、木よりいでて火、水を離るることをえず、水を離れざるをもっての故に、則ちよく木をやく。木、火のためにやかれて、木すなわち火となるがごとし。
【文科】『論註』によりて仏凡一体を述べたまう一段である。
【講義】曇鸞大師は『浄土論註』に、阿弥陀如来の安楽浄土へ生まれたいと願うものは、無上菩提心、即ち信心を起こさねばならぬと宣う。
(2-436)
又、『観無量寿経』の是心作仏、是心是仏のニ句を解釈して、是心作仏というは、この煩悩だらけの凡夫の心が仏となるのであるということ。語を換えていえば、他力の信心はこの煩悩だらけの凡夫の心の中に与えられて、その力で、この煩悩だらけの凡夫の心が仏になるということである。是心是仏というは、この語勢を一層強めていうたので、この心の外に別に仏になるものはないということを、この心が仏である、この心の外に仏は在さぬというのたのである。譬えていうてみると、木を磨り合せて火が出る。この火は木から生れて木を離れない、木を離れないから木を焼く、又木からいえば、木は火の為に焼かれて火となるというようなものである。大悲の仏心はこの煩悩具足の凡夫の心に宿り給う。私共の仏に接するは、この凡夫の心に宿り給うた仏心に依る外はない、仏心は凡心に離れ給わぬから、この凡心を仏にして下さることが出来るのである。又凡心の方からいえば、この凡心は常に仏心の宿り給うが所となるから、この凡夫の心が仏となるのである。
【余義】一。論註の二文の中、「是心作仏」等の文に就いて、古来仏凡一体論が盛んに起こった。即ち存覚師がこの下の『六要』に「凡心及び其の仏心の不一不異之義を顕わす」と釈せられたことから源をなし、近代に至って、殊に凡心の体は何であるか、一体の義相加何とい
(2-437)
うことが八釜敷くなったのである。
併し多くの説の中、殊に近頃の宗学者の論ずる所は、余りに文字に囚えられているようである。勿論或程度まで文字の講義にも注意せねばならぬけれど、吾等の目指す所は、是等によりて直ちに文の正意、即ち宗祖の精神に触れるにある。私は此の態度をもって、此の仏凡一体という錯雑した問題を切開いて見ようと思う。
二。云う迄もなく此の文は『観経』の第八像観の「是心作仏、是心是仏」を『論註』に解釈したものであって、善導大師も亦『定善義』にこの文を解釈せられた。それは此の『論註』文の次に引用されてある。そして両師の見解は一つであった。然るに鸞師より後れて『観経』を講ぜられた浄影、天台、嘉祥等の諸師は、此の「是心是仏」の文を理観となし、弥陀の理法身と、吾等の理法身とは一つである。故に此の文は本来吾等の心中に具備せられてある法身の弥陀を観ずることを説いたとのであるという。この時は「是心作仏」の「是心」とは、吾等が能観の心である。「作仏」とは、この能観の心の上に所観の仏身が顕現するをいう。即ち能観の心が所観の仏を作るというのである。次に「是心是仏」は、所観の仏が全く能観の心と一つになりて仕舞うから、能観の心の外に仏はない、能観の心そのままが仏である
(2-438)
という意である。
然るに善導大師は、鸞師と同じく、是等の理観説に反対し、深く観経の真を読破して、現実の吾等が西方の弥陀如来を観ずる事観であると決著せられた。即ち一経の当相(顕)で云えば、定善観で観ずる吾等の心の上に、所観の阿弥陀仏が顕われる所が、「是心作仏」その仏と能観の迷いの心と一つになる所が「是心是仏」である。次の譬えで云えば、所観の弥陀の火が、能観の吾等の木から出て離れないのが「是心作仏」、その火が木を焼いて一つ焔となる所が「是心是仏」であるというのである。
かようにして唯理的な、汎神的な観法が、現実の自己に根ざした実験的な、敬虔な宗教的観法となった。即ち理観が事観となったのである。吾等は先ず是丈の変遷を心得て後、我聖人の御引用の意を知らねばならぬ。
二。我聖人は、かような問題を惹〈ひ〉き起こした文を極めて無造作に一念の信心として引用せられた。是は上の『論註』の「無上菩提心」の文、並びに次上の一心の転釈の文を引続きにして、引用せられたことによりて知らるる。更に『略本』には一心の転釈の引き続きに、
この心すなわちこれ畢竟平等心、この心すなわちこれ大悲心、この心作仏す、この心
(2-439)
これ仏なり。これを如実修行相応となづく。しるべし三心すなわち一心の義こたえおわりぬ。
とあり、明らかにこの「是心作仏、是心是仏」の是心を、吾等が一念帰命の信心とせられてあるこの『略本』によりて見れば、此の下の問題となっている「是心作仏」等の是心は、上来転釈し来った一念の信心たることは火を見るよりも明らかである。そしてこの意味に於いての御引用は、やがて曇鸞善導の幽意を発揮しておるのである。殊に鸞師はこの木火喩の外に、水像の喩え、摩尼珠の喩えをあげて、仏凡一体の妙趣を力説せられてある。我聖人が直ちに他力信心の内容を示すものとせられたのは、鸞師の正意を得られたのである。
四。今や正しく文に就いて云わん。「是心作仏というこころは、心能く作仏するなり」の「心」とは、即ち一念の信心である。吾等が如来に帰命する心である。この心は吾迷妄の心にして又如来に引きつけられた統一せられた心である。即ち如来を信ずる心、如来回向の三信である。故にこの心が作仏するのである。尚進んで云えば、南無と帰命する心が阿弥陀仏を作るのである。又は阿弥陀仏となるのであるとも云われる。私共の信ずる側、実験の方面から云えば、この信ずる心が如来になるとか、如来を作るかと云いたいのである
(2-440)
無論信ずる心と如来とは離れたものではないが、併し是を一念の冥合の後、暫く批判の領地に移して云えば、信ずる心の上に如来が顕現するとも云われるのである。又さよう云いたいのである。左様に云うことによりて、吾等は其の時の感味を云い表わしたという快感を覚え、満足を感ずるのである。其が「心能く作仏するなり」又は「仏になるなり」の文字であると思われる。
次に「是心是仏とは、心の外に仏ましまさずとなり」とは、一層明瞭に上に「作仏」を押し進めた言葉であると思う。即ち信ずる心が、そのまま助くる仏心であるというのである。一念帰命の心は、そのまま助くる仏である。この心の外に仏はないというのである。良〈まこと〉に至深なる信仰の天地である。信の一念とは、主観と客観との冥合である。否、主観、客観という概念の型を離れて、直接に如来を感ずるのである。それを言葉にいだす時は、帰命という主観的の形式か、救済という客観的の形式の言葉となるのである。聖人は是等の文字に拘泥せられずに、直ちにこの信の絶対境示された。
帰命というは、本願招喚の勅命なり。(『行巻』)
吾等の帰命の心が、相来招喚の勅命であるという。即ち如来の心は、吾等の帰命の心で
(2-441)
あるというのである。南無が即ち阿弥陀仏の四字である。この南無を外に阿弥陀仏はないというのが、この「心の外に仏ましまさず」の謂われである。
然るに此の「心よく仏になる」の文を、信を獲れば、当来やがて仏になると解し、「心の外に仏ましまさず」を、此の信心が無上仏果と顕われるというように解する説もあるが、是等は宗教的実験と離れた常識的な、説明的な、間接的な解釈であると云わねばならぬ。この所は信の一念の説明でない。信の一念そのものの表現である。我等が深い内省の結果、今まで頼みにしておった自力我慢の心は、全く生命のない迷妄心であると自覚する時、即ち自力が行きつまった最後の一念の時、その最後の一念の転化が、如来を信ずる心となって表われる。この模様を打ち出だしたのが「心能く作仏す」の文である。その「心」は無論吾等の心である。併しその心が一念如来に転化する時、即ち自己の迷妄を自覚した一念に作仏するのである。故に「心能く作仏する」は「作仏した心」である。即ちそれ全体が信心である。ここは少しも常識的のだらくした説明を許さぬ所である。故に「是心作仏」の「是心は信心である。「心の外に仏ましまさず」もそうである。この信心が即仏心であるという実験の文字である。当来仏果を開くというような予想的な、蓋然的な文字でない。火のよう
(2-442)
な焼きつく文字である。多くの修道者が、自分というもの、仏と云うもの、何であるかを、眼で見るよりも、手で取るよりも、もっと慥〈たし〉かに実験実証したいと苦しんだ結果、最後に、自分の心に衝〈ぶつ〉かり、この心の醜悪と暗黒と無知と無能力に徹した一念に、不可思議の信仰を感じ、不可思議の如来を実験した事実の発表がこの「是信是仏」の文である。即ち「心の外に仏ましまさず」の文である。此等の文字は、少くとも深い心霊上の苦悶を嘗めた人でなければ、如何なる学者といえども、苟〈かりそめ〉にも口筆に上〈のぼ〉すべきものでない。
五。次に木火の喩えに就いて、文面の解釈上、法喩を合すれば、初めの「火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり」は「作仏」の喩え、次の「木を離れざるが故に則ち能く木を焼く」等は「是彿」の喩えとせられてある、抑もこの喩えは、所観の仏と能観の心の関係に就いてあげられたものであるから、『論註』の当相には、極めて適合するものであるが、今聖人の御引用の意味に就いては、上の「是心作仏」等の法の方は、自由に意味を転化させることが出来るけれども、譬えの方は定った一の事柄であるから、法のように充分なる可型性をもっておらぬ。それ故に上の如く「是心」を他力の信心とする時は、文面の上では譬えと一致を欠くような趣がある。之が為に、古来多くの先輩は此の消息を解しつつも、
(2-443)
文面の適合を主とする考えに妨げられて、大凡二つの横道へそれたように思われる。
一は譬えから逆行して、法の解釈に無理を加えた。即ち譬えの火を仏心となし、木を凡心として、『六要』の如く不一不異を談ずることから振り返って見れば、「是心作仏」等の「心」を信心とする訳にゆかぬようになりて、之を凡心と決した。そして此の凡心の体に就いて様々の論を立て、論難した。或者は凡心の体を自力疑心となし、或者は有漏心となし、或いは又、貪瞋、若くは善悪、又は慮知心等であると論じ、そして其の主張する所が、能く聖教のどの文面にも抵触しない説を取らんと試みた。そして甚しきに至りて、一体の模様を論ずるに、天台の煩悩即菩提に関する相即の三範疇(二物相合の一体、背面相翻の一体、当体全是の一体)などを須いて説明するに至った。
この説は譬えの説明に窮する結果、遂に譬えを主として、法の「是心作仏」等の「是心」を凡心と断定し、かくて「是心」と「作仏」の上に於いて一体の模様を論じ、そこに不一不異を立つるに至ったのである。
即ち此の説は、聖人の御引用の真意を第一に見ずして、法譬を文面の上から飽迄〈あくまで〉も一致せんとしたことから起こっていると思う。一分の譬えをもって全分の法を侵した無理の解釈であ
(2-444)
ると云わねばならぬ。
(二)は「是心作仏」等の是心を、吾等が上に述べたように信心とした結果、その法の如くに譬えを平たく当嵌〈あてはめ〉た。即ち火は摂取の心光、木は行者の南無帰命の信心、この両者の間に不一不異の一体を立てた。
この説も矢張り文面の上の法譬の一致にのみ心を奪われて、唯法の文面の如くに譬えを解釈し去った弊に陥ったのである。即ち信心と摂取の心光との不一不異を論ずるが如きは、云はば楽屋の中に芝居するようなものにて、殆んど必要なきことである。信の一念という神秘不可思議の内容を表現する為に、仮〈かり〉に主観客観の如く頒〈わか〉ちて、一は行者の信心、他を摂取の心光と云うけれども、これを初めから二つと定めて、さてそこに一異を語る如きは無用の戯説である。或いは無用というよりは、かかる木火の譬えのような深刻の説を無用化した過失を犯したと云わねばならぬ。
六。吾等の昆解によれば、この譬えは上の「是心」の内容を示したものであると思う。文の上で云えば「是心」は「作仏」又は「是仏」と対して、主語と客語をなし、恰〈あたか〉も別もののように見ゆるが、決してそうではない。即ち「作仏」と「是仏」は全く「是心」と同一であることを示
(2-445)
したのが、この文章の教える結果である。云わば一念の信心の内容である。吾等はどこ迄も是の点を忘れてはならぬ。今やこの点に立ちて、さて起こる問題は何であるかを考えて見ねばならぬ。即ち「信心」即ち「作仏」、「信心」即ち「是仏」であると云うならば、その信心とは何であるか。「仏になり」「仏である」信の一念の内容如何という問題は直ちに湧いて来る。そしてその解答が此の木火の譬えである。
木は貪瞋、我慢等のあらゆる煩悩を集めている凡心である。火は一念帰命の心である。善導の所謂「衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心」で煩悩の黒闇〈くらやみ〉の凡心から一点明るい帰命の仏心が起こるのである。之が火(信心即ち仏心)、木(凡心)より起こって離れない所である。その「離れない」というのは、木を焼いているからである。凡心の木と、燃え上る火は、全く同一でない。そこが不一である。されど火は木を離れては存在しない。そこが不異である。帰命の信心は、この仏心(たのむ心)と凡心と木火のように燃え上る所を指すのである。之を仏凡一体というのである。
この説の難点は、法喩の二つが一致を欠くことである。法に「作仏」と「是仏」の二つがあり、喩の上にも「火、木を離れず」と「火、木を焼く」の二つありて、前後各相合するよう
(2-448)
八。なお繁を嫌〈いと〉わず、聖教に顕われたる仏凡一体の類文を左に蒐集〈かりあつ〉めて、読者の色味に備えることとする。
(一)譬えば摩尼珠を濁水に置けば、即ち清浄となるが如し。若し人、無量生死の罪濁ありと雖も、彼の阿弥陀如来の至極無生の清浄宝珠名号を聞いて、之を濁心に投ずれば、念念の中に罪滅し、心浄らかにして即ち往生することを得。―『論註』下十六丁
(二)衆生貪瞋煩悩中、能く清浄願往生心を生ず。―『散善義』二河喩
(三)卑湿の淤泥に蓮華を生ず。此は凡夫、煩悩の泥中にありて、仏正覚華を生ずるに喩う。―『二門偈』四丁
(四)しかれば凡夫不成の迷情に、令諸衆生の仏智満入して、不成の迷心を他力より成就して、願入弥陀界の往生の正業成するときを、能発一念喜愛心とも、不断煩悩得涅槃とも、入正定之聚とも、聖人釈しましませり。―『改邪鈔』末二十一丁
(五)この信心をば、まことのこころと読むことは、凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり。この仏心を凡夫に授けたまうとき、信心と云わるるなり。―『最要鈔』初丁
(六)そのことわりをききて、一念解了の心起これば、仏心と凡夫とまったくひとつになる
(2-449)
なり。―『真要鈔』本二十二丁
(七)中間の白道は、あるときは行者の清浄の信心と云われ、あるときは、如来の願力の道と釈せらる。是すなわち行者の起こす所の信心と、如来の願心とひとつになる事をあらわすなり。『同上』本二十一丁
(八)無碍の仏智は行者の心に入り、行者の心は仏の光明におさめられたてまつりて、行者のはからい塵ばかりもあるべからず、これを観経には、諸仏如来はこれ法界の身なり、一切衆生の心想のうちにいりたまうとはときたまえり。―『浄土見聞集』八丁
(九)一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよおされて、仏智より他力の信心を与えたまうが故に、仏心と凡夫と一つになるところをさして、信心獲得の行者とは云うなり。―『御文』(『御文章』)二の九、
(十)『御文章』(『御文』)二の十、参照
(十一)衆生をしつらいたまう。しつらうというは、衆生のこころをそのままおきて、善きこころをおくわえ侯いて、よくめされ侯。衆生のこころをみなとりかえて、仏智ばかりにて、別に御したて候ことにてはなく候。―『御一代聞書』二十九丁
(2-450)
(十二)、一心とは、弥陀をたのめば、如来の仏心と一つになしたまうが故に、一心というなり。―『同上』六十三丁、
(十三)薪に火をつければ、はなるることなし。薪は行者の心にたとう。火は弥陀の摂取不捨の光明にたとうるなり。心光に照護せられたてまつりぬれば、我心をはなれて仏心もなく、仏心をはなれて我心もなきものなり。これを南無阿弥陀仏とは名づけたり。-『安心決定鈔』終
此の他、『行巻』海之釈(第一巻七〇八頁)『和讃』「名号不思議の海水は、逆謗の尸骸もとどまらず、衆悪の万川帰しぬれば、功徳のうしおに一味なり」等を参照せられたい。
九。最後に仏凡一体と機法一体の関係を言わねばならぬ。機法一体(『第一巻』四九三頁、六二一頁広述)は、行者の頼む機と、阿弥陀仏の助け給う法とが、一南無阿弥陀仏の中に成就されてあるというので、南無と信ずる心と信ぜらるる阿弥陀仏とが一体であるというのである。されば仏凡一体と非常に類似していると云わねばならぬ。この交渉はどうであるか。
この両者は、共に安心の相〈すがた〉を述べたものであるから大体は一致しているというても差支えはないのであるが、幾分の相違は免るることは出来ぬ。第一に機法一体とは、吾等に信
(2-451)
ぜらるる所行の法体たる六字名号の謂われから出た言葉で、どちらかと云えば、法につく。故に聖人は、之を『行巻』に広説せられた。解り安く云わば、薬の調合のようなものである。然るに仏凡一体は、正しく其の名号の謂われを聞信した一念の光景である。上の例で云えば、薬を服用して功能を顕わす所である。故に聖人は之を『信巻』に明かされた。但し行信が常に不離一体たるように、この二つも不離一体である。今試みにこの二つの関係を審〈つまび〉らかにすれば、大体左の通りであろう。
(一)、仏凡一体は機が機として人の上に実現した所である。即ち機とは可発の義で、将に発動せんとする潜力である。今の場合で云えば、凡心が調順せられて仏心と一つになり、ここに大いなる新勢力が実現しつつある。是が機法一体の機の実現である。即ち仏凡一体である。この実現せられたる機と法とが一体であるというのが機法一体である。
挿図(yakk2-451.gif)
(阿弥陀仏)法――機(南無)
∥
(仏心+凡心)
(2-452)
即ち仏凡一体は、機の内容を顕わしたものである。頼む機とは、凡心と離れざる帰命の心である。そしてこの機が、助け給う法と一つであることは明らかなことである。故に仏凡一体は、どこ迄も信の一念の光景である。
(二)、機法一体は、仏凡一体の仏の内容である。云うまでもなく機法一体は、六字名号の謂われであるから、この名号の宝珠が凡心の濁水に投ぜらるる模様が、すなわち仏凡一体である。
挿図(yakk2-452.gif)
仏心=(機+法)
|
凡心
即ち機法一体の名号が、正しく行者の上に実現された所が、貪瞋煩悩の中に生じたる願往生心である。即ち行者の中に生まれたる仏心である。この仏心と凡心と一体であるというのが、仏凡一体であるというのである。
(2-453)
以上の二つは能く了解することが出来る。由来信仰上の文字は活きた生命の表現であるから、多くの抽出〈ひきだ〉しのように、互いに箪笥の一部を占領しているようなものでなく、常に互いに相交叉しているものである。故に或る場合には、機法一体と仏凡一体と全く同一に視なされておることもある。此の下の『六要』の「機法一体」の如きは是である。但し全体の上からこの二つを同視する場合は別として、是を一々に配して、機を凡心として、六字の名号の中に、凡心まで成就してあるという如きは、誤れるの甚しきものである。如来が凡心を成就するという如きは無意味のことである。唯如来が吾等凡心を調順して、如来に向かわしむる働きを成就し給う所が、利他の大用の出づる本である。是が亦阿弥陀仏の阿弥陀仏たる所以で、「若不生者、不取正覚」の誓願のある所以である。良〈まこと〉に如来が機法一体を成就して下された所に他力教の本があるのである。そして吾等が一念、ここに徹透する時に機が実現し、その機と一体たる法も実現し、ここに仏心と凡心と一つになる。即ち信心決定となるのである。
但し大体に於いては、機法一体は法徳につき、仏凡一体は一念の心相であると云うべきである。
(2-454)
光明云是心作仏是心是仏是心外無異仏 已上
【読方】光明のいわく、この心作仏す、この心これ仏なり。この心のほかに異仏ましまさぬとのたまえり。已上
【文科】『定善義』によりて仏凡一体をのべたまう。
【講義】善導大師も亦、是の心作仏す、この心これ仏である。この心の外に異なる仏は在〈ましま〉さぬと仰せられた。上の曇鸞大師の御覚召しと同一である。
第四節 三心一心総結
第一項 三心結釈
故知一心是名如実修行相応即是正教是正義是正行是正解是正業是正智也三心即一心一心即金剛真心之義答竟可知
【読方】故にしんぬ。一心これを如実修行相応となづく。すなわちこれ正教なり。これ正義なり。これ正行なり。これ正解なり。これ正業なり。これ正智なり。三心すなわち一心なり。一心すなわち金剛真心の義、こたえ竟わんぬ。しるべし。
【文科】正しく三心の結釈を施したまう一段である。
(2-455)
【講義】こういう訳合いであるから、天親菩薩の一心を曇鸞大師は如実修行相応と名づけられたのである。斯くの如き仏祖の決定は、実に能詮〈あらわして〉の側からいえば正しい教であり、所詮〈あらわされて〉の側からいえばまことに正しい義理である。又その教え給うものは、正しい行と、正しい解了〈さとり〉と、正しい立居振舞いと、正しい智慧とである。すべてが皆ただしいのである。上来本願の三心は一心に収まり、その一心というは、金剛の如く堅固な真心〈まごころ〉であるという訳合いを答え畢わったのである。
【余義】一。正教正義等の六正は『散善義』の第六深信の下に出づ。かしこには、菩薩等の因人の説に対しで、仏の所説には正教等の六正あることを示された。然るに聖人は、この信心の下に転用して、この帰命の一心は、教(能詮〈あらわして〉)の方面に就いて云えば正教である。その詮わさるる(所詮〈あらわされて〉)方面から云えば正義である。行の側に就いて云えば、正行、正業。信の側で云えば正解、正智であるとせられた。今これを図示すれば、
挿図(yakk2-455.gif)
┏━ 正教
教 ━┫
┗━ 正義
┏━ 正行
行 ━┫
┗━ 正業
┏━ 正解
信 ━┫
┗━ 正智
(挿図では 正教・正義・正行・正解・正業・正智の順)
(2-456)
即ち他力回向の一心は、正行と正信不離の一心である。之を経の意に就いて云えば正教正義である。かように他力の一心が、一切の教えと、一切の義理の中心であることを示し、そしてその体は、正信正行不離の心であると結ばれるのである。
第二項 菩提心釈
止観一云菩提者天竺語此称道質多者天竺音此方云心心者即慮知也 已上
【読方】止観の一にいわく、菩提というは天竺のことば、ここには道と称す。質多というは天竺の音なり。この方には心という。心というはすわなち慮知なり。已上
【字解】一。『止観』具〈つぶさ〉には『摩訶止観』十巻。支那天台の祖智者大師の述、弟子、章安の記録に係〈かか〉わる。天台宗の観心を説ける書にして、一宗修道の本拠とする所である。第一大意に於いて、発心、修行、果報等を説き、第二に止観の名を解釈し、第三に止観の体相を釈し、第四に一切諸法が止観に摂持せらるこことを明かし、第五に偏教と円教を区別し、第六に方便、第七に十乗観法を説く。
二。菩提 梵語ボ―ドヒ(Bodhi)智、道、覚等と訳す。
(2-457)
三。質多 下の余義を見よ。
【文科】『摩訶止観』によりて上にあげた他力の菩提心を釈したまう一段である。
【講義】『摩訶止観』の一に、菩提心というを解釈して、「菩提」というは印度の語〈ことば〉で、支耶に訳すれば道〈みち〉ということである。「心」は印度の語では質多といい、ものごとを縁慮〈おも〉うて知るということだというてある。
【余義】ここに菩提心の「心」を釈して慮知心であると云われた御思召しはどうであるかと云えば、之は堅実心を択ばれたのであると云われておる。即ち堅実心の梵語はフリダヤ(Hidaya)乾栗駄耶(カリダヤ)と音訳せらるる言葉で、英語ソール(Soul)又はマインド(Mind)、即ち心霊、心識である。之を支那の註釈家は、第一義心、又は理心と名づけて、不変不動の本体心であるとし、慮知心の方は梵語チッタ(Citta)質多と音訳せらるる言葉で、語原はチット(Cit)「考える」、「思う」、英語ソート(thought)思想であるから、外境を縁ずる心、外界に働く心である。所縁の境を了別し分別する心、前の理心、第一義心に対して、之は事心である、妄愛の心であるとする。
今聖人が『摩訶止観』の文を引いて、菩提心の心を縁慮心とせられた所に深い味がある
(2-458)
のである。聖人は之によりて凡心の体を示し、更に進んでは、多くの人々が、初のより本体心や第一義心を建てて、それを我物顔に思うている迷いを破し、真の本体心は、この縁慮の妄心中より生ずる他力信心でなければならぬ。独断的に本体心を談ずるは、徒〈いたずら〉に飾って眺める画餅の如きものであることを断言せられたものであると思う。
実〈げ〉に信仰は美〈うる〉わしい詩的空想でない。この現実心の底に根ざした仏心でなくてはならぬ。即ちこの現実の世界に触れて、動揺する慮知心に即した道心が真実の菩提心であるというのである。