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「和語灯録」の版間の差分

提供: 本願力

(禪勝房にしめす御詞)
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====禪勝房にしめす御詞====
 
====禪勝房にしめす御詞====
{{このご法語は、一念の念仏の無上功徳であることを説き、いのちは刹那刹那の存在であるから、今いまの一声一声の念仏を勧める。また、信に居座れば「信が行をさまたぐる」とし、一声・十声の念仏では不足と思えば「行が信をさまたぐる」と行信不離を説かれる。「信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし」である。}}
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{{Comment|このご法語は、一念の念仏の無上功徳であることを説き、いのちは刹那刹那の存在であるから、今いまの一声一声の念仏を勧める。また、信に居座れば「信が行をさまたぐる」とし、一声・十声の念仏では不足と思えば「行が信をさまたぐる」と行信不離を説かれる。「信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし」である。}}
  
 
禪勝房にしめす御詞
 
禪勝房にしめす御詞

2012年3月23日 (金) 09:17時点における版

編集中

黑谷上人語燈錄第十一

黑谷上人語燈錄第十一{并}
厭欣沙門了惠集錄

しつかにおもむみれば、良醫のくすりはやまひのしなによてあらはれ、如來の御のりは機の熟するにまかせてさかりなり。日本一州淨機純熟して朝野遠近みな淨土に歸し、緇素貴賤ことことく往生を期す。その濫觴をたつぬれは、天國排開廣庭天皇{欽明}の御世に、百濟國より釋迦彌陀の靈像はしめてこの國にわたり給へり。
釋迦は撥遣の敎主、彌陀は來迎の本尊なれは、二尊心をおなしくして、往生のみちをひろめむがためなるへし。しかれは小墾田天皇{推古}の御時、聖德太子二佛の御意にしたかはせ給ひて、七日彌陀の名號を稱して、祖王{欽明}の恩を報じ、御文を善光寺の如來へたてまつり給ひしかは、如來みつから御返事ありき。太子の御消息にいはく

名號穪揚七日已 此是爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念[1]
如來の御返事にいはく
一念穪揚恩無留 何况七日大功德
我待衆生心無間 汝能濟度豈不護[2]

太子つゐに往生の瑞相をあらはして、利益を四海にしめし給ひき。そののち大炊の天皇の御時、彌陀觀音化し來りて、極樂の曼陀羅ををりあらはして、往生の本尊とさためをき給ふ。ここに六字の功德粗あらはれて、二尊の本意やうやくひろまりしかは、慈覺・慈惠等の聖人、みな極樂をねがひてさり給ひき。
惠心僧都は楞嚴の月の前に往生の要文をあつめ、永觀律師は禪林の花の下に念佛の十因を詠して、をのをの淨土の敎行をひろめ給ひしかとも、往生の化道いまたさかりならさりしに、中比黑谷の上人勢至菩薩の化身として、はじめて彌陁の願意をあきらめ、もはら稱名の行をすすめ給ひしかは、勸化一天にあまねく、利生万人にをよふ。淨土宗といふ事は、この時よりひろまりけるなり。
しかれは往生の解行をまなふ人みな上人をもて祖師とす。ここにかのながれをくむ人おほき中に、をのをの義をとることまちまちなり。いはゆる餘行は本願か本願にあらざるか、往生するやせすや、三心のありさま二修のすがた、一念多念のあらそひなり。まことに金鍮しりがたく、邪正いかてかわきまふへきなれは、きくものをほく源をわすれて流にしたがひ、新を貴てふるきをしらず。
『尚書』にいへることあり、人貴舊器貴新、予この文におどろきて、薄(いささか)上人のふるきあとをたつねて、寢(やや)近代のあたらしきみちをすてんとおもふ。よて或はかの書狀をあつめ、或は書籍にのするところの詞を拾ふ。やまとことははその文見やすく、その意さとりやすし。
ねかはくはもろもろの往生をもとめん人これをもて燈として、淨土のみちをてらせと也。もしおつるところの書あらは、後賢かならすこれに續け。
時に文永十二年正月廿五日、上人遷化の日、報恩の心ざしをもていふことしか也。

和語 第二之一{當卷有三章}

三部經釋 第一
御誓言書 第二
往生大要抄 第三

三部經釋

異本に、真宗高田派に秘蔵されていた『三部経大意』(聖全四)があり、当分では「すこぶるわれらが分にこえたり」とされ、至誠心を総の自力の至誠心と別の他力の至誠心に分けて釈されている。この『三部經釋』にはそれがない。浄土真宗の者は注意すべきである。なお、『三部経大意』のテキストはWikiArcにある。

三部經釋 第一

『雙卷經』、『觀經』、『阿彌陀經』、これを淨土三部經といふ。『雙卷經』には、まづあみたほとけの四十八願をとく。のちに願成就をあかせり。その四十八願といふは、法藏比丘、世自在王佛の御まへにして、菩提心ををこして、淨佛國土・成就衆生の願をたて給ふ。およそその四十八願に、あるひは無三惡趣ともたて、あるひは不更惡趣ともとき、あるひは悉皆金色ともいふはみな、第十八の願のためなり。
その第十八願といは、「設我得佛、十方衆生、至心信樂欲生我國、乃至十念、若不生者不取正覺」といへるは、四十八願の中に、この願ことに勝たりとす。そのゆへは、かの國にもしむまるる衆生なくは、悉皆金色無有好醜等の願も、なにによてか成就せん。往生する衆生のあるにつきてこそ、身のいろも金色に好醜ある事もなく、五通をも具し、宿命をもさとるべけれ。
これによて善導釋しての給はく、「法藏比丘四十八願をたて給ひて、願々にみな、若我得佛十方衆生 穪我名號願生我國 下至十念 若不生者不取正覺。四十八願に一一にみなこの意あり」{玄義分}と釋し給へり。をよそ諸佛の願といふは、上求菩提下化衆生の心なり。大乘經にいはく、「菩薩願有二種、一上求菩提、二下化衆生也。其上求菩提、本意爲易濟度衆生」{云云}
しかれはたた本意は下化衆生の願にあり。いま彌陀如來の國土を成就し給ふも、衆生を引接せんがためなり。總していつれのほとけも成佛已後は内證・外用の功德、濟度利生の誓願いづれもいづれもみなふかくして、勝劣ある事なけれども、菩薩の道を行し給ひし時の、善巧方便のちかひはこれまちまちなる事也。その中に彌陀如來は、因位の時、もはらわが名號を念せんものをむかへんとちかひ給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給ふ。濁世のわれらが依怙、末代の衆生の出離、これにあらずはなにをか期せんや。
これによてかのほとけも、みつから「我建超世願」となのり給へり。三世の諸佛も、いまたかくのこときの願をはをこし給はす。十方の薩埵もいまたこれらの願はましまさす。
「斯願若尅果 大千應感動 虚空諸天人 當雨珍妙花」とちかひしかば、大地六種に震動し、天より花ふりて、なんぢまさに正覺なり給ふへしとつけたりき。法藏比丘いまた成佛し給はすとも、この願うたがふへからす。いかにいはんや成佛已後十劫になり給へり。信ぜすはあるへからす。
「彼佛今現在世成佛 當知本誓重願不虚 衆生稱念必得往生」{礼讃}と釋したまへるはこれなり。
「諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心廻向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆誹謗正法」{文} これは第十八の願成就の文なり。
願には乃至十念ととくといへとも、まさしく願成就の中には、一念にありとあかせり。又次に三輩往生の文あり。これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。發菩提心等の業をもて三輩をわかつといへとも、往生の業は通してみな一向專念無量壽佛といへり。これすなはちかのほとけの本願なるかゆへ也。
また「其佛本願力 聞名欲往生 皆悉到彼國 自致不退轉」といふ文あり。漢朝に玄通律師といふものありき。小戒をたもてるものなり。遠行して野寺に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦す。玄通これをききて一兩遍誦してのち、をもひいだす事もなくてわすれにけり。そののちこの玄通律師戒をやふれり。そのつみによて閻魔の廳にいたる時、閻魔法王の給はく、なんぢ佛法流布のところにむまれたりき、所學の法あらばすみやかにとくへしとて、高座にのぼせ給ひき。その時玄通高座にのぼりておもひめくらすに、すへて心におほゆる事なし。野寺に宿してききし文あり。これを誦せんとおもひいでて、「其佛本願力」といふ文を誦したりしかは、閻魔法王たまのかふりをかたふけて、これはこれ西方極樂の彌陀如來の功德をとく文なりといひて、禮拜し給ひき。願力不思議なる事この文に見へたり。

「佛語彌勒 其有得聞 彼佛名號 信心歡喜 乃至一念 當知此人 爲得大利 即是具足 無上功德」{文}
彌勒菩薩にこの經を付屬し給ふには、乃至一念するをもて、大利無上の功德との給へり。經の大意これらの文にあきらかなるものなり。

次に『觀經』には。定善・散善をときて念佛をもて阿難に付屬し給ふ。「汝好持是語」といへるはこれなり。
第九の眞身觀に、「光明徧照十方世界 念佛衆生攝取不捨」といふ文あり。濟度衆生の願は平等にして差別ある事なけれとも、無縁の衆生は利益をかうふる事あたはず。
このゆへは彌陀善逝平等の慈悲にもよほされて、光明あまねく十方世界をてらして、一切衆生にことことく縁をむすはしめんがために、光明無量の願をたて給へり。第十二の願これなり。又名號をもて因として衆生を引接し給ふ事を、一切衆生にあまねくきかしめむがために、第十七の願に、「十方世界の無量の諸佛、ことことく咨嗟してわか名を稱せすといはは正覺をとらし」と誓給ひて、次に第十八の願に、「乃至十念若不生者不取正覺」とたて給へり。これによて釋迦如來この土にしてとき給ふがことく、十方にも。をのをの恒河沙のほとけましましておなしくこれをしめし給へるなり。しかれは光明の縁はあまねく十方世界をてらしてもらすことなく。又十方世界の無量の諸佛。みな名號を稱讃し給へは、きこえすといふところなし。
「我至成佛道 名聲超十方 究竟靡所聞 誓不成正覺」とちかひ給ひしはこのゆへなり。しかれは光明の縁と、名號の因と和合せは、攝取不捨の益をかうふらんことうたがふへからず。このゆへに『往生禮讃』の序にいはく、
「諸佛所證平等是一 若以願行來收 非無因縁然 彌陀世尊 本發深重誓願 以光明名號 攝化十方」といへり。
又この願ひさしく衆生を濟度せんがために、壽命無量の願をたて給へり。第十三の願これなり。惣しては光明無量の願は、橫に一切衆生をひろく攝取せんがためなり。壽命無量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せんがためなり。かくのこときの因縁和合すれば、攝取の光明の中に又化佛菩薩ましまして、この人を常に攝護して、百重千重に圍繞し給ふに、信心いよいよ增長し、衆苦ことことく消滅す。又臨終の時ほとけみつから來迎し給ふに、もろもろの邪業繫よくさふるものなし。これは衆生いのちをはる時にのぞみて、百苦きたりせめて、身心やすき事なく、惡縁ほかにひき、妄念うちにもよほして、境界自躰當生の三種の愛心きをひをこる。第六天の魔王この時にあたりて、威勢ををこしてもてさまたげをなす。
かくのこときの種種のさはりをのぞかんかために、かならす臨終の時にはみつから菩薩聖衆に圍繞せられて、その人のまへに現ぜんとちかひ給へり。第十九の願これ也。

これによて臨終の時いたれば、ほとけ來迎し給ふ。行者これを見たてまつりて、心に歡喜をなして、禪定にいるがことくして、たちまちに觀音の蓮臺に乘して、安養の寳ちにいたる也
これらの益あるがゆへに、「念佛衆生攝取不捨」といふなり。又この經に「具三心者必生彼國」ととけり。三心といは、一には至誠心、二にに深心、三には廻向發願心なり。
三心はまちまちにわかれたりといへとも、要をとり詮をえらんてこれをいへは、深心におさめたり。
善導和尚釋しての給はく、「至といは眞なり、誠といは實なり。一切衆生の身口意業に、修するところの解行、かならす眞實心の中になすへき事をあかさんとす、ほかに賢善精進の相を現して、うちに虚假をいだく事をえざれ」といへり。
その解行といは、罪惡生死の凡夫、彌陀の本願によて、十聲・一聲决定してむまると眞實に解て行するこれなり。ほかには本願を信する相を現し、うちには疑心をいたく。これは不眞實の心なり。

「深心はふかく信する心也。决定してふかく自身は現にこれ罪惡生死の凡夫なり。曠劫よりこのかたつねに流轉して出離の縁なしと信じ、决定してふかくこの阿彌陀如來、四十八願をもて衆生を攝取し給ふ事、うたかひなくおもんばかりなけれは、かの願力に乘してさためて往生する事をうと信すへし」といへり。
はしめにまづ罪惡生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁ある事なしと信せよといへるは、これすなはち斷善闡提のことくなるもの也。かかる衆生の一念十念すれは、無始よりこのかたいまだいでさる生死の輪廻をいでて、かの極樂世界の不退の國土にむまるといふによりて信心はおこるべきなり。をよそほとけの別願の不思議はこれ凡心のはかるところにあらす。唯佛と佛とのみよくしり給へり。阿彌陀佛の名號をとなふるによて、五逆十惡ことことくむまるといふ別願の不思議のちからまします、たれかこれをうたがふべき。
善導の疏にいはく、「あるひは人ありて、なんち衆生曠劫よりこのかた、をよひ今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうへにをいて、つぶさに十惡・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、いまたのぞきつくす事あたはす。しかもこれらのつみは三界惡道に繫屬す。いかんそ一生の修福念佛をもて、すなはちかの無漏無生の國にいりて、ながく不退のくらゐを證悟する事をえんやといはば、いふべし。諸佛の敎行はかす塵沙にこえたり、禀識の機縁隨情ひとつにあらず。たとへは世間の人のまなこに見つへく信しつへきがこときは、明よく暗を破し、空よく有をふくむ。地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壞するがことし。 かくのごときらの事ことことく待對の法となづく。すなはちみつから見るべし千差萬別なり。いかにいはんや佛法不思議のちから、あに種種の益なからんや」といへり。 極樂世界に水鳥樹林の微妙の法をさへつるは不思議なれとも、これらはほとけの願力なれはと信して、なんそたた第十八の乃至十念といふ願をのみうたがふべきや。
惣して佛説を信せは、此も佛説なり。かの『花嚴』の三無差別、『般若』の盡淨虚融、『法花』の諸法實相、『涅槃』の悉有佛性、たれか信せさらんや。かれも佛説なり、これも佛説也、いづれをか信じ、いつれをか信ぜさらんや。それ三字の名號はすくなしといへとも、如來所有の内證外用の功德、万億恒沙の甚深の法門をこのうちにおさめたり、たれかこれをはかるへきや。

『疏』の玄義分にこの名號を釋していはく、「阿彌陀佛といは、これ天竺の正音、ここには翻して無量壽覺といふ。無量壽といは、これ法、覺といは、これ人、人法ならへてあらはす。かるがゆへに阿彌陀佛といふ。人法といは所觀の境也、これにつゐて依報あり正報あり」といへり。しかれははしめ彌陀如來、万德無漏の所證の法門より、觀音・勢至・普賢・文殊・地藏・龍樹、乃至かの土の菩薩・聲聞等にいたるまて、そなへ給へるところの事理の觀行、定惠の功力、内證の智惠外用の功德、みなことことく三字の中におさまれり。されば極樂界にいづれの法門か、もれたるところあらん。
しかるにこの三字の名號をは、諸宗をのをのわか宗に釋しいれたり。眞言には阿字本不生の義、四十二字を出生せり。一切の法は阿字をはなれる事なきかゆへに功德甚深の名號といへり。天台宗には空假中の三諦、正了縁の三義、法報應の三身、如來所有の功德、これをいでざるがゆへに功德莫大なりといへり。

かくのことく諸宗をのをのわか存するところの法につゐて、阿彌陀の三字を釋せり。いまこの宗の意は、眞言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道の旨も法相の五重唯識の意も、惣して森羅の万法ひろくこれを攝すとならふ。
極樂世界にもれたる法門なきかゆへに、たたしいま彌陀本願の意は、かくのことくさとれとにはあらす。ただふかく信心をいたしてとなふるものをむかへんとなり。耆婆・扁鵲か万病をいやすくすりは、もろもろの木、よろづの草をもて合藥せりといへとも、病者これをさとりて、その藥木何分、その藥草何兩和合せりとしらす。しかれとも是を服するに万病ことことくいゆるかことし。たたうらむらくはこのくすりを信ぜすして、わかやまひはきはめてをもし、いかかこの藥にてはいゆる事あらんとうたかひて服せすんは、耆婆か醫術も、扁鵲か秘方も、むなしくしてその益あるべからざるがことく、彌陀の名號もかくのことし。それ煩惱惡業のやまひきはめてをもし、いかかこの名號をとなへてむまるることあらんと、うたかひてこれを信ぜすは、彌陀の誓願、釋尊の所説むなしくして、そのしるしあるべからず。たたあふきて信ずべし。良藥をえて服さすして死することなかれ。崑崙の山にゆきて、玉をとらずしてかへり、栴檀のはやしにいりて枝をよぢすしていでなは後悔いかかせん。
みつからよく思量すべし。そもそもわれら曠劫よりこのかた佛の出世にもあひけん。菩薩の化道にもあひけん。過去の諸佛も現在の如來もみなこれ宿世の父母也。多生の朋友なり。

しかるにかれはすてに菩提を證し給へるに、われはなにによて生死にはととまれるそと、はつべしはつべし、かなしむべしかなしむべし。本師釋迦如來の衆生大罪のやまにいり、邪見のはやしにかくれて、三業放逸に、六情縱蕩ならん者を、わか國土にとりをきて、敎化度脱せしめむとちかひ給ひたりしは、そもそもいかにしてかかる衆生をは、度脱せしめむとちかひたもふぞとたづぬれは、阿彌陀如來の因位無諍念王と申せし時菩提心ををこし、衆生をして生死を過度せしめんとちかひ給ひて、すなはち國をもくらゐをもすてて、攝取衆生の願ををこし給ひしに、釋迦如來は其時寳海梵志と申て、無諍念王の臣下なりしが、同じく菩提心ををこして、われかならす穢土にして正覺をなりて、惡業の衆生を引導せんとちかひ給ひてこの願ををこし給へる也。曠劫よりこのかた諸佛出世して、縁にしたかひ機をはかりて、をのをの衆生を化度し給ふ事、かづ塵沙にすきたり。あるひは大乘をとき、小乘をとき、あるひは實敎をひろめ、權敎をひろむ。有縁の機はみなことことくその益をう。ここに釋尊八相成道を五濁惡世にとなへて、放逸邪見の衆生の出離その期なきをあはれみて、これより西に極樂世界あり、佛まします阿彌陀となづけたてまつる。この佛は乃至十念若不生者不取正覺とちかひ給ひて、佛になり給へり。

すみやかに念せよ。出離生死のみちをほしといへとも、惡業煩惱の衆生の、とく生死をはなるる事、この門にすぎたるはなしとをしへて、ゆめゆめうたかふ事なかれ。六方恒沙の諸佛も證誠し給ふなりと。
ねんころにをしへ給ひて、われもしひさしく穢土にあらは、邪見放逸の衆生、われをそしりわれをそむきて、かへりて惡道におちなん。濁世にいでたる事は、本意たたこの事を衆生にきかしめんかためなりとて、阿難尊者に、なんちよくこの事を遐代に流通せよとねんころに約束しをきて、跋提河のほとり、沙羅林のもとにして、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして滅度に入給ひき。その時に日月ひかりをうしなひ、草木いろを變し、龍神八部・禽獸・鳥類にいたるまて、天にあふきてなき、地にふしてさけふ。阿難・目連等のもろもろの大弟子等、悲泣のなみたををさへてあひ議していはく、釋尊の恩になれたてまつりて、そこはくの春秋ををくりき、化縁ここにつきて、黄金のはだへたちまちにへたたり給ひぬ。あるひはわれら世尊に問たてまつるに答へ給へる事もあり、あるひは釋尊みつから告給ふ事もありき、濟度利生の方便、いまはたれにむかひてか問たてまつるべき。すべからく如來の御ことはをしるしをきて未來にもつたへ、御かた見ともせんといひて、多羅葉をひろひて、ことことく是をしるしをきしを、三藏たちこれを譯して唐土にひろめ、本朝へつたへたまふ。諸宗に學するところの一代聖敎これ也。しかるに阿彌陀如來、善導和尚となのりて、唐土にいてて、
「如來出現於五濁 隨宜方便化群萠 或説多聞而得度 或説小解證三明 或敎福惠雙除障 或敎禪念坐思量 種種法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念 三念五念佛來 迎直爲彌陀弘誓重 致使凡夫念即生」{法事讃}との給へり。
釋尊出世の本懷、たたこの事にありといふべし。「自信敎人信 難中轉更難 大悲傳普化 眞成報佛恩」といへは釋尊の恩を報するも、また唯この念佛にありといふべし。
もしこのたひむなしくすきなは、出離いつれの時をか期せんとする、すみやかに信心ををこして生死を過度すべし。

次に廻向發願心といは、人ことに具しつべき事なり。國土の快樂をききてたれかねかはさらんや。そもそもかの國土に九品の差別あり、われらいつれの品をか期すへき。善導和尚の御意は極樂は是報土、彌陀は是報佛なり。されは未斷惑の凡夫は、すべてむまるへからすといへとも、彌陀別願の不思議にて、罪惡生死の凡夫、一念十念してすなはちむまると釋し給へり。しかるを上古よりこのかた、おほく下品といふとも足ぬべしといひて上品をねがはす。これは惡業のをもきををそれて心を上品にかけさる也。
もしそれ惡業によらは惣て往生すへからず、願力によてむまれなはなんそ上品にすすまん事をかたしとせん。それ彌陀淨土をまうけ給事は、願力の成就するゆへなり。しかれはこれ念佛の衆生のむまるべきくになり、乃至十念若不生者不取正覺とたて給ひて、此願によて感得し給ふところなるかゆへなり。
今此觀經の九品の業をいはは、下品は五逆十惡の罪人、臨終の時はしめて善知識のすすめによて、あるひは十聲、あるひは一聲、稱念してむまるる事をえたり。しかるにわれら罪業をもしといへとも五逆をはつくらす、行業をろそかなりといへとも一聲・十聲にすぎたり。臨終よりさきに彌陀の誓願を聞得て、隨分に信心をいたす。されは下品まてはくだるべからず、中品は小乘の持戒の行者、及世間の孝養父母・仁・義・禮・智・信等の行人なり。この品には中なかにむまれかたし、小乘の行人にもあらず、またたもちたる戒もなけれはわれらか分にあらず。上品は大乘の凡夫、菩提心等の行なり。菩提心は諸宗をのをの其意へ同じからず。
淨土宗の意は、淨土にむまれんとねかふを菩提心といふ。又念佛はすなはちこれ大乘の行なり、無上功德なり。しかれば上品往生は手をひくべからず。又本願に乃至十念とたて給ひて、臨終現前の願に大衆に圍繞せられてその人のまへに現せんとたて給へり。中品は聲聞衆の來迎、下品は化佛の三尊、あるひは金蓮花等の來迎なり。
しかるを大衆に圍繞せられて現せんとたて給へる本願の意趣は、上品の來迎をまうけ給へり、なんぞあなかちにあひすまはんや。又善導和尚、「三萬已上は上品上生の業」との給へり。數遍によて上品にむまるへし。又三心につゐて九品あるへし、信心によて上品にむまるへしと見えたり。上品をねかふ事は、わか身のためにはあらず、かのくににむまれをはりて、かへりてとく衆生を化せんかためなり。これあにほとけの御意にかなはさらんや。

次に『阿彌陀經』は、まつ極樂の依正の功德をとく。これ衆生の願樂の心をすすめんかためなり。のちに往生の行をあかすに、少善根をもては、むまるる事をうべからず。阿彌陀佛の名號を執持して一日七日すれは、往生する事をうとあかせり。衆生これを信せさらん事ををそれて、六方にをのをの恒河沙の諸佛ましまして、大千に舌相をのへて證誠し給へり。善導釋していはく、「この證によてむまるる事をえすは、六方如來ののへ給へる舌、ひとたひ口よりいてをわりて、ながくくちに還りいらすして、自然に壞爛せん」との給へり。しかれは是をうたかはんものは、彌陀の本願をうたかのふみにあらす、釋尊の所説をうたかふなり。釋尊の所説をうたかふは、六方恒沙の諸佛の所説をうたかふなり。すなはち是大千にのへ給へる舌相を壞爛する也。もし又是を信せは、たた彌陀の本願を信するのみにあらす釋尊の所説を信するなり。釋尊の所説を信するは、六方恒沙の諸佛の所説を信する也。一切の諸佛を信するは、一切の法を信するになる。一切の法を信するは、一切の菩薩を信するになる。これすなはち一切の三寳を信するなり、この信ひろくして廣大の信心なり。
善導和尚のいわく、
爲斷凡夫疑見執 皆舒舌相覆三千 共證七日稱名號 又表釋迦言説眞六方 如來舒舌證專稱名號 至西方到彼 花開聞妙法 十地願行自然彰 心心念佛莫生疑 六方如來證不虚 三業專心無雜亂 百寳蓮花應時見{法事讃}


御誓言の書(一枚起請文)

法然上人の晩年の念仏の領解を述べられたもので、ただ念仏を申せば往生せしめられると信じて称えているほかにはないといい、次に、念仏を信ずるものは、いかに学問をしたものであっても愚鈍の身にかえって念仏すべきであるといわれている。一枚起請文

御誓言の書

もろこしわか朝に、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる、觀念の念にもあらす、又學問をして念の心をさとりて申す念佛にもあらす。
たた往生極樂のためには、南無阿彌陀佛と申して、うたかひなく往生するそとおもひとりて、申すほかには別の子細候はす。たたし三心四種なと申す事の候は、みな决定して、南無阿彌陀佛にて往生するそと思うちにこもり候なり。
このほかにおくふかき事を存せは、二尊の御あはれみにはつれ、本願にもれ候へし。念佛を信せん人は、たとひ一代の御のりをよくよく學すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともからにおなしくして、智者のふるまひをせすしてたた一向に念佛すへし
これは御自筆の書なり、勢觀聖人にさづけられき

往生大要抄

この法語は、浄土門が聖道門と違いを説明し、浄土の安心とは何かということを説明する。信心とは、「心のぞみぞみと身のけもいよだち、なみたもおつるをのみ信のおこると申すはひが事」であるとし、疑いを除くことが信心であるとする。また、法滅以後も百年存続し続ける『無量寿経』が根拠になっているのだから、三心を備えひたすらに称名念仏すべきであると説いている。

往生大要抄

いまわか淨土宗には、二門をたてて釋迦一代の説敎をおさむるなり。いはゆる聖道門、淨土門なり。はしめ『花嚴」『阿含」より、をはり『法花』『涅槃』にいたるまで、大小乘の一切の諸經にとくところの、この娑婆世界にありなから、斷迷開悟のみちを、聖道門とは申すなり。是につきて大乘の聖道あり、小乘の聖道あり。大乘に二あり、即佛乘と、菩薩乘と也。小乘に二あり、即聲聞と、縁覺との二乘なり。これをすへて四乘となつく。佛乘とは即身成佛の敎なり。眞言・達磨・天台・花嚴等の四宗にあかすところなり。すなはち眞言宗には、父母所生身速證大覺位{菩提心論}と申して、この身なから、大日如來のくらいにのほるとならふ也。
佛心宗には、前佛後佛以心傳心とならひて、たたちに人の心をさしてほとけと申なり。かるがゆへに即心是佛の法となつけて、成佛とは申さぬなり。この法は釋尊入滅の時『涅槃經』をときをはりてのち、たた一偈をもちて迦葉尊者に付囑し給へる法なり。
天台宗には、「煩惱即菩提、生死即涅槃」と觀して、觀心にてほとけになるとならふ也。八歳の龍女か南方無垢世界にして、すみやかに正覺をなりしその證なり。
花嚴宗には、「初發心時便成正覺」とて、また即身成佛とならふなり。これらの宗にはみな即身頓證のむねをのぶれは、佛乘となつくる也。つきに菩薩乘といは、歷劫修行成佛の敎なり、三論・法相の二宗にならふところなり。すなはち三論宗には、八不中道の無相の觀に住して、しかも心には四弘誓願ををこし、身には六波羅蜜を行して、三阿僧祇に菩薩の行を修してのち、ほとけになると申す也。
法相宗には、五重唯識の觀に住して、しかも四弘ををこし、六度を行して三祇劫をへて、佛になると申す也。これらを菩薩乘となつく。つきに縁覺乘といは、飛花落葉を見て、ひとり諸法の無常をさとり、あるひは十二因縁を觀して、ときは四生、をそきは百劫にさとりをひらくなり。
つきに聲聞乘といは、はしめ不淨・數息を觀するより、をはり四諦の觀にいたるまて、ときは三生、をそきは六十劫に、四向三果のくらゐをへて、大阿羅漢の極位にいたる也。此二乘の道は、成實・倶舍の兩宗にならふところ也。又聲聞につきて戒行をそなふべし。比丘は二百五十戒を受持し、比丘尼は五百戒を受持するなり。これを五篇七聚の戒となつくる也。又沙彌・沙彌尼の十戒式、式沙摩尼の六法、優婆塞・優婆夷の五戒みなこれ律宗の中にあかすところ也。
をよそこの四乘の聖道は大小乘をえらはず、われらか身にたへ、時にかなひたる事にてはなき也。もし聲聞のみちにをもむかは、二百五十戒たもちかたく、苦・集・滅・道の觀成しかたし。もし縁覺の觀をもとむとも、飛花落葉のさとり、十二因縁の觀、ともに心もをよばぬ事也。又菩薩の行にをゐては、三聚・十重の戒發得しかたく、四弘・六度の願行成就しかたし。されは身子は六十劫まて修行して、乞眼の惡縁にあひて、たちまちに菩薩の廣大の心をひるかへしき、いはんや末法のこのころをや、下根のわれらをや。たとひ即身頓證の理を觀すとも、眞言の入我我入、阿字本不生の觀、天台の三觀・六即・中道。實相の觀、花嚴宗の法界唯心の觀、佛心宗の即心是佛の觀。理はふかく、解はあさし。
かるかゆへに末代の行者その證をうることきはめてかたし。このゆへに道綽禪師は「聖道の一種は今の時は證しかたし」とのたまへり。すなはち『大集月藏經』をひきて、そのありさまをあかせり。こまかにのふるにをよはず。

つきに淨土門は、まづこの娑婆世界をいとひすてて、いそぎてかの極樂淨土にむまれて、かのくににして佛道を行する也。しかれはかつかつ淨土にいたるまての願行をたてて、往生をとぐへき也。
かの國にむまるる事は、すべて機の善惡をえらはす、たたほとけのちかひを信し、信せさるによる。五逆・十惡をつくれるものも、たた一念十念に往生するは、すなはちこのことはり也。このゆへに道綽は、「たた淨土の一門のみありて、通入すべきみちなり」と釋し給へり。
通しているべしといふにつきて、わたくしに意うるに二つの心あるべし。一にはひろく通し、二にはとをく通す。ひろく通ずといは、五逆の罪人をあけてなを往生の機におさむ、いはんや餘の輕罪をや、いかにいはんや善人をやと意えつれは、往生のうつはものにきらはるるものなし。かるかゆへにひろく通すといふ也。とをく通すとい☆、末法萬年ののち法滅百歳まて、この敎ととまりて、その時ききて、一念するみな往生すといへり、いはんや末法のなかをや、いかにいはんや正法・像法をやと意えつれは、往生の時にもるる世なし。かるがゆへにとをく通すといふなり。
しかれはこのころ生死をはなれんとおもはんものは、難證の聖道をすてて、易往の淨土をねかふへき也。又この聖道淨土をは、難行道・易行道となつけたり。たとへをとりてこれをいふに、難行道とは、さかしきみちをかちよりゆかんかことし。易行道とは、海路をふねよりゆくかことしといへり。しかるに目しゐ足なえたらんものは、陸地にはむかふへがらず、たたふねにのりてのみ、むかひのきしにはつくへきなり。しかるにこのころのわれらは、智惠のまなこしゐ、行法のあしなえたるともから也。
聖道難行のさかしきみちには、すへてのそみをたつべし。たた彌陀本願のふねにのりてのみ、生死のうみをわたりて、極樂のきしにはつくべきなり。いまこのふねといは、すなはち彌陀の本願にたとふる也。其本願といは、四十八願也。そのなかに、第十八の願をもて、衆生の行とさためたるなり。二門の大旨略してかくのことし。聖道の一門をさしをきて、淨土の一門にいらんとおもわん人は、道綽善導の釋をもて、所依の三部經を習ふへきなり。
さきには聖道淨土の二門を分別して、淨土門にいるべきむねを申ひらきつ。いまは淨土の一門につきて、修行すへきやうを申すへし。

淨土に往生せんとおもはは、心と行とのふたつ相應すへきなり。かるかゆへに善導の釋に、「たたしその行のみあるは、行すなはちひとりにして、またいたるところなし。たたその願のみあるは、願すなはちむなしくして、またいたるところなし。かならす願と行とあひたすけて、なすところみな剋すといへり。をよそ往生のみにかきらず、聖道門の得道をもとめんにも心と行とを具すへし」といへり。發心修行となづくるこれなり。
今此淨土宗に善導のこときは、安心起行となつけたり。まづその安心といは、『觀無量壽經』にといていはく、若衆生ありてかのくににむまれむとねかはんものは、三種の心ををこして即往生すへし。なにをか三とする、一には至誠心、二には深心、三には迥向發願心也。三心を具するものはかならすかのくににむまるといへり。善導和尚の『觀經の疏』、ならひに『往生禮讃』の序に、此三心を釋し給へり。

一に至誠心といは、まづ『往生禮讃』の文をいださは、一には至誠心。いはゆる身業にかのほとけを禮拜せんにも、口業にかのほとけを讃嘆稱揚せんにも、意業にかの佛を專念觀察せんにも、をよそ三業ををこすには、かならず眞實をもちゐよ。かるがゆへに至誠心となつくといへり。
つぎに『觀經の疏』の文をいたさは、一に至誠心といは、至といは、眞也。誠といは、實なり。一切衆生の身口意業の所作の解行、かならず眞實心の中になすべき事をあかさんとおもふ。外には賢善精進の相を現して、内には虚假をいだく事なかれ。善の三業ををこすはかならず眞實心の中になすべし。内外明闇をえらはず、みな眞實をもちひよといへり。
此二つの釋を、わたくしに料簡するに、至誠心といは、眞實の心なり。その眞實といは、内外相應の心也。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なく、まことをあらはす也。しかるを人つねに、この至誠心を、熾盛心と意得て、勇猛強盛の心ををこすを、至誠心と申すは、此釋の心にはたかふ也。文字もかはり、意もかはりたるものを、されはとてその猛利の心は、すへて至誠心をそむくと申にはあらず。それは至誠心のうへの、熾盛心にてこそあれ。眞實の至誠心を地にして、熾盛なるはすぐれ、熾盛ならぬはおとるにてある也。是につきて九品の差別まてもこころうべき也。
されは善導の『觀經の疏』に九品の文を釋する下に、一一の品ことに、「辨定三心以爲正因」とさためて、「此三心は九品に通すべし」と釋し給へり。惠心も是をひきて、「禪師の釋のこときは、理九品に通すへし」とこそはしるされたれ。此三心の中の至誠心なれは、至誠心すなはち九品に通すへき也。又至誠心は、深心と廻向發願心とを體とす。この二をはなれては、なにによりてか、至誠心をあらはすへき。ひろくほかをたつぬへきにあらす。深心も廻向發願心もまことなるを至誠心とはなつくる也。
三心すてに九品に通すへしと意えてのうへには、その差別のあるやうをこころうるに、三心の淺深強弱によるへき也。かるかゆへに上品上生には、『經』{観経}に、「精進勇猛なかるかゆへに」ととき、『釋』{玄義分}には「日數すくなしといへとも、作業はげしきかゆへに」といへり。又上品中生をは、「行業ややよはくして」と釋し、上品下生をは、「行業こわからす」なと釋せられたれは、三心につきて、こわきもよはきもあるへしとこそこころえられたれ。よはき三心具足したん人は、くらゐこそさからんすれ、なを往生はうたかふべからさる也。
それに強盛の心ををこさすは、至誠心かけて、ながく往生すへからすと意えて、みだりに身をもくだし、あまさへ人をもかろしむる人ひとの不便におぼゆる也。
さらなり強盛の心のをこらんはめてたき事なり。『善導の十德』{漢語灯録巻九}の中に、はしめの至誠念佛の德をいだすにも、「一心に念佛してちからのつくるにあらさればやまず、乃至寒冷にもまたあせをなかす、この相狀をもて至誠をあらはす」なとあるなれは、たれたれもさこそははけむへけれ。たたしこの定なるをのみ至誠心と意えて、是にたがわんをは至誠心かけたりといはんには、善導のことく至誠心至極して、勇猛ならん人はかりぞ往生はとぐへき。われらかこときの尫弱の心にては、いかか往生すべきと臆せられぬへき也。 かれは別して善導一人の德をほむるにてこそあれ、これは通して一切衆生の往生を决するにてあれは、たくらふべくもなき事也。所詮はたたわれらかこときの凡夫、をのをの分につけて、強弱の眞實の心ををこすを至誠心となづけたるとこそ、善導の釋の意は見えたれ。

文につきてこまかに意うれは、外には賢善精進の相を現し、内には虚假をいたくことなかれといふは内には愚にして、外には賢相を現し、内には惡をのみつくりて、外には善人の相を現し、うちには懈怠にして、ほかには精進の相を現するを、虚假とは申す也。
外相の善惡をはかへりみず、世間の謗譽をはわきまへず、内心に穢土をもいとひ淨土をもねかひ、惡をもととめ、善をも修して、まめやかに佛の意にかなはん事をおもふを、眞實とは申也。
眞實は虚假に對することは也。眞と假と對し、虚と實と對するゆへなり。この眞實虚假につきてくはしく分別するに、四句の差別あるべし。
一には外をかさりて内にはむなしき人。二には外をもかさらす内もむなしき人。三には外はむなしく見えて内はまことある人。四には外にもまことをあらはし内にもまことある人。かくのこときの四人の中には、前の二人をはともに虚假の行者といふへし。
後の二人をはともに眞實の行者といふべし。しかれはたた外相の賢愚・善惡をはえらはす、内心の邪正・迷悟によるへき也。をよそこの眞實の心は、人ことに具しかたく、事にふれてかけやすき心ばへなり。をろかにはかなしといましめられたるやうもあることはり也。無始よりこのかた今身にいたるまて、おもひならはして、さしもひさしく心をはなれぬ名利の煩惱なれは、たたんとするにやすらかに離かたきなりけりと、おもひゆるさるかたもあれとも、又ゆるしはんへるへき事ならねは、わか心をかへりみて、誡なをすへき事なり。しかるにわか心の程もおもひしられ、人のうへをも見るに、この人目をかさる心はへの、いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、返かえす心うくかなしくおぼゆれ。この世はかりをふかく執する人は、たたまなこのまへのほまれ、むなしき名をもあげんとおもはんをは、いふにたらぬ事にてをきつ、うき世をそむきて、まことのみちにをもむきたる人ひとの中にも、かへりてはかなくよしなき事かなとおほゆる事もある也。
むかしこの世を執する心のふかかりしなこりにて、ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、ありかたくいみじき事におもひて、やかてそれを、この世さまにも心のいろのうるさきにとりなしてさとりあさき世間の人の、心のそこをはしらす、うへにあらはるるすがた事がらばかりを、たとかりいみしかるをのみ本意におもひて、ふかき山路をたつね、幽なるすみかをしむるまても、ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、をのつからたづねきたらん人、もしはつたへきかん人のおもはん事をのみさきだてて、まがきのうち庭のこだち、菴室のしつらひ、道塲の莊嚴なと、たとくめてたく、心ぼそく物あはれならむ事がらをのみ、ひきかまへんと執するほとに、罪の事も、ほとけのおほしめさん事をもかへりみす、人のそしりにならぬ樣をのみおもひいとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、まことしく往生をねがふへきかたをは思もいれぬ事なとのあるが、やかて至誠心かけて、往生せぬ心ばへにてある也。 又世をそむきたる人こそ、中なかひじり名聞もありてさやうにもあれ、世にありながら往生をねかはん人は、此心は何ゆへにかあるへきと申す人のあるは、なをこまやかに心えざる也。世のほまれをおもひ、人めをかざる心はなに事にもわたる事なれは、ゆめまほろしの榮花重職をおもふのみにはかきらぬ事にてある也。
中なか在家の男女の身にて後世をおもひたるをは、心ある事のいみしくありかたきとこそは人も申す事なれは、それにつけて、外をかざりて人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるへくもなし。まして世をすてたる人なとにむかひては、さなからん心をも、あはれをしりかほにあひしらはんために、後世のおそろしさ、此世のいとはしさなんとは申すへきぞかし。

又か樣に申せは、ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、人のそしりをもかへりみす、ほかをかさらねはとて、心のままにふるまふがよきと申すにてはなきなり。菩薩の譏嫌戒とて、人のそしりになりぬへき事をばなせそとこそいましめられたれ。さればはうにまかせてふるまへは、放逸とてわろき事にてあるなり。それに時にのぞみたる譏嫌戒のためはかりに、いささか人めをつつむかたは、わさともさこそあるへき事を、人目をのみ執してまことのかたをもかへり見す、往生のさはりになるまでに、ひきなさるる事の返かえすもくちおしき也。譏嫌戒となづけて、やかて虚假になる事もありぬへし。眞實といひなして、あまり放逸なる事もありぬべし。これをかまへてかまへて、よくよく意えとくへし、詞なをたらぬ心ちする也。

又此眞實につきて、自利の眞實、利他の眞實あり。又三界六道の自他の依正をいとひすてて、かろしめいやしめんにも、阿彌陀佛の依正二報を、禮拜・讃嘆・憶念せんにも、をよそ厭離穢土・欣求淨土の三業にわたりて、みな眞實なるへきむね、疏の文につぶさ也。その文しげくして、ことことく出すことあたはず、至誠心のありさま略してかくのことし

二に深心といは、まづ『禮讃』の文にいはく、「二者深心、すなはち眞實の信心なり。自身は是煩惱を具足せる凡夫なり。善根薄少にして、三界に流轉して、火宅をいてすと信知して、いま彌陀の本弘誓願の名號を穪する事。しも十聲・一聲にいたるまて、さためて往生する事をうと信知して、乃至一念もうたかふ心ある事なかれ。かるかゆへに深心となつく」といへり。
次に『觀經の疏』の文にいはく、「二に深心といは、すなはちこれ深信の心なり。又二種あり。一には决定して、ふかく自身は現に是罪惡生死の凡夫也、曠劫より此かた常沒常流轉して、出離の縁ある事なしと信せよ。
二には决定してふかく彼阿彌陀佛の四十八願をもて、衆生を攝受し給ふ事うたかひなくおもんはかりなけれは、かの願力に乘して、さためて往生する事をうと信し。又决定してふかく釋迦佛、この觀經の三福・九品・定散二善をときて、かのほとけの依正二報を證讃して、人をして欣慕せしめ給ふ事を信し、又决定してふかく彌陀經の中に、十方恒沙の諸佛の、一切の凡夫决定してむまるる事をうと證勸し給へり。ねかはくは一切の行者、一心にたた佛語を信して身命をかへりみす、决定して依行じて、佛の捨しめ給はん事をは即すて、ほとけの行せしめ給はん事をは即行し、ほとけの去しめ給はんところをは即され。これを佛敎に隨順し、佛意に隨順すとなづけ、これを眞の佛弟子となつく。又深心を深信といは、决定して自心を建立して、敎に順して修行して、なかく疑錯をのぞきて、一切の別解・別行、異學・異見・異執のために、退失し傾動せられされ」といへり。

わたくしに此二つの釋を見るに、文に廣略あり、言に同異ありといへともまづ二種の信心をたつる事は、そのおもむきこれひとつなり。すなはち二の信心といは、はしめにわか身は煩惱罪惡の凡夫也、火宅をいです、出離の縁なしと信せよといひ。つきには决定往生すへき身なりと信して一念もうたかふへからす、人にもいひさまたけらるへからずなといへる。前後のこと葉相違して、意得がたきに似たれとも、心をととめて是を案するにはしめにはわが身のほとを信じ、のちにはほとけの願を信する也。
たたしのちの信心を决定せしめんかために、はしめの信心をばあくる也。そのゆへは、もし初のわか身を信する樣をあげすして、たたちに後のほとけのちかひばかりを信すへきむねをいだしたらましかは、もろもろの往生をねかはん人、雜行を修して本願をたのまざらんをはしはらくをく。
まさしく彌陀の本願の念佛を修しなからも、なを心にもし貪欲・瞋恚の煩惱をもをこし、身にをのつから十惡・破戒等の罪業をもをかす事あらは、みたりに自身を怯弱して、返りて本願を疑惑しなまし。まことに此彌陀の本願に、十聲・一聲にいたるまて往生すといふ事は、おほろけの人にてはあらじ。妄念をもをこさす、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりををこし、強盛の心をもちて申したる念佛にてぞあるらん。われらごときのえせものともの、一念十念にてはよもあらじとこそおほえんもにくからぬ事也。
是は善導和尚は、未來の衆生このうたかひををこさん事をかへりみて、此二種の信心をあげて、われらがごとき煩惱をも斷ぜす、罪惡をもつくれる凡夫なりとも、ふかく彌陀の本願を信して念佛すれは、十聲・一聲にいたるまて决定して往生するむねをは釋し給へる也、
かくだに釋し給はさらましかは、われらが往生は不定にそおほえまし、あやうくおほゆるにつけても、此釋の、ことに心にそみておほえはんへる也。
されは此義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をはうたかはねとも、わか心のわろけれは往生はかなはしと申あひたるが、やがて本願をうたがふにて侍るなり。さやうに申したちなは、いかほとまでか佛の本願にかなはず、さほとの心こそ本願にはかなひたれとはしり侍るへき。それをわきまへさらんにとりては、煩惱を斷ぜさらんほとは、心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、いまは往生してんとおもひたつ世はあるまし、又煩惱を斷してそ、往生はすべきと申すになりなば、凡夫の往生といふ事はみなやふれなん。すでに彌陀の本願力といふとも、煩惱罪惡の凡夫をは、いかてかたすけ給ふべき。えむかへ給はじ物をなんと申すになるぞかし。佛の御ちからをばいかほどどしるぞ。それにすぎてほとけの願をうたがふ事はいかかあるべき。
又ほとけにたちあひまいらするとかありなんと申すへき事にてこそあれ。すべてわか心の善惡をはからひて佛の願にかなひかなはざるを意得あはせん事は、佛智ならてはかなふまじき事也。されは善導は『觀經の疏』の一のまき{玄義分}に、弘願を釋するに、「一切善惡の凡夫むまるることをうる事は、阿彌陀佛の大願業力に乘して增上縁とせずといふ事なし」といひをきて、「ほとけの密意弘深にして敎門さとりかたし、三賢十聖もはかりてうかがふところにあらず。いはんやわれ信外の輕毛なり、あへて旨趣を知んや」とこそは釋し給ひたれば、善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、いかてかほとけの御意をしるべきとこそは、おほせられたれば、ましてわれらが解にて、ほとけの本願をはからひしる事は、ゆめゆめおもひよるましき事也。

たた心の善惡をもかへりみす、罪の輕重をもわきまへす、意に往生せんとをもひて口に南無阿彌陀佛ととなへは、こえについて决定往生のをもひをなすへし。その决定によりて、すなはち往生の業はさたまる也。かく意えつれはやすき也。往生は不定にをもへはやかて不定なり、一定とをもへはやかて一定する事なり。
所詮は深信といは、かの佛の本願は、いかなる罪人をもすてす、たた名號をとなふる事一聲まてに、决定して往生すと、ふかくたのみて、すこしのうたがひもなきを申す也。
『觀經』の下品下生を見るに、十惡・五逆の罪人も、一念・十念に往生すととかれたり。「十惡・五逆等貪瞋、四重・偸僧・謗正法、未曾慚愧悔前」{礼讃}といへるは、在生の時の惡業をあかす。「忽遇往生善知識急勸專稱彼佛名化佛菩薩尋聲到一念傾心入寳蓮」{礼讃}といへるは、臨終の時の行相をあかす也。 又『雙卷經』のおくに、「三寶滅盡の後の衆生、乃至一念に往生す」ととかれたり。善導釋していはく、「万年三寶滅、此經住百年、爾時聞一念、皆當得生彼」といへり。
此二つの意をもて、彌陀の本願のひろく攝し、とをくをよふほとをはしるへき也。重をあげて輕をおさめ、惡人をあけて善人をおさめ、遠きをあけて近きをおさめ、後をあけて前をおさむるなるへし。まことに大悲誓願の深廣なる事たやすく言をもてのふへからす、心をととめておもふへき也。抑此ころ末法にいれりといへとも、いまた百年にみたず。われら罪業をもしといへとも、いまた五逆をつくらす。しかれははるかに百年法滅ののちをすくひ給へり。いはんや此ころをや。ひろく五逆極重のつみをすて給はす。いはんや十惡のわれらをや。たた三心を具して、もはら名號を稱すへし。たとひ一念といふともみだりに本願をうたかふ事なかれ。たたしかやうのことはりを申つれはつみをもすて給はねは、心にまかせてつみをつくらんもくるしかるまし、又一念にも一定往生すなれは、念佛はおほく申さずともありなんと、あしく意うる人のいできてつみをはゆるし、念佛をは制するやうに申しなすが、返返もあさましく候也。
惡をすすめ善をととむる佛法はいかかあるへき。されは善導は、「貪瞋煩惱をきたしましへざれ」といましめ、又「念念相續していのちのをはらんを期とせよ」とをしへ、又「日所作は五万六万乃至十万」なととこそすすめ給ひたれ。
たたこれは大悲本願の一切を攝するなを十惡・五逆をももらさす、稱名念佛の餘行にすぐれたる、すてに一念十念にあらはれたるむねを信せよと申すにてこそあれ。かやうの事はあしく意うれは、いつかたもひが事になる也。つよく信ずるかたをすすむれは邪見ををこし、邪見ををこさせしとこしらふれは、信心つよからすなるが術なき事にて侍る也。かやうの分別は、此ついてには事ながければ起行の下にてこまかに申ひらくべし。

又ひくところの『疏』の文を見るに、後の信心につゐて二つの心あり。即佛につゐてふかく信し、經につゐてふかく信すべきむねを釋し給へるにやと意得らるる也。まづほとけにつゐて信すといは、一には彌陀の本願を信し、二には釋迦の所説を信し、三には十方恒沙の證勸を信すへき也。經につゐて信すといは、一には『無量壽經』を信し、二には『觀經』を信し、三には『阿彌陀經』を信するなり。すなはちはしめに「决定してふかく阿彌陀佛の四十八願」といへる文は、彌陀を信し、又『無量壽經』を信する也。つきに「又决定してふかく釋迦佛の觀經」といへる文は、釋迦を信し、『觀經』を信するなり。つきに「决定してふかく彌陀經の中」といへる文は、十方諸佛を信し、又『阿彌陀經』を信する也。又つきの文に、「佛の捨しめ給はんをはすてよ」といふは、雜修雜行なり。「ほとけの行せしめ給はん事をは行せよ」といふは、專修正行也。「ほとけの去しめたまはん事をはされ」といふは、異學・異解・雜縁亂動の處なり。
善導の、「みつからもさへ他の往生の正行をもさふ」と釋し給へる事、まことにをそるべき物なり。又「佛敎に隨順す」といは、釋迦の御をしへにしたかひ、「佛願に隨順す」といは、彌陀の願にしたかふ也。「佛意に隨順」すといは、二尊の御意にかなふなり。いまの文の意はさきの文に、「三部經を信すべし」といへるにたかはす、詮してはたた雜修をすてて、專修を行するが、ほとけの御意にかなふとこそはきこえたれ。
又つきの文に、「別解別行のためにやぶられされ」といふは、解異に行異ならん人の、難じやふらんにつゐて、念佛をもすて、往生をもうたかふ事なかれと申す也。さとりことなる人と申すは、天台・法相等の諸宗の學生これなり。行ことなる人と申すは、眞言止觀等の一切の行者是なり。これらはみな聖道門の解行也。淨土門の解行にことなるかゆへに、別解・別行とはなつけたり。かくのこときの人に、いひやぶらるましきことはりは、此文のつぎにこまかに釋し給へり。
すなはち人につきて信をたて、行につきて信をたつといふ二の信をあげたり。はしめの人につきて信をたつといへるこれなり。その文廣博にしてつふさに出すことあたはす。しかれともその義至要にしてまたすてがたきによりて、ことはを畧し意をとりてそのをもむきをあかさは、「解行不同の人ありて、經論の證據ををひきて、一切の凡夫往生することをえすといはは、すなはちこたえていへ。なんぢかひくところの經論を信せさるにはあらす。みなことことくあふひて信すといへとも、さらになんぢか破をはうけず。そのゆへは、なんぢかひくところの經論と、わか信するところの經論と、すてに各別の法門なり。ほとけこの觀經・彌陀經等をとき給ふ事、時も別にところも別に對機も別に利益も別なり。佛の説敎は、機にしたかひ、時にしたかひて不同なり。かれは通して人天・菩薩の解行をとき、是は別して往生淨土の解行をとく。即佛の滅後の、五濁極增の一切の凡夫、决定して往生する事をうととき給へり。われいま一心に此佛敎によりて、决定して奉行す。たとひなんぢ百千万億ありてむまれずといふとも、たたわか往生の信心を增長し成就せんとこたへよ」といへり。「又行者さらに難破の人にむかひてときていへ。なんちよくきけ、われいまなんちかために、さらに决定の信相をとかん」といひて、はしめは地前菩薩及羅漢・辟支佛等より、をはり化佛・報佛までたてあけて、たとひ化佛報佛十方にみちみちて、をのをのひかりをかがやかし、したをいだして十方におほひて、一切の凡夫念佛して一定往生すといふ事は、ひが事なり信すへからすとの給はんに、われこれらの諸佛の所説をきくとも、一念も疑退の心ををこして、かの國にむまるる事をえさらん事ををそれじ。なにをもてのゆへにとならは、一佛は一切佛也、大悲等同にしてすこしの差別なし。同體の大悲のゆへに。一佛の所説はすなはち是一切佛の化なり。ここをもてまづ彌陀如來、稱我名號下至十聲若不生者不取正覺と願して、その願成就してすてに佛になり給へり。又釋迦如來は、この五濁惡世にして、惡衆生・惡見・惡煩惱・惡邪・無信さかりなる時、彌陀の名號をほめ、衆生を勸勵して稱念すれはかならず往生する事をうととき給へり。又十方の諸佛は、衆生の釋迦一佛の所説を信せさらん事ををそれて、すなはちともに同心同時にをのをの舌相を出して、あまねく三千世界におほひて、誠實のことはをとき給ふ。なんだち衆生、みな釋迦の所説・所讃・所證を信すべし。一切の凡夫罪福の多少時節の久近をとはす、たたよく上は百年をつくし、下は一日七日十聲一聲にいたるまで、心をひとつにしてもはら彌陀の名號を念すれは、さためて往生する事をうといふ事を信すへし。かならすうたかふことなかれと證誠し給へり。かるがゆへに人につゐて信をたつ」といへり。かくのこときの、一切諸佛の、一佛ものこらず同心に、あるひは願ををこし、あるひはその願をとき、あるひはその説を證して、一切の凡夫念佛して决定往生すへきむねをすすめ給へるうへには、いかなるほとけの又きたりて往生すへらすとはの給ふべきぞといふことはりをもて、ほとけきたりての給ふともおとろくへからすとは信する也。
ほとけなをしかり、いはんや地前・地上の菩薩をや、いはんや小乘の羅漢をやと意えつれは、まして凡夫のとかく申さんによりて、一念もうたかひおとろく心あるへからすとは申なり。

おほかた此信心の樣を、人の意えわかぬとおほゆる也。心のぞみぞみと身のけもいよだち、なみたもおつるをのみ信のおこると申すはひが事にてある也。それは歡喜・隨喜・悲喜とぞ申へき。信といはうたかひに對する意にて、うたかひをのぞくを信とは申すへき也。みる事につけても、きく事につけても、その事一定さぞとおもひとりつる事は、人いかに申せとも、不定におもひなす事はなきぞかし。これをこそ物を信するとは申せ。
その信のうへに歡喜・隨喜なともをこらんは、すぐれたるにてこそあるへけれ。たとへはとしころ心のほとをもみとりて、そら事せぬたしかならん人そとたのみたらん人の、さまさまにおそろしき誓言をたて、なをさりならすねんころにちきりをきたる事のあらんを、ふかくたのみてわすれすたもちて、心のそこにふかくたくはへたらんに、いと心の程もしらざらん人のそれなたのみそ、そら事をするそとさまさまにいひさまたげんにつきて、すこしもかはる心はあまるしきぞかし。
それがやうに彌陀の本願をもふかく信して、いひやふらるへからす。いはんや一代の敎主も付囑し給へるをや。いはんや十方の諸佛も證誠し給へるをやと意うへきにや。まことにことはりをききひらかざらんほとこそあらめ。
ひとたひも是をききて信ををこしてんのちは、いかなる人とかくいふとも、なにかはみたるる心あるへきとこそはおほえ候へ。

つきに行につゐて信をたつといふは、即行に二つあり。一には正行、二には雜行なりといへり。此二行につゐて、あるひは行相、あるひは得失、文ひろく義おほしといへとも、しはらく略を存す。つふさには下の起行の中にあかすへし。深心の大要をとるに是にあり。


この文に下卷あるへしとみゆるが、いつくにかくれて侍るにか、いまたたつねえず、もしたつねうる人あらはこれにつけ。

黑谷上人語燈錄卷第十一

黑谷上人語燈錄第十二

黑谷上人語燈錄卷第十二 厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之二{當卷有五章}

念佛往生要義抄 第四
三心義 第五
七箇條起請文 第六
念佛大意 第七
淨土宗畧抄 第八

念佛往生要義抄

この法語は念仏の教えに関する様々な疑問を問答形式で明らかにする。阿弥陀如来の光明に摂取されるのは、臨終の時ではなく平生の時であり、平生の時から臨終の時まで光明が照らしていることが明らかにされている。

念佛往生要義抄

それ念佛往生は、十惡五逆をえらはす、迎接するに十聲一聲をもてす、聖道諸宗の成佛は、上根上智をもととするゆへに、聲聞・菩薩を機とす。しかるに世すてに末法になり、人みな惡人なり。はやく修しかたき敎を學せんよりは、行じやすき彌陀の名號をとなへて、このたび生死の家をいつへき也。ただしいづれの經論も、釋尊のときをき給へる經敎なり。しかれば法華涅槃等の大乘經を修行して、ほとけになるになにのかたき事かあらん。それにとりてことに『法華經』は三世の諸佛もこの經によりてほとけになり。十方の如來もこの經によりて正覺をなり給ふ。
しかるに『法華經』なとをよみたてまつらんに、なにの不足かあらん。かやうに申す日はまことにさるへき事なれとも、われらか器量はこの敎にをよばさるなり。そのゆへは、法華には菩薩・聲聞を機とするゆへに、われら凡夫はかなふへからすとおもふへき也。
しかるに阿彌陀ほとけの本願は、末代のわれらかためにをこし給へる願なれは、利益いまの時に决定往生すへき也。わか身は女人なれはとおもふ事なく、わか身は煩惱惡業の身なれはといふ事なかれ。もとより阿彌陀佛は罪惡深重の衆生の、三世の諸佛も十方の如來もすてさせ給ひたるわれらをむかへんと、ちかひ給ひける願にあひたてまつれり。往生うたかひなし
とふかくをもひいれて、南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛と申せは善人も惡人も、男子も女人も、十人は十人なから百人は百人なから、みな往生をとくる也

問ていはく、稱名念佛申す人はみな往生すへしや

答ていはく、凡念佛に他力の念佛あり、自力の念佛あり。他力の念佛は往生すへし、自力の念佛は本より往生の志しにて申念佛にあらされば、またく往生すべからず。

問ていはく、その他力の樣いかむ

答ていはく、ただひとすぢに佛の本願を信し、わが身の善惡をかへり見ず、决定往生せんとをもひて申すを、他力の念佛といふ。たとへは騏麟の尾につきたる蠅の、ひとはねに千里をかけり、輪王の御ゆきにあひぬる卑夫の、一日に四天下をめくるがごとし。これを他力と申す也。
又巨なる石をふねにいれつれは、時のほとにむかひのきしにとづくがごとし。これはまたく石のちからにあらず、ふねのちからなり。それがやうにわれらがちからにてはなし、阿彌陀ほとけの御ちから也。これすなはち他力なり

問ていはく、自力といふはいかん

答ていはく、煩惱具足してわろき身をもて、煩惱を斷し、さとりをあらはして、成佛すと意えて、晝夜にはけめとも、無始より貪瞋具足の身なるがゆへに、ながく煩惱を斷する事かたきなり。かく斷しがたき無明煩惱を、三毒具足の心にて斷せんとする事、たとへは須彌を針にてくだき、大海を芥子のひさくにてくみつくさんがことし。たとひはりにて須彌をくだき、芥子のひさくにて大海をくみつくすとも、われらが惡業煩惱の心にては、曠劫多生をふるとも、ほとけにならん事かたし。そのゆへは、念念步步にをもひと思ふ事は、三途八難の業、ねてもさめても案じと案する事は、六趣四生のきづな也。かかる身にては、いかてか修行學道をして成佛はすべきや。このを自力とは申す也

問ていはく、聖人の申す念佛と、在家のものの申す念佛と勝劣いかむ

答ていわく、聖人の念佛と世間者の念佛と、功德ひとしくして、またくかはりめあるへからす

疑ていはく、この條なを不審也。そのゆへは、女人にもちかづかす、不淨の食もせずして、申さん念佛はたとかるへし。朝夕に女境にむつれ、酒をのみ不淨食をして申さん念佛は、さためておとるへし功德いかてかひとしかるへきや

答ていはく、功德ひとしくして勝劣あるへからず。そのゆへは、阿彌陀佛の本願のゆへをしらさるものの、かかるおかしきうたがひをはするなり。しかるゆへは、むかし阿彌陀佛、二百一十億の諸佛の淨土の、莊嚴寶樂等の誓願利益にいたるまて、世自在王佛の御まへにしてこれを見給ふに、われらごときの妄想顚倒の凡夫の淨土にむまるへき法のなき也。されは善導和尚釋していはく、「一切佛土皆嚴淨 凡夫亂想恐難生」{法事讃}といへり。この文の心は一切の佛土はたへなれとも亂想の凡夫はむまるる事なしと釋し給ふ也。をのをのの御身をはからひて御らんずべきなり。そのゆへは、口には經をよみ、身には佛を禮拜すれとも、心には思はし事のみおもはれて、一時もととまる事なし。しかれは我らか身をもて、いかてか生死をはなるべき。かかりけるほどに曠劫よりこのかた三途八難をすみかとして、烔燃猛火に身をこがしていづる期なかりける也。かなしきかなや、善心はとしとしにしたかひてうすくなり、惡心は日日にしたかひていよいよまさる。
されば古人のいへる事あり、「煩惱は身にそへる影、さらむとすれともさらす、菩提は水にうかへる月、とらむとすれともとられす」と。このゆへに阿彌佛ほとけ、五劫に思惟してたて給ひし、深重の本願と申すは、善惡をへたてず、持戒・破戒をきらはず、在家・出家をもえらはす、有智・無智をも論せず、平等の大悲ををこしてほとけになり給ひたれは、ただふかく本願を信して念佛申さは、一念須臾のあたひに、阿彌陀ほとけの來迎にあづかるへき也。
むまれてよりこのかた女人を目に見ず、酒肉五辛ながく斷して、五戒・十戒等かたくたもちてやむ事なき聖人も、念佛に不足のをもひなして、餘行をましえ申さんにをきては、佛の來迎にあづからん事、千人が中に一人、萬人が中に五三人なとや候はんすらん。それも善導和尚は「千中無一」とをほせられて候へば、いかがあるべく候らんとをほえ候。
をよそ阿彌陀佛の本願と申す事はやうもなく、わか心をすませとにもあらず、不淨の身をきよめよとにもあらず、ただねてもさめても、ひとすぢに御名をとなふる人をは、臨終にはかならずきたりてむかへ給ふなるものをといふ心に住して申せは、一期のをはりには、佛の來迎にあづからん事うたがひあるべからず。わか身は女人なれは、又在家のものなればといふ事なく往生は一定とおほしめすべき也。

問ていはく、心のすむ時の念佛と、妄心の中の念佛と、その勝劣いかむ

答ていはく、その功德ひとしくして、あへて差別なし。

疑ていはく、この條なほ不審なり、そのゆへは、心のすむ時の念佛は、餘念もなく一向極樂世界の事のみ、おもはれ、彌陀の本願のみ案せらるるがゆへに、ましふるものなければ、淸淨の念佛なり。心の散亂する時は、三業不調にして、口には名號をとなへ、手には念珠をまはすばかりにてはこれ不淨の念佛也。いかてかひとしるべき。

答ていはく、このうたかひをなすは、いまた本願のゆへをしらざるなり。阿彌陀佛は惡業の衆生をすくはんために、生死の大海に弘誓のふねをうかへ給へる也。たとへはおもき石、かろきあさからをひとつふねにいれて、むかひのきしにとづくがことし。本願の殊勝なることは、いかなる衆生も、ただ名號をとなふるほかは、別の事なき也

問ていはく、一聲の念佛と、十聲の念佛と、功德の勝劣いかむ

答ていはく、ただおなし事也

疑ていはく、この事又不審なり。そのゆへは、一聲・十聲すてにかずの多少あり、いかてかひとしかるべきや

答一聲・十聲と申す事は最後の時の事なり。死する時一聲申すものも往生す、十聲申すものも往生すといふ事なり。往生だにもひとしくは、功德なんそ劣ならん。本願の文に、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺」 この文の意は、法藏比丘、われほとけになりたらん時、十方の衆生極樂にむまれんとおもひて、南無阿彌陀佛と、もしは十聲、もしは一聲申さん衆生をむかへずは、ほとけにならじとちかひ給ふ。かるかゆへにかずの多少を論せず、往生の得分はをなじき也。本願の文顯然なり、なんぞうたがはんや

問ていはく、最後の念佛と、平生の念佛といつれかすぐれたるや

答ていはく、たたをなじ事也。そのゆへは、平生の念佛、臨終の念佛とてなんのかはりめかあらん。平生の念佛の死ぬれは、臨終の念佛となり、臨終の念佛ののぶれは、平生の念佛となる也

難していはく、最後の一念は百年の業にすくれたりと見えたり、いかむ

答ていはく、このうたがひは、この文をしらさる難なり。いきのとどまる時の一念は、惡業こはくして善業にすぐれたり、善業こはくして惡業にすくれたりといふ事也。ただしこの申す人は念佛者にてはなし、もとより惡人の沙汰をいふ事也。平生より念佛申て往生をねがふ人の事をは、ともかくもさらに沙汰にをよはぬ事也

問ていはく、攝取の益をかうふる事は、平生か臨終か、いかむ

答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心まことにて、わか身をうたがふ事なくて、來迎をまつ人は、この三心具足の念佛申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極樂にうまるといふ事は、『觀經』の説なり。かかる心さしある人を、阿彌陀佛は八萬四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まて捨給はぬなり。かるかゆへに不捨の誓約と申す也。

問ていはく智者の念佛と、愚者の念佛と、いづれも差別なしや

答ていはく、ほとけの本願にとづかは、すこしの差別もなし。そのゆへは阿彌陀佛ほとけになり給はざりしむかし、十方の衆生わか名をとなへは、乃至十聲まてもむかへんと、ちかひをたて給ひけるは、智者をえらひ、愚者をすてんとにはあらす。されは『五會法事讃』にいはく、「不簡多聞持淨戒 不簡破戒罪根深 但使廻心多念佛 能令瓦礫變成金」。この文の意は、智者も愚者も、持戒も破戒も、たた念佛申さは、みな往生すといふ事也。此心に住して、わか身の善惡をかへりみず、ほとけの本願をたのみて念佛申すへき也。此たび輪廻のきづなをはなるる事、念佛にすぎたる事はあるへからず。このかきをきたるものを見て、そしり謗せんともがらも、かならず九品のうてなに縁をむすび、たがひに順逆の縁むなしからずして、一佛淨土のともたらむ。抑機をいへは、五逆重罪をえらはず、女人闡提をもすてす、行をいへは、一念十念をもてす、これによて五障三從をうらむへからず。この願をたのみ、この行をはげむへき也。念佛のちからにあらすは、善人なをむまれかたし、いはんや惡人をや。五念に五障を消し、三念に三從を滅して、一念に臨終の來迎をかうふらんと、行住坐臥に名號をとなふべし、時處諸縁に此願をたのむべし。あなかしこあなかしこ

南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛

三心義

念仏者は三心を備えなければならず、念仏を称えることによって、三心は必然的にそなわることを明らかにし、三心と念仏の相即を説いている

『觀無量壽經』には、若有衆生「願生彼國 發三種心 即便往生 何等爲三 一者至誠心二者深心三者廻向發願心 具三心者必生彼國」といへり。
『禮讃』には、三心を釋しをはりて、「具三心者 必得往生也 若少一心即不得生」といへり。しかれば三心を具すへきなり。一に至誠心といふは、眞實の心なり。身に禮拜を行し、くちに名號をとなへ、心に相好をおもふ、みな眞實をもちひよ。すへてこれをいふに、穢土をいとひ淨土をねかひて、もろもろの行業を修せんもの、みな眞實をもてつとむへし。
是を勤修せんに、ほかには賢善精進の相を現し、うちには愚惡懈怠の心をいだきて修するところの行業は、日夜十二時にひまなく、これを行ずとも往生をえす。ほかには愚惡懈怠のかたちをあらはし、うちには賢善精進のをもひに住してこれを修行するもの、一時一念なりとも、その行むなしからすかならす往生をう。これを至誠心となづく。

二に深心といふは、ふかく信する心なり。是につゐて又二あり。一にはわれはこれ罪惡不善の身、無始よりこのかた六道に輪迴して、出離の縁なしと信し、二には罪人なりといへともほとけの願力をもて強縁として、かならず往生を得と信す。
これにつゐて又二あり。一には人につきて信をたつ。二には行につきて信をたつ。人につきて信をたつといふは、出離生死のみちをほしといへとも、大きにわかちて二あり。一には聖道門、二には淨土門なり。聖道門といふは、此娑婆世界にて煩惱を斷し、菩提を證するみちなり。
淨土門といふは、この娑婆世界をいとひ、かの極樂をねかひて、善根を修する門なり。二門ありいへとも、聖道門をさしをきて淨土門に歸すべし。しかるにもし人ありてをほく經論をひきて、罪惡の凡夫往生する事をえじといはん。このことばをききて退心をなさす、いよいよ信心をますへし。ゆへいかんとなれは、罪障の凡夫の淨土に往生すといふ事は、これ釋尊の誠言也。凡夫の妄執にあらず、われすでに佛の言を信してふかく淨土を欣求す。
たとひ諸佛・菩薩きたりて、罪障の凡夫淨土にむまるへからずとの給ふとも、これを信すへからず。ゆへいかんとなれは、菩薩は佛の弟子なり、もしまことにこれ菩薩ならは、佛説をそむくべからず。しかるにすてに佛説にたがひて、往生をえずとの給ふ、まことの菩薩にあらず。

又佛はこれ同體の大悲なり、まことに佛ならは、釋迦の説にたかふべからず。しかれはすなはち、『阿彌陀經』に、一日七日彌陀の名號を念して、かならすむまるる事をうととけり。これを六方恒沙の諸佛、釋迦佛におなしく、これを證誠し給へり。しかるにいま釋迦の説にそむきて往生せすといふ。かるがゆへにしりぬ。これまことのほとけにあらす。天魔の變化なり、この義をもてのゆへに、佛・菩薩の説なりとも信すへからす。いかにいはんや餘説をや。なんちか執するところの經論大小ことなりといへとも、みな佛果を期する穢土の修行、聖道門の意なり。われらか修するところは、正雜不同なれとも、ともに極樂をねかふ、徃生の行業、淨土門の意なり。
聖道門はこれ汝が有縁の行、淨土門はこれわれらが有縁の行、これをもてかれを難すへからす、かれをもてこれを難すへからず。かくのことく、信ずるものをば、就人立信となづく。

つきに行につきて信をたつといふは、往生極樂の行まちまちなりといへども二種をばいです。一には正行、二には雜行也。正行といふは、阿彌陀佛にをきて、したしき行なり。雜行といふ阿彌陀佛にをきてうとき行なり。まづ正行といふは、是につきて五あり。一にはいはく讀誦、いはゆる三部經をよむなり、二には觀察、いはゆる極樂の依正を觀する也。三には禮拜、いはゆる阿彌陀佛を禮拜する也。四には稱名、いはゆる彌陀の名號を稱する也。五には讃嘆供養、いはゆる阿彌陀佛を讃嘆し供養する也。
この五をもてあはせて二とす。一には一心にもはら彌陀の名號を念して、行住坐臥に時節の久近をとはず、念念にすてざる、これを正定業となづく、かのほとけの願に順するがゆへに、二にはさきの五が中に、第四の稱名をのぞひてほかの禮拜・讀誦等をみな助業となづく。

つきに雜行といふは、さきの五種の正助二業をのぞきて已外の、もろもろの讀誦大乘・發菩提心・持戒・勸進等の一切の行なり。此正雜二行につきて五種の得失あり。一には親疎對、いはゆる正行は阿彌陀佛にしたしく雜行はうとし。二には近遠對、いはゆる正行は阿彌陀佛にちかく、雜行は阿彌陀佛にとをし。三には有間無間對、いはゆる正行はおもひをかくるに無間也。雜行は思をかくるに間斷あり。
四に廻向不廻向對、いはゆる正行は廻向をもちひされともをのつから往生の業となる。雜行は廻向せさる時は往生の業とならす。五には純雜對、いはゆる正行は純極樂の業也。雜行はしからず、十方の淨土乃至人天に通する業也。かくのことく信するを就行立信となつく。

三に廻向發願心といふは、過去をよび今生の身口意業に、修するところの一切の善根を眞實の心をもて極樂に廻向して往生を欣求する也。これを廻向發願心となづく、この三心を具しぬれは。かならす往生する也。

七箇條起請文

念仏者は三心を備えなければならず、念仏を称えることによって、三心は必然的にそなわることを明らかにし、三心と念仏の相即を説いている

をよそ往生淨土の人の要法は。おほしといへとも。淨土宗の大事は。三心の法門にある也。もし三心を具せさるものは。日夜十二時に。かうべの火をはらふがことくにすれとも。つひに往生をえすといへり。 極樂をねがはん人は。いかにもして三心のやうを心えて念佛すへき也。三心といふは。一には至誠心。二には深心。三には廻向發願心なり。

まづ至誠心といふは大師釋しての給はく。至といふは眞也。誠といふは實也といへり。ただ眞實心を。至誠心と善導はおほせられたる也。眞實といふはもろもろの虚假の心のなきをいふ也。虚假といふは。貪瞋等の煩惱ををこして。正念をうしなふを。虚假心と釋する也。す べてもろもろの煩惱のをこる事は。みなもと貪瞋を母として出生するなり。貪といふにつゐて喜足小欲の貪あり。不喜足大欲の貪あり。いま淨土宗に制するところは。不喜足大欲の貪煩惱也。まづ行者かやうの道理を心えて念佛すへき也。これが眞實の念佛にてある也。喜足小欲の貪はくるしからず。瞋煩惱も敬上慈下の心をやふらずして。道理を心えんほと也。癡煩惱といふは。をろかなる心なり。此心をかしこくなすへき也。まづ生死をいとひ淨土をねかひて往生を大事といとなみてもろもろの家業を事とせされは。癡煩惱なき也。少少の癡は往生のさはりにはならず。このほとに心えつれは。貪瞋等の虚假の心はうせて。眞實心はやすくおこる也。これを淨土の菩提心といふなり。詮するところ。生死の報をかろしめ。念佛の一行をはげむがゆへに眞實心とはいふ也。

二に深心といふは。ふかく念佛を信する心なり。ふかく念佛を信すといふは。餘行なく一向に念佛になる也。もし餘行をかぬれは。深心かけたる行者といふ也。 詮するところ。釋迦の淨土三部經はひとへに念佛の一行をとくと心え。彌陀の四十八願は。稱名の一行を本願とすと心えて。ふた心なく念佛するを。深心具足といふなり。

三に廻向發願心といふは。無始よりこのかたの所作のもろもろの善根を。ひとへに往生極樂といのる也。又つねに退する事なく念佛するを。廻向發願心といふなり。これは惠心の御義なり。此心ならは至誠心深心具足してのうへにつねに。念佛の數遍をなすへし。もし念佛退轉せは。廻向發願心かけたるもの也。

淨土宗の人は。三心のやうをよくよく心えて念佛すべき也。三心の中に。ひとつもかけなは往生はかなふまじき也。三心具足しぬれは往生は無下にやすくなるなり。すべてわれらが輪廻生死のふるまひは。ただ貪瞋癡の煩惱の絆によりて也。貪瞋癡をこらは。なを惡趣へゆくへきまとひのをこりたるぞと意えて。是をとどむへき也。しかれともいまだ煩惱具足のわれらなれは。かくは意えたれともつねに煩惱はをこる也。をこれとも煩惱をは心のまらう人とし念佛をは心のあるしとしつれは。あなかちに往生をはさへぬ也。煩惱を心のあるしとして念佛を心のまらう人とする事は。雜毒虚假の善にて往生にはきらはるる也。詮するところ。前念後念のあひたには。煩惱をまじふといふとも。かまへて南無阿彌陀佛の六字の中に。貪 等の煩惱ををこすまじき也

一、
われは阿彌陀佛をこそたのみたれ。念佛をこそ信じたれとて。諸佛菩薩の悲願をかろしめたてまつり。法華般若等の。めてたき經ともを。わろくおもひそしる事はゆめゆめあるへからず。よろづのほとけたちを。そしり。もろもろの聖敎をうたかひそしりたらんずるつみは。まづ阿彌陀佛の御心にかなふまじければ。念佛すとも悲願にもれん事は一定也

一、
つみをつくらじと身をつつしみてよからんとするは。阿彌陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ。又念佛をおほく申さんとて。日日に六萬遍などをくりゐたるは。他力をうたがふにてこそあれといふ事のおほくきこゆる。かやうのひが事ゆめゆめもちふへからずまづいづれのところにか。阿彌陀佛はつみつくれとすすめ給ひける。ひとへにわが身に惡をもとどめえず。つみのみつくりゐたるままに。かかるゆくゑほとりもなき虚言をたくみいだして。物もしらぬ男女のともからを。すかしほらかして。罪業をすすめ。煩惱ををこさしむる事。返返天魔のたぐひなり。外道のしわざ也。往生極樂のあたかたきなりとおもふべし。又念佛のかすをおほく申すものを。自力をはげむといふ事。これ又ものもおほえずあさましきひが事也。ただ一念二念をとなふとも。自力の心ならん人は。自力の念佛とすへし。千遍萬遍をとなふとも。百日千日よるひるはげみつとむとも。ひとへに願力をたのみ。他力をあふきたらん人の念佛は。聲聲念念しかしなから他力の念佛にてあるへし。

されば三心ををこしたる人の念佛は。日日夜夜時時剋剋にとなふれとも。しかしなから願力をあふき。他力をたのみたる心にてとなへゐたれは。かけてもふれても。自力の念佛とはいふへからす

一、
三心と申す事をしりたる人の念佛に。三心具足してあらん事は左右にをよばず。つやつや三心の名をだにもしらぬ。無智のともからの念佛には。よも三心は具し候はじ。三心かけは往生し候なんやと申す事。きはめたる不審にて候へとも。これは阿彌陀ほとけの法藏菩薩のむかし五劫のあひた。よるひる心をくだきて案じたてて。成就せさせ給ひたる本願の三心なれば。あだあだしくいふべき事にあらず。いかに無智ならん者もこれを具し。三心の名をしらぬものまても。かならすそらに具せんずる樣を擇はせ給ひたる三心なれば。阿彌陀佛をたのみたてまつりて。すこしもうたかふ心なくして。この名號をとなふれは。あみたほとけかならずわれをむかへて。極樂にゆかせ給ふとききて。これをふかく信して。すこしもうたかふ心なく。むかへさせ給へとおもひて念佛すれは。この心がすなはち三心具足の心にてあ れば。ただひらに信じてだにも念佛すれば。すずろに三心はあるなり。さればこそよにあさましき一文不通のともからのなかに。ひとすちに念佛するものは。臨終正念にして。めてたき往生をするは。現に證據あらたなる事なれば。つゆちりもうたかふべからず。中なかよくもしらぬ三心沙汰して。あしさまに心えたる人ひとは。臨終のわろくのみありあひたる。それにてたれたれも心うへきなり

一、
ときとき別時の念佛を修して。心をも身をもはげましととのへすすむへき也。日日に六萬遍を申せは七萬遍をとなふればとて。ただ在もいはれたる事にてはあれとも。人の心さまは。いたく目もなれ。耳もなれぬれは。いそいそとすすむ心もなく。あけくれ心いそかしき樣にてのみ。疎略になりゆく也。その心をためなをさん料に。時時別時の念佛はすへき也。しかれは善導和尚も。ねんころにすすめ給ひ。惠心の『往生要集』にも。すすめさせ給ひたる也。道塲をもひきつくろひ。花香をもまいらせん事。ことにちからのたへむにしたかひてかざりまいらせて。わが身をもことにきよめて道塲にいりて。あるひは三時あるひは六時などに念佛すべし。もし同行などあまたあらん時は。かはるかはるいりて不斷念佛にも修すべし。かやうの事はをのをのことがらにしたかひてはからふべし。さて善導のおほせられたるは。月の一日より八日にいたるまで。或は八日より十五日にいたるまで。或は十五日より廿三日にいたるまて。或は廿三日より晦日にいたるまでと。おほせられたり。をのをのさしあはざらん時をはからひて。七日の別時をつねに修すへし。ゆめゆめすずろ事ともいふものにすかされて。不善の心あるべからず

一、
いかにもいかにも最後の正念を成就して目には阿彌陀ほとけを見たてまつり。口には彌陀の名號をとなへ。心には聖衆の來迎をまちたてまつるへし。としころ日ころいみじく念佛の功をつみたりとも。臨終に惡縁にもあひ。あしき心もをこりぬるものならば順次の往生しはづして。一生二生なりとも。三生四生なりとも。生死のながれにしたがひてくるしからん事はくちをしき事ぞかし。されば善導和尚すすめておほせられたる樣は。願弟子等臨命終時{乃至}上品往生阿彌陀佛國とあり。いよいよ臨終の正念はいのりもし。ねがふべき事也。臨終の正念をいのるは。彌陀の本願をたのまぬ者ぞなど申すは。善導には。いかほどまさりたる學生ぞとおもふべき也。あなあさましおそろしおそろし

一、
念佛は。つねにおこたらぬが。一定往生する事にてある也。されば善導すすめての給はく。一發心已後誓畢此生無有退轉唯以淨土爲期又云一心專念彌陀名號行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業順彼佛願故といへり。かやうにすすめましましたる事はあまたおほけれとも。ことことくにかきのせす。たとむへし。あふぐへし。さらにうたがふべからず

一、
げにげにしく念佛を行して。げにげにしき人になりぬれば。よろづの人を見るに。みなわが心にはをとりたり。あさましくわろければ。わが身のよきままには。ゆゆしき念佛者にてある物かな。たれたれにもすぐれたりと思ふ也。この事をはよくよく意えてつつしむべき也。世もひろし。人もおほければ。山の奧林の中にこもりゐて。人にもしられぬ念佛者の。貴くめてたき。さすがにおほくあるを。わがきかずしらぬにてこそあれ。されば。われほどの念佛者よもあらじと思ふはひが事也。大憍慢にてあれは。それをたよりにて。魔縁の付て。往生をさまたくる也。さればわが身のいみじくて。つみをも滅し極樂へもまいらばこそあらめ。ひとへに阿彌陀佛の願力にてこそ煩惱をも罪業をもほろぼしうしなひて。かたしけなく彌陀ほとけの。てつからみづからむかへとりて。極樂へかへらせましますことなれ。さればわがちからにて往生する事ならばこそわれかしこしといふ慢心をばをこさめ。若憍慢の心だにもをこりなば。たちところに阿彌陀ほとけの願にはそむきぬるものなれば。彌陀も諸佛も護念し給はすなりぬれば。惡魔のためにもなやまさるる也。返返も憍慢の心ををこすへからず。あなかしこあなかしこ



念佛大意

西方指南抄/下本#念仏大意

淨土宗略抄

聖道淨土の二門について述べ、至誠心・深心・得候補津関心の三心と起行を説く。また、現世利益として、菩薩の圍繞し護念することと、諸善神は念仏の行者をまもることを説く。なお、受くべき病であれば、「いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも。それによるましき事也。いのるによりてやまひもやみ。いのちものふる事あらは。たれかは一人としてやみしぬる人あらん。」と、病気平癒の祈りを否定されておられる。

このたひ生死をはなるるみち。淨土にむまるるにすぎたるはなし。淨土にむまるるをこなひ。念佛にすぎたるはなし。おほよそうき世をいでで佛道にいるにおほくの門ありといへとも。おほきにわかちて二門を出す。すなはち聖道門と淨土門と也。

はしめに聖道門といは。此娑婆世界にありながら。まどひをたちさとりをひらく道也。これにつきて大乘の聖道あり。小乘の聖道あり。大乘に又二あり。すなはち佛乘と菩薩乘と也。小乘に又二あり。聲聞乘と縁覺乘と也。これらを總して四乘となづく。ただしこれらはみな。このころのわれらが身にたへたる事にあらず。
このゆへに道綽禪師は。聖道の一種は今時に證しかたしとの給へり。さればをのをののをこなふやうを申して詮なし。ただ聖道門は聞とをくしてさとりかたく。まとひやすくしてわが分にはおもひよらぬみちなりと。おもひはなつへき也

つきに淨土門といは。この娑婆世界をいとひすてていそきて極樂にむまるる也。かの國にむまるる事は阿彌陀佛のちかひにて人の善惡をえらはず。ただほとけのちかひをたのみたのまさるによる也。このゆへに道綽は。淨土の一門のみありて通入すへきみちなりとのたまへり。さればこのころ生死をはなれんと思はむ人は。證じかたき聖道をすてて。ゆきやすき淨土をねかふへき也。この聖道淨土をは。難行道易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふに。難行道はけはしきみちをかちにてゆくかことし。易行道は。海路をふねにのりてゆくかごとしといへり。あしなえ目しゐたらん人は。かかるみちにはむかふへからず。ただふねにのりてのみむかひのきしにはつくなり。
しかるにこのころのわれらは。智惠のまなこしゐ。行法のあしなへたるともから也。聖道難行のけはしきみちには。總してのそみをたつへし。ただ彌陀の本願のふねにのりて。生死のうみをわたり。極樂のきしにつくへき也。いまこのふねは。すなはち彌陀の本願にたとふる也。
その本願といは。彌陀のむかしはしめて道心ををこして。國王のくらゐをすてて出家して。ほとけになりて衆生をすくはんとおほしめしし時。淨土をまうけむために。四十八願ををこし給ひし中に。第十八の願にいはく。もしわれほとけにならんに。十方の衆生。わがくににむまれんとねかひて。わか名號をとなふる事。下十聲にいたるまてわが願力に乘して。もしむまれすは。われほとけにならじとちかひ給ひて。その願ををこなひあらはして。いますてにほとけになりて十劫を經給へり。
されは善導の釋には。かのほとけいま現に世にましまして。成佛し給へり。まさにしるへし本誓重願むなしからず。衆生稱念すれは。かならす往生する事を得との給へり。このことはりをおもふに。彌陀の本願を信して念佛申さん人は。往生うたがふへからず。よくよくこのことはりを思日ときて。いかさまにもまづ阿彌陀佛のちかひをたのみて。ひとすちに念佛を申して。ことさとりの人の。とかくいひさまたけむにつきて。ほとけのちかひをうたかふ心ゆめゆめあるへからず。
かやうに心えて。さきの聖道門は。わか分にあらすと思ひすてて。この淨土門にいりて。ひとすちにほとけのちかひをあふきて。名號をとなふるを。淨土門の行者とは申す也。これを聖道淨土の二門と申すなり

つきに淨土門にいりてをこなふへき行につきて申さは心と行と相應すへき也。すなはち安心起行となづく。その安心といは。心つかひのありさま也。すなはち『觀無量壽經』に説ていはく。もし衆生ありて。かのくににむまれんと願するものは。三種の心ををこして。すなはち往生すべし。何等をか三とする。一には至誠心。二には深心。三には廻向發願心也。三心 を具するものは。かならすかのくににむまるといへり。善導和尚この三心を釋しての給はく。

はしめの至誠心といは。至といは。眞也。誠といは。實也。一切衆生の身口意業に。修せんところの解行。かならず眞實心の中になすべき事をあかさんとをもふ。外には賢善精進の相を現して。内には虚假をいだく事を得され。又内外明闇をきらはず。かならず眞實をもちゐるがゆへに至誠心となづくといへり。かるがゆへに至誠心ととかれたるは。すなはち眞實の心を云なり。眞實といふは。身にふるまひ口にいひ心に思はん事も。内むなしくして外をかざる心なきをいふなり。詮してはまことに穢土をいとひ淨土をねかひて。外相と内心と相應すへき也。ほかにはかしこき相を現して。うちには惡をつくり。外には精進の相を現して。内には懈怠なる事なかれといふ意也。かるがゆへにほかには賢善精進の相を現して。うちには虚假をいだく事なかれといへり。念佛を申さんにつゐて。人目には六万七万申すと披露してまことにはさ程も申さすや。又人のみるおりはたうとけにして。念佛申すよしを見え。人も見ぬところにては念佛申さずなどするやうなる心はへ也。
されはとて。わろからん事をもほかにあらはさんがよかるへき事にてはなし。ただ詮するところは。まめやかにほとけの御意にかなはん事をおもひて。内にまことををこして。外相をは機嫌にしたがふへき也。機嫌にしたがふがよき事なれはとて。やがて内心のまこともやふるるまてふるまはは。又至誠心かけたる心になりぬへし。ただうちの心をまことにて。ほかをはとてもかくてもあるへき也。かるがゆへに至誠心となつく。

二に深心といは。すなはち善導釋しての給はく深心といは。ふかく信する心也。これに二つあり。
一には決定して。わか身はこれ煩惱を具足せる罪惡生死の凡夫也。善根薄少にして。曠劫よりこのかたつねに三界に流轉して。出離の縁なしと。ふかく信すへし。
二には。ふかくかの阿彌陀佛。四十八願をもて衆生を攝取し給ふ。すなはち名號をとのふる事。下十聲にいたるまて。かのほとけの願力に乘して。さためて往生を得と信して。乃至一念もうたかふ心なきがゆへに深心となづく。

又深心といは。决定して心を建。佛の敎に順して修行して。ながくうたかひをのぞきて。一切の別解別行。異學異見。異執のために。退失傾動せられされといへり。この釋の意は。はしめにわが身の程を信して。のちにはほとけのちかひを信するなり。のちの信心のために。はしめの信をはあくる也。そのゆへは。往生をねがはんもろもろの人。彌陀の本願の念佛を申しながら。わが身に貪欲瞋恚の煩惱をもをこし。十惡破戒の罪惡をもつくるにをそれて。みたりにわが身をかろしめてかへりてほとけの本願をうたがふ。

善導はかねてこのうたがひをかかみて。二つの信心のやうをあげてわれらがごときの煩惱をもをこし。罪をもつくる凡夫なりとも。ふかく彌陀の本願をあふきて念佛すれは。十聲一聲にいたるまで。决定して往生するむねを釋し給へり。まことにはしめのわが身を信する樣を釋し給はさりせは。われらが心ばへのありさまにては。いかに念佛申すともかのほとけの本願にかなひがたく。いま一念十念に往生するといふは。煩惱をもをこさず。つみをもつくらぬめでたき人にてこそあるらめ。われらこときのともからにてはよもあらしなど。身の程思ひしられて。往生もたのみかたきまてあやうくおほえなましに。この二つの信心を釋し給ひたる事は。いみじく身にしみておもふへき也。
この釋を心えわけぬ人は。みなわが心のわろけれは。往生はかなはじなとこそは申あひたれ。そのうたかひをなすは。やがて往生せぬ心はへ也。此むねを意えて。なかくうたかふ心あるましき也。
心の善惡をもかへり見づ。つみの輕重をも沙汰せず。たた口に南無阿彌陀佛と申せは。佛のちかひによりて。かならず往生するぞと。决定の心ををこすへき也。その決定の心によりて。往生の業はさだまる也。
往生は不定におもへは不定也。一定とおもへは一定する事也。詮してはふかく佛のちかひをたのみて。いかなる過をもきらはず。一定むかへ給ぞと信して。うたかふ心のなきを深心とは申候也。いかなるとがをもきらはねばとて。法にまかせてふるまふべきにはあらず。されば善導も不善の三業をば。眞實心の中にすつべし。善の三業をは。眞實心の中になすへしとこそは釋し給ひたれ。又善業にあらざるをば。うやまてこれをとをさかれ。
又隨喜せされなど釋し給ひたれば。心のをよはん程はつみをもをそれ。善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。ただ彌陀の本誓の善惡をもきらはす。名號をとなふれは。かならすむかへ給そと信し。名號の功德のいかなるとがをも除滅して。一念十念もかならず往生をうる事の。めてたき事をふかく信して。うたかふ心一念もなかれといふ意也。又一念に往生すればとて。かならずしも一念にかきるへからず。彌陀の本願の意は。名號をとなへん事。もしは百年にても。十二十年にても。もしは四五年にても。もしは一二年にても。もしは七日一日十聲一聲までも。信心ををこして南無阿彌陀佛と申せは。かならすむかへ給なり。惣してこれをいへは。上は念佛申さんと思ひはしめたらんより。いのちをはるまても申也。

中は七日一日も申し。下は十聲・一聲まても彌陀の願力なれば。かならず往生すへしと信して。いくら程こそ本願なれとさだめず。一念までも定めて往生すと思ひて。退轉なくいのちをはらんまで申すべき也。又まめやかに往生の心さしありて。彌陀の本願をたのみて念佛申さん人。臨終のわろき事は何事にかあるへき。
そのゆへは。佛の來迎し給ふゆへは。行者の臨終正念のため也。それを意えぬ人は。みなわか臨終正念にて念佛申したらんおりそ。ほとけはむかへ給ふへきとのみ意えたるは。佛の本願を信せず。經の文を意えぬ也。『稱讃淨土經』には。慈悲をもて加へ祐けて心をしてみだらざらしめ給ふととかれたる也。たたの時よくよく申しをきたる念佛によりて。かならすほとけは來迎し給ふ也。佛のきたりて現し給へるを見て。正念には住すと申すへき也。それにさきの念佛をはむなしく思ひなして。よしなき臨終正念をのみいのる人のおほくある。ゆゆしき僻胤の事也。
されは佛の本願を信せん人は。かねて臨終をうたかふ心あるへからず。當時申さん念佛をぞ。いよいよ心を至して申へき。いつかは佛の本願にも。臨終の時念佛申たらん人をのみ。むかへんとはたて給ひたる。臨終の念佛にて。往生すと申事は。もとは往生をもねがはずして。ひとへにつみをつくりたる惡人の。すでに死なんとする時。はしめて善知識のすすめにあひて。念佛して往生すとこそ。『觀經』にもとかれたれ。もとより念佛を信せん人は。臨終の沙汰をばあながちにすへき樣もなき事なり。佛の來迎一定ならは。臨終の正念は。また一定とこそはをもふへきことはりなれ。この意をよくよく心をとどめて。意うべき事なり。又別解別行の人に。やぶられざれといは。さとりことに。をこなひことならん人の。いはん事につきて。念佛をもすて。往生をもうたがふ心なかれといふ事也。

さとりことなる人と申すは。天台・相等の。八宗の學匠なり。行ことなる人と申すは。眞言・止觀の一切の行者也。これらは聖道門をならひをこなふ也。淨土門の解行には異なるがゆへに。別解・別行となづくる也。又惣しておなしく念佛を申す人なれとも。彌陀の本願をばたのますして。自力をはけみて。念佛はかりにてはいかか往生すへき。異なる功德をつくり。ことなる佛にもつかへて。ちからをあはせてこそ。往生程の大事をばとぐべけれ。

たた阿彌陀佛はかりにては。かなはしものをなどうたがひをなし。いひさまたけん人のあらんにも。けにもと思ひて。一念もうたがふ心なくて。いかなることはりをきくとも。往生决定の心をうしなふ事なかれと申す也。人にいひやふらるまじきことはりを。善導こまかに釋し給へり。意をとりて申さば。たとひ佛ましまして。十方世界にあまねくみちみちて。光をかかやかし舌をのへて。煩惱罪惡の凡夫。念佛して一定往生すといふ事ひが事なり。
信すへからずとの給ふとも。それによりて。一念もうたかふへからず。そのゆへは。佛はみな同心に衆生を引導し給に。すなはちまづ。阿彌陀佛淨土をまうけて。願ををこしての給はく。十方衆生わが國にむまれんとねかひて。わが名號をとなへんもの。もしむまれすは。正覺をとらじとちかひ給へるを。釋迦佛この世界にいでで。衆生のためにかの佛の願をとき給へり。六方恒沙の諸佛は。舌相を三千世界におほふて。虚言せぬ相を現して。釋迦佛の彌陀の本願をほめて。一切衆生をすすめて。かのほとけの名號をとなふれば。さためて往生すとの給へるは。决定にしてうたがひなき事也。
一切衆生みなこの事を信すへしと證誠し給へり。かくのことく一切諸佛一佛ものこらず。同心に一切凡夫念佛して。决定して往生すへきむねをすめめ給へるうへには。いつれの佛の又往生せずとはの給ふへきぞといふことはりをもて。佛きたりての給ふともおどろくへからずとは申す也。佛なをしかり。いはむや菩薩聲聞縁覺をや。いかにいはんや凡夫をやと心えつれは。一度この念佛往生を信してんのちは。いかなる人とかくいひさまたぐとも。うたかふ心あるへからずと申事なり。これを深心とは申すなり

三に廻向發願心とは。善導これを釋しての給はく。過去をよひ今生の。身口意業に修するところの。世出世の善根。をよひ他の一切の凡聖の。身口意業に修するところの世出世の善根を隨喜して。この自他所修の善根をもて。ことことく眞實深心の中に廻向して。かのくににむまれんとねかふなり。かるがゆへに廻向發願心となづくる也。
又廻向發願して。むまれんと願はむものは。かならづ决定して。眞實心の中に廻向して。むまるまま事をうる想をなす也。この心ふかくして。なをし金剛のことくして。一切の異見異學。別解別行の人のために。動亂破壞せられざれといへり。この釋の意はまつわが身につきて。前世にもつくりとつくりたらん功德をみなことことく極樂に廻向して往生をねかふ也。

わが身の功德のみならず。一切凡聖の功德をも廻向するなり。凡といは。凡夫のつくりたらん功德をも。聖といは。佛菩薩のつくり給はん功德をも。隨喜すれはわが功德となるをもて。みな極樂に廻向して往生をねがふなり。詮するところ。往生をねがふよりほかに。異事をばねかふまじき也。わが身にも人の身にも。この界の果報をいのり。又おなしく後世の事なれとも。極樂ならぬ淨土にむまれんともねがひ。もしは人中天上にむまれんともねかひ。かくのことくかれこれに廻向する事なかれと也。もしこのことはりを思ひさだめざらんさきに。この土の事をもいのり。あらぬかたへ廻向したらん功德をも。みなとり返して。いまは一すぢに極樂に廻向して往生せんとねかふへき也。一切の功德をみな極樂に廻向せよといへはとて。又念佛の外に。わさと功德をつくりあつめて廻向せよといふにはあらす。ただすぎぬるかたの功德をも。今は一向に極樂に廻向し。こののちなりともをのつからたよりにしたかひて僧をも供養し。人に物をもほどこしあたへたらんをも。つくらんにしたかひて。みな往生のために廻向すへしといふ意也。
この心金剛のことくして。あらぬさとりの人にをしへられて。かれこれに廻向する事なかれといふ也。金剛はいかにもやふれぬものなれは。たとへにとりてこの心をもて廻向發願してむまると申也。

三心のありさまあらあらかくのことし。この三心を具すれはかならす往生す。もし一心もかけぬれはむまるる事をえすと。善導は釋し給ひたれは。もともこの心を具足すへき也。しかるにかやうに申たつる時は。別別にして事事しきやうなれとも。意えとけばやすく具しぬへき心也。詮してはまことの心ありて。ふかく佛のちかひをたのみて。往生をねかはんする心なり。深き淺き事こそかはりめありとも。たれも往生をもとむる程の人は。さ程の心なき事やはあるへき。かやうの事は疎く思へは大事におほえ。とりよりて沙汰すれはさすかにやすき事也。
かやうにこまかに沙汰し。しらぬ人も具しぬへく。又よくよく知たる人も少る事ありぬへし。されはこそいやしくをろかなるものの中にも往生する事もあり。いみじくたとけなるひじりの中にも臨終わろく往生せぬもあり。されともこれを具足すへき樣をもよくよく意えわけて。わが意に具したりともしり。又少たりとも思はんをはかまへてかまへて具足せんとはけむへきことなり。これを安心となづくる也。これぞ往生する心のありさまなり。 これをよくよく意えわくへきなり。

次に起行といは。善導の御意によらは。往生の行おほしといへとも。おほきにわかちて二とす。一には正行。二には雜行也。正行といは。これに又あまたの行あり。讀誦正行。觀察正行。禮拜正行。稱名正行。讃嘆供養正行。これらを五種の正行となづく。讃嘆と供養とを二行とわかつ時には。六種の正行とも申也。
この正行につきて。ふさねて二とす。一には一心にもはら彌陀の名號をとなへて。行住坐臥によるひるわするる事なく。念念にすてさるを正定の業となづく。かのほとけの願に順するがゆへにといひて。念佛をもてまさしくさためたる往生の業にたてて。もし禮誦等によるをは。なづけて助業とすといひて。念佛の外に阿彌陀佛を禮し。もしは三部經をよみ。もしは極樂のありさまを觀するも。讃嘆供養したてまつる事も。みな稱名念佛をたすけんがためなり。
まさしくさためたる往生の業は。ただ念佛はかりといふ也。この正と助とをのそきて外の諸行をは。布施をせんも。戒をたもたんも。精進ならんも。禪定を修せんも。かくのことくの六度萬行。法華經をよみ。眞言ををこなふ。もろもろのをこなひをは。ことことくみな雜行となづく。ただ極樂に往生せんとおもはは。一向に稱名の正定業を修すへき也。
これすなはち彌陀本願の行なるがゆへに。われらが自力にて生死をはなれぬへくは。かならすしも本願の行にかきるへからすといへとも。他力によらずは往生をとげかたきかゆへに。彌陀の本願のちからをかりて。一向に名號をとなへよと。善導はすすめ給へる也。自力といは。わがちからをはげみて往生をもとむる也。他力といは。たた佛のちからをたのみたてまつる也。
このゆへに正行を行するものをは。專修の行者といひ。雜行を行するをは。雜修の行者と申也。正行を修するは。心つねにかの國に親近して。憶念ひまなし。雜行を行するものは。心つねに間斷す。廻向してむまるる事をうへしといへとも。疎雜の行となづくといひて。極樂にうとき。行といへり。又專修のものは。十人は十人なからむまれ。百人は百人なからむまる。なにをもてのゆへに。外に雜縁なくして正念をうるがゆへに。彌陀の本願と相應するがゆへに。釋迦の敎に順するがゆへ也。

雜修のものは。百人の中に一二人むまれ。千人の中に四五人むまる。なにをもてのゆへに。彌陀の本願と相應せさるがゆへに。釋迦の敎に順せさるがゆへに。憶想間斷するがゆへに。名利と相應するがゆへに。自もさへ他の往生をもさふるがゆへにと釋し給ひたれは。善導を信して淨土宗にいらん人は。一向に正行を修して。日日の所作に。一万二万乃至五万六万十万をも。器量のたへんにしたかひて。いくらなりともはげみて申すへきなりとこそ意えられたれ。 それにこれをききなから。念佛の外に餘行をくはふる人のおほくあるは。意えられぬ事也。そのゆへは。善導のすすめ給はぬ事をは。すこしなりともくはふへき道理ゆめゆめなき也。すすめ給へる正行をたにも。なをものうき身にて。いまたすすめ給はぬ雜行をくはふへき事は。まことしからぬかたもありぬへし。又つみつくりたる人たにも往生すれは。まして功德なれは法華經なとをよまんは。なにかはくるしかるへきなと申す人もあり。それらはむげにきたなき事也。往生をたすけはこそいみじからめ。さまたげにならぬばかりを。いみじき事とてくはへをこなはん事は。なにかは詮あるへき。 惡をはされは佛の御意にこのみてつくれとやすすめ給へる。かまへてとどめよとこそいましめ給へとも。凡夫のならひ。當時のまよひにひかれて惡をつくる事はちからをよはぬ事なれは。慈悲ををこしてすて給はぬにてこそあれ。まことに惡をつくる人のやうに。餘行どもをくはへたからんは。ちからをよはす。ただし經なとをよまん事を。惡つくるにいひならべて。それもくるしからねは。ましてこれもなとといはんは不便の事也。ふかき御のりもあしく 意うるものにあひぬれは。返りて物ならすあさましくかなしき事也。ただあらぬさとりの人の。ともかくも申さん事をはききいれすして。すすみぬへからん人をは誘すすむへし。さとりたがひてあらぬさまならん人なとに。論しあふ事なとはゆめゆめあるましき事也。ただわが身一人まづよくよく往生をねかひて。念佛をはげみて。位たかく往生して。いそき返りきたりて。人人を引導せんとおもふへき也。

又善導の『往生禮讃』に。問ていはく。阿彌陀佛を稱念禮觀するに。現世にいかなる功德利益かある。答ていはく。阿彌陀佛をとなふる事一聲すれは。すなはち八十億劫の重罪を除滅す。又十往生經にいはく。もし衆生ありて。阿彌陀佛を念して往生をねかふものは。かのほとけすなはち二十五の菩薩をつかはして。行者を護念し給ふ。もしは行。もしは坐。もしは住。もしは臥。もしはよる。もしはひる。一切の時。一切のところに。惡鬼・惡神をしてそのたよりをえせしめ給はすと。

又『觀經』にいふこときは。阿彌陀佛を稱念して。かのくにに往生せんとおもへは。かの佛すなはち無數の化佛。無數の化觀音勢至菩薩をつかはして。行者を護念し給ふ。さきの二十五の菩薩と。百重千重に行者を圍繞して。行住坐臥をとはず。一切の時處に。もしはひる。もしはよる。つねに行者をはなれ給はすと。
又いはく彌陀を念して往生せんとおもふものは。つねに六方恒沙等の諸佛のために護念せらる。かるがゆへに護念經となづく。いますてにこの增上縁の。誓願のたのむへきあり。もろもろの佛子等。いかでか心をはけまささらんやといへり。かの文の意は彌陀の本願をふかく信して。念佛して往生をねかふ人をは。彌陀佛よりはしめたてまつりて。十方の諸佛菩薩。觀音勢至無數の菩薩この人を圍繞して。行住坐臥。よるひるをもきらはず。かげのことくにそひて。もろもろの橫惱をなす。惡鬼・惡神のたよりをはらひのそき給ひて。現世にはよこさまなるわづらひなく。安穩にして。命終の時は。極樂世界へむかへ給ふ也。されは念佛を信して往生をねかふ人は。ことさらに惡魔をはらはんために。よろつのほとけかみにいのりをもし。つつしみをもする事は。なしかはあるへき。
いはんや佛に歸し。法に歸し。僧に歸する人には。一切の神王。恒沙の鬼神を眷屬として。つねにこの人をまもり給ふといへり。しかれはかくのこときの諸佛・諸神。圍繞してまもり給はんうへは。又いつれの佛・神かありて。なやまし。さまたくる事あらん。
又宿業かきりありて。うくべからんやまひは。いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも。それによるましき事也。いのるによりてやまひもやみ。いのちものふる事あらは。たれかは一人としてやみしぬる人あらん。
いはんや又佛の御ちからは。念佛を信するものをは。轉重輕受といひて。宿業かきりありて。をもくうくへきやまひを。かろくうけさせ給ふ。いはんや非業をはらひ給はん事ましまさざらんや。されは念佛を信する人は。たとひいかなるやまひをうくれとも。みなこれ宿業也。これよりもをもくこそうくへきに。ほとけの御ちからにて。これほともうくるなりとこそは申す事なれ。われらが惡業深重なるを滅して。極樂に往生する程の大事をすらとげさせ給ふ。ましてこのよにいくほどならぬいのちをのべ。やまひをたすくるちからましまさざらんやと申事也。されば後生をいのり。本願をたのむ心もうすき人は。かくのことく圍繞にも護念にもあつかる事なしとこそ善導はの給ひたれ。
おなしく念佛すとも。ふかく信ををこして。穢土をいとひ極樂をねかふへき事也。かまへて心をとめて。このことはりをおもひほときて。一向に信心を至して。つとめさせ給ふへき也。

かやうにこまかに申のべたるをは。わたくしのことはおほくして。あやまりあらんなと。あなつりおほしめす事ゆめゆめあるへからず。ひとへに善導の御ことばをまなび。ふるき文釋の意をぬきいだして申す事也。うたかひをなす心なくて。かまへて心をとどめて御らんじときて。意えさせ給ふへき也。

あなかしこあなかしこ、この定に意えて。念佛申さんにすきたる往生のきはあるましき事にて候なり

本にいはく。この書はかまくらの二位の禪尼の請によて。しるし進せらるる書也{云云}

黑谷上人語燈錄卷第十二

黑谷上人語燈錄第十三

厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之三{當卷有四章}

九條殿下の北政所へ進する御返事 第九
鎌倉の二位の禪尼へ進する御返事 第十
要義問答 第十一
大胡太郞へつかはす御返事第 十二

九條殿下の北政所へ進する御返事

西方指南抄/下末#九条殿下の北政所へ進ずる御返事

鎌倉の二位の禪尼へ進する御返事

西方指南抄/中末#鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事

要義問答

西方指南抄/下末#要義問答

大胡太郞へつかはす御返事第

西方指南抄/下本#大胡の太郎實秀へつかわす御返事

黑谷上人語燈錄卷第十四

厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之四{當卷有九章}

大胡太郞の妻室へつかはす御返事 第十三
熊谷の入道へつかはす御返事 第十四
津戸三郞へつかはす御返事 第十五
黑田の聖へつかはす御返事 第十六
越中の光明房へつかはす御返事 第十七
正如房へつかはす御文 第十八
禪勝房にしめす御詞 第十九
十二問答 第二十
十二箇條問答 第二十一

大胡太郞の妻室へつかはす御返事

西方指南抄/下本#大胡の太郎實秀が妻のもとへつかわす御返事

熊谷の入道へつかはす御返事

西方指南抄/下末#熊谷へ遣はす書(九月十六日付)

津戸三郞へつかはす御返事

西方指南抄/下本#津戸三郎に答ふる書

黑田の聖へつかはす御返事

西方指南抄/下末#黒田の聖人へつかはす御文

越中の光明房へつかはす御返事

西方指南抄/下本#越中国光明房へつかはす御返事

正如房へつかはす御文

西方指南抄/下本#正如房へつかわす御文

禪勝房にしめす御詞

このご法語は、一念の念仏の無上功徳であることを説き、いのちは刹那刹那の存在であるから、今いまの一声一声の念仏を勧める。また、信に居座れば「信が行をさまたぐる」とし、一声・十声の念仏では不足と思えば「行が信をさまたぐる」と行信不離を説かれる。「信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし」である。

禪勝房にしめす御詞

阿彌陀佛は、一念となふるを一度の往生にあてかひてをこし給へる本願也。かるかゆへに十念は十度むまるる功德也。一向專修の念佛者になる日よりして、臨終の時にいたるまて申たる一期の念佛をとりあつめて、一度の往生はかならすする事也。

又云、念佛申す機は、むまれつきのままにて申す也。さきの世の業によりて、今生の身をはうけたる事なれは、この世にてはえなをしあらためぬ事也。たとへは女人の男子にならはやとおもへとも、今生のうちには男子とならざるかことし。 智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、慳貪者は慳貪なから申す、一切の人みなかくのことし。されはこそ阿彌陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願をはをこしてましませ。

又云、一念・十念にて往生すといへはとて、念佛を疎相に申せは、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへはとて、一念・十念を不定におもへは、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし。

又云、一念を不定におもふものは、念念の念佛ごとに不信の念佛になる也。そのゆへは、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれは、念念ことに往生の業となる也

十二問答

西方指南抄/下本#或人念仏之不審聖人に奉問次第

十二箇條問答

十二箇條問答

この法語は、問答形式で行と信を説く。念仏が易行であるがゆえの疑問と凡夫の悪業に碍えられない本願を説く。さればとて好んで悪を造ることを誡め、「惡を行ずる子をは目をいからかし、杖をささげて、いましむるがことし」と浄土教の倫理観を説く。

問ていはく、念佛すれは往生すへしといふ事、耳なれたるやうにありなから、いかなるゆへともしらず。かやうの五障の身まても、すてられぬ事ならは、こまかにをしへさせ給へ。

答ていはく、をよそ生死をいづる行一つにあらすといへとも、まづ極樂に往生せんとねがへ、彌陀を念せよといふ事、釋迦一代の敎にあまねくすすめ給へり。
そのゆへは、阿彌陀佛本願ををこして、わが名號を念せんもの、わが淨土にむまれずは、正覺をとらじとちかひて、すでに正覺をなり給ふゆへに、この名號をとなふるものはかならす往生する也。臨終の時もろもろの聖衆とともにきたりて、かならす迎接し給ふゆへに、惡業としてさふるものなく、魔縁としてさまたくる事なし。
男女貴賤をもえらはす、善人惡人をもわかたす、至心に彌陀を念するにむまれずといふ事なし。たとへはおもき石をふねにのせつれば、しつむ事なく、萬里のうみをわたるがことし。罪業のおもき事は石のごとくなれとも、本願のふねにのりぬれは生死のうみにしづむ事なく、かならす往生する也。ゆめゆめわが身の罪業によりて本願の不思議をうたがはせ給ふへからす。これを他力の往生とは申也。
自力にて生死をいでんとするには、煩惱惡業を斷じつくして淨土にもまいり菩提にもいたるとならふ、これは步よりけはしきみちをゆくがことし。

問ていはく、罪業をもけれとも、智惠の燈をもて煩惱のやみをはらふ事にて候なれは、かやうの愚癡の身には、つみをつくる事はかさなれとも、つくのふ事はなし、なにをもてこのつみをけすへしともおほえす候はいかん。

答ていはく、ただ佛の御詞を信じてうたかひなけれは、佛の御ちからにて往生する也。さきのたとへのごとく、ふねにのりぬれは、目しゐたるものも目あきたるものもともにゆくがことし。智惠のまなこある者も、佛を念ぜされは願力にかなはす、愚癡のやみふかきものも、念佛すれは願力に乘ずるなり。念佛する者をは彌陀の光明をはなちてつねにてらして捨給はねは、惡縁にあはすして、必臨終に正念をえて往生する也。さらにわが身の智惠のありなしによりて、往生の定不定をはさだむへからす、ただ信心のふかかるへき也。

問ていはく、世をそむきたる人は、ひとすぢに念佛すれは往生も得やすき事也。かやうの身には、あしたにもゆふへにも、いとなむ事は名聞、昨日も今日もおもふ事は利養也。かやうの身にて申さん念佛はいかか佛の御意にもかなひ候へきや。

答ていはく、淨摩尼珠といふ珠を、にこれる水に投れは、珠の用力にてその水きよくなるがことし。衆生の心はつねに名利にそみて、にごれる事がの水のごとくなれとも、念佛の摩尼珠を投れは、心の水をのつからきよくなりて、往生をうる事は、念佛のちから也。
わが心をしづめ、このさわりをのぞきて、後念佛せよとにはあらず、ただつねに念佛して、そのつみをは滅すへし。されはむかしより在家の人、おほく往生したるためしいくはくかおほき、心のしづかならざらんにつけても、よくよく佛力をたのみ、もはら念佛すへし。

問ていはく、念佛は數遍を申せとすすむる人もあり、又さもなくともなど申人もあり、いづれにかしたがひ候へき。

答ていはく、さとりもあり、ならふむねもありて申さん事は、その心のうちしりがたけれは、さだめがたし。在家の人の、つねに惡縁にのみしたしまれ、身には數遍を申さずして、いたづらに日をくらし、むなしく夜をあかさん事、荒凉の事にや候はんずらん。凡夫は縁にしたがひて退しやすき物なれは、いかにもいかにもはげむへき事也。 されは處處に、おほく念念相續してわすれざれといへり。

問ていはく、念念にわすれざる程の事は、わが身にかなひがたくおほえ候へ。又手には念珠をとれとも心にはそぞろ事をのみおもふ、この念佛は往生の業にはかなひかたくや候はんすらん。これをきらはれは、この身の往生は不定なるかたもありぬへし。

答ていはく、念念にすてざれとをしゆる事は、人のほどにしたがひてすすむる事なれは、わが身にとりて心のをよび、身のはげまん程は、心にはからはせ給ふへし。又念佛の時惡業のおもはるる事は、一切の凡夫のくせ也。
さりなからも往生の心さしありて念佛せは、ゆめゆめさはりとはなるへからす。たとへは親子の約束をなす人いささかそむく心あれとも、さきの約束變改する程の心なけれは、おなし親子なるがことし。念佛して往生せんと志して、念佛を行するに、凡夫なるがゆへに貪瞋の煩惱おこるといへとも、念佛往生の約束をひるがへさざれは、かならず往生する也。

問ていはく、これ程にやすく往生せは、念佛するほどの人はみな往生すへきに、ねがふものもおほく、念するものもおほき中に、往生するもののまれなるは、なにのゆへとか思ひ候へき。

答ていはく、人の心は外にあらはるる事なけれは、その邪正さだめがたしといへとも、經には三心を具して往生すとみえて候めり。この心を具せざるがゆへに、念佛すれとも往生を得さる也。三心と申は、一には至誠心、二には深心、三には迴向發願心也。
はしめに至誠心といふは、眞實心也と釋して、内外ととのほれる心也。何事をするにも、まことしき心なくては成する事なし。人なみなみの心をもて、穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、淨土のねがはしからぬをねがふ氣色をして、内外ととのほらぬをきらひて、まことの志しをもて、穢土をもいとひ淨土をもねがへとをしふる也。
次に深心といふは、佛の本願を信ずる心也、われは惡業煩惱の身なれとも佛の願力にて、かならす往生するなりといふ道理をききてふかく信じて、つゆちりばかりもうたがはぬ心也。人おほくさまたげんとして是をにくみ、これをさへぎれとも、これによりて心のはたらかざるをふかき信とは申也。
次に迴向發願心といふは、わが修するところの行を迴向して、極樂にむまれんとねがふ心也。わが行のちから、わが心のいみしくて往生すへしとはおもはず、佛の願力のいみじくおはしますによりて、むまるべくもなきものも生るへしと信じて、いのちをはらは佛必すきたりてむかへ給へしとおもふ心を、金剛の一切のものにやぶられざるかごとく、この心をふかく信じて、臨終までもとほりぬれは、十人は十人なからむまれ、百人は百人なからむまるる也。
されはこの心なきものは、佛を念ずれとも順次の往生をばとげす、遠縁とはなるへし。この心のをこりたる事は、わが身にしるへし、人はしるへからす。

問ていはく、往生をねがはぬにはあらす、ねがふといへともその心勇猛ならす、又念佛を賤しと思ふにはあらす、行じなからをろそかにしてあかしくらし候へは、かかる身なれは、いかにもこの三心具したりと申べくもなし。されはこのたびの往生をはおもひたえ候へきにや。

答ていはく、淨土をねがへともはげしからす、念佛すれども心のゆるらかなる事をなげくは、往生の心ざしのなきにはあらす。心ざしのなき者はゆるらかなるをもなげかず、はげしからぬをもかなしまず、いそくみちにはあしのをそきをなげく、いそがざるみちにはこれをなげかざるかことし。
又このめばをのつから發心すと申す事もあれは、漸漸に增進してかならす往生すへし。日ころ十惡五逆をつくれるものも、臨終にはじめて善知識にあひて往生する事あり。いはんや往生をねがひ、念佛を申してわが心のはげしからぬ事をなげかむ人をは、佛もあはれみ菩薩もまもりて、障りをのそき、知識にあひて、往生をうへき也。

問ていはく、念佛の行者はつねにいかやうにかおもひ候へき。

答ていはく、あるときには世間の無常なる事をおもひて、このよのいくほとなき事をしれ。ある時には、佛の本願をおもひて、かならすむかへ給へと申せ。ある時には人身のうけがたきことはりをおもひて、このたひむなしくやまん事をかなしめ。六道をめくるに、人身をうる事は、梵天より糸をくだして、大海のそこなる針のあなをとをさんかことしといへり。ある時は、あひがたき佛法にあへり。このたひ出離の業をうへずは、いつをか期すべきとおもふへき也。ひとたび惡道に墮しぬれは、阿僧祇劫をふれども、三寳の御名をきかず、いかにいはんやふかく信ずる事をえんや。
ある時にはわが身の宿善をよろこぶへし。かしこきもいやしきも人おほしといへとも、佛法を信じ淨土をねがふものはまれ也。信ずるまでこそかたからめ、そしりにくみて惡道の因をのみつくる。しかるにこれを信じこれを貴ひて、佛をたのみ往生を志す、これひとへに宿善のしからしむる也。ただ今生のはげみにあらす、往生すへき期のいたれる也とたのもしくよろこぶへし。かやうの事を、おりにしたがひ、事によりておもふべき也。

問ていはく、かやうの愚癡の身には聖敎をもみず、惡縁のみおほし。いかなる方法をもてか、わが心をまもり、信心をももよほすべきや。

答ていはく、そのやう一つにあらず。あるひは人の苦にあふをみて、三途の苦をおもひやれ、あるひは人のしぬるを見て、無常のことはりをさとれ、あるひは、つねに念佛してその心をはけませ、あるひはつねによき友にあひて、心をはぢしめられよ。人の心はおほく惡縁によりてあしき心のをこる也。されは惡縁をはさり、善縁にちかづけといへり、これらの方法ひとしなならず、時にしたがひてはからふへし。

問ていはく念佛の外の餘善をは、往生の業にあらずとて、修すへからすといふ事あり。これはしかるべしや。

答ていはく、たとへは人のみちをゆくに、主人一人につきて、おほくの眷屬のゆくがことし。往生の業の中に念佛は主人也、餘の善は眷屬也。しからは餘善をきらふまではあるへからす。

問ていはく、本願は惡人をきらはねばとて、このみて惡業をつくる事はしかるへしや。

答ていはく、佛は惡人をすて給はねとも、このみて惡をつくる事、これ佛の弟子にはあらす。一切の佛法に惡を制せずといふ事なし。惡を制するに、かならずしもこれをととめ得ざるものは、念佛してそのつみを滅せよとすすめたる也。わが身のたへねはとて、佛にとがをかけたてまつらん事は、おほきなるあやまり也。わが身の惡をととむるにあたはずは、ほとけ慈悲をすて給はすして、このつみを滅してむかへ給へと申へし。つみをはただつくるへしといふ事は、すべて佛法にいはざるところ也。
たとへは人のおやの、一切の子をかなしむに其中によき子もあり、あしき子もあり。ともに慈悲をなすといへとも、惡を行ずる子をは目をいからかし、杖をささげて、いましむるがことし。佛の慈悲のあまねき事をききては、つみをつくれとおほしめすといふおもひをなさは、佛の慈悲にももれぬへし。惡人まてをもすて給はぬ本願としらんにつけては、いよいよ佛の知見をははづへし、かなしむへし。父母の慈悲あればとて、父母のまへにて惡を行ぜんに、その父母よろこぶへしや、なげきなからすてず、あはれみながらにくむ也。佛も又もてかくのことし。

問ていはく、凡夫は心に惡をおもはずといふ事なし。この惡を外にあらはささるは、佛をばはぢすして、人目をはばかるといふ物なり。これは心のままにふるまふへしや。

答ていはく、人の歸依を得むとおもひて、外をかざらんはとがあるかたもやあらん、惡をしのばんがために、たとひ心におもふとも、ほかまではあらはさじとおもひて、をさへん事は、すなはち佛に耻る心也。とにもかくにも惡をしのびて、念佛の功をつむへき也。習ひ さきよりあらざれは、臨終正念もかたし。常に臨終のおもひをなして、臥ごとに十念をとなふへし。されはねてもさめてもわするる事なかれといへり。おほかたは世間も出世も、道理はたがはぬ事にて候也。心ある人は、父母あはれみ、主君もはぐくむにしたがひて、惡事をはしりぞき、善事をはこのまんと思へり。惡人をもすて給はぬ本願ときかんにも、まして善人をは、いかばかりかよろこび給はんと思ふへき也。
一念・十念をもむかへ給ふときかは、いはんや百念・千念をやとおもひて、心のをおよよび、身のはげまれん程ははげむへし。さればとてわが身の器量のかなはざらんをばしらす、佛の引接をはうたがふへからす。たとひ七・八十のよはひを期すとも、おもへは夢のことし。いはんや老少不定なれは、いつをかきりとおもふへからす、さらに後を期する心あるへからす、ただ一すちに念佛すべしといふ事、そのいはれ一にあらず。

これを見むおりおりことにおもひいてて南無阿彌陀佛とつねにとなへよ。


黑谷上人語燈錄卷第十四

黑谷上人語燈錄卷第十五

厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之五{當卷有三章}

一百四十五箇條問答 第二十二
上人と明遍との問答 第二十三
諸人傳説の詞 第二十四{御歌附}

一百四十五箇條問答

法然聖人在世の頃の、物忌みにがんじがらめになっていた人々に対する逐次的な問いと法然聖人の答え。タブーに対する忌みが宗教だと錯覚している現代人にも通ずる法語である。ちなみに迷信や奇跡を否定するのは、浄土真宗とマルキストとプロテスタントである。

一百四十五箇條問答

一。ふるき堂塔を修理して候はんをは、供養し候へきか

答。かならす供養すへしといふ事も候はす。又供養して候はんもあしき事にも候はす。功德にて候へは又供養せねばとてつみをえ、あしき事と申にても候はす

一。佛の開眼と、供養とは一つ事にて候か

答。開眼と供養とは、別の事にて候へきを、おなし事にしあひて候也。開眼と申すは、本躰は、佛師かまなこをいれひらきまいらせ候を申候也。これをは事の開眼と申候也。つぎに僧の佛眼の眞言をもて、まなこをひらき、大日の眞言をもて、ほとけの一切の功德を成就し候をは、理の開眼と申候也。つぎに供養といふは、ほとけに、花香佛供、御あかしなとをもまいらせ、さらぬたからをもまいらせ候を、供養とは申候也

一。この眞如觀は、志候へき事にて候か

答。これは惠心のと申て候へとも、いらぬ物にて候也。 おほかた眞如觀は、われら衆生は、えせぬ事にて候程に、往生のためには、成へきともおもはれぬことにて候へは、無益に候

一。又これに計算して候ところは、何事もむなしと觀ぜよと申て候。空觀と申候は、これにて候な。されは觀し候へきやうは、たとへはこの世のことを執著して、思ふましきとをしへて候と見えて候へは、おほやう御らんのためにまいらせ候

答。これはみな理觀とてかなはぬ事にて候也。僧のとしころならひたるだにもえせず、まして女房なとの、つやつや案内もしらざらんは、いかにもかなふまじく候也。御たづねまでも無益にて候

一。この七佛の名號をとなふべき樣とて、人のたびて候ままに信じ候へは、つみはうせ候べきか。なに事もそれよりおほせ候御事は、たのもしく候ひて、かやうに申候

答。これさなくとも候なん。念佛にこれらのつみのうせ候ましくはこそ候はめ

一。一文の師をもをろそかに申候へは、習ひたる物の冥加なしと申候は、まことにて候か

答。師のことはをろそかならず候、恩の中にふかき事これにすぎ候はす

一。心を一つにして念し候はは、心よくなをり候はずとも、何事ををこなひ候はずとも、念佛はかりにて淨土へはまいり候へきか

答。心のみだるるは、この凡夫の習ひにて、ちからをよはぬ事にて候。ただ心を一にして、よく御念佛せさせ給ひ候はは、そのつみを滅して、往生せさせ給ふへき也。その妄念よりもおもきつみも、念佛だに申候へは、うせ候也

一。經の陀羅尼は、灌頂の僧にうけ候へきか

答。法花經のはくるしからす。灌頂の僧のうけさする陀羅尼は、別の事に候。それはおほめしよらざれ

一。普賢經に、佛の母を念ずへしと申候は

答。いさおほえす

一。百日のうちの、赤子の不淨かかりたるは、物まうでにはばかりありと申たるは

答。百日のうちのあか子の不淨くるしからす。なにもきたなき物のつきて候はんは、きたなくこそ候へ赤子にかきるまし

一。念佛の百*万遍、百度申てかならす往生すと申て候に。いのちみじかくてはいかがし候へき

答。これもひが事に候。百度申てもし候。十念申てもし候。又一念にてもし候

一。阿彌陀經十萬卷よみ候へしと申て候は、いかに

答。これもよみつべからんにとりての事に候。ただつとめを、たかくつみ候はんれうにて候

一。日所作は、かならすかずをきはめ候はすとも、かぞへられんにしたがひてかぞへ、念佛も申候へきか

答。かずをさだめ候はねは、懈怠になり候へは、かずをさだめたるがよき事にて候

一。にら、き、ひる、ししをくひて、香うせ候はずとも、つねに念佛は申候へきやらん

答。念佛はなににもさはらぬ事にて候

一。六齋に、齋をし候はんには、かねて精進をし、いかけをし、よき物をきてし候べきか

答。かならすさ候はずとも候なん

一。一七日二七日なと服藥し候はんに、六齋の日にあたりて候はんをは、いかがし候へき

答。それちからをよはぬ事にて候。されはとて罪にては候まじ

一。六齋は一生すべく候か、何年すべく候そ

答。それも御心によるべき事にて候。いくらすへしと申事は候はず

一。念佛をは、日所作にいくらばかりあててか、申候へき

答。念佛のかずは、一*万遍をはしめにて、二万・三万・五万・六万、乃至十万まて申候也。この中に、御心にまかせて、おぼしめし候はん程を、申させおはしますへし

一。阿彌陀經をは、一日に何卷ばかりあててか、よみ候べき

答。阿彌陀經はちかひて一生中に、十万卷をだにもよみまいらせ候ぬれは、决定して往生すと、善導和尚のおほせられて候也。毎日に十五卷つつよめは、二十年に十万卷にみち候也。三十卷つつよめは、十年にみち候也

一。五色のいとは、ほとけには、ひだりにとをほせ候き。わがてには、いづれのかたにていかがひき候へき

答。左右の手にてひかせ給ふへし

一。佛の名をもかき、貴き事をもかきて候を、あだにせじとて、やき候は罪をうるに、誦文をしてやくと申候は、いかか候へき

答。さる反故やき候はんに、何條の誦文か候へき、しかれどもやくは罪にて候。おほかたは法文をは、うやまふ事にて候へは、ただきよきところに埋ませ給ふへし

一。戒うけ候時、和尚となり給へ、阿闍梨となり給へと申事の候、心え候はす。なにといふ事にて候そ

答。和尚と申候は、まさしく戒うくる根本の師を申候也。阿闍梨と申候は、戒をうくる時作法をいたす師にて候也。これをは羯磨阿闍梨と申候也

一。齋し候は功德にて候やらん、かならすすへき事にて候やらん

答。齋は功德をうる事にて候也。六齋の御齋ぞさも候ひぬへき。又御大事にて御やまひなともをこらせおはしましぬへく候はは、さなくとも、ただ御念佛だにもよくよく候はは、それにて生死をはなれ、淨土にも往生せさせおはしまさんずる事は、これによるべく候

一。臨終のおり、阿彌陀の定印なとをならひて、五色の糸とひかへ候やらん。たださ候はずとも、左右の手にひかへ候やらん

答。かならす定印をむすふべきにても候はす、ただ合掌を本躰にてその中にひかへられ候へし

一。ちかくてかならすしも、見まいらせ候はねとも、とをらかにて、ひかへ候やらん

答。とをくも、ちかくも、便宜によるべく候。いかなるもくるしく候はす

一。かならす佛を見、糸をひかへ候はずとも、われは申さずとも、人の申さん念佛をききても、死候はは淨土には往生し候へきやらん

答。かならす糸をひくといふ事候はす。佛にむかひまいらせねども、念佛だにもすれは往生し候也。又ききてもし候。それはよくよく信心ふかくての事に候

一。ながく生死をはなれ、三界にむまれしとおもひ候に、極樂の衆生となりても、又その縁つきぬれはこの世にむまるると申候は、まことにて候か。たとひ國王ともなり、天上にもむまれよ、ただ三界をわかれんとおもひ候に、いかにつとめをこなひてか。還り候はざるへき

答。これもろもろのひが事にて候。極樂へ一たびむまれ候ぬれは、ながくこの世にかへる事候はす、みな佛に成ことにて候也。ただし人をみちびかんためには、ことさらに還る事も候、されとも生死にめくる人にては候はず。三界をはなれ、極樂に往生するには、念佛にすぎたる事は候はぬ也。よくよく御念佛候へき也

一。女房の聽聞し候に、戒をたもたせ候をやぶり候はんずればとて、たもつとも申候はぬは、いかか候へき。ただ聽聞の塲にては、一時もたもつと申候が、めてたき事と申候は、まことにて候か

答。これはくるしく候はず。たとひのちにやぶれ候とも、その時たもたんとおもふ心にて、たもつと申すはよき事にて候

一。佛の薄ををして、又供養し候か

答。さ候はすとも

一。所作をかきて人にし入させ候は、いかか候へき

答。さなくとも候ひなむ

一。卷經を草子にたたむは、罪と申候はいかか候へき

答。つみをえぬ事にて候

一。ほとけに具する經を、とりはなちて人にもたぶはつみにて候か

答。ひろむるは功德にて候

一。一部とある經、一卷つつとりはなちてよまんは、つみにて候か

答。つみにても候はす

一。ほとけに厨子をさしてすへまいらせては、供養すべく候か

答。一切あるまじ

一。不輕のことく、人をおかむ事し候べきか

答。このころの人の、え意えぬ事にて候也

一。七歳の子しにて、いみなしと申候はいかに

答。佛敎にはいみといふ事なし、世俗に申したらんやうに

一。佛ににかはを具し候がきたなく候、いかかし候へき

答。まことにきたなけれとも、具せではかなふまじけれは

一。尼の服藥し候は、わろく候か

答。やまひにくふはくるしからす。たたはあしく候

一。父母のさきに死ぬるは、つみと申候はいかに

答。穢土のならひ、前後ちからなき事にて候

一。いきてつくり候功德はよく候か

答。めでたし

一。人のまもりをえて候はんは、供養し候へきか

答。せずともくるしからす

一。わわくに物くるるは、つみにて候か

答。つみにて候

一。經をして供養せすとも、くるしからす候か

答。ただよむへし

一。經千部よみては、供養し候へきか

答。さも候まし

一。懺悔の事、幡や花鬘なとかざり候へきか

答。さらでも、たた一心ぞ大切に候

一。花香をほとけにまいらせ候事は

答。曉は供養法にかならすまいらせ候。ただは花瓶にさしちらしても供養すへし、香はかならずたくへし、便あしくはなくとも

一。經をは、僧にうけ候べきか

答。われとよみつへくは、僧にうけすとも

一。聽聞ものまうでは、かならずし候へきか

答。せずとも、中中わろく候。しづかにたた御念佛候へ

一。神に後世申候事いかむ

答。佛に申すにはすぐまし

一。説經師は、つみふかく候歟。又妻にならんものもつみふかしと申候は、まことにて候か

答。本躰は功德をうへく候に、末世のはつみをえつへし、妻にならんものは、つみ

一。麝香丁子をもち候は、つみにて候か

答。かをあつむるは、つみ

一。妻、おとこに經ならふ事、いかか候へき

答。くるしからす

一。還俗のものに目を見あはせずと申候は、まことにて候か

答。さまでは不説、ひが事

一。還俗を心ならずして候はんは、罪いかに

答。あさく候

一。神佛へまいらんに、三日一日の精進、いづれかよく候

答。信を本にす。いくかといふ本説なし、三日こそよく候はめ

一。歌よむはつみにて候か

答。あながちにえ候はじ。ただし罪もえ、功德にもなる

一。さけのむは、つみにて候か

答。まことにはのむべくもなけれども、この世のならひ

一。魚鳥鹿は、かはり候か

答。ただおなし事

一。尼になりて、百日精進はよく候か

答。よし

一。佛つくりて、經はかならす具し候へきか

答。かならす具すへしとも候はす、又具してもよし

一。功德は身のたふるほどど申候は、まことにて候か

答。沙汰にをよひ候はす、ちからのたふるほと

一。經と佛と、かならす一度にすへ候か

答。さも候はす、ひとつつつも

一。錫杖は、かならす誦すへきか

答。さなくとも、そのいとまに念佛一遍も申へし。あま法師こそありく時、むしのために誦し候へ

一。いみの日、物まうでし候はいかに

答。くるしからす、本命日にも

一。五逆十惡、一念十念にほろび候か

答。うたがひなく候

一。臨終に、善知識にあひ候はずとも、日ころの念佛にて往生はし候へきか

答。善知識にあはずとも、臨終おもふ樣ならずとも念佛さへ申さは往生すへし

一。誹謗正法は、五逆のつみにおほくまされりと申候はまことにて候か

答。これはいと人のせぬ事にて候

一。死て候はんもののかみは、そり候へきか

答。かならすさるまし

一。心に妄念のいかにも思はれ候は、いかかし候へき

答。ただよくよく念佛を申させ給へ

一。わかれうの、臨終の物の具、まづ人にかし候はいかか候へき

答。くるしからす

一。五色のいとをうむ事はいかか

答。おさなきものに、うます

一。節ある楊枝をはつかはず續帶靑帶無文の帶するはいむと申候は

答。くるしからす

一。服藥のわたは、あらひ候はざらんはいかか候

答。くるしからす

一。よき物をき、わろきところに居て、往生ねかひ候はいかか

答。くるしからす。八齋戒の時こそ、さは候はめ

一。月のはばかりの時、經よみ候はいかか

答。くるしみあるへしとも見えす候

一。申す事のかなひ候はぬに、佛をうらみ申はいかか

答。うらむへからす。縁により信のありなしによりて、利生はあり、この世のちの世、佛をたのむにはしかす

一。ひるししは、いづれも七日にて候か。又ししの干たるは、い見ふかしと申候はいかに

答。ひるも香うせなははばかりなし。ししのひたるによりて、いみふかしといふ事はひが事

一。月のはばかりのあひだ、神の料に、經はくるしく候まじきか

答。神やはばかるらん。佛法にはいまず、陰陽師にとはせ給へ

一。子うみて、佛神へまいる事、百日はばかりと申候は、まことにて候か

答。それも佛法には、いまず

一。法花經一品よみさして、魚くはずと申候はいかに

答。くるしからす

一。ずずもたず、かけおびかけずして、經をうけ候事はいかに

答。くるしからす

一。齋にまめあづきの御れうぐはせずと申候は、まことにて候か

答。くるしからす

一。ねてもさめても、口あらはて念佛申候はんは、いかか候へき

答。くるしからす

一。信施をうくるは、つみにて候か

答。つとめしてくふ僧はくるしからす、せねはふかし

一。神のあたりの物くふは、くちなはと申候はいかに

答。禰宜神主は、ひとへにその身になるにこそ、さらぬが、すこしくはんはおもからじ

一。僧の物くひ候も、つみにて候か

答。つみうるも候、えぬも候。佛のもの、奉加結縁の物くふは、つみ

一。大佛天王寺なとの邊に居て、僧の物くひて、後世とらんとし候人は、つみか

答。念佛だに申さは、くるしからす

一。齋するあした、御れうあまたにむかふはいかか候

答。くるしからす

一。齋をつとめて見そうついかに

答。くるしからす

一。戒をたもちて、のち精進はいく日し候

答。いくかも御心まかせ

一。聽聞は功德をえ候か

答。功をえ候

一。念佛を行にしたるものが、物まうではいかに

答。くるしからす

一。物まうでして、經を廻向すべきに、經をはよまで、念佛を廻向する、くるしからすと申候はいかに

答。くるしからす

一。わが心ざさぬ魚は、殺生にては候はぬか

答。それは殺生ならす

一。服藥のすすは、あらひ候へきか

答。あらひあらはす、くるしからす

一。千手藥師は、ものいませ給ふと申いかに

答。さる事なし

一。六齋に、にらひるいかに

答。めさざらんはよく候

一。齋のくひ物は、きよくし候へきか

答。例の定行水も候まじ。かねて精進も候まじ。ひきいれも、たたのおりのにて候へし。齋の誦文も女房はせずとも、ただ念佛を申させ給へ。さしたる事ありて、齋をかきたらは、いつの日にてもせさせ給へ

一。三年おがみの事。し候へきか

答。さらずとも候なん

一。齋のさばには、菜を具し候へきか。齋の生飯をは、屋のうへにうちあげ候へきか。かはらけにとり候へきか、わがひきいれのさらにとり候へきか

答。いつれも御心したい

一。女のものねたむ事は、つみにて候か

答。世世に女となる果報にて、ことに心うき事也

一。出家し候はねども、往生はし候か

答。在家ながら往生する人おほし

一。五色の糸を、あまたにきりて、人にたまはんは、いかか候へき

答。きるべからす

一。念佛を申候に、はらのたつ心のさまさまに候、いかがし候へき

答。散亂の心、よにわろき事にて候、かまへて一心に申させ給へ

一。かみつけながら、おとこをんなの死候は、いかに

答。かみにより候はす、ただ念佛と見えたり

一。尼の子うみ、おとこもつ事は、五逆罪ほどと申、まことにて候か

答。五逆ほどならねとも、おもく見えて候

一。尼法師、かみをおほす、つみにて候か

答。三惡道の業にて候

一。經佛なとうり候は、つみにて候か

答。つみふかく候

一。人をうり候も、つみにて候か

答。それもつみにて候

一。精進の時つめきらすと申、又女にかみそらせぬと申候、いかに

答。みなひが事

一。われも人も、さゑもんかく、罪にて候か

答。すごさざらんには、なにか罪にて候へき

一。酒のいみ、七日と申候は、まことにて候か

答。さにて候。されどもやまひには、ゆるされて候

一。魚鳥くひては、いかけして、經はよみ候へきか

答。いかけしてよむ本躰にて候。せでよむは、功德と罪と、ともに候。たたしいかけせでも、よまぬよりはよむはよく候

一。妻おとこ一つにて、經よみ候はん事、いかけし候へきか

答。これもおなし事。本躰はいかけしてよむへく候、念佛はせでもくるしからす、經はいかけしてよみ候へし、毎日よみ候とも

一。大根柚は、をこなひにはばかり候と申は、いかに

答。はばかりなし

一。尼になりたるかみ、いかがし候へき

答。經の料紙にすき、もしは佛の中にこそはこめ候へ

一。尼法師の紺のきぬ著候はいかに

答。よに罪うる事にて候

一。物まうでし候はんに、男女かみあらひ、せめてはいただきあらふと申候は、まことにて候か

答。いづれもさる事候はす

一。佛をうらむる事は、あるまじき事にて候な

答。いかさまにも、佛をうらむる事なかれ。信あるものは大罪すら滅す。信なき者は小罪だにも滅せすわが信のなき事をはづへし

一。八專に、物まうでせすと申は、まことにて候か

答。さる事候はず。いつならんおりにも、佛の耳にきかせ給はぬ事の、なじか候へき

一。灸治の時物まうでせず、そのおりの著物も、すつると申候は

答。これも又きはめたるひか事にて候。たた灸治をいたはりて、ありきなとをせぬ事にてこそ候へ、灸治のいみある事候はす

一。ひるししくひて、三年がうちに死候人は、往生せずと申候は、まことにて候やらん

答。これ又きはめたるひが事にて候。臨終に五辛くひたる者をはよせずと申たる事は候へとも、三年まていむ事はおほかた候はぬ也

一。厄病やみて死ぬる者、子うみて死ぬる者は、つみと申候はいかに

答。それも念佛申せは往生し候

一。子の孝養おやのするは、うけずと申候はいかに

答。ひが事なり

一。産のいみいくかにて候そ、又いみもいくかにて候そ

答。佛敎には、いみといふ事候はす。世間には産は七日、又三十日と申げに候。いみも五十日と申す、御心まかせに候

一。沒後の佛經しをく事は、一定すへく候か

答。一定にて候、すへく候

一。所作かきてしいれ、かねてかかんするを、さしづ候はいかに

答。しいるるはくるしからす、かねては懈怠也

一。出家は、わかきとおひたると、いづれか功德にて候

答。老ては功德ばかりえ候、わかきはなをめてたく候。

一。佛に花まいらする誦文、御らんのためにまいらせ候

答。これせんなし。念佛を申させ給へ

一。いみの者の、ものへまいり候事は、あしく候か

答。くるしからす

一。物まうてして、かへさにわがもとへ、返らぬ事はあしく候か。又魚鳥にやがてみだれ候事いかに

答。熊野のほかはくるしからす

一。齋のおりの誦文は、かくし候へしと申候、御らんのためにまいらせ候

答。齋のおりも、ただ念佛を申させ給へ、女房は誦文せずとも

一。女房の物ねたみの事、されはつみふかく候な

答。ただよくよく一心に念佛を申させ給へ

一。桐のはい、かみにつくるは、佛神に申事のかなはぬと申候は、まことにて候か

答。そら事なり

一。物へまいり候精進、三日といふ日まいり候へきか、四日のつとめでか

答。三日のつとめでまいる

一。物こもりして候に、三日とおもひ候はんは四日になしていで、七日とおもひて候はんは八日になしていで候へきか

答。それは世の人のせんように

一。ずずに、さくらくり、いむと申候はいかに

答。さる事候はす

一。法師のつみは、ことにふかしと申候は

答。とりわき候はす

一。現世をいのり候に、しるしの候はぬ人はいかに候ぞ

答。現世をいのるに、しるしなしと申事、佛の御そらことには候はす。わが心の説のことくせぬによりてしるしなき事は候也。されはよくするにはみなしるしは候也。觀音を念するにも、一心にすれはしるし候。もし一心なけれはしるし候はす。むかしの縁あつき人は、定業すらなを轉ず、むかしもいまも縁あさき人は、ちりはかりのくるしみにだにもしるしなしと申て候也。佛をうらみおほしめすへからす。ただこの世、のち世のために佛につかへんには、心を至し、實をはげむ事、この世もおもふ事かなひ、のちの世も淨土にむまるる事にて候也。しるしなくは、わか心をはづへし

建仁元年十二月十四日、けざんにいりて、とひまいらする事

一。臨終の時不淨のものの候には、佛のむかへにわたらせ給ひたるも、かへらせ給ふと申候は、まことにて候か

答。佛のむかへにおはしますほどにては、不淨のものありといふとも、なじかはかへらせ給へき、佛はきよききたなきの沙汰なし。ただ念佛ぞよかるへききよくとも念佛申さざらんには益なし、万事をすてて念佛を申すへし、證據のみをほかりこれは御文にてたつね申す

一。家のうちのもののしたしきうときをきらはす、往生のためとをもひて、くひ物きものたまはんは、佛に供養せんとをなし事にて候か

答。したしきうときをえらはす。往生のためとおほしめして、物たびおはしまさん、めてたき功德にて候。御つかひによくよく申候ぬ

一。破戒の僧、愚癡の僧、供養せんも功德にて候か

答。破戒の僧、愚癡の僧を、すゑの世には、佛のことくたとむへきにて候也。この御つかひに申候ぬ、きこしめし候へ

この御ことはは、上人のまさしき御手也。あみた經のうらにをしたり見參にいりてうけ給はる事

一。毎日の所作に、六万十萬の數遍を、すすをくりて申候はんと、二万三萬をずずをたしかにひとつつつ申候はんと、いつれかよく候へき

答。凡夫のならひ。二萬三萬あつとも如法にはかなひがたからん。ただ數遍のおほからんにはすぐへからす、名號を相續せんため也。かならずしもかずを要とするにはあらす、たたつねに念佛せんがためなり。かずをさためぬは懈怠の因縁なれは、數遍をすすむるにて候

一。眞言の阿彌陀の供養法は、正行にて候へきか

答。佛躰は一つに似たれとも、その意不同なり。眞言敎の彌陀は、これ己心の如來、ほかをたずぬへからす。この敎の彌陀は、これ法藏比丘の成佛也。西方におはしますゆへに、その意おほきにことなり

一。つねに惡をととめ、善をつくるへき事をおもはへて念佛申候はんと、ただ本願をたのむばかりにて、念佛を申候はんと、いつれかよく候へき

答。廢惡修善は、諸佛の通戒なり。しかれとも、當世のわれらは、みなそれにはそむきたる身なれは、たたひとへに、別意弘願のむねをふかく信じて、名號をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智無智、持戒破戒をきらはす、阿彌陀ほとけは來迎し給事にて候なり。御意え候へ


上人と明遍との問答

明遍僧都が、まったく挨拶なしに、単刀直入に念仏の義を問われたことに対する法然聖人のお答え。もちろん帰り際の挨拶もないのだが、まさに禅語における挨拶のようなご法語である。「ただ詮ずるところ、おほらかに念佛を申候が第一の事にて候」に尽きている。

上人と明遍との問答

明遍問たてまつりての給はく。末代惡世のわれらがやうなる罪濁の凡夫、いかにしてか生死をはなれ候へき。

上人答ての給はく、南無阿彌陀佛と申して、極樂を期するばかりこそ、しえつへき事と存して候へ。

僧都のいはく。それは形の樣に、さ候へきかと存して候。それにとりて、决定をせん料に申つるに候。それに念佛は申候へとも、心のちるをはいかがし候へき。

上人答ていはく。それは源空もちからをよび候はす。

僧都のいはく。さてそれをはいかがし候へき。

上人のいはく。ちれども名を稱すれは、佛の願力に乘じて、往生すべしとこそ意えて候へ。ただ詮ずるところ、おほらかに念佛を申候が第一の事にて候也。

僧都のいはく。かう候そうろう、これうけ給はりにまいりつるに候と。{これより前後には、いささかも詞なくていてられにけり。}

上人又僧都退出の後、當座のひじりたちにかたりての給はく。欲界散地にむまれたるものはみな散心あり。たとへは人界の生をうけたる物の、目鼻のあるがことし。散心をすてて往生せんといはん事、そのことはりしかるへからす。散心ながら念佛申すものか往生すれはこそ、めてたき本願にてはあれ。この僧都の念佛申せども、心のちるをはいかがすへきと不審せられつるこそ、いはれずおほゆれと{云云}

諸人傳説の詞

諸人傳説の詞 {御歌附}

隆寬律師のいはく、法然上人のの給はく、源空も念佛の外に、毎日に『阿彌陀經』を三卷よみ候き、一卷は唐、一卷は吳一卷は訓なり。しかるにこの經に詮ずるところ、ただ念佛申せとこそとかれて候へば、いまは一卷もよみ候はず。一向念佛を申候也と、隆寬{毎日に阿彌陀經四十八卷よまれき} すなはち心えて、やがて『阿彌陀經』をさしをきて、念佛三萬遍を申しきと。{進行集よりいてたり云云}

乘願上人のいはく、ある人問ていはく、色相觀は、觀經の説也。たとひ稱名の行人なりといふとも、これは觀ずべ候かいかん

上人答ての給はく。源空もはじめはさるいたづら事をしたりき。いまはしからず、但信の稱名也と。{授手印决答よりいでたり}
又人目をかざらずして、往生の業を相續すれば、自然に三心は具足する也。
たとへは葦のしげき池に、十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見えねども、よくよくたちよりてみれば、あしまをわけてやどるなり。妄念のあしはしげげれとも、三心の月はやどる也。 これは故上人のつねにたとへにおほせられし事也と。{かの二十八問答よりいでたり}

ある時又の給はく、あはれこのたびしおほせばやなと。
その時、乘願申さく、上人だにもかやうに不定げなるおほせの候はんには、ましてその餘の人はいかが候へきと。その時上人うちわらひての給はく、蓮臺にのらんまでは、いかでかこのおもひはたえ候へきと。{閑亭問答集よりいでたり}

信空上人のいはく、ある時上人の給はく、淨土の人師おほしといへども、みな菩提心をすすめて、觀察を正とす。ただ善導一師のみ、菩提心なくして、觀察をもて稱名の助業と判す。當世の人善導の意によらずは、たやすく往生をうべからず。曇鸞・道綽・懷感等、みな相承の人師なりといへども、義にをいては、いまだかならずしも一凖ならず。よくよくこれを分別すへし。このむねをわきまへずば、往生の難易において存知しがたき物也と。

ある時問ていはく、智惠のもし往生の要事となるべくば、正直におほせをかぶりて修學をいとなむべし。又ただ稱名不足あるへからじば、そのむねを存ずへく候、ただいまのおほせを如來金言と存ずべく候。

答ていはく、往生の業は、これ稱名といふ事、釋文分明也。有智無智をきらはずといふことはりまた顯然也。しかれば、往生のためには稱名足ぬとす、學問をこのまんとおもはんよりは、たた一向念佛して往生をとぐへし。彌陀・觀音・勢至にあひたてまつらん時いづれの法文か達せざらん。かのくにの莊嚴、晝夜朝暮に甚深の法門をとく也。但し念佛往生のむねをしらざらん程は、これを學すへし。もしこれをしりなば、いくばくならさる智惠をもとめて、稱名のいとまをさまたぐへからす。

ある時問ていはく、人おほく持齋をすすむ、この條いかん。

答ての給はく、尼法師の食の作法は、もともしかるべしといへども、當世は機すでにをとろへたり。食すでに减したり。この分際をもて一食せは、心ひとへに食事をおもひて念佛しづかならじ。『菩提心經』にいはく、「食菩提をさまたけず、心よく菩提をさまたぐ」といへり。そのうへは自身をあひはからふべきなりと。

ある時問ていはく、往生の業においてはおもひさだめをはりぬ。たたし一期の身のありさまをば、いかやうにか存じ候へき。

答ての給はく、僧の作法は大小の戒律あり。しかりといへども末法の僧これにしたがはず。源空これをいましむとも、たれの人かこれにしたがふへき。たた詮するところは、念佛の相續するやうにあひはからふへし。往生のためには、念佛すでに正業也。かるがゆえにこのむねをまもりて、あひはげむへきなり。

ある人問ていはく、つねに廢惡修善のむねを存して念佛すると、つねに本願のむねをおもひて念佛するといづれかすぐれて候。

答ての給はく、廢惡修善は、これ諸佛の通誡なりといへども、當世のわれらことごとく違背せり。若し別意の弘願に乘ぜすは、生死をはなれがたきものか。

ある人問ていはく、稱名の時 心をほとけの相好にかけん事、いかやうにか候へき。 答ての給はく、しからず、ただ「若我成佛、十方衆生、稱我名號、下至十聲、若不生者、不取正覺、彼佛今現在世成佛、當知本誓重願不虚、衆生稱念必得往生」{礼讃}とおもふばかり也。われらが分際をもて、佛の相好を觀すとも、さらに如説の觀にはあらじ。ただふかく本願をたのみて、口に名號をとなふる、この一事のみ假令ならざる行也

ある人問ていはく、善導本願の文を釋し給ふに、至心信樂欲生我國の安心を略したまふ事、なに心かあるや。

答ての給はく、衆生稱念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆへに、このことはりをあらはさんがために略し給へる也。

ある人問ていはく、毎日の所作に、六萬・十萬等の數遍をあてて不法なると、二萬三萬の數遍をあてて如法なると、いづれをか正とすへき。

答ての給はく、凡夫のならひ二萬三萬をあつといふとも、如法の義あるべからず。ただ數遍のおほからんにしかず。詮ずるところ心をして相續せしめんがため也。かならずしもかずを沙汰するを要とするにはあらず。ただ常念のためなり。數遍をさだめつるは懈怠の因縁なるがゆへに、數遍をすすむる也。

ある人問ていはく、上人の御房の申させたまふ御念佛は、念念ことにほとけの御意にあひかなひ候らんとおぼえ候。智者にてましませば、くはしく名號の功德をもしろしめし、あきらかに本願のやうをも御心得あるがゆへにと。

答ての給はく、なんぢ本願を信する事まだしかりけり。彌陀如來の本願の名號は、木こり・くさかり・なつみ・みづくみのたぐひごときのものの、内外ともにかけて、一文不通なるが、となふれはかならずむまれなんと信じて、眞實に欣樂して、つねに念佛申を最上の機とす。もし智惠をもて生死をはなるべくは、源空なんぞ聖道門をすててこの淨土門におもむくべき。まさにしるべし、聖道の修行は、智惠をきはめて生死をはなれ、淨土門の修行は、愚癡に反へりて極樂にむまると。{已上信空上人の傳説なり進行集よりいでたり}

信空上人又いはく、先師法然上人あさゆふをしへられし事也。念佛申にはまたく樣もなし。ただ申せば極樂にむまるとしりて、心を至して申せばまいる事也。ものをしらぬうへに、道心もなく、いたづらにゆへなき物のいふこと也。さ いはん口にて、阿彌陀佛を一念・十念にても申せかしと候ひし事也
又御往生の後、三井寺の住心房と申す學生、ひじりに、ゆめのうちに問れても、阿彌陀佛はまたく風情もなく、たた申す事也と答へられたりと。大谷の月忌の導師せらるとて、おほくの人の中にて説法にせられ候きと。{白川消息よりいでたり}

辨阿上人のいはく、故上人の給はく、われはこれ烏帽子もきざるおとこ也。十惡の法然房が念佛して往生せんといひて居たる也。又愚癡の法然房が念佛して往生せんといふ也。安房の助といふ一文不通の陰陽師か申す念佛と、源空か念佛とまたくかはりめなしと。{物語集にいでたり}

ある時問ていはく、上人の御念佛は智者にてましませは、われらが申す念佛にはまさりてぞおはしまし候らんとおもはれ候は、ひが事にて候やらん

その時上人御氣色あしくなりておほせられていはく、さばかり申す事を用ひ給はぬ事よ、もしわが申す念佛の樣、風情ありて申候はば、毎日六萬遍のつとめむなしくなりて、三惡道におち候はん、またくさる事候はずと、まさしく御誓言候しかば、それより辨阿はいよいよ念佛の信心を思ひさだめたりき。{同集}

又人ごとに、上人つねにの給しは、一丈のほりをこへんとおもはん人は、一丈五尺をこへんとはげむへし。往生を期せん人は、决定の信をとりてあひはけむへき也。ゆるくしてはかなふべからすと。{同集}

又上人のの給はく、念佛往生と申す事は、もろこしわが朝の、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる觀念の念佛にもあらす。又學問をして念佛の心をさとりとほして申す念佛にもあらず、ただ極樂に往生せんがために南無阿彌陀佛と申てうたがひなく往生するぞとおもひとりて申すほかに、別の事なし。ただし三心ぞ四修ぞなんど申す事の候は、みな南無阿彌陀佛にて决定して往生するぞとおもふうちにおさまれり。ただ南無阿彌陀佛と申せば、决定して往生する事なりと信しとるへき也。
念佛を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく學しきはめたる人なりとも、文字一もしらぬ愚癡鈍根の不覺の身になして、尼入道の無智のともがらにわが身をおなじくなして、智者のふるまひせずして、ただ一向に南無阿彌陀佛と申てぞかなはんずると。{同集}

又上人のの給はく、源空の目には、三心も南無阿彌陀佛、五念も南無阿彌陀佛、四修も南無阿彌陀佛なりと。{授手印にいでたり}

又上人かたりての給はく、世の人は、みな因縁ありて道心をばおこす也。いはゆる父母・兄弟にわかれ、妻子・朋友にはなるる等也。しかるに源空は、させる因縁もなくして法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて法然となづけ給ひし也。
されは出離の心(志)ざしいたりてふかかりしあいだ、もろもろの敎法を信じて、もろもろの行業を修す、およそ佛敎おほしといへども、詮ずるところ戒・定・惠の三學をはすぎず、いはゆる小乘の戒・定・惠、大乘の戒・定・惠、顯敎の戒・定・惠、密敎の戒・定・惠なり。しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禪定において一もこれをえず。智惠において斷惑證果の正智をえず、これによて戒行の人師釋していはく、「尸羅淸淨ならざれは、三味現前せず」[3]といへり。又凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、たとふるにさるのことし、まことに散亂してうごきやすく、一心しづまりがだし。無漏の正智なにによりてかおこらんや。
もし無漏の智釼なくば、いかでか惡業煩惱のきづなをたたむや。惡業煩惱の絆を斷ぜずば、何ぞ生死繫縛の身を解脱する事をえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせんいかがせん。ここにわがごときは、すでに戒・定・惠の三學のうつはものにあらず、この三學の外にわが心に相應する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの學者にとぶらひしに、おしゆる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだ、なげきなげき經藏にいり、かなしみかなしみ聖敎にむかひて、てづから身づからひらきて見しに、善導和尚の『觀經の疏』{散善義}にいはく、「一心專念彌陀名號、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼佛願故」といふ文を見得て後、われらがごときの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の稱名を修して、决定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺敎を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。
「順彼佛願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。そののち惠心の先德の『往生要集』の文をひらくに、「往生之業念佛爲本」といへり。又惠心の『妙行業記』の文をみるに、「往生之業念佛爲先」といへり。覺超僧都、惠心僧都にとひての給はく、僧都が所行の念佛は、これ事を行すとやせん、これ理を行すとやせんと。
惠心僧都こたへての給はく、心萬境にさへぎる、ここをもてわれただ稱名を行ずる也。往生の業には稱名もともたれり。これによて一生の中の念佛、そのかずをかんがへたるに、二十倶胝遍也との給へり。しかればすなわち源空は、大唐の善導和尚のおしへにしたがひ本朝の惠心の先德のすすめにまかせて、稱名念佛のつとめ、長日六萬遍也。死期やうやくちかづくによて、又一萬遍をくはへて。長日七萬遍の行者なりと。{徹選擇にいでたり}


禪勝房のいはく、上人おほせられてのたまはく、今度の生に念佛して、來迎にあづからんうれしさよとおもひて、踊躍歡喜の心のおこりたらん人は、自然に三心は具足したりとしるべし。念佛申ながら後世をなげく程の人は、三心不具の人也。もし歡喜する心いまだおこらずば、漸漸によろこびならふべし。又念佛の相續せられん人は、われ三心具したりとしるべし。{念佛問答集にいでたり}

又いはく往生の得否は、わが心にうらなへ、その占の樣は、念佛だにもひまなく申されば、往生は决定としれ。もし疎相ならば、順次の往生はかなふまじとしれ。この占をしてわが心をはげまし、三心の具すると、具せざるとをもしるべし。{同集}

又いはく、たとひ念佛せんもの、十人あらんが中に九人は臨終あしくて往生せずとも、われ一人は决定して念佛往生せんとおもふべし。{同集}

又いはく、自身の罪惡をうたがひて往生を不定に思はんは、おほきなるあやまり也。さればとて、ふてかかりてわろからんとにはあらず。本願の手ひろく、不思議なる道理を心えんがため也。されば念佛往生の義を、ふかくも、かたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心得へし。源空が身も、撿挍別當どもが位にてぞ往生はせんずる、もとの法然房にては往生はえせじ。されはとしごろならひあつめたる智惠は、往生のためには要にもたつべからず。されどもならひたるかひには、かくのごとくしりたればはかりなき事也。{同集}

又いはく、本願の念佛には、ひとりたちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極樂の邊地にむまる。すけと申すは、智惠をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。
それに善人は善人なから念佛し、惡人は惡人なから念佛して、ただむまれつきのままにて、念佛する人を、念佛にすけささぬとは申す也。さりなからも、惡をあらためて善人となりて念佛せん人は、ほとけの御意にかなふへし。かなはぬ物ゆへに、とあらんかくあらんとおもひて、决定の心をこらぬ人は、往生不定の人なるへし。{同集}

又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿彌陀ほとけの本願は、名號をもて罪惡の衆生をみちびかんとちかひ給たれは、ただ一向に念佛だにも申せは、佛の來迎は、法爾道理にてそなはるへきなり。{同集}

又いはく、現世をすぐへき樣は、念佛の申されん樣にすぐへし。念佛のさまたげになりぬべくは、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。
いはく、ひじりて申されずば、めをまうけて申べし。妻をまうけて申されずは、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家に居て申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申べし。他人にたすけられて申されずは、自力の衣食にて申べし。一人して申されずば、同朋とともに申べし。共行して申されずは、一人籠居て申すべし。衣食住の三は、念佛の助業也。これすなはち自身安穩にして念佛往生をとげんがためには、何事もみな念佛の助業也。

三途へかへるべき事をする身をだにもすてがたければ、かへりみはぐくむぞかし。まして往生程の大事をはげみて、念佛申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみたすくべし。もし念佛の助業とおもはずして身を貪求するは、三惡道の業となる。極樂往生の念佛申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。萬事かくのごとしと。{同集}

沙彌道遍かたりていはく、故上人おほせられていはく、往生のためには念佛第一なり。學問すべからず、ただし念佛往生を信ぜん程はこれを學すべし。{宗要集にいてたり}

御 歌

御 歌

阿彌陀佛といふよりほかはつのくにの
なにはの事もあしかりぬへし

千とせふるこまつのもとをすみかにて
あみたほとけのむかへをそまつ

いけのみつ人のこころににたりけり
にこりすむ事さためなけれは

むまれてはまつおもひてんふるさとに
ちきりしとものふかきまことを

あみたふつと申すはかりをつとめにて
淨土の莊嚴見るそうれしき

しはの戸にあけくれかかるしら雲を
いつむらさきのいろとみなさん

露の身はここかしこにてきえぬとも
心はおなしはなのうてなそ

阿彌陀佛と十こゑとなへてまとろまん
なかきねむりになりもこそすれ

月かけのいたらぬさとはなけれとも
なかむる人のこころにそすむ

黑谷上人語燈錄卷第十五

  1. 名号を称揚すること七日に已んぬ、斯はこれ広大の恩を報いんが為なり。仰ぎ願はくは本師弥陀尊、我が済度を助け常に護念したまへ。『太子伝撰集抄』
  2. 一念称揚留む事無し、何に況んや七日の大功徳をや。我衆生を待ちて心間(ひま)無し。汝能く済度せんこと豈に護らざらんや。
  3. 尸羅 梵語(śīla)の音写。戒のこと。清浄に戒を保たなければ三昧をうることが出来ないということ。